みすず書房

科学研究における「選択と集中」の罠

【書評】カール・ヘラップ『アルツハイマー病研究、失敗の構造』

科学研究における「選択と集中」の罠

アルツハイマー病の治療薬開発が大きなニュースになった。日米の医薬品メーカー、エーザイとバイオジェンが共同で開発したレカネマブだ。ただし、アルツハイマー病を「治療」できるわけではなく、その進行を遅らせるだけである。臨床試験では、プラセボ(偽薬)を使ったグループに比較して、18ヶ月の間に27%進行を遅らせることができた。こう書くとかなりの効果のように見えるが、あくまでも、認知症のスコアの悪化率が27%軽減されただけで、おそらくは患者やその家族が効果を実感できない程度だという。

そうであったとしても、治療薬がなかったことを考えると長足の進歩である。それに、効果があいまいであるとFDA(アメリカ食品医薬品局)による認可が問題視された、同じ二社によるアデュカヌマブよりは明らかに効果が大きい。いずれの薬剤の名前も語尾が「~マブ」になっている。薬剤には命名基準があって、「~マブ」は「~mab」、モノクローナル抗体=monoclonal antibody であることを示している。アデュカヌマブは水に溶けにくいアミロイドβに強く結合する、レカネマブは水に溶けやすくて神経細胞に対する毒性が強いアミロイドβを標的にする、という違いはあるが、いずれもアミロイドβというタンパク質をターゲットにした抗体医薬だ。

アミロイドβは、アルツハイマー病の患者の脳に沈着するとされている物質である。なので、レカネマブの効果は、アルツハイマー病の発症における「アミロイドカスケード仮説」を支持すると言っていいのかもしれない。カスケードとは何段にもつながった滝を意味する英語で、そこから、ある原因から順々に現象がひきおこされていくことを指す。だから、アミロイドカスケード仮説とは、アミロイドの脳内における沈着が原因で、それが元になってさまざまなことが生じてアルツハイマー病が発症するという、現時点で最有力とされている考えである。

アミロイドカスケード仮説が有力ということと、その仮説だけが正しいということは別問題である。レカネマブに効果があるとはいえ、アルツハイマー病の治癒はおろか、先述のとおり進行抑制の度合いも大きくはないのだから、他にも原因があるのではないかと考えるのが妥当だろう。こういったことを踏まえて
「アルツハイマー病への取り組み方を一度リセットして仕切り直すべきだ」
というのがこの本だ。まずはアルツハイマー病とは何かという説明から始まる。

広辞苑第7版によると「認知症の一型。発症は潜行的・緩徐で老年期に最も多い。記銘力の減退、知能の低下、高等な感情の鈍麻、欲望の自制不全へと進む。置かれた環境により気分の異常、被害妄想、徘徊などを随伴する。海馬をはじめ前頭葉皮質などに萎縮と特異な変性が見られる。薬で進行を遅らせて付随症状の改善は可能。ドイツの神経病学者アルツハイマー(A. Alzheimer 1864~1915)がはじめて報告。アルツハイマー型認知症。」と、かなり詳細な説明がなされている。しかし、この本の著者によると、この疾患の定義は研究者の間で異なっているという。

もちろん大まかには一致している。しかし、この病気のどの側面に重きを置くか、言いかえると、臨床症状、進展の仕方、アミロイドβのような脳内の異常な沈着物、遺伝子や家族歴など、複雑な疾患の多彩な側面のどこに優先順位をつけるかによって違ってくるというのだ。
「広く認められた一個の定義をもたないことこそが、この研究分野の存在意義にかかわる深刻な問題だという点である」
という言い分に異議をはさむのは難しい。著者の考えに耳を傾けるべきだ。

アルツハイマー病を発症するリスクについて、統計的に知られていることがいくつかある。① 女性は男性より2倍近くかかりやすい、② 高用量の非ステロイド系抗炎症剤を長期にわたって使用するとリスクが大幅に低下する、③ 高コレステロール血症に対する薬剤であるスタチン系の薬剤もリスクを下げそうである、④ 地中海食を実践している人のリスクが低い、⑤ 生活習慣をあらためる、特に血圧を下げることもリスク低下につながる、などだ。しかし、すくなくとも現時点では、これらの成果はあまり重要視されていない。というのは、研究費の大部分はアミロイドカスケード説に「賭け」られているからだ。

アミロイド研究は、アロイス・アルツハイマー医師が記載した最初の症例にまで遡ることができる。顕微鏡を用いてその患者アウグステ・Dの死後脳を解析したところ2種類の異常が認められた。そのひとつは「奇妙な物質が皮質内に沈着していること」で、後に、その沈着物がアミロイドβであることが明らかになる。もうひとつは「神経原線維変化」あるいは神経原線維の「もつれ」と呼ばれるもので、これはリン酸化という化学修飾を異常なレベルで受けた「タウ」というタンパク質が凝集したものである。

マウスを用いた実験や遺伝性アルツハイマー病の研究から、アミロイドβがアルツハイマー病の原因ではないかという成果が蓄積されてきた。しかし、それだけでアルツハイマー病の原因を語り尽くせるかというと、決してそうではない。遺伝子改変をおこなったマウスではアミロイドβの蓄積が生じるけれども、認知症に類似したような症状が認められるわけではない。また、遺伝性のアルツハイマー病と孤発性(=非遺伝性)アルツハイマー病の病像は異なっており、同じ原因で生じるという保証はない。いや、異なっている可能性の方が高そうだ。

もうひとつ、重要な知見がある。大量のアミロイドβが脳細胞に沈着しておりアルツハイマー病になるはずなのに発症しない例がある。また、逆に、アミロイドβがそれほど沈着していないのに発症する患者がいる。これらの結果は、アミロイドカスケード説だけではアルツハイマー病の発症を説明しきれないことを明確に示している。

誤解を招かないように書いておくが、アルツハイマー病とアミロイドβの沈着に関係がないのではない。まちがいなく相関はある。しかし、アミロイドβが唯一の原因であるというような因果関係は存在しないということだ。にも関わらず、アルツハイマー病の病因解析や治療法の開発があまりにアミロイドカスケード仮説に基づいたものばかりであること問題視して解説していくのがこの本の主題である。

アミロイドカスケード仮説以外の仮説がいくつも紹介されている。慢性炎症、脂質――特にコレステロール――の不十分な品質管理、神経伝達に重要なミエリン鞘の劣化、タンパク質の品質管理、活性酸素によるタンパク質のダメージ、そして、タウタンパク質による変化など、いずれもが、ある程度の蓋然性をもった仮説である。

しかし、残念ながら、これら、アミロイドカスケード以外の仮説に基づいた研究はほとんどおこなわれていないのが現状だという。なぜか? 答えはシンプル、アミロイドカスケード仮説があまりに主流になりすぎて、それ以外の研究には十分な研究費が与えられないためだ。いわゆる「選択と集中」である。

どうしてそのようになったかの経緯が詳しく書かれている。恣意的とまでは言えないが、重大な局面でミスリーディングに近いような論文が発表され、権威をもつようになってしまったのが大きな理由である。研究費には限りがある。それを配分する立場の者たちが、アミロイドカスケード仮説の信奉者で占められ、排他的な態度をとるようになったのが大問題なのだと著者は嘆く。そして、アミロイドカスケード仮説が正しそうだからといって、他の仮説に目もくれないのは間違えていると怒る。

まともに検証されていないのだから、現時点では、アミロイドカスケード仮説以外の考えが正しいかどうかはわからない。しかし、そこには新たな地平が広がっているかもしれない。だが、レカネマブの登場は、多くの研究者や製薬会社の注意をさらにアミロイドβに向けさせるだろう。勝ち馬に乗るというやつだ。このような状況、さすがにどこか間違えてはいまいか。

選択と集中の問題はアルツハイマー病に限ったものではない。日本の研究費配分においても大きな問題だ。研究費は限られているのだから、ある程度の選択は必要かもしれない。しかし、それが小さな特定の領域に集中しすぎると、そこから漏れた研究がおこなわれなくなる。科学の歴史は、予期しなかった大発見に満ちている。過度の選択と集中は、そういった大発見を阻害する危険性が極めて高い。

 

確実に予見できる出来事が一つだけある。それは、自分がいずれ死ぬということである。」ノーベル生理学医学賞を受賞した分子生物学者ジャック・モノーの箴言である。科学というのは基本的に予見不能なのだから、「目利き」などというのは信じるべきではない。そんなものは単なる結果論にすぎない。言い方は悪いかもしれないが、ある程度の「ばらまき」が必要なのだ。かといって、やみくもにばらまくのはバカげている。この本の著者はしっかりとそのあたりをわきまえていて、アルツハイマー病発症のモデルをたてて、研究戦略の方向性を示している。

何十年かの後、アルツハイマー病の治療風景はどうなっているだろう。アミロイドβをターゲットにした治療薬が跋扈しているのだろうか。それとも、ゲームチェンジャーが現れて、それ以外の治療戦略が広がっているのだろうか。この本が一石となって後者になっていれば面白いのだが、もちろんこれも予見することなどできはしない。

(評者:仲野徹 病理学者)