いつもは大型のバックパックに撮影機材を詰め込んで移動している。ウクライナ渡航は7度目になるが、今回はいつも以上に荷物が多かった。友人から借りたスーツケース。中には、ウクライナ東部ハルキウで撮影してきたスケーターたちの写真をプリントしたTシャツが15着、ぎっしり詰まっている。私がオリジナルで作ったものだ。東京を発つ前に、スケートボードの大会が近いうちにあるとハルキウのスケーターたちから聞いていた。昨年もその大会の様子を見ていたが、スケボーを始めたばかりの私には何も出来なかった。今回は仲間として認められるために少しでも私の存在感を示したかった。そこでTシャツを大会の景品にしてもらおうと思って持ってきたのだ。おかげで飛行機だけでなく、バスに積み込むのにも重量超過料金を取られたが意地で運んだ。自分のスケボーは持ってこられなかったが、それは現地でなんとかなるだろう。

2025年3月9日
スーツケースを開けて中身を見せると、ドモヴォイは両手をこすり合わせてから、Tシャツを掴み上げた。そして大きな体躯の底から「オオー!」と声を出して笑った。今朝、ドモヴォイの部屋を訪れると、彼は久しぶりの再会を素直に喜んでくれた。だが、肝心の大会の日程を聞くと、浮かない顔に変わった。スマホのアプリを使って英語に翻訳された文章を私に見せる。
「実はまだ主催者と開催日が決まっていないんだ。誰も責任があることをやりたくないんだろう。それに大人たちは徴兵を恐れて表に出てこない」
このところ強引に、時には逃げようとした者に暴行を加えて連行し徴兵するケースが相次ぎ、国内で問題になっていた。徴兵の対象年齢については、ドモヴォイはまだぎりぎり大丈夫だと言っている。
「最終的には僕がやるかもしれない」
彼はため息をつきながらそう伝えた。彼はフォトグラファーだ。本心は大会で撮影に集中したいのだろう。「なんとかなるよ」と私は返した。早く身軽になりたいという勝手な思いで、景品用のTシャツをすべて彼に預ける。できれば私の滞在中に大会が開催されれば嬉しいが、こればかりは口出しできない。
いつもスケーターたちが集まるオペラ・バレエ劇場前の広場に向かう。天気がよく春の気配を感じる。変わらず空襲警報は鳴り続けていたが、週末の街の中心の通りには多くの人が歩いていた。もちろん戦争前の賑わいと比べれば静かだろうが、それを気にする様子もなく、人々は新しい季節の訪れを楽しむように行き交っている。
私は広場の隣にあるカフェが営業しているのを見て驚いた。何度も通っていた店だ。つい最近、このすぐ近くに自爆型の無人機が落ち、店舗のガラスが吹き飛んだ様子をニュース映像で見ていた。店の外壁には生々しい傷跡が残っているが、ガラスはすでに新しいものに張り替えられていた。何事もなかったかのように客も出入りしている。
広場にはスケーターたちが徐々に集まり始めていた。
「ヘーイ、ブラザー! また来たんだな。いつまでいるの?」
「いい写真が撮れるまでだよ」
「知ってる? もうすぐ大会があるんだよ」
そんな会話をしながらハグや握手を交わしていると、背後から強く肩を叩かれた。振り返ると、見覚えのある顔があった。
「ヘイ、ブロ〜」
わざと鼻にかけたような声。口の端から舌を出して、目を見開いた表情を作っている。名前がすぐに出てこない。咄嗟に「なんでお前がここにいるんだ?」と言ってしまう。彼と会ったのはキーウだったからだ。「戻ったんだよ」と彼は言った。
彼の名前はディマ、17歳。ちょうど2年前、首都キーウ中心部の広場で、雨の降るなかスケボー仲間を待っていた彼に声をかけて写真を撮らせてもらった。そのとき彼はたしかに、ハルキウからキーウへ避難してきたと言っていた。翌年、同じ場所で再び顔を合わせたこともあった。母親と別居している父親のもとへ一時的に身を寄せており、毎日料理をしなくてはいけないと愚痴をこぼしていた(連載第1回参照)。
その頃はまだ少年のあどけなさがあったが、今では少し大人びている。思いがけない再会だった。彼はすぐ私に「スーパーマーケットに行こう」と言った。酒を買いたいのだろう。歩きながら話を聞く。多少は英語が通じるのがありがたい。ディマは半年前にハルキウへ戻り、今は母親と暮らしているという。彼もまた、多くのスケーターと同じようにハルキウ北部のサルティフカ団地に住んでいた。
スーパーのレジで、ビールを2本持って並ぶ。前には若者が3人。10本以上のビールをカウンターに並べ、会計をしている。みんな、どこか嬉しそうな顔をしていた。私たちはそれを眺めながら待つ。「知ってる? ウクライナのビールにはMSGが入ってるんだよ」とディマが言う。
「そんなわけないだろ。なんでビールにうま味調味料が必要なんだ」
「本当なんだって」
先に会計を済ませる若者たちを見ながら話を続けた。
「あいつら、これから……くそ、※※※(ロシア語が聞き取れず)って言うんだけど、英語でなんて言うんだ?」
会話を聞いていたのか、レジの店員が「Celebrate?」と口を挟んだ。
「そう! セレブレイトだ!」
どうやら、若者たちは何かのお祝いをするらしかった。ディマは「俺はこれから帰るけど、うちに来る?」と聞く。広場でスケーターたちと久しぶりの時間を過ごしたかったが、まだ時間はある。私たちも再会のお祝いをしたい。それにディマや家族の生活を少しでも知れるかもしれない。遠慮なく遊びに行かせてもらうことにした。地下鉄でサルティフカ駅へ。そこからさらにトラムに乗る。
「すぐ近くだよ」
そう言いながらトラムから降りるなり、彼は何かを言い残し、持っていたスケボーを放り投げて建物の影へ消えた。彼についていくと、ただ立ち小便をしているだけだった。「近いなら家でやれよ」と言うと、「オー、リラックス!」と私のことは無視して言った。
「ここが、うちのアパート」
彼が指さした建物は、団地では一般的な高層住宅だが、側面は崩れていた。見たところ、10世帯以上の部屋がまとめて削ぎ取られたように破壊されている。ロシア軍による砲撃の跡だという。エレベーターは動かないらしく、階段を上る。彼の部屋は壁一枚を隔てて、ぎりぎり残ったのだそうだ。
室内はきれいにリノベーションされていた。「お母さんはいないの?」と聞くと、「週末は彼氏のところに行ってて、帰ってこない」と彼は言った。彼の個室の壁一面には、NYの摩天楼の風景とその上を飛行機が低空飛行している壁紙が貼られていた。それがシュールにも見えたが、両親が幼い子どものために用意した部屋を今もそのまま使っているのだろう。ストリートファッション風の洋服が、クローゼットに突っ込まれている。部屋の中だけを見れば快適な生活ができそうだ。ただし、水道インフラが破壊され、断水することがあるらしい。停電もしょっちゅうで、発電機はない。真冬は辛いだろう。「腹減ってない? 俺は減ってる」というのでキッチンに移動。ガスコンロには炒めたポテトがフライパンの上で冷えたまま置かれている。ディマがそれをつまんで「うまい」と言った。母親が作ってくれていたらしい。冷えた油の匂いが強くて私は食べるのを遠慮した。
劇場前の広場に戻ると、もう暗くなっていた。ドモヴォイは帰宅していたが、これまで何度も顔を合わせていたいつもの面々がいた。今朝早くに到着したばかりだったので私は疲れていた。みんなに「До за́втра(また明日)」と告げて、滞在先として借りたアパートに向かう。途中スーパーで、一袋20UAH(約80円)のパスタを買う。帰りの予定が決まっておらず、長く滞在したいので節約は必須だ。ついでに洗濯用の洗剤も買った。これからしばらくの、ハルキウでの生活が始まる。
3月11日
昨日は広場で暗くなるまで5人ほどのスケーターたちを撮影していた。彼らは広場の階段から飛び降りるような形で、何度もトリックを繰り返していた。私はスケボー専門のフォトグラファーではなく、トリックそのものに強い関心はない。昨日も特別おもしろい出来事が起きたわけでもなかった。強いて言えば、長髪のローマンが階段脇でガールフレンドを待たせたまま夢中でトリックを続け、彼女の顔がみるみる険しくなっていったのが少しおかしかったくらいだ。ただ、もともと少なかったスケーターの数がさらに減っていることが気になった。若者たちが国外へ避難し続けているせいだ。
今日は特に行くあてはなく、これまで何度も歩いたハルキウ郊外のサルティフカ団地周辺に向かう。団地ではミサイルなどの空爆で破壊されたアパートの棟のいくつかは取り壊し作業が始まっていた。ここも徐々に風景が変わっていくのだろう。まだ午前中なので、スケーターたちは自宅でオンライン授業を受けている。邪魔はできないし、誰とも連絡がつかない。できれば、授業後に待ち合わせをして、団地内で彼らの写真を撮れればと思っていた。
団地を歩いていると、やたらと中年男性に絡まれる。たいていは顔を赤くした、アル中のような男たちだ。旧ソ連圏には、90年代ごろまでゴプニクと呼ばれる、日本で言えばヤンキーのような人々がいたと聞いたことがある。団地の隅や広場にしゃがみ込んで、昼間から安酒を飲み、誰彼構わず喧嘩を売ったり、時には軽犯罪に手を染めたりする。そうした連中が年を取り、いまこうして目の前にいるのだろう。彼らの言葉はほとんどわからないが、外国人は彼らから好奇の視線を集めてしまう。それにカメラを持っているならなおさらだ。「俺の写真を撮れ」「タバコをくれ」「金をくれ」流れはいつも同じ。この日も二人組の男にたかられそうになり、結局また街のいつもの広場へ戻った。
広場にはすでに数人のスケーターが集まっていた。ちょうど劇場の外階段の裏手から、木でできた手製のランプ(ジャンプ台のようなもの)を二人がかりで引っ張り出してきた。界隈ではレジェンドと呼ばれているが、どちらかと言うと狂人のような雰囲気を持つ中年のスケーター、チャイカが最近作ったものらしく、普段は階段の下に隠しているのだという。それを使ってさっそく、それぞれがトリックをはじめる。
初めて見る顔の少年もいた。バルナスという15歳の小柄で痩せた少年で、彼もまたサルティフカ団地に住んでいるという。別のスケーターが 「バルナスは目が細い。本当はКита́йский(キタイスキー、中国人)なんだよ」と言って、目尻に指を当て横に引っ張ってゲラゲラ笑う。露骨な人種差別に私は笑えなかったが、子どもなんてそんなもんだろう。バルナスは私に興味があるらしく、つたない英語でいろいろと話しかけてくれる。どんな音楽が好きだとか、どの国へ行ってみたいだとか、もうすぐ誕生日だとか。将来は鉄道の運転士になりたいらしい。
ふと顔をあげると、広場から黒い煙があがっているのが見えた。南の方角だが、他の建物が邪魔していてどれくらいの距離かわからない。空爆があったのだろう。通行人も誰も気にしていない。スケーターはみんなランプにかじりつくように夢中になっている。わざわざ伝えるのも無粋な気がしたのでただ眺めていた。
日が暮れると、ディマやバルナスたちがサルティフカへ帰るというので、一緒に地下鉄に乗ってみることにした。暗く静かなホームで、天井のシャンデリアだけが不釣り合いに豪華なのはソ連時代からだろう。地下鉄はおおよそ10分に1本。帰宅時間なのでそれなりに混んでいる。車両が古く走行音がうるさいので、車内で会話している乗客はいない。ディマと彼の親友だというセーニャはシートに座り、イヤホンを片耳ずつわけあって二人でTikTokを見て笑っている。バルナスは車両の床にスケボーを置き、その上に座ってスマホをいじっている。スケボーのゲームをやっているらしい。他の乗客もたくさんいたが、大人たちは特に彼らを気にかけるわけでもない。彼らだけの世界を少しばかり覗いた気がした。私も彼らのことを知らなかったら、何も知らないままだったのだ。
終点のサルティフカ駅に到着して彼らを見送り、向かいのホームから反対方向の電車に乗って私はふたたび広場に戻った。広場にはブベルがいたが、最近スケボーのデッキを壊してしまったらしく、酒を飲んでいるだけだった。酒が入るとほとんどまともな会話ができないのでアパートに帰った。湯を沸かしていると、ドモヴォイからメッセージが届いた。自爆型の無人機が落ちたらしい。部屋の窓を開けてみると、まだ他の無人機が旋回している音が聞こえる。しばらくして、爆発音がした。ドモヴォイに返信をしながら、パスタを食べる。
3月13日
この日も朝からサルティフカ団地へ向かっていた。特に理由も約束もない。何度も通ってもこれといった展開がないので、気持ちは焦り、部屋でじっとしているわけにもいかない。いつものように地下鉄駅から歩くのではなく、ミニバスに乗ってみた。しかし、どうやって降りたらいいかわからない。ミニバスはそのまま北へ向かい、団地から離れていく。郊外の村のほうへ向かっていった。侵攻当初には何度か通過した場所だが、いまはウクライナ軍や警察による検問があって出入りが厳しい。案の定、兵士に目をつけられて私は降ろされた。
面倒なことになってしまった、と思いながら兵士に従うように軍の詰所へ入った。取り調べが始まる。ロシアの工作員の疑いをかけられることは何度も経験しているし、やましいことは何もない。スマホを取り上げられて、データの中にある写真やアプリ、着信履歴、メッセージも含めてすべて記録が取られていく。見つかると面倒になりそうなものや、人に迷惑がかかりそうなものはすべて消していたので問題はない。だが、一番困るのは兵士とのコミュニケーションだ。ウクライナ語で質問をされる。翻訳アプリがあれば説明できるのだが、スマホは兵士の手の中にありもどかしい。今回の兵士は多少の英単語を混ぜて話してくれた。
「こっちに家族がいるのか?」
「スケボーを撮影している」
「なぜ?」
「戦時下の青少年たちの成長過程を記録したくて……」
などと身振り手振りを交えながら適当な答えで濁す。兵士は私のパスポートのページを確認しながら質問を続ける。
「なぜ中国へ行った?」
「トランジットで……」
「何度も?」
「チケットが安いから……」
兵士が交代しながら、1時間ほど取り調べは続いた。詰め所には薪ストーブがあるが、火は消えており寒い。「ここから先は戦闘地域に近いので、立ち入りはできない」と兵士は言った。実際の戦闘地域までは距離があるはずだ。それでも状況が具体的に把握できるようになったいま、徐々に出入りの管理が軍や警察によって厳しくなっていた。すべての記録を取り終え、私は解放されて詰所を出た。外は眩しかった。でもここからどうやって戻ればいいのだろう。兵士が村からやってきた車を止めた。「こいつを市内まで送り届けてほしい」というようなことを運転手に伝えている。何台か断られたが、気の良さそうなおじさんが私を乗せてくれることになった。兵士たちと別れて車は進む。せっかくこっちまで来たのだから、街まで戻らずに適当に団地のところで下ろしてもらう。
「今から家に来る?」とディマから連絡があった。彼の部屋で紅茶を飲みながら検問の顛末を話したが、あまり興味はなさそうだった。地下鉄で彼の親友、セーニャと合流し一緒に劇場前の広場に向かった。広場にはサンチェスという12歳の少年がいた。スケーター仲間の中では一番年下だ。これまで何度か彼の写真を撮ったことがあった。彼は「もうすぐブルガリアに行く」と言った。「なんでブルガリアなの?」と聞くと、「わからない。ママがそう言っている」と答えた。この日は夜遅くまでスケボーに付き合った。
3月14日
今日はディマやバルナスたちと、サルティフカ団地で待ち合わせをしていた。バルナスから連絡があった。「ディマはどこにいる?」と聞かれる。「まだ来てないよ」と返すと、それきり音信不通になった。結局、約束の時間になっても誰も来なかった。これまでもこういうことは何度もあったが、続くとうんざりする。
仕方がないので、そのへんを歩いていた二人組の少年に声をかけた。少しだけ英語が通じた。12歳と15歳。スケーターたちよりやや年下だが、いっぱしにタバコをねだってくる。このあたりでおもしろい場所はないかと聞くと、戦闘で破壊されたカフェの跡や、燃え残った車が置かれている一角を案内してくれた。健気に案内してくれているのは嬉しいが、意思疎通が難しく、おもしろいわけでもなかった。私たちはずいぶん歩いて、小さな売店にたどり着いた。コーラを2本買って、それぞれに渡す。私は地下鉄へ向かった。
地下鉄のホームで電車を待っていると、背後から肩を強く叩かれた。振り返ると、ディマだった。「なんで約束の時間に来なかったんだ」と文句を言うと、「大変だったんだよ。あの……爆弾の、まだ爆弾じゃないやつ」「……不発弾のこと?」「そう、それ。それが見つかって、避難してたんだ。マジでクソだよ」それなら連絡ぐらいしろよと思ったが、とりあえず一緒に地下鉄に乗り広場へ向かった。そのあと、スケーターのひとりがパレスチナとイスラエルの話題をふっかけてきた。ウクライナ人のなかにはユダヤ系もいるし、ハルキウでも超正統派の姿をした人を見かけたことがある。ナチ・ドイツ占領下のウクライナでは、ナチ・ドイツの主導(と監視)のもと、ウクライナ補助警察部隊によるユダヤ人の大虐殺が各地で起きた。でも紛争に関しては私はイスラエルにもパレスチナにも行ったことがないので現地のことはよくわからないし、スケーターが日本から来た私に何をもとめているのかもわからない。彼はイスラエルの正当性について議論をしたいらしいが、私は疲れていたので帰りたい。「До за́втра(また明日)」と言ってアパートに帰る。

3月15日
雨。スケーターたちは広場に集まっていたが、誰もスケボーを持ってきていない。ただ、ディマだけはスケボーを持ってきていた。みんなは寒さから逃げるように広場のカフェに入り、ジュースを飲んだり、パンをかじったりしている。ディマは店に入らず、雨の中でスケボーに乗っていた。店内から窓越しに、何度もスリップして転び、それでも立ち上がってまたトライするのが見える。服もびしょ濡れになり、最終的には上裸で滑り始めた。「あいつは変人なんだよ」それを見ながら、スケーターたちは言った。
暗くなり、一度アパートに戻ってパスタを食べる。雨が上がったので再び広場へ向かう。チャイカがいた。彼にお願いしたいことがあった。「スケートボードを作ってほしいんだ」身振り手振りでそう伝える。彼はアパートのガレージを工房にして自分でスケボーを作っているのだ。そして工房で制作する様子を撮らせてほしいと頼んだ。彼は「明日、来い」と言った。ただ、私はロシア語で彼とは会話がまともにできない。そこでドモヴォイにメッセージを送り、誘ってみる。彼も英語は話せないが、人当たりがいいのでなんとかなるだろう。
3月16日
ハルキウの郊外にはサルティフカと同じようなソビエト様式の団地がいくつもある。どのアパートも同じような規格で建てられているので、突然ここに連れてこられたらどこにいるのかさっぱりわからないだろう。唯一違うのはここは攻撃が少ないせいか、崩れた建物が見あたらないことぐらいだ。アパートの中庭には倉庫を兼ねた、これもまたどれも同じようなサイズのガレージが寄せ合って並んでいる。チャイカのスケボー制作工房はそのうちのひとつだ。
私が到着したときにはチャイカは興奮して工房のなかをひっかきまわしていた。カメラマンは私以外に3人。チャイカがスケボーを制作する様子を撮影したい、と言っていたら、私が撮影する様子をまた撮影したいと言い出した。フォトグラファーのドモヴォイ、写真よりも酒が好きなんじゃないかと思うような15歳のローマン、さらにドモヴォイの写真仲間の男。さらには誰の友達なのかよくわからないギャラリーたちまで狭くて暗い工房の中に集まっていた。ラジカセからはハードロックが爆音で流れていて、マリファナの煙でもうもうとしており目にしみる。人が集まったためか、チャイカは嬉しさのあまり雄叫びを上げて工具やらなんやらを振り回している。その騒ぎを聞きつけて、またどんどんと近所の人が集まってくる。とてもじゃないが、撮影どころじゃない。野次馬のひとりがチャイカに一服させると少々落ち着いてきたが、いっこうにスケボーを制作する様子がないので、私はひとり先に帰ることにした。今回も東京から高い金を払ってこの街を訪れているが、たいしたものは撮れていない。何しに来たのかわからなくなってきた。
いつも通り、広場に立ち寄ってから借りている部屋へ向かう。暗い通りを歩いていると、遠くでバイクが走るような音がした。その音が頭上に広がり始める。自爆型の無人機。軽自動車ほどの大きさで、イラン製のシャヘドを模倣してロシアで作っているとニュースで見聞きしたことがある。昼間なら地上から見えるはずだが、暗くてよくわからない。通りには避難しようと駆けていく人がいたが、すぐに消えた。街は無人になった。
無人機の旋回音は、近づいたり遠ざかったりを繰り返す。これは徘徊型兵器とも言われ、ロシアからGPSで目標地点をあらかじめセットされて飛行してくるが、自爆するまでのあいだ、上空を何度も旋回して不安感を煽り続ける。私も逃げたほうがいいのだが、どこへ行けばいいのだろうか。アパートにはシェルターがない。だから家賃も安かった。仕方なく、通り沿いの建物の柱の影に身を寄せる。旋回音が徐々に遠のき、しばらくして、空がぱっと赤く光った。数秒遅れて爆発音。衝撃波で、離れた場所に停まっていた車の警報が一斉に鳴り出す。どこに落ちたのかはわからない。動画を撮って部屋に戻り、パスタを茹でて食べる。夜中に何度か爆発の音で目が覚めた。
3月17日
バルナスと彼の友達がサルティフカ団地を案内してくれる。1時間ほど遅れて彼らはやってきたが、珍しく二人ともスケボーを持っていない。スーパーに立ち寄って瓶ビールを2本買う。バルナスはバッグの中から、フィンガーボードという指で遊ぶ小さいおもちゃのようなスケボーを取り出し、団地の遊具の上を滑らせている。それでも十分に楽しいらしい。「タバコを吸おう」とバルナスが言って、廃墟になった崩れかけのアパートの屋上へ向かう。バルナスが、瓦礫の中から写真を見つけて拾った。幼い子どもが写っていた。「たぶんもう死んでる」と言って彼はまたそれを瓦礫の中へ放った。そのあと、スケボーを取りにアパートへ一旦帰るというので、バスに乗った。停留所に着くなり、「Давай!(行くぞ)」と私に声をかけて、二人は先に飛び降り、トラムの乗り場へ全速力で駆けていく。乗ったトラムを降りるとバス停へまた走る。追いつくだけで精一杯だった。最後は地下鉄に乗り、劇場前の広場へ向かった。バルナスがひとりになったタイミングを見計らって、彼にプレゼントを渡した。それは肩からかけるポーチで、THRASHERというブランドのものだ(米国のスケートボード雑誌THRASHER MAGAZINEから派生したストリートファッションのブランド)。大会の景品にと思って日本で買っておいたのだが、ドモヴォイに渡しそびれていたのだ。「案内してくれたお礼と、誕生日近いでしょ?」と言うと、彼は飛び跳ねて喜んだ。ただ、みんな欲しがるから内緒にしておいてほしいと彼に釘を刺しておいた。
3月18日
きょうもまた午前中は、サルティフカ団地を歩く。雪が降っている。歩きながら、考える。私は「その場」にいたいだけだと思う。それでも、どうすれば彼らスケーターのことを理解できるのだろうかと思う。何かを聞き出したいわけでもない。
ただ、彼らの内側、メンタリティのようなものに、少しでも近づきたいと思っていた。けれど、どうすればいいのかがわからない。そもそも、彼らが話すスルジクというウクライナ語まじりのロシア語や独特のスラングもよくわかっていない。ただその場にいて、同じ景色を見るしかない。でもそれで、何がわかるのだろう。ただの惰性。東京での生活がつまらなくて私はここに来ているだけなのではないか。考えても同じところをぐるぐる回っている。
お調子者の15歳のローマンから、ロシア語のメッセージが届いた。翻訳してみると、「部屋の様子を見たいんだよね?」といった内容だった。前回の滞在と同じように、スケーターたちに部屋を見せてほしいと皆に声をかけていた。それを聞いたのだろう。「どんな部屋でもいいなら、案内するよ」と書いてあったので、すぐに「行く」と返した。
地下鉄を乗り換えてインダストリアルヌィ(工業)地区へ向かう。ここはソビエト時代から重工業が盛んな地域で、かつては工場で働く人向けに多くの住宅が建てられた場所だ。侵攻以降、空爆にさらされ続けている地域で、戦車を組み立てる工場があると聞いたこともある。
駅前で待っていると、ローマンはすぐにやってきた。「酒を買いたい」と言うので売店に立ち寄る。彼とは何度も顔を合わせているが、英語はほとんど話せず、ウクライナ語も得意ではないらしい。会話はごく簡単なロシア語と簡単な英語、足りないときは翻訳アプリに頼る。バスに乗った。外は吹雪で、このあたりがどんなところなのかよく見えない。案内しようとしてくれているのは、彼が以前住んでいた部屋らしかった。ローマンは、薬物とアルコールの問題を抱えていた両親を2年前に亡くしている、とドモヴォイから聞いたことがある。いまは近所に住むおばの家で暮らしていて、5歳の弟はおじの家に預けられているらしい。
到着したのは10階建てほどのアパートだった。ソ連式のどこにでもあるような古びた建物だ。とても小さくて狭いくせに轟音を立てているエレベーターに乗って上がっていく。暗い廊下で、ローマンはポケットから鍵を取り出し、慣れた手つきでドアを開けた。部屋に電気は通っておらず、暗くて埃っぽい。土足のままでいいという。部屋に入ると廊下よりひんやりした。すぐに目が慣れてきた。部屋には、家具らしいものはほとんど残っていなかった。ベランダを改装したバルコニーの窓はガラスが割れて無くなっているところもあり、かけられたビニールシートが風で揺れている。
「Xиpo, Смотри(ヒロ、見て)」と呼ばれて振り返ると、彼は壁を指さしていた。そこだけ、茶色く汚れている。翻訳アプリで説明してくれた。父親が母親を殴ったとき、飛び散った血の跡だという。隣の部屋に通じるドアのガラスも割れていた。これも父親が割ったらしい。部屋には古びた大きなソファがあった。防寒のために古びた絨毯が壁いっぱいに広げて貼られている。「どこで寝てたの?」と聞くと、「ベッドがあった。金がなくなって父親が売った」と拙い英語で彼は言った。
「酒と薬が、全部めちゃくちゃにしたんだ」
そう言いながら、バルコニーに出てタバコをふかす。手には缶ビールを持ったままだ。外に雪が積もっているせいか、とても静かだった。使われなくなった旧式のブラウン管テレビの上に絵本が置かれていた。弟のものだという。「俺は嘘をつくやつが嫌いだ」というようなことを翻訳アプリで見せてくれた。どういうことだろうか。「この部屋には嫌な思い出も、いい思い出もある。誰もいなくなったが部屋は残った。2、3年したらここを綺麗にする。叔母の家を出て一人で暮らす」という。おばの家に身を寄せるのはあまり居心地がよくないらしい。海外に避難したいと思わないのか、聞いてみた。この環境を考えると現実離れした話にも思えたが、彼の年齢なら国外脱出している者は多い。
「もちろん行きたい。ポーランドに逃げたい。でもそんなことおばには言えない。彼女にも俺と近い年の子どもがいる」
翻訳アプリを使って続けた。
「毎月のようにスケーター仲間がいなくなる。それが一番辛い」
スマホの画面を見せながら、飲み終えていた缶ビールを床に置いた。
「みんな行方不明になったみたいだ。もう二度と会えない気がする。」
今度は彼が、私の部屋を見たいという。地下鉄に乗って、私の部屋へ向かった。彼は写真が好きで、将来はフォトグラファーになりたいという。15歳でちゃんと目標があることはとても素晴らしいことだ。彼は部屋においていたカメラ機材をひとつずつ手にとって眺めて「ベリーグッド」と言った。「新しいカメラがほしい。でも金がない。」彼が持っているのは少し古いニコンのデジタルカメラだ。
あの部屋を改装して、スタジオにするのはどうだろう。そしたらお金を稼げるよと彼に言ってみた。「それはいいアイデアだけど、まずは一人で住む場所がほしい。」その通りだと思った。好きな写真家はいるのかと聞くと、 「ドモヴォイとヒロだよ」と言った。私は笑ってしまった。とてもありがたいことだが、それだけではさすがに勉強不足だろう。私のパソコンで著名な写真家の作品をいくつか検索すると、熱心に見ていた。
腹が減ったというので広場の隣のカフェでパンとジュースを奢る。窓の外を見ると、吹雪が強くなっていた。スケーターの姿はなかった。思い切って、戦争についてどう思っているか彼に聞いてみた。「もうニュースをほとんど見てないから、わからないよ。見てもどうにもならないから」と翻訳アプリの画面を通じて言う。米大統領のトランプについてどう思うのだろうか。つい2ヶ月ほど前に就任したばかりだ。彼は選挙前に自分が大統領になったら24時間で戦争を終わらせてみせる、と宣言していた。ローマンは肩をすくめて笑いながら「時間は過ぎたよ。でも俺は待ってるんだよ」と言った。この2ヶ月の間にも毎日のように空爆があり、人が死んでいる。そして「俺はもう嫌なんだ。戦うのをやめればいい。どうしてそれは駄目なんだ?」と逆に私に聞いてくる。「だってドネツクやルハンスクはロシア軍に占領されているし、ヘルソンやザポリージャの一部だって占領されてしまってる。それをどうするんだよ」と答えると、辟易した様子で言葉を返した。「もう仕方ないよ。諦めるしかない。」

3月19日
今日もまたサルティフカ団地。団地の最北端まで歩いた。レンガ造りのガレージが並び、いくつかは崩れたり、燃えたりして、戦闘の跡がそのまま残っていた。銃痕がびっしり残っているものもあった。
ガレージのそばの地面にはレコードが散らばっていた。中に置いてあったものを、誰かが引っ張り出したのだろう。近くにいた10歳くらいの子どもたちが寄ってきた。言葉は通じないが、こちらに好奇心を向けられる。やがて私に飽きたのか、レコードを拾い上げて、遠くへ投げ始めた。レコードは次々とフリスビーのように飛んでいき、地面に突き刺さる。管理人がやってきて叱り飛ばし、子どもたちは散り散りに逃げていった。
夕方の団地の全景を撮りたいと思い、どこか入り込める高い場所がないか探した。ちょうど高層のアパートがあり、荷物を運び出す作業をしている住人がいたので、入らせてもらう。建物は半壊していた。これも近いうちに取り壊されるのだろう。エレベーターは動かず、暗い階段を上がっていく。ほとんどの部屋のドアは外され、中の荷物もほとんど残っていなかった。燃えて中が真っ黒になったままの部屋もある。もろくなった階の天井は鉄の柱で簡易に支えられているが、いつ崩れてもおかしくないだろう。もうどれぐらい階段を登ったのかわからないが、たしか13階。ガラスのない窓から外を見る。遠くに取り壊し途中のアパートがあった。仕事を終えて帰っていく作業員の姿が小さく見えた。
3月20日
午後、気分転換を兼ねてグラフィティの専門ショップを訪れた。ドモヴォイが「ぜひ行ってみるといい」と勧めてくれた店だ。この街のいたるところにあるグラフィティを描いているライターやアーティストの多くはその店でスプレー缶を買っているという。ドモヴォイは写真で街の壁画の記録もしているから詳しかった。ビルの中にある廊下を歩き、店のドアを開ける。壁一面に色とりどりのラッカースプレーが並んでいた。スタッフらしき人が3人いて、「ああ、ドモヴォイの友達?」と声をかけられる。話は通しておいてくれたようだ。スタッフのうちの一人が、「Привіт. Мене звати…(こんにちは。私の名前は……)」とあらかじめ印刷されたステッカーの空欄にペンでタグ(サインのようなもの)を描き、渡してくれた。名刺のようなものだ。私も同じように描いて交換した。しばらくすると、客が入ってきた。どれも10歳前後の子どもたちで、一気に賑やかになった。「子どもたちもグラフィティをするんですか?」と私が店主に聞くと「もうこういうのしか残ってないんだ。10代から20代のやつらはもう国外に出るか、キーウあたりに避難したよ」と答えた。「こいつらがこれから街にグラフィティを描きにいくから、ついて行ったら?」と提案されたので、同行することにした。
街に流れる川にかかった橋へ向かい、子どもたちは手慣れた様子で手すりやコンクリートの堤防にタグを描き始めた。私は少し離れて、それを眺めていた。少ない小遣いで買ったのか、高価なスプレー缶ではなく、比較的安価なグラフィティ用のペンで、描いていく。大きな作品というより、ほんとうに小さな落書きという感じだ。それも、誰かが描いた作品の隣に描く。何もない場所にはまだ描かない。その後、彼らと別れ、私は広場へ向かった。
「ストリートで乗ろうぜ。みんなでダウンヒルだ」
広場でセーニャが私に言った。ディマらもすでにスケボーに飛び乗って走り始めていた。坂を下った先にスーパーがあるので、そこで酒を買いたいのだろう。私は他のスケーターにスケボーを借りて向かった。坂道をスケボーに乗って下っていくのは気持ちがいい。ウィール(タイヤ)やデッキ(板)のぶん、歩くより視点がやや高くなり、坂道で流れていく風景が新鮮だった。アスファルトの上を走る走行音もまた、他の余計な雑音が聞こえてこないので無心になれる。
その日の夜の劇場前の広場は収拾がつかない状態だった。いろいろなことが同時に起きていた。スケーターの誰かが大型のモバイルスピーカーで音楽を鳴らす。チャイカが興奮して叫び、妙なトリックを繰り返す。スケボーに乗らず、手を使ってデッキを振り回したり、頭の上に載せて踊ったりして、「ウクライナスタイル」だと言った。広場の植え込みには、誰かの友達なのか、泥酔して気を失っているやつがいた。彼の洋服や足元はゲロまみれだ。そんなことお構いなしに、バルナスが手に入れたばかりのデッキを組み立てている。ブベルはウォッカ入りのエナジードリンク缶を飲みながらベンチに座っていた女の子たちといちゃついている。仕事を終えてやってきたドモヴォイはビデオカメラを構えてスケーターを追いかけ回す。おしゃべりアンドレイがスケボーではなくマウンテンバイクに乗ってやってきて、いつものように話し相手を探している。サイレンを鳴らした救急車が来た。救急隊員とその場にいた者が、泥酔した男を持ち上げる。その様子をドモヴォイが嬉しそうにビデオに撮る。救急隊員が怒り、ドモヴォイも怒鳴り返してゲラゲラ笑っている。よくわからないが、楽しかった。部屋に戻ってパスタを茹でて食べる。夜遅く、ドモヴォイからメッセージが届いた。「今日はとても楽しかった。戦争前のような夜だった」
3月21日
夜、アンドレイが部屋に遊びに来た。いつも通り、彼は一方的にしゃべっていたが、今日はなぜか妙に気持ちが高ぶっていた。せっかく彼が来たのだから、東京から持ってきていたインスタントラーメンを作ってやる。2、3口食べて「うまい」と言ったが、心ここにあらずといった感じだ。すぐにスマホで誰かに電話をかけた。彼は電話をしながらソファに座ったり、椅子に座りなおしたり、落ち着かない様子だった。小声で話していたが、途中で拳を振り上げたり、頭をかかえたりしている。私はただ眺めてるしかない。彼の顔は次第に赤くなり、泣きそうだった。電話をしながら、私がテーブルに置いておいた牛乳を勝手に飲み干す。私はどうすることもできず、ただ心配になった。30分ほど話していただろうか。彼は低い声で呻いたあと、電話を切った。
「大丈夫なのか? 何があったんだ」
そう聞くと彼は私に目を合わせず「ヒロが知ってる女だよ」と答えた。昨日、アンドレイやその仲間とレストランにボルシチを食べに行こうと誘われた。そのときにいた女のことだという。かすかに記憶にあるが、面と向かって話していないので顔まで覚えていない。彼が最近スケボーではなくマウンテンバイクに凝っているというのも、その女性の趣味に合わせてということらしい。そして以前からその女性をデートに誘っていたが、ついさっき、もう連絡しないでと告げられたのだという。「子どもがいるっぽいんだ。彼女のスマホの待ち受け画面に子どもの写真があった。でも確証がない」とイライラした様子で彼は言った。相手の女性は36歳だという。アンドレイは21歳。年の差について今更考えても、すでにフラれたのならもうどうしようもない。彼は「俺は真剣なんだよ。彼女と家族を作りたんだ。でもどうすればいい?」と目を赤くして私に聞く。「もっと若い子とかいないの? 同い年ぐらいの女の子なら広場でいくらでも出会えるだろう」と提案してみるが、「あんなのみんなビッチだ」と言い放つ。さらにはエイズの流行がどうのこうのとの根拠のないことまで言い始めた。きっと彼女だけが特別だと思い込みたいだけだろう。彼が焦る理由も想像はつく。戦争が始まってから若い女性はこの街を離れていった。
「そいつのことは忘れろよ。15歳も年上の女なんて、お前にとっては婆さんと同じようなものだろう? しっかりしなよ。お前には未来があるんだ」
肩を叩いて励ます。「未来がある」という言葉を簡単には使いたくなかったが、咄嗟に口から出てしまった。ふと「お前の親父さんには相談したのか?」と冗談半分で聞いてみると消え入りそうな声で口を開いた。
「もちろん相談したよ……。ヒロと同じことを言ってた……」
私はそれを聞いて大声で笑ってしまった。テーブルの上にはインスタントラーメンが冷めて台無しになっていた。もったいないので「食べていい?」と私は声をかけた。「Блядь!(ビッチ)」と彼は叫んだ。
[注]本文における地名・人名・固有名詞等は、著者が現地で実際に聞いた発音に忠実にカナにしました。そのため地域や発話者によりロシア語表記とウクライナ語表記が混在します。
過去の連載記事
(ウクライナ撮影日記)パスタとラーメン
2026年2月2日
夏の湖(2)
2026年1月5日
夏の湖(1)
2025年9月1日
スケーターと祝祭
2025年8月1日
3年目のブチャ、キーウ、ハルキウ
2025年7月1日