みすず書房

夏の湖(2)

夏の湖(2)

前回に続き、2024年7月の渡航時の日記です。

2024年7月26日

ヴァーニャが回し蹴りの真似をしてみせた。誰かが彼にちょっかいをだしたらしい。村の通りに彼らのはしゃぐ声が響く。引率のように先頭を歩いているのは私で、後ろには総勢7名が続いていた。15歳から20歳ぐらいまでの若者で、全員がここ、ウクライナ東部の都市ハルキウのスケーターだ。おしゃれで着飾ることが好きなヴァーニャも今日は半ズボンでリラックスした格好だ。私たちは湖に向かっているらしいのだが、とにかく気温が高く、早く辿り着きたい思いで前を歩いていた。
 このあたりは街の南側に位置している。街の中心部からここに来るまでにバスを何度か乗り換えた。途中、ヴァーニャが「ヒロ、あれを見ろ」と言ってあごで車窓の外をさした。ウクライナの国旗が無数に並んでいた。戦争で亡くなった兵士や市民の墓地だった。少年たちもそれを見て、自然と静かになった。他の乗客も黙って外を見つめていた。
 ロシアによる全面侵攻でオンライン授業が続いている学校も、いまは夏休みだ。そこで、スケーターのひとりである17歳のデニスに「君たちがふだん遊びに行くような場所に連れていってほしい」と頼んでいた。最初は渋られていたが、ようやくそれを聞き入れてくれた。そして、いま私たちは湖に向かっているのだ。
 昨日、「その湖は入場料が必要ないのか?」と私は彼に確認した。数日前、ブベルという青年と彼の女友だちと、街の北にある湖の有料ビーチに行ったが、そこは家族連れが多く、バーまで併設されていて「用意された遊び場」のような場所だった。もっと彼らだけの世界が見たかった。今回の湖は自然の中にあり無料で、砂浜もないらしい。「ただのデカい湖だ」と聞いて、おもしろそうだと思った。

私は振り返って「あとどのくらい?」と聞いたが、じゃれあう彼らの声に紛れて届いていない。もう一度大きな声で叫ぶと、デニスが「もうすぐ」と気の抜けた声で答えた。手元のスマートフォンでGoogleマップを開こうとしたが、いまどこにいるのかよくわからない(妨害電波が出ているらしい)。トラックが一台、乾いた道に砂煙を巻き上げながら通り過ぎていく。ついさっき、スーパーで買い込んだパンやスナック菓子、ジュースやビールをぎゅうぎゅうに詰めた袋が、重さに耐えきれず破れた。砂の道端に散らばったそれを見て、誰かが怒鳴り、誰かが笑った。それから皆で拾い集め、両手に持ったまま歩き続ける。スケーターの彼らにはいつも世話になっている。だから食費は全て私が払った。それだけで1600UAH(約6000円)近くかかったが、まあ仕方がない。スケボーをしていない時間、彼らがどんなふうに過ごしているのか私は知りたかった。そしてなにより、彼らの肉体そのものを撮りたいと思っていた。
 彼らは肩を組んだり、押し合ったりしながら進んでいく。パンをかじりながら歩く者もいれば、ビールのキャップを開けて飲みはじめる者もいた。途中、村の家の塀越しに花が咲いているのが見えたので、立ち止まってカメラを向けた。撮っていると、背後から誰かの声が聞こえ、また誰かが笑った。いくら歩いても湖に辿り着かない。太陽は真上にあり、遮るものがなにもない。ねばるような暑さが体にまとわりつき、息が浅くなってくる。それでも歩き続けると、道がだんだんと砂地になってきた。遠くにソ連時代から操業しているとおぼしき古びた工場が見える。妙な刺激臭が鼻を突いた。「ペットフードを作っている」とデニスが教えてくれた。
 湖は森に囲まれていて、静かだった。ここは街の北部とちがって爆発音もほとんど聞こえない。私たちの声のほかは野鳥のさえずりが聞こえる程度だ。私たちが到着したのは湖面を見下ろすようにやや高くなった崖のようなところで、木にロープがくくりつけられていた。スケーターたちはそれにぶら下がり何度も水面に飛び込んでいった。湖水は濁っていたが、そんなことは気にしないらしい。ロープを離す瞬間にバック転をする者や、そのまま泳いで遠くまでいってしまう者もいた。私も続いてロープをにぎり、飛び込んだ。彼らの表情は、いつものスケボーをしているオペラ劇場前の広場で見るのとは違っていた。広場には通りすがりの人もいて、どうしたって視線がある。会いたくない相手が来ることもあるし、スケボーに乗る自分をどこかで意識しているかもしれない。だが、ここには本当に親しい仲間しかいない。
 休憩している間、彼らのうちの一人の膝にタトゥーがあるのを見つけた。「057」という数字だ。黒いインクがくっきりとしているのは、肌に入れたばかりなのだろう。その数字はハルキウの市外局番(エリアコード)だ。街中でもそのグラフィティをよく見かける。彼は故郷とともにある、あるいは地元への揺るぎない誇りを消えない形で刻んでいるのだろう。
 みんなが遊び疲れたところで、私は「スイカを食べよう」と言った。待ち合わせする前にひとつ買っておいて彼らに運ばせたのだ。「なんでスイカ?」と英語が話せる一人に聞かれた。「日本では泳いでお腹が空いたら冷やしたスイカを食べるんだ」と説明したが、誰も興味はなさそうだった。ナイフで切り分けて配り、口に入れてみると日本で食べるものと変わらない。ただ、そこらに転がしていたせいでまったく冷えていなかった。スケーターたちはポテトチップスや、パンをつまむばかりであまり食べる気はないようだった。
 結局スイカは余ってしまいハエがたかり始めたので、たまたま泳ぎに来ていた他の知らない少年たちに食べさせる。彼らは突然よくわからない外国人に渡されて戸惑っていたが、まあなんとか食べてくれた。デニスと彼の友人に、「ちょっと買い物に行こう」と誘われた。またずいぶん歩いて近くの村まで行くと、小さな売店が一軒あった。上裸のまま店に入っていく。ビールを2本、私はコーラ。
 彼らが戦争について思うことをいろいろ聞きたいが、いまはふさわしくないと思って我慢した。きょうはリフレッシュの日だ。またそのうち聞ける機会があるだろう。戻ってみると、15歳で小柄なブラッドが裸足のまま草むらに入り込んで、しゃがんだまま静かに地面を見つめていた。どうしたのかと聞くと、「トカゲがいたんだ」と言う。捕まえたいらしい。
 ついこの間、「俺にはちゃんとした教育が必要なんだよ。だからポーランドに行こうかと考えている」と英語で話してくれたことがあった。その彼が、いま幼児のように草の陰でトカゲを追っている。ブラッドに限ったことではないが、彼らを見ていると、大人のように振る舞う一面と、幼い頃のままの動きが、同じ体にとどまっているように思うことがある。
 この2年以上、学校でクラスメイトと顔を合わせる機会がほとんどなかった影響や、戦時下の暮らしで抱える負荷が、こうした二面性を与えるのかもしれない。でも本当のところはよくわからない。ティーンエイジャーというのは、どちらにも揺れるものだろう。それに別にいくつになってもトカゲを探していい。いまは夏休みなのだ。

7月27日

昼過ぎ。地下鉄の終点駅。脱ロシア化の流れを受けて昨日から行政が48の通りと3つの駅の名前を改称したらしい。ここも「ヘロエム゠プラッツェ駅」(ソ連時代の勲章の名前、労働の英雄)というものだったが、「サルティフカ駅」に変わったという。だが、見た目ではどう変わったのかよくわからない。プラットホームでの表示がどうなっていたのかも、思い出せない。
 意識は別のところに向いていた。スケーターのなかでも、とりわけやんちゃな男、ブベルを待っていたのだ。1時間以上遅れてやってきたが、彼の時間感覚ではこれがふつうだ。約束通り、私が使っていたスケボーのデッキ(板)を手渡す。
 「本当にいいの?」
 うん、と私が頷くと「サンキュー、ブラザー!」と言って、笑顔で大げさにハグをしてきた。ノリがよくて憎めないやつだ。私たちは路面電車に乗った。今日は彼が住むサルティウカ団地を案内してもらうことになっている。ブベルは私が渡したデッキを手にとっては裏返したりしながら何度も眺めていた。彼のデッキは先日壊れてしまった。それからは広場にやってきてもただ他のスケーターを眺めているだけだった。だから、たとえ私のデッキが初心者向けの安物だったとしても、いまの彼にとっては十分だったのだろう。
 別に彼らと私とは美しい友情のようなもので結ばれているわけではない。時にはこちらからモノやカネを渡してお願いし、時には向こうから求められる。そんなギリギリの関係でいまのところつながっている。今日も、彼に来てもらうためにデッキを差し出すしかなかった。だが、本心を言えば、デッキや団地の案内などどうでもよかった。私は彼の部屋を見たかった。
 スケーターであれ何であれ、コミュニティを細かく見ていくと、最終的には個々の物語に興味の先が行き着く。彼らの世界、もっといえば彼個人に近づきたかった。彼は22歳だ。他のティーンエイジャーたちとは違って多少は踏み込んで聞けることもあるだろう。それに彼は簡単な英語なら話せるので助かる。これまでどうやって生きてきたか。いま何を思っているのか。そして彼のプライベートなことを知りたかった。
 これまで部屋を見せてほしいと何度か頼んだことはあったが、「親がいるから無理」と断られていた。他のスケーターにも同じことを頼んでいたが、同様の理由でみなだめだった。だが、以前にブベルから、いまは祖母と二人で暮らしていると聞いていた。複雑な家庭環境のようだが、私は同情するというよりも、部屋を見せてもらうには両親がいないほうが好都合ではと考えていた。
 それで今日は彼と団地の中を歩くことになっていた。頼むなら機嫌が良い今しかない。それとなく持ちかけてみると、予想通り彼は「親がいるから……」と言いかけた。「親はいないでしょ」と私は畳みかけた。乱暴かもしれないが、遠回しに言ってもしょうがないだろうと思った。
 「君がどんな風に暮らしているか、知りたいんだ。お願いだから頼むよ」
 彼は口元を少し歪め、短く考えてから、「じゃあ少しだけ」と言って了承してくれた。どうも本当のところは住んでいるアパートが古いので、そのことを恥ずかしがっているようだ。サルティフカ団地は、全面侵攻初期に激しい戦闘が起きた場所だ。ロシア軍が国境を越えて北側から迫り、ハルキウを防衛するウクライナ軍と正面からぶつかった。団地の北側はとくに被害が大きく、住民の多くが戻らないままらしい。ブベルの部屋は団地群の中心部のあたりにあった。彼の住む棟の前に立ったとき、彼は上の階の壁を指さした。ひと目でわかる修復の跡が残っている。
 「侵攻が始まってすぐ、あそこにロケットが突っ込んだんだよ」と彼は言った。建物はソビエト式の古い造りだが、団地群ではそれがふつうだ。旧ソ連圏のどの都市でも見かける、規格通りに大量に建設・供給された住宅。フルシチョフ時代に作られた低層のものはフルシチョフカ、ブレジネフ時代の高層のものはブレジネフカと呼ばれるらしいが、ここではまとめてフルシチョフカと呼ばれている。
 照明のない暗い階段を上がって、ドアを開ける。入ってすぐキッチンがある。暗くて狭い廊下を挟んで寝室が2つ。外へ迫り出したバルコニー。割れたままのガラス。こうした部屋は他の街で何度か訪れたことがあるので、特に古いとは感じなかった。ブベルの部屋に入ると、籠もった熱気と湿度がいっきに肌にまとわりついた。彼が窓を開けると、光が差し込んだ。部屋の壁紙は剥がれていて、コンクリートがむき出しになっていた。洋服箪笥にはラッカーペンでグラフィティのような落書きがしてあった。机の上にイラストが飾ってあった。オペラ劇場の前でトリックを決めている彼の姿だった。誕生日に友人が描いてくれたという。
 その隣に、未使用の重機関銃の弾や薬莢が置かれていた。迫撃砲の破片のような金属片もあった。団地で拾ったものらしい。「記念にあげるよ」と言われたが、いらないので断った。ちょうどおばあさんが帰ってきて、私たちを見るなりロシア語で何か言った。ブベルが聞き終える前に怒鳴り返すと、おばあさんはキッチンへ引っ込んでしまった。床には、使い込んで割れてしまったスケートボードのデッキが積まれていた。全部で30枚以上。
 「これはほんの一部だ。思い出として残してる。これが俺の人生のすべてなんだよ、ブラザー」と言った。

彼は、新しく手に入れたデッキに、これまで使っていたウィール(タイヤ)を取り付け始めた。その様子を写真に撮りながら話を聞いた。以前聞いた通り、母親は、彼が幼い頃に病死した。父親もその後、家を出たままだという。それからずっと祖母と暮らし、いまは彼が面倒を見ている。彼は定職には就いておらず、生活に余裕はなさそうだった。少年のころからボクシングが好きで、ジムにも通っていた。だが、オペラ劇場の広場でスケボーに乗る若者たちを見て、心を持っていかれたらしい。ほどなくして、彼の生活はスケボーが中心になった。そして、2022年2月24日早朝5時頃、状況が変わった。
 「外から花火みたいな音がしてさ。新年の祝いかと思ったんだ。でも、戦争だったんだよ、ブラザー。どうしたらいいかわからなかった。逃げたかったけど、ばあさんを置いていくわけにはいかないだろ?」
 彼はすぐに祖母と地下鉄のプラットホームに避難した。ついさっき私たちが待ち合わせをした駅だ。彼は一ヶ月半、地下鉄で暮らし、そこで食料を配給するボランティアの手伝いをしていた。同時にひどい鬱とパニックに悩まされたという。私が初めてハルキウを訪れたとき、避難所になっていた地下鉄の駅をいくつか取材したことがある。どの駅も避難者で埋まり、個人の空間と呼べるものはほとんどなかった。太陽を浴びないまま、薄暗いプラットホームで毛布にくるまり、黙って過ごす人々の姿を思い出す。
 ブベルはのちに、祖母とともにリヴィウへ避難した。無料で移送してくれるボランティア団体を頼ったらしい。現地では避難者向けに解放された学校に寝泊まりしていた。そして、彼は当然のことのようにスケボーを携えていた。
 リヴィウのスケートパークで、彼はいろんな場所から逃れてきた若者たちと出会った。彼らとの交流と、スケボーに向ける情熱のおかげで、彼の中に再び生きる力が戻ってきたのだという。これも私自身が取材で見た光景だが、侵攻当初リヴィウのスケートパークでは、各地から避難してきたティーンエイジャーたちのなかに小さな即席のコミュニティができていた。見知らぬ避難先の街で「親はいろいろと忙しいから」と自分でパークの場所をネットで調べてやってくる者もいた。戦時下にあってもそこだけは、不思議な開放感があった記憶がある。
 「俺がスケボーに乗っていると、誰も何も追いつけない。自由なんだよ、ブラザー。意識がスケボーに集中しているんだ。それは本当に幸せなんだ。人生の最後までやり続けたいよ」
 これから同じ団地に住む友人と落ち合うとのことで、そのままついて行った。飲みたいというので売店でビールを買って彼に渡す。一口飲むと、彼は喉を鳴らした。
 「いい感じだ、ブラザー」
 少し肩の力が抜けたように見えたので、兵士に志願する人をどう思うか、と聞いてみた。今年の春にも同じような質問をしたのだが。
 「ブロー、俺はまだ死にたくないんだ。もし死ぬことになったら俺の人生はいったい何だったのかと思うよ。俺はまだ何も成してないんだ」
 うんざりした表情で答える姿は変わっていない。それでいいと思う。団地の広場には若者たちが集まっていて、ブベルを見つけると、順に握手をし、ハグをした。だが、すぐに彼らと別れて歩きだしたところで私に言った。
 「あいつらは何もせずにここにいるだけのやつだ。俺にはこれがある。わかるだろ? ブロー」
 そう言って、手に入れたばかりのスケボーに飛び乗った。私はスケボーを彼に渡してしまっていたので、急いであとを追った。途中、空爆で崩れたアパートの脇を通った。この地域にはこういう建物がいくつもある。そして時々、遠くで爆発音が聞こえる。ロシアとの国境が近いのだ。ブベルの友人が住むというアパートの前で待つ間、彼に18~60歳までの男性(2025年8月からは22~60歳)が出国できないことについてどう思うのかと聞くと、飲み終えたビール缶を手で潰しながら答えた。
 「それは本当に狂ってる。でも仕方ないとも思う。金がある奴は偽造の書類を作って、男でもウクライナから逃げるべきだ」と彼が言っているのは、医者に金を払い、海外での治療が必要だという偽の診断書を作ってもらうことだ。
 「俺には金はないからね。バカバカしくなって、パスポートは捨てたよ」と言ってケラケラと笑った。
 どういうことか尋ねると、「どうもこうもない。俺はアノニマス・マン(身元不明の男)なんだよ、ブラザー」と笑った。少しだけ本音に触れはじめた気がした。だが、その時、待ち合わせた友人がアパートから出てきて、彼の注意はそちらへ向いてしまった。その後、空爆されて崩れかけたアパートを探検するというのでついて行ったが、特にそれ以上踏み込んだことは聞けなかった。
 夕方、これまで撮影したフィルムをキーウの現像所に郵送で送る。できるかぎり、フィルムは現地で現像して持ち帰りたいからだ。

7月28日

この日はいつものオペラ劇場前の広場で、スケーターたち一人ひとりに映像によるインタビューを試みた。「そんなもの撮ってどうするんだ?」と聞かれたが、確かにその通りだ。発表するあてもない。誰が興味を持ってくれるのだろうか。
 「まあ、記録だから……」と曖昧に答えていたが、それでも何人かはカメラの前に座ってくれた。撮影する前に、彼らは私に聞く。
 「ウクライナ語とロシア語どっちで話せばいいの?」
 「どっちでもいいよ。好きなほうで」
 「みんなが見るなら、ウクライナ語にするよ」
 普段、彼らはロシア語で話しているが、外向きにはウクライナ語へ移行しているという体裁をとりたいようだ。数人にインタビューをしたが、思っていたより国外避難の経験者は少なく、親戚のいる村や街へ移っただけ、という国内避難の話が多かった。その背景には家庭の貧富の差や、親の考えによるものがあるのだろう。私がウクライナ語でもロシア語でも話せていたらもっといろいろ深く聞けたのに、と思う。

7月30日

窓の外から機械の音が聞こえた。身を乗り出して覗くと、ホテル裏のガレージ前で、ラジコン型の軍用探査機が走り回っている。テスト走行をしているようだった。ここ数日は兵士の出入りもよく見かける。状況が変わりつつあるのかもしれなかった。ロシア軍にこの場所を特定されて攻撃を受ければ、私の部屋ごと吹き飛ぶだろう。
 昨夜はスケーターたちとスーパーへ酒を買いに行った。ビール、ウォッカ、ウォッカ入りのエナジードリンク。公共の場所での飲酒は禁止らしいが、誰も気にしていない。酒を片手に、街をスケボーで滑っていく。道中、ブベルの女友達のミラーナがTikTokを何度も撮っていた。そのままオペラ劇場前の広場へ移動して、酒盛りが始まった。何がおもしろいのかよくわからないが、皆よく笑っていた。私は疲れていたので、先に部屋へ戻った。窓の外で爆発音のようなものが聞こえた気がしたが、そのまま寝てしまった。
 今日は午後からブベルの部屋を再び訪れることにした。アパートの階段を登ると、ドアの前で彼が待っていた。運悪く、おばあさんが部屋にいるという。「僕は気にしないから大丈夫だよ」と言うと、ブベルはドアを開けて、「静かに入って」と小声で言った。先に通され、そっと部屋に入る。廊下の先におばあさんの後ろ姿が見えた。気づかれないように横を抜けようとしたが、彼女が振り返った。私の顔を見るなり、目を見開き、胸の前で素早く十字を切った。孫かと思えば、また見知らぬ男がいる、という反応なのだろう。
 ブベルが彼女に怒鳴る。彼女もブベルに怒鳴る。どうしたらいいかわからなかったが、それよりも彼に渡せるものがもう何もないという事のほうが気にかかっていた。悩んだ挙げ句、私が持ってきたのは買ったばかりのユニクロの無地の黒いTシャツ。渡すと特に嬉しそうでもなかったが、一応「サンキュー」と言ってくれた。私が来るまでベッドにいたらしく、寝汗をかいていたのだろう。そのままTシャツに着替えた。もう渡せるものは少しの現金しかないがそれは後だ。
 ブベルがこれまで使ってきたデッキを床に並べ、私はそれを撮影した。落ち着いて話を聞こうと思ったが、おばあさんが何度も部屋に入ってきては私に怒鳴った。言葉がわからない。
 「ばあさんは頭がおかしいんだ」と彼は言った。今度は彼女は食べ物が乗った皿を持って部屋に入ってきた。人道支援団体の配給を持ち帰ってきたらしい。ただ彼女は「食事をするか?」と聞きたかったのかもしれない。ブベルは「ブラザー、一緒に食べるか?」と聞いてくれたが、腹は減っていなかったので断った。皿の上には、ピクルスとミートボールのようなものがあった。
 ついさっきデッキを並べたとき、部屋の中にもうもうと舞い上がった埃が、窓から差し込む光の中に浮かんでいるのが見えた。彼は気にする様子もなく、埃が舞う中、静かに食べていた。結局、特に大した話もしないまま、彼と一緒にオペラ劇場前の広場へ向かった。スケーターの仲間内で殴り合いがあったが、まわりの様子を見るかぎり深刻なものではなさそうだった。

8月1日

今日は滞在最後の日だ。いつの間にか8月になってしまった。明日の早朝にはバスに乗ってキーウへ戻るつもりだ。昨夜、スケーターのドモヴォイが家に招いてくれた。仲間たちのトリックを映像や写真で記録しているカメラマンだ。23歳で彼らの中で少し年上ということもあってか、落ち着いている。体も心もでかい男だ。私はブベル以外にも、何人かのスケーターに部屋の中を撮らせてほしいと頼んでいたが、みな断った。
 撮影を頼むだけでなく、何か口実になりそうなことも考えた。集めているものがあれば見せてほしいとか、気に入っている服があるならそれを着て撮りたいとか。返ってくるのは「親がいるから無理だよ」という答えばかりだった。そんな様子を見ていたからか、ドモヴォイが「うちにおいでよ」と言ってくれたのだ。
 彼の部屋には何度か行ったことがあるので特に新鮮さはなかったが、夕食に手製のサンドイッチを出してくれた。妻が親戚の家に行っていて留守らしく彼も退屈していたようだ。これまで撮影してきたトリックの映像やスケーターたちの写真を見せてくれた。ありがたいと思いながらも、会話が続かないのがつらかった。買い物に困らない程度のロシア語は耳で覚えたが、具体的な会話ができるようになるには程遠い。勉強しようとウクライナ語の教本を持ってきていたが、ここではロシア語のものが必要だった。
 午後、スケーターのひとりが車を持っているというので、私が行ったことがない中心部から少し離れたスケートパークに連れていってくれた。だが、最後の日はやっぱり広場でみんなと過ごしたかった。少し撮影したあと歩いて広場に戻ったが、時間がかかってしまい、すでに夕方だ。明日にはハルキウを出るとみんなに伝えていたせいか、広場では「トリックを撮ってほしい」と何度も声がかかる。同時にタバコや酒をせびる声も混じる。
 オペラ劇場前で撮影したあと、博物館前の広場に移動して撮ったりおしゃべりをした。15歳の小柄なブラッドが、縁石を越えて芝生に変なポーズで何度も突っ込んでいき、その姿を何度も撮らせようとする。もうずいぶん暗くなってしまったので、写真にはまともに映っていないはずだ。最後にブベルにも会いたかったが、メッセージを送っても返事はない。どこかで酒を飲んでいるのだろう。広場に残っていたおしゃれなブラッドやヴァーニャ、ミラーナと別れの握手をした。
 「また来るよ」
 「Когда?(いつ?)」
 「しばらく仕事をして金を貯めたら来る」
 「Пока、Пока(じゃあね)」
 彼らのことを知るためにはあとどのぐらいの時間がかかるのだろうか。それでもいま自分ができることはやったはずだ。

8月2日

外出禁止令が解除される6時ちょうどにチェックアウト。スケボーのデッキがないぶんだけ、荷物が少し軽くなった。カウンターには誰もいないので鍵を置いて出る。これからキーウに戻り、前回ウクライナを訪れた際に一週間ほど世話になったブチャに住むコンスタンティンというじいさんのところに顔を出すつもりだ。出発する前に、私にはどうしても行っておきたい場所があった。湖に行く前、車窓から見えたあの墓地がどうしても気になったのだ。これまでキーウや他の都市の墓地には足を運んだことがあったが、ハルキウではまだ見ていなかった。昨夜、迷った末にバスの予約を少し遅い便に変更したのだ。
 好奇心というよりは、今が本当に戦時下なのだということを確認しておきたかった。配車アプリでタクシーを呼び、朝7時すぎに幹線道路沿いの墓地に到着した。夏の日差しは早朝から強い。敷地に入ると、遠くに数え切れないほどのウクライナの国旗が立っていた。そのもとには戦死した兵士たちの墓が果てしなく続いている。
 いくつかの墓は真新しかった。遠くから見るだけで十分だと思った。私はスケーターたちを取材していたが、その間にも確実に人は死んでいた。自分はただひとりでスケボーに乗って遊んでいただけのような気もする。
 墓地の奥のほうで物音がした。何かを削るような音だった。その方向へ歩いていくと、裸の中年の男がいた。地面の中に腰まで沈み、上半身だけが見えている。男は穴を掘っていた。戦死者が出る前に、先に穴を用意するのだろう。そうしないと間に合わないと聞いたことがある。上裸の男は時間をかけて肩の深さまで掘り進めた。日に焼けた皮膚が、ただれたようなピンク色に見えた。私に気付いたのか、手を止めて荒い息のまま何かを話しかけてきた。言葉が通じないとわかったらしく、ジェスチャーで「ニュースの撮影か? 大変な仕事だな」というような意味を伝えてくる。私は身振りで「あなたの仕事のほうが大変だ」と返した。男は「ふん」と短く鼻を鳴らし、また穴を掘り進め始めた。

[注]本文における地名・人名・固有名詞等は、著者が現地で実際に聞いた発音に忠実にカナにしました。そのため地域や発話者によりロシア語表記とウクライナ語表記が混在します。