みすず書房

スケーターと祝祭

スケーターと祝祭

私はキーウ近郊の町ブチャにいた。かねてから知り合いだったコンスタンティンという老人の家に、一週間ほど居候していた。2024年3月前半、通算5回目となるウクライナ滞在中のことだった。これは、そのとき現地で取っていたメモをもとに書き起こした日記である。ブチャに来る前、私は東部の都市ハルキウで、スケートボードに熱中する若者たちと出会った。彼らの姿に影響され、キーウでスケートボードを購入した。それは当初、土産にするつもりだったし、本来ならそのまま帰国する予定だった。だが、あのハルキウでスケートボードの大会が開かれるという情報を目にした。一瞬迷ったものの、思い切って滞在を延長し、もう一度ハルキウへ向かうことにした。戦時下の街で大会を開こうとする彼らの姿を、自分の目で確かめたくなったのである。

3月7日

昨晩、コンスタンティンじいさんにスマートフォンの翻訳アプリでロシア語にした文章を見せた。
 「ハルキウにもう一度行く。すぐ戻る」
 じいさんは驚いた顔をして手の平を空中に飛ばすような身振りを繰り返す。
 相変わらず、ロシア語を話すじいさんとは、翻訳アプリかジェスチャーを介して意思疎通を図っていた。ウクライナ東部出身のじいさんもそうだが、ハルキウの住民もふつうロシア語を使っている。
 じいさんは「シューッ、シューッ」と口にした。それがミサイルや自爆型無人機を意味していることは、ブチャにある彼の家で、一週間寝起きを共にしてわかるようになった。じいさんは「なんでまたそんな危ない場所へ……」と言いたげだった。ハルキウも含めた東部では数え切れないほどの被害があることを見聞きしてきた。それにハルキウはロシアとの国境に接していることもあり、ウクライナ軍による迎撃が間に合っていないとも聞いている。西部リヴィウ周辺に住む人にとっては首都キーウは危ない場所で、キーウ周辺の住人には東部ハルキウが危ない場所だ。だが、ハルキウは2014年から戦闘が続いているドンバス地方よりはましな場所という認識が一般的か。いずれにせよ私がハルキウへ戻る目的が、スケボーの大会を撮影するためだと説明しても、理解はされまい。
 「本当に行くのか?」というようなことをロシア語でじいさんに問われるたびに、「ダー、ダー(うん、うん)」と答えた。「列車のなかで腹が減るだろう」とじいさんは、パンとチーズのほか、くるみ、じゃがいもなど畑で採れたものを次々と私に持たせようとする。しまいには「これも持っていけ」と、生の肉まで冷蔵庫から出してきた。こういうところはどこの国の年寄りも変わらない。気持ちはありがたいが、生肉を列車のなかでどうしろというのか。ハルキウでの食料難を心配しているのかもしれない。今ではよほど辺鄙な場所でなければ、金さえ払えばスーパーでたいていの食料は買うことができる。つい先日手に入れたスケボーを分解して、リュックにぎゅうぎゅうに詰め込む。夕方、じいさんと犬のアーシャに見送られて、寝台列車に乗るためキーウ駅に向かった。

3月8日

早朝、ハルキウ。3月に入っても朝はかなり冷える。これまでどおり街中でいちばん安いホテルに向かう。7階の部屋をあてがわれたが、ベラルーシ製のエレベーターはやっぱり直っていなかった。思わず受付のおばさんに不満を漏らす。
 「一体いつ直るんでしょう?」
 「修理したら部屋代が高くなる。あんたはきっと泊まれなくなるよ。だからこのままがいい」
 そう言って彼女は豪快に笑った。よく考えてみれば、私の質問は「戦争はいつ終わるの?」と同じぐらい答えようのないものだった。戦争が終わらない限り、ベラルーシから部品は入ってこないだろう。べラルーシはロシア軍によってウクライナ全面侵攻の拠点として利用されたため、ウクライナとの関係が悪化し、完全にではないものの実質的な国交断絶状態が続いている。撮影機材を入れた重いリュックとスケボーを担いで黙って階段を登る。戦争中で客がいないから、予約もなしに安く部屋を確保できる。でも戦争がなければエレベーターが使えた。この一週間ブチャにいた間にも、ハルキウ州では全域で空爆が続いていたらしい。情報を追いだすときりがないので、できるだけ考えないようにした。ミサイルは落ちるときもあれば落ちないときもある。
 そんなことより今回の目的は、ハルキウ市内で行われるというスケートボードの大会だ。開催は明日だが、詳しいことはまだよくわかっていない。さっそくスケボーを組み立てると、スケーターたちが集まる場所に情報収集のために行ってみることにした。ホテルの前の坂道を登りきって角を曲がると重厚で巨大なオペラ・バレエ劇場が見えてきた。また彼らに会えると思うとうれしい。劇場前の広場にはいつも通りスケーターが4、5人ほどたむろしていた。見覚えのある顔ばかりだった。
 「ヘーイ! ブロー」
 さっそく、やんちゃなブベルが声をかけてくれる。握手。ブベルだけではない。他のスケーターたちも握手をしてくれた。微妙なところだが、ついこの間までの、部外者を突き放すような彼らの態度はわずかながら変化しているように感じた。彼らの一員になるとは言わないまでも、せめて少しは存在を認めてもらえなければ、まともな写真は撮れないとも思っていた。これまでにジャーナリストやカメラマンが広場に立ち寄ったことがあったとは聞いていた。急にやってきて、ちょっと撮って帰ってしまう。そういう気まぐれの奴らとはコイツは違うようだと思ってくれたのかもしれない。ごくわずかな進歩だが、ハルキウに戻ってきたことに意味はあった。
 「ヘイ、ブラザー。スケボー買ったっていうのはこれか?」
 ブベルはヒップホップを聞いて英語を学んだというだけあって、喋り方は相変わらずそれっぽい。彼は私がSNSに載せた写真を見てくれていたらしい。
 「そうだよ、初心者用のやつだけどね」
 私の返事も待たずにブベルが私のスケボーを拾い上げて入念にチェックを始めた。
 他のスケーターも寄ってくる。「ノー・バッド(まあまあだな)、ブラザー」とブベルは言ってくれた。とりあえず「スケボーは合格」らしく、少しほっとした。
 再会できたのはブベルだけでない。ミラーナという15歳の少女がいた。先週ここへ来たときに彼女は広場の影に隠れるようにスケボーを練習していた。まだ始めたばかりで人前で練習するのは恥ずかしいのだと彼女は言ったが、私はほとんど強引にブベルたちに引き合わせた。そのほうがいろいろと教えてもらえるはずだと思った。そんなことはすっかり忘れていたが、今では彼らと仲良くなったようだ。ミラーナはベンチに座り、足元にスケボーを置いたままポケットに手を入れて両足を投げ出している。「どう? うまくなった?」と聞くと「全然ダメ」と素っ気なく言った。休憩中だったようだ。
 明日の大会についてスケーターたちに聞いてみたが、「コンテストだよ。来ればわかる」としか教えてくれない。私はロシア語もウクライナ語も話せないから意思疎通の問題もあるのだが、「なんでそんなのもわかんないんだ」と苛立つような態度も感じる。スケーターの一人はビデオカメラを持っていて、「俺はキーウから大会を映像で記録するために来た」と言った。
 ところで今回、私には会わなければならない男がいた。以前から私のSNSに謎の人物が連絡してきていたのだ。ハルキウのスケーターらしいのだが、その人物は「私は一度、あなたに会う必要がある」という。もしかしたら男はスケーターたちの元締めかリーダー格のような存在かと私は訝しんだ。私がみんなに勝手に接触していることが気に入らないのかもしれない。やや緊張しながら約束の場所である地下鉄の駅に向かう。
 そこには髭面の巨漢が立っていた。なぜか首からカメラをぶら下げている。男はロシア語で話しかけてきた。これまで英語でメッセージのやりとりをしていたが、どうも翻訳アプリを使っていたらしい。男は英語が話せず、私もロシア語が話せない。お互いが理解できる言葉がないとわかり、男は少し照れくさそうに頭をかいた。私は苦笑しながらとりあえず右手を差し出すと、男も「もうこれしか方法がない」というような面持ちで強く握り返した。
 彼の名前はミキータ。ニックネームはドモヴォイという。ドモヴォイとはスラヴ民話に出てくる、古い家に住み着く巨大な毛むくじゃらの妖怪のことらしい。確かに髪からもみあげ、そして髭までつながっている。手の甲にまで体毛がふさふさしていて、どちらかというと妖怪というより熊のようだ。年齢は22歳というが、とてもそんな若造には見えない。風格がありつつ、言葉の意味は理解できないが喋り口調は柔らかい。翻訳アプリを使って聞いたところ、彼は週末スケボーに乗ったりスケーターの写真や映像を撮ったりしているらしい。平日の仕事はガス管の保守作業員だという。「スケボーに興味を持った日本人が、カメラを持って広場をうろうろしている」という噂を聞いて、私に連絡してきたのだった。前回私が広場に滞在していたときには、仕事が忙しくて会いにこられなかったという。彼もカメラマンのせいか、私の持っているカメラについて熱心に質問をする。こちらは彼自身のことを聞きたいのだが、お互いの関心が異なり、会話はどうにもぎこちない。翻訳アプリ越しならなおさらだ。それに初対面でどこまでプライベートなことを聞いていいのか、いつも迷う。戦時下ではそれぞれ多少なりとも何らかの事情を抱えているだろう。アプリを使った会話が面倒になってきたのか、彼が今からスケートパークに行こうと提案するので一緒に行くことにした。
 スケートパークとはスケートボードやBMX、キックボードなどのライディングスポーツのために作られた専用の公園のこと。パーク内にはトリックを練習・披露するための構造物(「ランプ」と呼ばれる傾斜のあるスロープや「レール」と呼ばれる金属製の低い手すりのようなもの)が設置されている。こうしたパークはキーウやリヴィウではいくつか訪れたことはあったが、ハルキウでは見たことがなかった。
 二人でトランバイと呼ばれるトロリーバスのような路面電車に乗って移動した。初めて知ったことだが、現在のハルキウでは地下鉄も路面電車も無料で乗れる。戦争が始まってから、市民の仕事や収入が減ったことに配慮しているためか。路面電車はソビエト時代の車両がそのまま使われている。走行音がうるさく乗り心地はよくないが、なかなか味がある。パークは、私がこれまで何度か訪れたことのあるサルティフカという巨大団地の中にあった。ハルキウ市の北東部の郊外に広がるこの団地群は、侵攻開始直後にロシア軍が北部から市内に攻め入ろうとした際、ウクライナ軍とのあいだで激しい衝突があった場所だ。特に団地の北側では、建物の外壁に砲撃で空いた穴や焼け焦げた痕がいまも痛々しく残っている。ハルキウでの戦闘の凄まじさを象徴しているといっていいだろう。
 スケートパークがあるのは団地の南側で、周囲の住宅は爆風でガラスが割れたりしているものの大きな被害は免れていた。夕暮れのパークにはキックボードに乗る子どもたちに混ざってスケーターたちの姿もあった。彼らは皆、ドモヴォイに挨拶をしていく。ドモヴォイは、この界隈では優しい兄貴分のような頼れる存在らしい。まだうまくトリックができていない一人の少年に声をかけて教え始めた。ドモヴォイが手本を見せたいのか、「スケボーを貸してくれないか」という仕草を私にした。彼はカメラしか持っていなかった。私のスケボーを渡すと、ドモヴォイは見た目に反して驚くほど軽やかに回転するトリックを決めてみせた。体重でスケボーが割れてしまうのではないかと一瞬ヒヤッとしたが、そういうものではないらしい。
 彼は翻訳アプリの画面を見せる。「明日はここでコンテストがある」と表示されていて、その下には大会は今シーズンの開幕を告げるものであることも説明されていた。スケボーにシーズンなんてあるのかどうかわからないが、暖かくなってきたから外に出て滑りましょう、という感じか。明日はどうだか知らないが、今日は日中は少し暖かく天気もよかった。ところで大会の場所はいつものオペラ・バレエ劇場前の広場でやるのだとばかり思っていた。下見を兼ねて彼が私を連れてきてくれたとわかり、改めて彼に感謝した。
 だが、ハルキウでスケボーの大会をすることは危険ではないのだろうか。少なくとも人が大勢集まるイベント等は推奨されていないはずだ。「昨年の夏にやったときはサイレンが鳴って一時的に避難はしたけど、すぐに再開した。大丈夫だろう」とドモヴォイは肩をすくめて翻訳画面を見せてくれた。
 私はパークに据えられたランプの傾斜で、ひとり練習していた。「ヒロ!」とドモヴォイが叫ぶ。巨体を揺らして走っていく先に少年たちの人だかりがあった。中年の男と少年が、拳を握り向かい合っている。原因は男が少年たちに絡んだとか、そんなところだろう。誰も止めようとはしない。ギャラリーが興奮気味に声をあげ、輪になって二人を囲む。ここにいる彼らにとっては喧嘩もひとつの楽しみなのだろう。
 「こういうのは、どこにでもよくあることだ」
 ドモヴォイは嬉しげに翻訳画面を見せる。少年の拳が男の顔面を打ち抜き、血が流れる。誰も目を逸らさない。男も反撃しようとするが、少年の拳が繰り返される。やがて二人は地面に転げ回り、押さえつけ合ったまま膠着状態に入る。ギャラリーの熱も冷めていく。激しい殴り合いでなければ盛り上がらないのだろう。中年男は何かを吐き捨てるように言い、背を向けて去っていった。私は血で汚れた少年の拳をペットボトルの水で洗ってやった。少年は上気した顔で「いい写真、撮ってくれた?」と聞く。「まあまあだった」と答えた。暗かったから写真はぶれていてまともには写っていないだろう。
 ドモヴォイは残って少年たちにまだスケボーを教えるという。私は一人でオペラ・バレエ劇場前の広場に戻った。夜の広場には英語をよく喋るアンドレイというスケーターの青年がいた。私が夜食を買うのでスーパーマーケットに行きたいというと、彼は「俺も付いていく」と言った。道中、彼は自分がいま大学で勉強していることについてずっと話していた。戦争が始まってオンライン授業になり、退屈らしい。情報工学を専攻しているという。専門的な話な上、ロシア語なまりの英語が聞き取りづらい。私は適当に相槌を打って聞き流す。スーパーの売り場でもおしゃべりは続いていたが、私は遮って「なんかほしいものある?」と聞く。「水でいい」と彼は言った。一呼吸を置いた後も、俺は他のスケーターとは違う、俺は酒も飲まない、健康に気を使うことは大切だ、アルコールは精神面に悪い影響を与えることがあるから、例えば……と話は続いた。レジで支払うときも私はずっと聞き流していた。

3月9日

もう昼を過ぎている。まもなくスケボーの大会が始まる時間だというのに、私はまだベッドの中にいた。今回の滞在の一番の目的の日に寝過ごしてしまった。急いで地下鉄と路面電車を乗り継いでも間に合わないだろう。金はかかるがBoltという配車アプリを使おうと思ったら、GPSの調子が悪い。配車アプリはあらかじめ自分がいる位置と目的地を入力しなければ使えない。しかしGPSによれば、私はハルキウの街からはるか離れた場所にいることになっている。
 昨日スケーターから教えてもらったのだが、スマホのGPS機能を使ってロシアの工作員がミサイル攻撃地点を指定しているとかで、対策として市内中に妨害電波が出ているらしい。それはものすごく大事なことだが、いまはとにかくスケボーの大会に行かなければいけない。どうにかこうにか自分のいる地点と目的地を手動入力して車を呼ぶ。やってきた運転手はメガネをかけた若者だった。普段は救急隊員をしていて、非番の日にはこうして副業で運転の仕事をしているらしい。つい先日も、ここからさらに東にあるクピャンスクやイジュームまで救急車を運転して行ったばかりだという。「給料は安いくせに毎日めちゃくちゃ忙しい」と彼は苦笑いを浮かべながら言った。ふと前方の車両を見ると車体には銃弾の痕が無数にあった。
 1時間ほど遅れてスケートパークに到着したが、みんなもようやく集まり始めたところだった。それまでパークでキックボードに乗って楽しんでいた、日本でいえば小学生ぐらいの子どもたちを、スケーターたちが大声を出しながら隅に追いやっていく。子どもたちは蜘蛛の子を散らすように去っていった。特に会場で事前に準備をしていたわけではなさそうだ。パークには大会のバナー(横断幕)のようなものもない。用意されているスタッフもおらず、むしろ全員が選手でありスタッフのような感じだ。参加者はみな顔見知りのようで、デニスやブベルに、カメラを持ったドモヴォイもいる。総勢20人ぐらいだろうか。いつもの広場では入れ替わり立ち替わりやってくるスケーターの姿を見ていたので、全員揃うと新鮮だった。あとでわかったことだが、一定年齢をすぎたスケーターは徴兵資格を調べられることを恐れてあまり外を出歩かないという者もいるらしい。この日は年長のスケーターたちもいた。
 ぼんやり眺めていると、いつの間にか大会が始まっていた。一人ひとりがスロープを下り、トリックを披露する。高台のランプからスケボーを加速させてデッキを蹴り上げ、技を決める。成功しても失敗しても歓声があがった。ルールのようなものがあるのかないのか、よくわからない。ただ、みんなの顔が真剣で思いが伝わってくる。パークに設置されたレールの上に、スケーターたちが器用にスケボーでまたがるように飛び乗ってデッキをスライドさせていく。ドモヴォイがかがみ込んだ姿勢でスケーターを撮っている。主催者らしきスケーターがスマホに記録のようなものを入力していく。昨日会ったキーウから来たというビデオカメラを持ったスケーターも撮影で忙しそうだ。私にだけ役割というものがなく、ただ手持ち無沙汰に見ているだけだった。
 彼らはかっこいい。トリックも素晴らしいと思う。だが、彼らの暮らしや背景を詳しく知らないので捉えようがない。適当にパーク周辺を歩いてみる。昨日は夕暮れ時だったので気づかなかったが、パークの端には空爆によるものなのか、アスファルトをえぐるような小さなクレーターが残っていた。時々、順番待ちなのかスケボーを手にしている少年たちに声をかけ、一人ひとり写真を撮る。まだ10歳かそこらの少年。見るだけで参加はしていない少年。スケボーに座り、パンを食べる少年。彼のおこぼれをもらう少年。大会を見に来た女の子といちゃつく少年。いろんな少年たちがいた。彼らが、おずおずとした様子で話しかけてきた。そのうち数名は、私に合わせてがんばってブロークンな英語を話してくれる。それはとてもありがたい。通訳を雇わなくていいので経費の節約にもなっている。彼らは大会を抜け出して私と一緒に買い物に行こうと言った。
 「雑貨店へ行こう」
 「何が必要なんだ?」
 「ビール。パスポートが必要」
 ようは大人の身分証明書が必要だということだ。これまでも頻繁にタバコや酒をねだられていた。必要経費だ。
 たくさん転がっているスケボーのひとつに文字が描かれているのに気づいた。
 「FUCK that I dont WANNA DiE LiFE is WAy too BEAUtiFUL But you know that I’LL tRY」
 意訳すると「ちくしょう、死にたくない。人生はあまりにも美しい。俺はそれでもやってみる」ということだろうか。私がそれを読んでいると撮影を終えたドモヴォイが説明してくれる。これはハルキウから避難したスケーターが残していったもので、それを誰かが引き継いで使っているという。「やってみる」とは何を意味するのだろうか。戦時下で生き残ることか。それともスケボーか、トリックか。
 いつの間にか大会は終わっていた。ランプの上でコンテストの結果が発表される。みんなの前に立つのは主催者の一人であるユアンという16歳の青年だ。自分たちで国内のスケートショップや応援してくれる人たちに声をかけ、景品を集めたのだという。どういう過程で審査されていったのかはよくわからなかったが、どうもやんちゃなブベルが優勝したらしい。名前が呼ばれランプによじ登るブベルを見上げる参加者たち。ブベルには新しいデッキ(スケボー板)がプレゼントされた。決して大掛かりな大会ではなかったが、彼らが自分たちでできる限りのことを続けている場に立ち会えただけでも私は嬉しかった。ブベルが嬉しそうに「俺たちと一緒に帰ろう」と言ってきた。家に帰るのではない。広場に戻って滑り直すという。
 発車直前の路面電車にスケーターたちがスケボーを抱えて飛び乗る。ブベルも新しいデッキとこれまでのスケボーを両手に抱えている。大会を見に来ていた彼らの女友達も一緒だ。車内の最後部の床に座ってビールの回し飲みを始めた。はしゃぐ彼らの姿をほかの乗客はちらっと見るだけで気にも留めない。
 「ついにこいつとお別れだよ、ブロ……」
 ブベルは新しいデッキではなく、これまでの傷だらけのボードを見つめていた。ガタガタと揺れながら、路面電車は走る。いつの間にかスケーターたちに夕暮れの陽が差していた。
 「いい雰囲気だろ」
 誰かがそう言った。その風景は人生の中に一瞬だけ現れる聖域の時間のように見えた。だが、いつまでも感傷的になってばかりではいられない。みんなと路面電車と地下鉄を乗り継いで広場前まで戻ると一転、私の居心地が悪くなった。「さて、お前の練習の成果を見せてくれ」と彼らが私に言うのだ。
 「恥ずかしがるなよ」
 「いや、まだ始めたばかりだし」
 「いいからやってみなよ」
 しかし、彼らの視線は突き放すようなものではなかった。誰ひとり笑っていない。カメラをベンチに置いてスケボーを地面に転がす。練習していたオーリー(ジャンプ)を走らずに止まった状態でやってみることにした。飛べていない。
 「つま先をもう少し後ろへ。そう」
 「上体がかがみすぎだ」
 「両肩は平行にして」
 彼らは口々にアドバイスをくれる。繰り返すことを、彼らは「Replay(リプレイ)」という。オーリーをリプレイ。転ぶ。むちゃくちゃ痛い。リプレイ。だめだ。でも彼らは何度も教えてくれる。トリックの理屈、板の動き、足の位置。教え始めると彼らは熱が入り、説明のほとんどがロシア語になってしまう。「わかったか?」と聞かれれば、「わかった」と答えるしかない。
 今度は派手に転んで、背中を地面に打ちつける。息ができないほど苦しい。誰かが駆け寄ってきて嬉しそうに手を差し伸べてくれる。助けを借りて起き上がると、彼は「これがスケートボードだ」と言った。「疲れたよ。俺はもう若くないから」とこぼすと、教えてくれていた一人が不思議そうな顔をする。年齢を言い訳にすることがここでは通じない。できるやつがかっこいい。それだけだ。
 うまくデッキを蹴り上げられれば「イエス!」と声が上がる。少し大袈裟にも思えるそのリアクションは、しかし不思議と嫌な感じはしない。彼らは私が失敗しても絶対に笑ったり馬鹿にしたりしない。眼差しは驚くほど真っ直ぐだった。どれくらい時間が経ったのかわからない。気づけば、見守っていたはずのスケーターたちはもう私から離れてそれぞれ好きなことをしていた。それでも私は一人で続けていた。この気持ちよさはいったいなんだろう。カメラはもうずっとベンチの上に置きっぱなしだった。撮影のことはほとんど頭から抜けていた。そもそも撮影とスケートボードはあまり相性がよくない。滑っていれば撮れないし、撮っていれば練習にならない。でもいまはこれでいいと思った。何度も続けていると一瞬浮いたような感覚があった。誰も見ていないので確認のしようがないが、オーリーができているのではないかと思った。
 そういえば、ハルキウのこのスケートコミュニティに名前はあるのだろうか。
 「うーん……、ハトーブ?」
 誰かがそう言うと、他のスケーターたちも相談をし始めた。そもそも名前なんて他者の視点があってのものだ。スケボーのために絶対必要というわけではない。
 「俺たちはハルキウのスケーター。それでいいだろ」とでも言いたそうだった。
 ただ、日本で紹介するとなると何と呼べばいいのか迷う。「ハトーブ?」と一人が言った。
 「この劇場が「ハトーブ」って呼ばれてるんだ」
 ハトーブとは、「ハルキウ国立オペラ・バレエ劇場」をウクライナ語で表記した頭文字を並べたもので、劇場そのものを市民らがそう呼んでいるらしい。
 「ハトーブ・スケートボーディング」
 彼らは顔を見合わせて言った。
 毎晩、機材とスケボーを抱えて7階の部屋まで階段で上がるのは骨が折れる。「エレベーターの前に置いておきなさい」と受付のおばさんは言った。使われなくなったその空間には、掃除道具が立てかけられていた。そこが私のスケートボード置き場になった。ニュースを見ていると今日もハルキウ州のあちこちで空爆があり、複数の死者、負傷者がいたらしい。

3月10日

観察を続けてわかったことだが、昼間の早い時間はスケーターたちは多くは集まらない。今日は日曜でドモヴォイの仕事がないと聞いて、彼の部屋に遊びにいくことにした。ちょうど彼の奥さんがいないタイミングを狙ってのことだ。彼らがどんなふうに生活しているのかにずっと興味があった。これまでウクライナ郊外の町や村では、部屋に招かれることが何度もあった。でもキーウやハルキウの都市部ではなかなかそうもいかない。ドモヴォイの自宅は新しい集合住宅のなかにあり、広めのワンルームで小綺麗だった。彼らが結婚する時に親に用意してもらったらしい。まさに都会の暮らしという雰囲気だ。
 侵攻開始から3ヶ月後の2022年5月、ハルキウ郊外の村々を巡り、いくつかの古い家を訪ね歩いたことがあった。どの家にも決まって壁一面に防寒用の古びた絨毯が貼られており、部屋の目立つ場所にはガラスや陶器の食器を並べた飾り棚が置かれていた。そしてその棚の上にたいていウクライナ正教のイコン画があった。部屋の中には飼っているのかよくわからない猫が自由に出入りしていた。
 いっぽう、都会で暮らすドモヴォイの部屋。壁には液晶テレビがかけられ、作業用のデスクにはノートパソコンが置かれている。その周囲には写真用のカメラやビデオカメラ、スケートボードのパーツがきれいにまとめられていた。デスクには彼の趣味であるグラフィティのアイデアを書き留めるためのスケッチブックもあったし、彼が飼っている猫の姿もあった。これまで撮影してきた映像を見せてもらいながら、翻訳アプリで会話をする。彼が写真や映像を撮り始めたのは2年ほど前らしい。スケボーがきっかけではなかったという。ハルキウには、侵攻以降、ヨーロッパを中心に多くの報道機関が押し寄せた。前線に近い街だったからだ。ドモヴォイは彼らが持っているカメラや世界中に配信される写真や映像を見て、撮影することに興味を持ったのだという。そして撮り始めたのが10代の頃から慣れ親しんだスケボーだった。
 彼にはこれから妻と会う予定があるというので、今度は別のスケーターが一人暮らししている部屋に向かうことにした。彼はヴァディムという17歳の大学生で、昨日会ったスケーターの一人だ。彼は大人しく優しい雰囲気の青年だった。それにつけこんで、部屋に遊びに行かせてほしいと頼み込んでいたのだ。彼は簡単な英語なら話せたので私も助かった。彼はハルキウ出身ではなく、故郷はザポリージャ州のエネルホダルだという。原子力発電所がある町で、現在はロシア軍に占領されている。ハルキウから逃げていく人が多いなか、彼はもっと危険な町からハルキウへ避難してきたのだった。私は前年にザポリージャの前線付近にあるオレヒウという町を取材で訪れたが、エネルホダルには行ったことがなかった。両親は故郷に残ったままで、彼はここで一人で暮らしているらしい。彼のアパートはソビエト式団地を改装した地域の一角にあり、小さいながらもこちらもなかなかきれいな部屋だった。部屋には昨日の大会のあと立ち寄った二人のスケーターが泊まっていた。学生らしく床には酒瓶が転がっている。
 テーブルにはパソコンとマイクが置かれていて、「昨日の夜にラップをレコーディングしてたんだ」と気取るふうでもなく言った。キーウのミュージシャンから音源トラックが送られてきて、そこに重ねるようにラップを吹き込んでいたらしい。彼のパソコンで、ある調査機関が公開しているウクライナ軍・ロシア軍の戦況マップを見たり、彼が集めているというスニーカーを見せてもらったりした。私は彼に「将来はどうしたいの?」と若者に対するありがちな質問を投げかけた。「いまはプロスケーターになりたいと思ってるけど、まだわからない。ハルキウじゃスポンサーを探すのも難しいだろうから」と言ったあと、「どう思う?」と質問を返された。私はスケボーを始めたばかりでよくわからない。戦争のあるなしに関わらず、少なくともプロとしてやっていくためには首都のキーウか、それともどこかヨーロッパの先進国に出ないと難しいのではないかと思う。そもそも彼の置かれている環境にそんな余裕があるのだろうか。適当にごまかすような返事をしていると、彼の携帯電話が鳴った。彼は何かを短く話して、通話を終えてこう言った。
 「毎日、母さんから電話がかかってくる。一人で暮らしてる俺が心配なんだって。俺より自分を心配しろって思うよ。占領されている街に残るなんて、どうかしてるよ」
 部屋にいた他のスケーターは私たちの英語の会話がわからず退屈しはじめたのか、スケボーを持って外に出ようということになった。向かったのはいつもの劇場前の広場だった。部屋からそこまでは歩いて30分ほどかかる。なぜ彼らは昨日大会が開かれたような、きちんと整備されたスケートパークではなく、この広場に集まるのか。それは広場が町の中心にあり、行けば必ず誰かに会える場所だからだ。スケーターがスケボーを持たずに立ち寄って、ただ仲間とおしゃべりを長時間していくのを見たこともあった。前回来たときにもブベルが「ここがウクライナで一番いい場所だ」と言っていた。
 向かっている時に降り始めていた雪が、到着する頃には吹雪のようになった。昨日までの天気とえらい違いだ。それでも広場に行くとスケーターたちが待っていた。顔を合わせて挨拶を交わすと、みんなで広場の隣にある「クリニチ」というカフェへ避難した。クリニチはウクライナのチェーン店で、安価でコーヒーや菓子パンを提供する小さなカフェスタンドである。この店舗は少し広めのカフェ形式になっていて、スケーターたちだけでなくさまざまな人が利用している。特に注文をしなくても店員から文句を言われることはない。2022年5月に初めてこの広場を訪れたときには休業していたようで、存在にすら気づかなかった。今では通常通り営業していて、広場でスケーターが見つからないときは、クリニチを覗けばたいてい誰かが仲間と話している。店内に座り、コーヒーを飲んでようやく一息ついた。ヴァディムを含むスケーターたちは内輪のバカ話をしているらしい。集まっていたスケーターで英語が話せるのはヴァディムしかおらず、私はただぼんやりしていた。窓の外を見ると雪が雨になっている。
 いきなり「そろそろ行こうか」とヴァディムが言った。雨が降る夜にどこへと思ったが、なんと今から散歩に行くのだという。一人でここにいても仕方がないので付いていくことにした。向かったのは街でいちばん大きなショッピングモール「ニコルスキー」だ。私も何度か入ったことがあるが、なかは広くてぴかぴかしていて、最初はそのきらびやかさに驚いた。市民たちにとっての憩いの場であり、若者たちが集まるスポットでもある。ここにいれば、みんな戦争のことを少しは忘れられるのかもしれないな、とその時は呑気に考えていたが、そんなに現実は甘くなかった。私たちが到着したとき、ちょうど中にいた客が全員外へ避難させられているところだった。どうやら空襲警報が出たらしい。人が密集しているところにミサイルが落とされると被害が大きくなるから一時的に閉鎖する、ということなのだろう。実際に戦争が始まってすぐにこのモールはミサイルで攻撃されていて、私が初めてこの街を訪れたときは閉鎖されていた。いまはきれいに修復されている。屋外と屋内ではどちらが安全なのか考えるところではあるが、小雨の中、ヴァディムらと街をぶらぶら歩き、1時間ぐらい待って警報が解除されたあとにモールへ戻る。どうせすぐまたミサイルが飛んできてサイレンが鳴れば、追い出されるだろう。
 私は歩き疲れていたので先に帰ることにした。エスカレーターを降りていくと見覚えのあるスケーターとすれ違う。ファッションが何より好きだというスケーターのヴァーニャだ。タイトなTシャツにバギーパンツという装いで、女の子を二人連れている。そのうちの一人の女の子とのツーショット写真を頼まれて撮った。昨日の大会にカメラを持って顔を出したことで、私の存在は多少認知されたようだ。少なくともカメラを向けて逃げられることはなくなり、撮ってくれと言われることが増えた。今日は少しでもスケーターの部屋を見ることができていい一日だった。夜遅くに爆発音が何度か聞こえたが状況がよくわからない。

3月11日

昨夜は空港のターミナルなど3箇所が攻撃されたらしい。自爆型無人機の攻撃だったようだが、空港は軍事関連施設だから撮影はできない。できることもなく昼間から暇になってしまった。今日は月曜で平日。戦争が始まってから学校はオンライン授業になっていて、学生が広場に集まるのは夕方から。ドモヴォイも仕事のようだが、ブベルは無職だと聞いていた。ブベルに「いま、何してる?」とメッセージを送る。しばらく待つと「ハトーブ、あとで」と短い返事だけが来た。今日は雨は止んで快晴だったが、気疲れしていたので部屋で寝る。午後の遅い時間に広場へ向かいながら考える。そもそも戦争中に若者たちがスケボーを楽しんでいるのはどういうことなのか、いまいちピンとこない。前線付近の街では志願兵として参加する彼らと同じぐらいの年齢の兵士も見かけたことがある。いっぽう、ここでは若者たちはありあまるエネルギーを発散している。
 それとなくブベルに志願兵になることについて自身はどう思うか、聞いてみることにした。周りにスケーターたちがいる手前話しづらい内容だろうから、「ちょっと歩こう」と言って彼を連れ出した。私が「兵士になるつもりはないのか?」と質問するとブベルはとたんに表情を渋くした。そして「ない。まったくない」と答えた。
 「もちろんロシアは嫌いだし、軍に入って戦う人は尊敬するよ。友達で兵士になったやつもいる。でも俺にはロシア人だろうと何人だろうと、人を殺す理由が見つからないんだ。わかるだろ、ブラザー」
 他のスケーターにも聞いてみることにした。物静かでひょろりとしたジェーニャは26歳だ。同じぐらいの年の兵士をドネツク州の街やヘルソン、ザポリージャで何度も見た記憶がある。年齢を考えると徴兵のこともあり繊細な話題なので、それとなく「戦争についてどう思うのか」と翻訳アプリを介して聞いてみると、彼は私のスマートフォンに言葉を吹き込んだ。画面には「それについては話したくない」と表示された。そして、今度は声を荒げて短い言葉を繰り返した。
 「Война говно! Война говно! (戦争はクソだ! 戦争はクソだ!)」
 15歳のボグダンというスケーターがいた。冗談を言っては中指を立て、ブベルに劣らずやんちゃな性格のようだが、ルハンスク州出身だという。ルハンスクはハルキウのさらに東にあり、ドネツクとともにドンバス地方を構成する地域だ。現在は州のほとんどをロシア軍に占領されてしまっている。ボグダンは2014年に地元を離れてここへ避難してきたという。それ以上はあまり詳しく話してくれない。2014年といえばドンバス地方で親ロシア派武装勢力が一方的に独立を宣言し、ウクライナ政府軍との紛争が始まった年だ。質問をした時に周囲にほかのスケーターたちがいたからか。彼らにとって自分の出自や内情を友だちに明かすのは恥ずかしいことなのかもしれない。いずれ落ち着いて聞ける機会を待つべきか。
 そんな繊細な話題とは無関係に、暗くなった広場ではみなが思い思いに過ごしている。ベンチにスマートフォンを置いてTikTokに動画を投稿するためにダンスを踊っている女の子たち。彼女たちはやたら大げさに振る舞い、スケーターたちの気を惹こうとしている。女の子がスケーターたちの連絡先を聞き出そうとしている姿を何度も見かけた。ブベルは乗っていたスケボーからウィールやトラックを外し、昨日の大会で手に入れた新しいデッキに組み換えようとしている。デニスはスケボーに乗りトリックを組み合わせて階段からジャンプする。それを仲間がスマートフォンで撮っている。いつも通りの光景だった。
 そろそろ帰らなければいけない。なにより懐が心細い。クレジットカードの限度額も心配だ。明日、ハルキウを出ることにした。

3月12日

昼過ぎ、サルティフカの団地を歩いた。これまで取材といってもほとんど遊んでばかりいたような感じだったが、最終日に改めてハルキウの戦闘の跡を訪ねたかった。ここに来るのは、もう何度目かになる。サルティフカはいわゆるソビエト時代の巨大団地群で、棟数が非常に多いどころか、いったいいくつあるのか想像もつかない。全体の規模があまりにも大きいうえ、7、8階建ての高層アパートがジグザグに配置されていて、行く先を見通すことができないのだ。
 団地北部まで足を延ばしてみると破壊された建物がいくつもあり、腹に巨大な穴が開いたままの棟もあった。もともとは団地全体でひとつの街のようなものだったらしい。報道によると戦争前には40万人もの住民が暮らしていたというが、今では人影もまばらで、一人で歩く老人や酒に酔ったような人を時折見かける程度だった。ほとんど廃墟と化している。なかには以前訪れた後に取り壊された棟もあり、記憶と違っていたりして、自分が今どこを歩いているのかすぐにわからなくなる。
 中庭には砕けたガラスやコンクリート片がまだ残っていて、それを踏むたびに靴の裏がザリザリと鳴った。風が団地の合間を強く吹き抜け、どこを歩いても日陰ばかりでひどく冷える。まるで地球の割れ目の底を歩いているような気さえしてくる。被害の少ない棟には住民が残っているらしく、ハトーブのスケーターの何人かはここの団地に住んでいると聞いていた。もっと親しくなれたら彼らの部屋に遊びに行ってみたい。 

夜の劇場前の広場ではチャイカがスケボーに乗りながら叫んでいる。この五十がらみの男の挙動は常に泥酔しているみたいだが、彼は酒は飲まないと聞いたことがある。代わりにポケットからマリファナを取り出してあけっぴろげにパイプで吸い始めた。チャイカのもとへブベルが走り寄ってきてご相伴にあずかる。ドモヴォイが前に教えてくれたことを思い出した。チャイカは昔、酒を飲み続けるあまり中毒になり、挙げ句の果てには偽ウォッカとされる燃料に使われるメタノールまで飲むようになったのだという。そしてそこから挙動がおかしくなったらしい。冗談かと思っていたが、今日の様子を見ていると本当かもしれない。依存を断ち切るためにも新たな心の拠り所が欲しいのだろう。ウクライナでは、大麻は医療目的では合法的に使われているらしい。その他の利用についても規制はあるが実際には厳しくないようで、そのあたりは他のヨーロッパ諸国と同じようなものだろう。独特のフレッシュな匂いが立ち込め、非常にリラックスしたムードだ。効いたようで、チャイカも落ち着いてきた。すかさずベンチに座らせて翻訳アプリを介して話を聞くことにした。
 彼によると、ウクライナのスケートボード文化はこのハルキウから始まったのだという。1980年代後半、ソビエト連邦を構成する隣国ロシアから遊びに来ていた若者が「走る板」に乗っているのを見てチャイカは驚いた。
 「あれはなんだ? あれがアメリカなのか!」
 米ソ冷戦の終わりが見え始めた頃、ロシアを通じてアメリカ文化が流れ込んできたのだ。チャイカはその「走る板」に衝撃を受け、自分でも作り始めた。「昔は合板がとても貴重だった。だから廃墟に忍び込んでドアを盗んでくるんだ。それをナイフで削ってスケボーみたいなものを作っていた」と彼は振り返りながら笑う。トリックをしようとすればすぐバラバラになるような代物だったが、後に市販品が出回るようになってもチャイカは手作りをやめなかった。今では自宅のある団地のガレージを改造し、自らのスケートボード工房を構えているという。このオペラ・バレエ劇場が完成した1991年ごろにはすでにこの広場に若者たちが集まり、スケボーに乗っていたらしい。もっと詳しく聞きたかったが、チャイカが立ち上がって走っていった。広場の一段高くなった縁石は表面がガタついていて、スライドをしようとするとスケーターたちが何度もつまずく。チャイカはどこかで拾ってきた瓶ビールの蓋をそのすき間に挟み、滑らかになるように調整していく。
 「Спасибо(ありがとう)」
 そう言ってスケーターの一人がすぐにスライドを成功させた。その縁のすき間を覗き込むと、いくつものビールの蓋や小石がすでに詰め込まれていた。トリックの成功を見て、テンションが上がったチャイカは雄叫びをあげた。そしてその勢いのままブベルが持っていた古いデッキを見つけて取り上げ、踏んづけて真っ二つに割ってしまった。そしてチャイカはまた何かを叫ぶ。それを見てみんなが爆笑。ブベルが割れた板に駆け寄って泣きそうな顔をする。彼はお古のデッキを誰かに譲り渡そうかと思って持ってきていたらしい。周りにいた女の子が悲しむブベルと一緒に写真を撮ってほしいと私に頼む。なんだかむちゃくちゃだが、私は楽しい。そろそろ列車の出発時間だったのでみんなに「また必ず会おう」と約束して別れた。駅で寝台列車を待つ間、次はチャイカの工房で私のスケートボードを作ってもらおうと考えていた。

[注]本文における地名・人名・固有名詞等は、著者が現地で実際に聞いた発音に忠実にカナにしました。そのため地域や発話者によりロシア語表記とウクライナ語表記が混在します。