みすず書房

刺繍の裏(1)

刺繍の裏(1)

もう何年も行けていないけれど、母方の祖父母の家に、…15年前に祖母が亡くなってから空き家となっているそこに、私はときおり訪れては泊まっていた。訪ねるたびに、まず家の窓という窓を開けて外気を招じ入れて、沈滞した空気を追い出し、簡単に掃除をし、さて、経過した時の間に何か変化したかしらと点検をした。
 子供の頃の夏休みは、祖父母のもとで過ごした。両親が共稼ぎの家であったから、〈学童〉という小学生のための保育園のようなものに私は入れられていて、それが苦痛でならなかった。放課後になると、学校の敷地内のその小施設に行かねばならなかった。『学校に上がったのに、なんで保育園』と授業中も思い続けていた。したくもないのにドッジボールを〈遊び〉として強制されるのも、眠くもないのに昼寝を強制されるのも、とにかく何もかも強制されるのが嫌で嫌でならなかった。〈遊び〉と〈強制〉、それは概念上の矛盾以外の何物でもないと今でも思う。大人たちのいだく〈よい子〉また〈よい子の生活〉のイメージを具現しようとする、あの一連の〈強制〉は拷問で、そのイメージに収まる範囲でのイタズラなら笑って受け入れられる空気も、その空気を理解して賢く振る舞う子供たちも、…私は何もかも大嫌いだった。〈学童〉〈遊び〉〈強制〉〈良い子〉〈良い子の生活〉などなど、それらは私の周囲(子供にとっては世界といってよいもの)にばら撒かれた小石で、()()()()そのいちいちに私は躓いていた。私を苦しめるための、それは皆が結託しての陰謀かとさえ疑った。私は〈学童〉を逃れるために、その建物が視野に入り始めると、猛ダッシュで逃走したり、鞄で顔を覆い、気配を殺し、ゆっくりゆっくり通り過ぎたり、友人たちに周りを囲ってもらって隠れたり、あの手この手と、日々脱出の工夫を凝らしていた。
 夏休みになると、学童の時間は大幅に伸びて寄宿舎生活と変わりなくなる。『夏休みやのにもうなんでなんやぁ!』と私は、それで山口の萩の祖父母の家に行くことを両親に申し出たのだった。私の家の周りには田んぼが広がっていた。琵琶湖の水を引き入れる田は、夏場になると淀んだ水特有の匂いがし、私はそれが嫌いだった。萩の祖父母の家は海に近く、昼間、海から吹いてくる風は海の匂いを孕んでいた。私はその匂いが好きだった。田の淀み水の匂いは〈学童〉と結びついていて、だから、遠い萩の海風(うみかぜ)の匂いは〈学童〉からの解放に結びついて、私は出発を待ちこがれた。祖父が滋賀の家まで迎えに来てくれた。新幹線に乗った。幕の内弁当とお茶とアイスクリームを買ってもらった。子供向きとは言えない弁当と、妙にレトロな半透明のポリ容器のお茶と、白い霜に包まれて見るからにカチカチのアイスクリームと、そのビジュアルは〈自由〉を象徴する三位一体として鮮明な記憶だ。新幹線の向かう方には、少なくとも私を幽閉する〈学童〉の無い、海風の吹き渡る町が待っていた。私の〈自由〉には〈好き勝手〉も〈わがまま〉もたくさん混じっていたのは否定しない、でも、〈人生の自由〉もまた、その萌芽であってもちゃんと含まれていたとも思う。それらは混和し、分節を持たず、その有りようは、そのまま私の世界の有りようだった。
 …祖父が亡くなってから10年近く一人暮らしを続けた祖母が亡くなり、その後ずっと祖父母の家は内も外もそのままにされていた。人の手の入らなくなった庭で、木は伸び放題で形を崩し、雑草はほしいままに生い茂っていた。普段は電気もガスも水道も止められていて、訪問の際、私がまっさきにする作業は、各会社に連絡をして全部を開くことだった。瞬いて灯る蛍光灯の光、シンクを打つ水の音、ガスレンジの燃焼音は家がにわかに息を吹き返してゆく合図のようだった。
 夏休み中の学童を逃れることが第一目的であったけれど、祖父母がおとんとおかんのように口うるさかったのであれば、夏休みの間、友達の家を転々とすることを考えもしただろう。祖父母は、特に祖母は、私という存在を是認し、「今のままでよい」という意味合いの言葉を幾度か私に言ってくれていた。私にとって『このままでいいんや』という思いほど心安らぐものはなかったはずだ。当時、その自覚はなかったけれど、祖父母のもとにいることの心地よさの一因はそこにあったに違いない。
 その祖母は私が何をしても咎めなかったわけではもちろんない。私が海でヤドカリを捕まえて単に戦利品の感覚でたくさん持ち帰ると、祖母は「海でしか生きてゆけないものを海から引き離してはいけない」と言った。ただそこには、「それだからお前は」の響きが少しも無かった。おとんもおかんも、そして教師も、小言には必ず「お前は何もかもそうやっていつも」の拡張が伴い、その声音や口調に、「それだからお前は」の非肯定の響きがあった。教師に至っては、「私はあなたのことを思って言っている」の言葉を添えた。
 高校2年の1学期で私は自分の意思で退学をした。アルバイトを始めて生活費を得ると、中学の時から外泊が多かった私は、実家には居つかなくなって、友人の家を渡り歩いた。おとんもおかんも嫌いで、というよりも、好きな大人など一人もいなかった。母が通っていた教会の牧師さんは、私のことを心にかけてくれ、私はときおり教会へ足を運んでいたけれど、それもいつの間にか止んでしまった。祖父母の家にも足が遠のいた。当時の私は自分で自分を持て余していた。内面にあるのは収拾のつかない混乱と、全く無意味に過剰なエネルギー、二つは合わさり、荒ぶるカオスとなって、私に衝動としか言いようのない炸裂の行動を取らせていた。友人が思い出話で教えてくれたエピソード(私には全く記憶にないもの)によると…私たちがスーパーで食料の違法調達をし、せっかく入手したその食べ物を、この私が、駐車場の車のフロントガラスに投げつけて潰しては高笑いをしていたという。幼い頃、カエルを壁に投げつけて潰して、それを面白がっていた私だからありえない話ではない。無免許運転で警察に補導されたときのことはよく覚えている。同乗の友人の父親とおとんが警察署に私たちを引き取りに来た。友人の父親は、私たちの前に現れるや、友人をこぶしで殴り出した。それは警官が制止していなければ彼女を殺してしまっていたような勢いで、私とおとんは呆然と眺めているしかなかった。友人の父親は、警察署を出ると私たちに振り返り、「ああすれば、警察はあれ以上何もせぇへん」と言ってにんまりと笑った。友人の悲惨な顔を見ながら、私は『警察に叱られてる方がましやん』と思った。このような日々では、祖父母のもとにも行くまい。それでも20歳のとき、萩を訪ねた。祖母は私を見て、「こんなに立派に大きくなって」と言った。そこには、あてこすりの響きも、逆説的な非難の響きも無く、私は素直に祖母の言葉を聞いた。私がいかであるかなど、その風体で明らかであったから、祖母の是認は社会常識には従っていなかった。私が自分で創り出していた〈不良〉の自己イメージのさきの私に、祖母は「こんなに立派に大きくなって」と言ったのだった。それは、当時の私のまだ知ることのなかった「()」だった。
 …住む者を失った家、そこでは、在るもの全てがそれぞれの仕方でその存在を続けていた。武家屋敷の白い土塀の間を抜けて、ごく普通の家屋の建て込む小路のさきに庭木とともに祖父母の家が見え出すと、懐かしさといった感情ではなく、それが()現に(・・)存在する(・・・・)、そのことの気配のようなものを私は感じた。傷んで剥落した塗装、錆びて欠けだしたトタン板、そんなものまで、全部がしかと存在し、私の目に触れなかった間も、それらが存在していたことを疑う余地などなかった。人の知覚が存在の尺度になるなどありえないと、私はこの家に来るたびに、ただそこに在ることの(つよ)さ、それともしたたかさを、改めて感じた。
 胸高の門扉を押し開くと、玄関までの間に小さな庭が入る。時を重ねて枯れた木もあっただろうし、一年草も或るものは絶えただろうけれど、種や球根で世代を重ねたものもあり、多年草や宿根草で長らえているものもあって、それぞれの存在をそれぞれの仕方で続けてきていた。訪問が5月であれば、玄関脇のツツジは花を一面につけ、近づくと、あの独特の蜜の甘い匂いがした。剪定の丈の制限の解かれたそのツツジは、人の背丈に達し、目にするたびに横に膨らむように全体が大きくなっていた。根方のツワブキとシダは葉を更新して、その新葉の緑は初めて目にしたときと同じく深く艶やかだった。ヒイラギもツゲもキンモクセイも、祖父母が与えていた形や大きさを逸脱して、そうして本来の樹形へ還りながら、それぞれの存在を続けていた。人が与えた意味・目的(見栄えのためとか)・価値を脱したそのさまも、静かで、しかし強靭さが感じられる存在のその気配も、私は気に入って、祖母だって「今のままで良い。こんなに立派に大きくなって」と是認するのではと思った。
 子供の私の天敵だった学童、そこから思いがけず解放されることになった。あまりに頻繁に学童を逃れて友だちの家へ遊びに行き、それが学童から仕事先のおかんの元へいちいち報告されて、その夜私にいくら注意しても効き目が一向になく、同じ仕儀が繰り返され、たぶんそのことにおかんは音をあげたのだ。ある日、私は、黄緑の帯の輪に吊り下がった鍵を、おかんから渡された。私と学童との3年に及んだ闘いは私の勝利で終わり、私は、粘り勝ちという闘い方を学んで、それが私の人生の基本戦略になった。その萌芽は、もっと幼い頃にあった。ファミリーレストランで食事を終え、親が支払いをするとき、私は会計カウンターの脇の小棚に置かれた小さなおもちゃの陳列に手もなく幻惑された。本当に光り輝いて感じられ、ビーズの小物など、お姫様の宝石のティアラさながらだった。私は買ってくれとせがみ、当然ながら、おとんもおかんも、「前に買ったもんも、すぐに放り出したやろ」と反論不可能な正確無比の裁定を下す。しかし、その言葉はかえっておもちゃの光輝をいや増しにして、私は頑として小棚の前を離れず、そうしてそれをせしめた。しかし、物の意味・価値がもたらすイメージのベールの魔法は、レストランのカウンターの近傍でのみ有効だった。せっかく我が物としたのに、家に着く頃にはすっかりその魔法が解けて、なんの魅力もないつまらないおもちゃにそれは変じていた。…より強力になった粘り勝ち(何しろ、3年間も持続したのだ)で、私は鍵を手に入れ、いわゆる鍵っ子となった。普通であれば、鍵っ子には消極的な価値の彩りが伴う。しかし私には、鍵っ子という身分はこの上なく素晴らしいものだった。おかんから手に載せられた鍵は、あのファミレスの小棚のおもちゃとは逆に、時とともにいよいよ素晴らしさを増して、私は、黄緑の帯の輪に吊り下がる鍵をペンダントのように頸に掛けて友だちと遊んだ。友だちの母親から、「鍵、なくすで」と注意されることもあったけれど、私は耳を貸さずそのままにしていた。宝物が見せかけで決まるものではないことをその鍵が教えてくれた。遊びの合間に胸に感じる鍵の踊るここちよい感触は、祖父が萩に向かうときに買ってくれたあのお弁当とお茶とアイスクリームのように、自由を象徴するアイコンだった。
 …二階の廊下から階段を見下ろすと、下の廊下は、玄関の磨り硝子をはめた引き戸が取り入れる外の明るさに、水面のように静かに光っている。この階下の廊下の光景は見慣れたものだったが、何か祖父母にまつわる特定の思い出があるわけではなく、また子供の時分と今とでは身長が異なり、見るときのアングルが異なっているはずなのに、そんな相違も呑み込んでしまう、言わば平均化された記憶(いったい幾つの記憶の平均であるのだろう?)に支えられていて、それが、見慣れた感じというものをもたらしていると思われた。
 「思い出すことのできる一等古い記憶は何?」と、人から問われたことがある。その人は、「母親のお(なか)にいた時の記憶を思い出せる人がいる、いやいや、前世の記憶を思い出せる人も」と続けた。私はそうなんやと思いながら、自分の記憶に目を凝らした。幾つかの候補が淡く心に流れていって、どうやら私の思い出し得る最古の記憶は、おかんに連れられておかんの職場に向かうさのバスの車窓に見たその眺めのようだった。母は看護師で、勤める病院には職員用の託児所が併設されていて、私はそこで母の勤務が明けるまでの時間を過ごした。まだ乳飲み子の頃から小学校に上がるまでのこと、のちに学童にあれほど反発した私だったが、学齢期前の私はまだ従順だったとでもいうのか、ことさらそこを嫌った覚えはない。私が思い出すのは、バスでおかんの横に座って自分の目の高さにくる車窓の枠の向こうに流れる街の光景だった。それは、写真のように一瞬の明晰な映像ではなく、季節も場所も特定されない不分明な、しかし、間違いなくおかんの職場の病院に向かうバスからの眺めと知れる、そんな時と空間の流れゆく記憶像で、はっきりしていると言い得るのは、傍らにいるおかんの存在感と、バスの匂いと、子供の私が何の感情も思いもなくその眺めに対していた、そんな気配。それ以外は能うかぎり物事の意味の希薄な、かつ、ある日ある時が数えきれないほど何層にも重なっているモンタージュ映像、あるいは、形があるようで明瞭な形はない混沌、またあるいは、様々な形の見いだしうる混沌、そう、刺繡の表側の模様を支える裏側の、おびただしい糸の交錯のよう……

 祖母が認知症を患ったのは、祖父が亡くなってから1年くらいが経った頃だった。祖母の場合、日常生活の直近の記憶が損なわれる記憶障害が主症状で、物忘れが年齢相応の程を超えたのが始まりだった。祖母が、他の病気で手術を受けることになり、萩から、私たちの住む滋賀に来て入院をした日、私も病院に同道した。病室に落ち着いた祖母は、「私は今日中に帰れるのかい?」と私に問うた。手術をしてしばらく入院が続くと承知しているはずなのにと、私はとっさに対応できなかった。当時の祖母はまだそういう空気が読めて、戸惑う私より早く、その場を取り繕えたけれど。
 …その8年後に祖母が亡くなって、私が一人で萩の家を最初に訪れたのはそれからどれくらい時間が過ぎた頃だっただろう。家の内に祖母の気配がなお尾を引いているように感じられたのを覚えている。それでも、存命中に訪ねたさいは背景として沈んでいたものが、にわかにその存在を主張し始めたかのように目に入ってきた。出窓に飾られた布の造花はコスモスで、なぜかシーフードヌードルの空きカップに入れられていた。祖母が仮にそうしたのか、それとも、デザインが気に入ってそうしたのかは確かめようがなかったけれど、窓辺の明るさの中、そこに佇む姿は目を引いてやまないものがあった。訪問を重ねるたび寸毫も移動していなくても、たぶんわずかずつ退色をし、薄く薄く塵が降り積もり、そうして衰えを深めていただろう。でも、その存在感はいささかも減じることはなかった。それがそれであることの(つよ)さを、訪問のたびに放っていた。その事情は造花のコスモスだけではなかった。祖父母の家を構成している全ての物一つ一つが存在の声を上げているかのようだった。それは囁きだった。けれども囁きは、大声の合唱よりも消しがたい。
 祖母は長い間、日記を書き続けていて、それがそのまま家に残っていた。いずれも簡素な大学ノートで、紙色の変色した古いものには子供の私も登場して、それを通じ、いわば「外」から自分を捉える経験は、肉眼で自分の後ろ姿を見ることのように、不可能が不意に可能になったみたいで不思議な感じがした。そんなあるページでは、祖母は菜央(子供の私)を厳しく叱りすぎたと反省を記していたが、叱られた当人の私にはその記憶が全くなくて、すなわち、その叱られた女の子は同姓同名の他人のように感じられた。私は日記をつけたことがなかったから、正確な対応はつけられないが、例えば祖母が庭に来た鳥を眺めたその瞬間も、私はどこかにいて何かをし、また何かを思っていたことは確かなのだ。それは当たり前のことなのに、不思議に感じられる…。
 発病のごく初期の段階から、祖母が自らの病についてしかと認識していたことは、日記に明らかだった。そしてその自覚を境にして、日記は、日に何度も開かれるようになって、日常の出来事が事細かに記され出した。三度の食事の内容、庭木の様子とその手入れのこと、庭に来る虫や鳥のこと、私たち家族・親戚とのやりとり、近所で耳にした話…日記は、事務的な備忘録の役割を越えて、故障した本体メモリーに代わる外部メモリーのように働き始めた。その頃に、「今、自分が何を考えようとしていたのか分からなくなることがよく起きる」と書かれている。ある考えのそれまでの道筋と目指していた目的地が不意に見失われてしまうわけだが、日記でものを考えるならば、仮にその過程を見失っても、そこまで綴られてきた文章で、道筋と目的地を推測することが叶ったに違いない。その緻密な記述には、祖母が、文章の作成、そのおこない自体に、病状の進行を遅らせる効果があると信じていたかもしれないことが窺える。また、もともと美術に関心のあった祖母は、同じ時期、塗り絵や切り絵の制作にも打ち込んでいて、それにも同様の願いが混じっていたかもしれない。祖母に会いに行くたびに、壁に飾られた塗り絵と切り絵が増えていて、それらはどれも、集中の時間を長く重ねたのが一目で知れる入念な作業ぶりで、いかにも私のよく知る祖母の手によるものだった。祖母は自分自身を失うまいと強い意志を持っていたのだ。
 病はそんな祖母を容赦なく蝕んだ。自宅での生活を続けるための注意事項を記した紙が、何枚も冷蔵庫に貼りつけられた。書付は掲示場所によってはそれ自体が忘れられてしまう、そう、食料を収めた冷蔵庫ならば、見逃される例は減る。私は、普段は疎遠になっていた家族と一緒に祖母のもとを訪ね、そんな工夫を目の当たりにすると、事の深刻さに気づかないわけにはゆかなかった。幾度目かの訪問の翌日、祖母に電話をすると、その電話は喜ばれたけれど、その前日の(おとな)いは忘れられていた。日記に書かれる言葉は、間違いなく自分の言葉なのに、書いたことの記憶が消失すれば、日を置いて紙の上に出会うその言葉は、文字は自筆と知れても、内容は他人の言葉に等しい。ほぼ毎日欠かさず書かれていた日記に空白が生まれ、やがてそれが数ヶ月に及び、そうして祖母は日記を放棄してしまい、その放棄もまた忘れられた……
 …庭に面した和室には板張りの内縁があって、昔からロッキングチェアが置かれている。洋風の意匠で場違いのそれだけれど、祖父母の存在、そして家の存在と等しく、私にとっては物心ついたときに既に在ったものの一つで、子供の私はその椅子に身を丸くして収めて前後に揺すって、波のように揺れる庭を眺めていることがあった。大人となり、祖母を見舞うために家族と幾度か訪問したときには、目に入ってもそれまでで、座ってみることもなかったその椅子に、私はふといざなわれるようにして座る。傍に庭が見え、飛来して庭木の茂みに姿を隠す鳥の鳴き()が、また枝を移る羽ばたきの音が、耳に滴るように聞こえてくる。昔のように座面に足を上げて、椅子を揺すってみる。動き出す瞬間、椅子も縁側の板もかすかに軋り、しかしそれは静けさの中、長い間の停止が破れたことへの椅子と家の発した驚きのようで、私自身もそれに驚き、たとえ一脚の椅子にすぎなくても、長く止まっていたものが動き出すことが、まるで天変地異のように、世界に亀裂を走らせる何かなのだと思えた。逆さまの振り子の動きのもたらす加速度の方向転換を体に捉えながら、周期運動という時間の物差しになった自分を、ぼんやりと面白く感じつづける。子供の私もそうだった。廊下と庭は大きく動き、しかし遠く空の雲はほとんど揺れない、まるで私が刻む時の外にあるみたいに。
 記憶障害が深刻となり、一人暮らしが営めなくなると、祖母は自宅を離れて萩にある施設に入った。さらに体調が損なわれると、滋賀の然るべき病院に入院した。看護師のおかんが、母親(祖母)の症状の進行の対応で後手に回ることはなかった。本当は、おかんは独居が困難になった時点で祖母を滋賀に呼び寄せたかったのかもしれない。それに対して祖母は、萩の施設ならば、症状の改善でまた自宅に戻れることもあるかもしれない、しかし、ひとたび萩を離れるならば、もう二度と萩には帰れなくなると感じていたのかもしれない。記憶障害が進むなら、萩であろうが滋賀であろうが自分のいる場所は、見知らぬ地へ、そして自宅さえも見知らぬ家へ、すなわち、祖母個人の意味・価値・目的を有したものは、それらを欠いた一般的な等し並の存在へと低落してしまうことを承知していてもなお、それでも祖母は萩にこだわったのだ。萩へのこだわりは、おそらく「自分」という存在へのこだわりに他ならなかったと思う。
 病の発現から7年あまりが経ち、滋賀に連れてこられた祖母は、既に私が孫であることがわからなくなっていた。私にまつわる古い記憶が全て失せてしまったのか、それとも、記憶は残っていてもその想起ができなくなってしまったのか、またそれとも、子供の私はなお祖母の心にいくらか在って、ただそれと現在の私とが結びつかなくなってしまったのか、いずれであっても、祖母とのつながりが一方的に絶たれてしまって、私は言いようのない喪失感に沈んだ。祖母の目には、私は〈女性介護士〉というような一般的な存在にしか映らないのだった。おかんのことはまだ認知が及んでいた。「香澄か?」と、自分の記憶に甦る娘(おかん)と目の前の女性(おかん)の同定にやや確信が持てないようではあっても、おかんが祖母に付き添う間、少なくとも祖母は周囲の者全員が他人の、そして誰もが常に初対面の者の、そんな孤独は免れた。
 祖母を見舞う私は、その時間をどう過ごしたらよいのか、身の置き場に困るほど戸惑い、結局ただその場に居るだけだった。祖母は寝たきりではなく、まだベッドに座っていることはできたけれど、自傷を避けるために両手にミトンのような手袋をはめられていて、それをとても嫌がって、介護士と覚しい私に両手を差し出し、「外してください」と懇願した。私はていよくそれを断る言葉も発せられず、もちろん願いを叶えてあげることもできなかった。その祖母から、ふと懇願の気配が消える。諦めたというよりは、懇願しているという記憶が消えてしまったと感じられる、そんな気配の消失だった。しばらくすると、祖母は手袋の両手を私に差し出して「外してください」と再び言う。私には〈再び〉であっても、祖母にあっては〈初めて〉の表情、口調だった。同じことが繰り返され、それはまるで録画のループ再生であるかのようだった。
 晩春の夕刻、病室には日差しが長く差し入り、祖母の影が壁に落ちて、外の木々の淡く斑な影も、祖母と壁に映じていた。日の動きに連れるその影の移ろいは、目で捉えられる時の移ろいの下限に近かったけれども、流れゆく時の中に祖母が在ることを感じるのには十分だった。でも、祖母にとっての時は、その継続性を失い、相互の連関を欠いた瞬間の並置、いわば点線となっていた。祖母における瞬間が、時計の示すところのどの程度の幅を有しているかは知る由もなかったが、ある瞬間が始まると、前に位置するはずの全ての瞬間が消失していることは確かだった。祖母が手袋の手を私に差し出して「外してください」と言う()、それが出現するなら、先行していた()は、過去という仕方で祖母の内で存在を続けずに、最初から存在しなかったに等しく、ことごとく潰えて無に帰するのだった。ふと気づくと、見知らぬ部屋にいる、またふと気づくと、見知らぬ部屋にいる、そしてまたふと気づくと、見知らぬ部屋にいる、…そんな瞬間が繰り返されていることもまた、祖母は自覚しえなかった。
 …その日々から長い時が過ぎて、無人の祖父母の家で、私は祖母の日記を偶然に任せて開いては、拾い読みをしていた。祖母の人生の時間全体からすれば、その欠片とすら言えない僅かな過去を読むあいだ、私は振り子時計の音の幻のようなものを感じていた。梅雨だったから、毎日雨が降りつづき、それでも同じ雨がくり返されることはなかった。明るい白い空からの柔らかい霧雨…、濃密な湿度に草木の緑の匂いのたちこめる(あめ)(もよ)い…、家が轟然と打たれ、窓外の眺めも閉ざされてしまう強雨…、目を凝らしてようやくそれと知れる小雨…。 死んでしまった者の声を聞き続ける私は、濡れた家や木のそれぞれの色が常よりも強く鮮やかなのを見つめては、自分が生の側にいることを確かめ、再び日記に戻っていった。心が過去に触れている間も、現在に在るものは時を刻みつづけ、停止も、遡行もしない…。
 日記が断続となり始めた頃、祖母は「生きていても意味のないものに私はなってゆく」と記した。その記述の前にも、祖母は、人として生きることを問い、答えようとする内容を繰り返し書いていた。問いには答えは与えられず、文脈から推して「ともあれ」のような接続詞を頭に置いた感で、「生きることは大切にしたい」と前向きな、それとも、自分に半ば命じる言葉を記していたりした。問いは形を変えながら幾度も繰り返され、そして答えの得られないまま、「生きていても意味のないものに私はなってゆく」の恐怖、それとも、絶望に祖母は逢着したのだった。
 病室で祖母と二人きりでいるとき、子供の私を「今のままでよい」と是認してくれたあの祖母がもういないと、その喪失感を処理しえないまま、私は、『こんなふうで、人として生きていると言えるんやろか』と思わないわけにはゆかなかった。祖母の日記に「生きていても意味のないものに私はなってゆく」の言葉があるとはまだ知らずに、でも、まるでその嘆きさえ発せなくなった祖母に代わってかのようにそう問うていた。
 小学校で、あの〈学童〉から解放され、私は二人の友だちとよく遊んでいた。私たちがあまりいつも一緒にいるので、周囲からは「アホの三羽ガラス」と呼ばれていた。三羽は、そう呼ばれるにふさわしく、勉強が揃って全然できなかったし、自分が感じていることや思っていることをうまく言葉に出来ないところまで共通していた。子供の私は、今以上に、言葉との関係が疎遠だった。お腹が痛くなって、おかんに医者へ連れて行ってもらう。その道、看護師のおかんは私に「先生に挨拶、ちゃんとするんやで」と注意したが、『そんな場合やない』と私は思った。診察室に入り、一応、口の中でくちゃくちゃと挨拶した私に、医者は職業的な笑顔で「今日はどうしたのかな?」と尋ねる。お腹が痛いとあっさり告げればよいのに、私は、痛みのある箇所が〈お腹〉に当たるのか、不意にわからなくなってしまって黙り込んだ。お腹と言って良いようにも駄目なようにも思えた。おかんが無言の私の代わりに答えていた。「どんなふうに痛いの? しくしく? キュウっと刺すみたい? ズキズキ?」と医者が訊く。私は自分の痛みが、いずれでもなく、また、いずれでもあるように思え、再び答えに窮してしまう。懸命に考えるのに分からず、『どこがどんなふうに痛くてもええから、はよ治してぇや。医者やろ』と押し黙った。コミュニケーション・ツールの言葉には、決まりとしての物事の分節(境目)があって、それが私の感覚や思いが線引きして与える分節と一致することなど少なく、そんな子供時代をとうに過ぎ、この歳となっても、私は言語表現に馴染めないでいる。何かについて言葉で考えることは不得手だし、写真展のトークイベントとか在廊中の応対とか、何かを話す機会のたびに、私は言葉を発しながら、『外れてる、外れてる。どこに着地するんやろ』と常に感じている。たいがいの子供は、言葉と経験を通じて、人が社会に線引きをして作り出した分節を学習し、継承してゆく。私はそれが出来なくて、〈良い子〉〈良い子の生活〉〈わがまま〉〈自由〉…どれもこれもわからなくて、周囲の大人たちから叱られ続けたし、私自身も自分の事をうまく認識できなかった。私はそのまま成長していった。「写真」に出会っていなかったら、私の心は混乱と行き場の無さに内攻を募らせ、病んで死に至っていたと思う。…似たり寄ったりの「アホの三羽ガラス」は、いつもおしゃべりをしていたけれど、互いに相手の話に少しも耳を傾けず、それぞれ好き勝手に、脈絡を欠いた言葉をさえずって、それで不思議と気が合って、まるで巣の中の三羽の雛だった。「あんたらのおしゃべり聞いてると、アホがうつる」と、同級生によく笑われた。関西弁の〈アホ〉には、標準語の〈バカ〉のような排除の線引きの意味合いはないから、「アホの三羽ガラス」と呼ばれても私たちは疎外を感じなかった。
 私は今でも、記憶から来る出来事を時系列に適合させて整然としたものに変換して書いてゆくと、『これ、私のこととちゃうやん…』と感じてしまう。物事を論理的展開に従って考えて書いてゆくと、やはり『これ、私の考えとちゃうやん…』と感じてしまう。間違ってはいないが正しくもない、という違和感が昇ってくる。間違ってはおらず、むしろ正しくなったと意識面の私は思うのに、それでも違うと無意識面の私が違和感を上げてくる。たぶん、私の心の奥の流れ、その水脈は、論理展開の乱れや欠落のない一本の整流ではないのだ。
 10歳の頃、私は、鏡に映る自分を『この子は誰?』と感じながら見つめることがあった。鏡の中のその子は、親しげに笑うこともなく、じっとこちらを見ていた。私は赤子みたいに、それが自分の姿と同定できなかったのではもちろんない。『この子は誰?』はむしろ『これはなに?』の感覚に近かった。また、『この中に、この私が本当にいるの?』の感覚。三つは混和し、言葉でははっきりとした分節を与えられないそんな感覚の問いだった。後年、三面鏡の角度を調節すると、自分が縦列で小さくなりながら無限に続くことを知り、私は息を呑んだ。一瞬でそこに無限が生じる。10歳の私がそれを見たなら、問いが無限に並んで小さく収斂し、不分明になりながらなお続いて、…パニックになったかもしれない。
 『この子は誰?』の問いは、今であれば、『自分とはなんなのか? 生きることの意味はなんなのか?』と言い表し得る。10歳の私は、そんな言葉はとうてい紡げなかったけれど、だが確かにそんなふうに感じていた。
 鏡の「私」をいくら見つめても問いの答えはけして得られなかった。目の前、そこに在るのは答えであるのに、それはけして読み解けなかった。でも、目の前の子は、他といくらでも交換可能なニュートラルな〈少女〉ではなく、『この子は誰?』と問うに値していた。しかしそれは恐ろしく難解な答えで、問いに先行して既に在って、問いを促す答えだった。そう、「答えであるのに問い」だった。子供の私は、みんなが同じ関心を持っていると思い込んでいて、おとんやおかん、また友人たちに訊いてみた。両親も友人も、私の口にする問いそのものが全く理解できないかのような反応の悪さで、とても煙たがられた。三羽ガラスの二羽も、きょとんとした感じを浮かべ、しかしそれも瞬時で、私の(いい)などまるで耳に入らなかったように、己がじしおしゃべりを続けた。皆の反応が芳しくなく、その上、それが何か嫌な感じを伴う無反響でもあったので、私は『この問いはしたらあかんもんなんやな』と思うようになり、いつの頃か、心の奥に封印をした。けれども、10代の間ずっと、私には『この中に、この私が本当にいるの?』の感覚に常につきまとわれていたような記憶がある。しかもその感覚によって、何かいつでも邪魔されていたみたいな、そんな記憶も。
 祖母の遺品となった日記で、人として生きることを問うて答えようとしている祖母に私は出会った。病室で、何もわからなくなった祖母といるときは、私はまだその祖母を知らなかった。でも祖母の姿に同じ問いを私は抱いた。それは子供のころの問いが、封印を解いて再び浮上してきたことにほかならない。子供の私は、あの問いを祖母にこそしてみるべきだったのだろう。でも、滋賀から萩へ行くのは夏休みなど、それは両親や教師から叱られ、指導され、そうやって自分が否定される日常から解放される時だったから、あるいはあの問いも束の間無用になっていたのかもしれない。子供時代、祖母とそんな問答をした記憶は全く無い。記憶に無いだけだろうか、少なくとも、祖母の日記にはそのエピソードは登場しない…。
 20歳のとき、私は定時制高校に入った。アルバイトをするにも、正式に就職するにも、中卒では選択に制限があることを実地に知ったからだった。そこは、小・中と同じ学校でずっとつるんでいた「アホの三羽ガラス」の二羽が在籍していたことのある学校で、その当時、三羽そろっての夜遊びの前に、はぐれガラスの私は二羽に付き合い、生徒でもないのにその教室に紛れ込むことを幾度かしていた。教師は、迷い込んだカラスを認めても咎めることがなくて、そのイイカゲンな雰囲気の記憶が、私にその定時制高校への入学を促したのかもしれない。友人の二羽は3年前に退学していて、教室の席に着いた私は、二羽のあとを引き継いだみたいだと思った。前の高校を2学年で辞めていたから、2学年に編入された。私は勉学を始めたわけではなく、英語の課題は弟に下請けに出していたし、休みがちな自分が卒業に必要な出席日数を教務課に行って確認しては、合理的に最低限の出席だけをしていた。
 普通なら大学を卒業する歳で高校を終えると、私の無軌道ぶりには拍車がかかる。相変わらずのアルバイトの身分で、時給の良さから勤めた半導体工場では、よくクビにならなかったと思うほど休みがちで、出社すれば、40万円もするシリコンウェハーを落として割ったりしていた。在学中も、奇抜な髪型・髪色にして、その校則違反を隠すためにカツラを被り、ランドセル(高校生のランドセルが『イケてる』と私は信じ込んでいた)を背負って登校していたけれど、そんな独自の扮装もエスカレートした。ライブハウス、クラブ通いでパンクロックに入れあげ、髪を緑に染めたり、モヒカン刈りにしたりして、服装もそれに合わせて過激なものとなっていて、おとんはそんな私に怒りを発し、「外で出くわしても、声、掛けんといてな。他人や」と真顔で言い渡した。10代半ばから20代半ばまで、私は自己イメージの形成に躍起となっていた。当時は単純にそれが『イケてる』と感じていただけだったけれど、実は、奇抜な姿、それに見合った奇矯な言動によって表す自己イメージを、私は、自分と外界(両親、社会…)との境に置く、外界への威嚇と防御にして、いわば鎧にして生きていたと、今は思う。
 全ての自己イメージは(こしら)え物。 だから、有るものを無いように、無いものを有るように見せることもできる。自己イメージが肥大して一人歩きを始めて、その維持が苦痛になる人だっている。私は20代半ばに近づくと、『イケてる』と思っていた自己イメージ、…ド派手な鎧の内側で、『このままではマズイ』と感じるようにもなっていた。自分の外にも、自分の内にも、自分の在るべき場がなくなってゆくあの感じ、いまだに忘れたくても忘れられない、あの言いようのない焦燥感。…ある日、私は本屋で偶然目に入った一冊の本を手に取る。
 荒木経惟の写真集だった。「写真」というものに疎く、彼の名を知らず、というよりも、「写真」によって本が成立することさえ、私は知らなかった。『写真で、こんなことが表現できるんや』と思いながら、手に取った本の頁の一葉一葉を食い入るように見て、繰っていった。本を抱えて帰路につくころには『写真なら、私の中のモヤモヤを形にして知ることができるかもしれへん』と思い、眠って目覚めた時には、『写真家になろう』と決めていた。私はアルバイトの蓄えを手に、カメラ屋さんへ赴き、「プロの使うカメラをください」と店員さんに告げた。
 カメラの取説を読んでも皆目わからなかった。露出ってなんなん?の有様だった。生まれてはじめて、必要が生じて、学校へ行こうと思った。東京の専門学校にしようと決めた。定時制高校を卒業していたから、応募要項を満たせた。全く勉学をせずに得た高卒の資格がこんなふうに役立つとは、だから、人生は予想を超える。
 おとんもおかんも、私の突然の宣言、「プロの写真家になるわ。そやし東京の写真学校へいくわ」に猛反対をした。両親向けのもっと通りのよい言葉もあったと思う、でも、その場でそれを選べないのが私だ、昔も今も。 おとんとおかんが反対しているその感情だけを受けとめ、私の心は幽体離脱のようになっていた。小学校の頃、通学の道が指定されていた。周囲に広がる田んぼのあぜ道を使えばずっと近道で、すでに学童から解放されていた私は一刻も早くランドセルを家に置いて遊びに行きたくて、あぜ道を使い、ときには田のぬかるみを突っ切った。泥に汚れた靴を、帰宅したおかんが見咎めて、私はよく叱られた。『道くらいわたしの好きにさせてや』と思ったものだった。…娘が進もうと決めた写真家への道に娘を進ませまいとするおとんとおかんの言葉は私の耳に入らず、二人がそれぞれどんな観点で反対をしたのかはもちろん、具体的にどんな説得であったのかも、記憶に全く無い。
 恋人とも別れた。私が仕事の後に食べるようにと、お菓子をアルバイト先に持ってきてくれたときだった。非常階段の踊り場で、やはり私は相手のために言葉を選べず、やさしく飾ることもできず、「あんたと別れる」と言い渡した。理由を訊かれても、当時の私は「写真学校に行くからや」としか言えなかった。今でこそ、私の選択、「写真家になる」は、私の喫緊の最優先の生き残り戦略であり、あれもこれも温存して果たせることではなかったと言えるけれども、当時の私は直感的に自分の退路を断っていて、そのいわば覚悟(・・)を言い表せなかった。写真学校を出てから、「自称・プロ写真家」であった頃、友人たちから「あんたは夢を追いかけてていいなぁ」と度々言われた。その言に悪意はなかったから、私は抗弁こそしなかったけれど、『カメラを手に夢の中にいるわけやない。写真は、私にはひりつくような現実や』とは思った。
 東京へ向かう日、おとんは居間に胡座をかいたまま私に背を向けて、そうして頑なさを露わに、一言も発しなかった。おかんは、諦めを浮かべながら、これが生きた娘の姿の見納めとでもいうような雰囲気で私を見つめた。おとんもおかんも、私のような者があの東京なんぞへ行ったらもうお終いやと思っていたのだろう。一理も二理もあったと今は思う。私はたまたま悪人に遭遇しなかっただけだ。東京へは、引っ越し屋で働く友人が、荷台に余裕があるからと、段ボール箱の荷物を荷台に、そして私を助手席に乗せてくれた。東京に着いたのは夜、2階建てのアパートの前の道からは、のちにアルバイト先になったパチンコ屋の、打ち上げ花火の意匠の電飾の遠く光るさまが眺められた。部屋に荷物を下ろすと友人はすぐに帰り、見知らぬ一室にダンボール箱と自分だけ、いよいよ来たんやと思った。意気揚々でも意気消沈でもなく、未だ言葉で表し得るような何者かでもなく、私はそこにただ存在していた(・・・・・・・・・・・)……
 滋賀の病院の一室で、祖母と二人きりで、『こんなふうで、人として生きていると言えるんやろか』と思う私の内には、子供の頃に封じた問い「自分とはなんなのか? 生きることの意味はなんなのか?」が自ら封印を解いて浮上し、私は、子供の私が鏡に映る自分に『この子は誰?』と訊いたように、目前の祖母に『あなたは誰?』と心で問いかけていた。祖母は、記憶と共にその人生で培ってきた自己イメージを全て喪失して、もはや言葉で表しえるような何者かではなくなり、生きていることの喜色も悲嘆も見せず、そこにただ存在していた(・・・・・・・・・・・)……
 東京に出た頃の私は、周囲や社会に対する鎧としていた過激な自己イメージをすでに脱ぎ捨て始めていた。その私は、望むなら新たな自己イメージを形成することも出来たし、それよりも大切なこと、すなわち写真家になるという企図を実行していた。でも、疾病によって自己イメージを奪われた祖母は、もはや新たな自己イメージの形成も、また何か長期的な企図の実行も叶わぬ身となっていた。様々な行動の組み合わせで何かを成すには、その目的が記憶によって保持されなければならず、物を考えていても自分が何を考えようとしていたかわからなくなるのでは、自己イメージの形成も、人生の形成もとうてい望めない。
 祖母とのやりとりから、祖母が周囲や自分について、一般的になら理解できることは窺えた。自分の受けているのが〈点滴〉であること、自分の居るのが〈病室〉であること、窓から見える風景が〈街〉であること、自分が〈老婆〉であること、自分の手に被されているのが〈手袋〉であることなど…。しかし、なぜ点滴を受け、なぜこの病室にいるのか、窓外の街はいったいどこなのか、なぜこんな不便な手袋をされているのか、目前の若い女性と自分との関係はなんなのか、この自分はいったい何者なのか、これらの答えを導き出すことは、いや、それ以前に、そう問うことができなくなっていた。また祖母は、その場限りの動作の要請なら、それに応えることもできた。「ベッドに横になって」と言えばそのとおりに、「よく噛んで食べて」と言えばまたそのとおりに…。でも、「一人で病室を出ないように」とか「もう点滴の針を引き抜かないでね」の約束は、日向の石に注いだ水がその瞬間は黒々と染まるのにみるみる蒸発してゆくように、いくら頷いてもすぐに消えていった。そうして祖母は、個人的な意味や価値の皆無の、一般的な意味しかない薄っぺらな空間と瞬間的な時間…狭隘な座敷牢のような時空に幽閉されていた、自分がどんな人生を送り、どんな人間になっていたかも知らずに。〈学童〉に幽閉されていた私など、比較にならないほど〈自由〉だった。病床の祖母は、幽閉にうち沈んで暗むことも、逆に庶事からの解放に朗らかに明るむこともなく、そう、そこにただ存在していた(・・・・・・・・・・・)
 でも、それにもかかわらず、子供の私が鏡に見たのが〈少女〉という一般的な意味だけのそんな存在ではなく、『この子は誰?』と問うに値する答えとして、鏡の中から私を見つめていたのと全く等しく、祖母が『あなたは誰?』と問われるに値する答えとして私を見つめていると、私は感じるようになった。私を知り、私が知る、その祖母がいなくなってしまった喪失感からなんとか脱して、それは幾度目の見舞いの頃だったろう、私は祖母に「答えであるのに問い」を感じた。過去も自己イメージも表情も、すなわち内面も外面も、これほど徹底的に失いながらなお、祖母を祖母以外の存在にはしていない何かを、私の目は、それとも五感は、祖母に捉えていた。自分の感取を確かめるために、私は祖母にカメラを向けた。カメラに写らなければ、あるいは、写真にならなければ、それは幻影か錯覚だ。
 「こっちを向いて」と私は祖母に言い、祖母はそれに応じた。昔、鏡に映っていた私のように、祖母をファインダーの中央に、正面向きに配する。その私はあの鏡の映像を思い浮かべてはいなかったが、自ずとその構図へと収束していった。『これ!』とピンとくる構図を求めた結果だった。シャッターを切る。もし、祖母が撮影されていることを意識しているなら、表情に変化が生まれただろう。人はカメラを向けられると、ほとんど反射的に、撮影時用の自己イメージの表情や仕草となるが、祖母は全く表情を変えなかった。萩にいて、私が家族と一緒に見舞いに行った頃の祖母はまだ、孫の私にカメラを向けられると、笑顔となっておどけたようなポーズを取ったものだった。今、私のカメラの前に、祖母はそこにただ存在しているだけの姿を晒し、写真には、その祖母の「答えであるのに問い」が写し出されていた。なんカットも撮ったうちのワンカットには、記憶や自己イメージばかりか多くの可能性も全てを失って、それでも誰でもないニュートラルな〈老婆〉や〈人〉なのではけしてなく、やはり祖母としかいいようのない存在、すなわち「答えであるのに問い」として写し出されていた。そして写真は表していた。そこにただ存在することの(つよ)さ、したたかさ……
 …祖母が滋賀の病院に来て、そこから残されていた生の時間は1年足らずだった。その死から8年が経ち、私は私の最初の写真集を携え、萩の家を訪ねた。病室の祖母の写真ももちろん載るその本を、私は『できたよ』と卓に置いた。祖母の写真で始まった写真集だった。その一枚で、私の撮るべき写真と、その撮り方(フォーマット)を私は得た。そこからいつ終わるとも知れぬ一枚一枚の積み重ねは、ゴールを知らされていないマラソンのようで、祖母亡き後完成までの8年間、私は萩の家に来てそこに身を置いては、いくら「粘り勝ち」を信条にしていたって途切れそうになるモチベーションの補填を重ねてきた。刷り上がってまだインクの匂いも新しい一冊を、私は、この家に在るものと共に、時を刻ませたいと思った。シーフードヌードルの容器に入れられたコスモスの造花のように。内縁に置かれたロッキングチェアのように。壁に飾られた切り絵のように。庭で放恣に伸びる木々のように。 写真もまた、この家の時の刻みの中、物として朽ちてゆく。
 病室の祖母のワンカットを写したとき、写真学校を出て4年が経っていた。そうして得た写真に、私は、ようやく自分の内のモヤモヤ、…確かに何かが存在するのか否かさえ知れなかったモヤモヤを、自分の前に引き出せたと感じた。それは不思議でさえある。私の内にいくら目を凝らしてもただただ不分明でしかなかったものが、私の外に在るものをひたすら見つめて見つめて、そうして写真にすることで見いだせることの不思議さ、言い換えれば、外へ向かった果てに内が見いだせることの不思議さ。 喩えるなら、我が家を出て、世界の果てをめざし、長い長い旅を続けたある日、目の前に我が家が出現するような不思議さ…。
 私は、外界をひたすら見つめ、そうして自分の内に対応する何かを見いだす。だから、私の表現手段は、外界を客観的に写し出す「写真」なのだ。カメラは、私の主観に客観性をもたらす。主観性を有さない機械であるがゆえに、「写真に写し出されてあるのは、間違いなく現実の外界である」をカメラは保証してくれる。デジタル時代になって、カメラは、イメージ・レコーダーの能力に、イメージ・ジェネレーターの能力を加えたけれど、前者の能力が消失したわけではなく、今でもカメラはイメージの存在の客観性を保証してくれる。そのカメラは昔も今も、念写機能などないから、私の内界にあるものは写し出さない。私はカメラの機能を調節して、主観である私が見ているままに、外界を撮影するように努める。プリントもまた、同様に調節をする。その写真を見て、全ての人が、そのイメージのさきに、私が内面にその存在を捉えた内容を感取するものではないけれど、少なくとも、諸写真の何か一貫性のようなものは感じてもらえるだろう。
 私は、多くの人を、祖母のワンカットのように写真にし、そのポートレートで写真集を編むことを決めた。目指すのは「あなたは誰?」や「生きることの意味はなんなのか?」のその「答え」の表現の写真集ではなかった。そうではなく、「答えであるのに問い」のまま、それを見る人の前にごろりと投げ出す写真集。…意味・価値・目的を帯びた自己イメージ、また、その者を捉えるこちらが与えるイメージ、その二重のイメージのさきにある「答えであるのに問い」を見せる写真集。…若かった私が創り出していためちゃくちゃな自己イメージのさきに、当時、私自身が()ることのなかった「()」を祖母は見た。下って今度は私が祖母の「()」を見た。人それぞれに在る「()」の写真集。…祖母があのようになってしまってもなお、ニュートラルな〈人〉、ただの〈老婆〉などではなく、祖母としか言いようのない存在であったこと、それが錯覚でも幻影でも、また例外でもなかったことの証明ともなる写真集。