月に2回、土曜日19時から定期的に予定が入っている。日本精神分析協会の養成機関であるインスティテュート東京支部の事例検討会と、理事長を務めている精神分析関係の財団が主催する事例検討会である。今日は今月の第3週なので財団の検討会だ。
事例検討会と言っても、なんだかわからないかもしれない。精神分析や精神分析的セラピーを受けている患者とセラピストとのあいだで語られたり起きたりしていることがセラピストによって語られ、そのセラピストの前で守秘義務を帯びた臨床家たちが集団でさまざまなことを感じ、さまざまな気持ちになり、さまざまなことを考え、そしてそれを話し合う。そんな2時間だ。それはある意味、集団で患者のこころの世界を夢見る時間だ。この集団的な夢見をとおして、事例を提示したセラピストは、患者のこころや分析やセラピーでのできごとについて、自分ひとりでは考えられなかった考えを考えられるようになる。そこから、それまで膠着していたセラピーに新しい風が吹き込まれるというようなこともありうる。参加者たちも他の参加者たちの夢見をとおして自分の専門家としての考えや構えが変化するという体験を持つ。そういう意味で、このような時間は患者にとっても事例提示するセラピストにとっても参加者にとっても、きわめて貴重なものだ。もちろん、私にとってもとても大切な予定である。
だが悩ましい問題もある。19時から21時という時間だ。それはもちろん、ふつうなら夕食を取る時間だろう。選択肢はふたつだ。会の前に食べるか、会の後にするか。自分のオフィスでの仕事が17時過ぎまであるようなときは、会の前に食べる選択はありえない。いくぶん遅すぎるが、しかたなく21時以後にどこかで食事を取ってから帰宅することになる。だが、もうすこし時間があれば、会の前に食事する選択肢が出てくる。そんなとき、たまには鮨屋に行きたいと思う。鮨食いの性だ。
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だがこういう状況で鮨屋に行くのは難しい。今日もいつものように16時まではオフィスで仕事だ。鮨屋から財団まで30分くらいはかかるだろうから、たとえば17時に店に着き、18時過ぎに店を出る、そういうスケジュールしかありえない。滞在は1時間ほど。この状況だと、いわゆる「おまかせ」の店は難しい。「おまかせ」となると、まず抓みを食べてから握りになる。そもそも抓みとは酒の抓みなので、酒を飲むことが前提だ。事例検討会の前の食事にはまったく不向きなのは言うまでもない。たとえ、抓みを茶で食べるというかなり変則的なことを試みたとしても、酒を飲んで抓みを楽しんでいる客たちと同じペースで抓みを食べ、そのあと一通りの握りが他の客と同じペースで供されるなら、1時間ではとてもおさまらない。
もちろん「おまかせ」の店でも、今日は抓みは無しでいいよ、というようなことを言えて、握りだけ「おまかせ」で一通り素早く握ってもらえるような店ならなんとかなる。だがそういう融通の利く店はそれほど多くない。それに、ほかに客がいれば、ほかの客に抓みや握りを供する合間に私に握ってくれることになるから、それほど素早くはいかないのが普通だ。一週間の終わりの夕食、自分へのご褒美の夕食に適うようなうまい鮨を食わせてくれて、17時からやっていて18時くらいまでにお腹を満たすだけの握りを食べてさっさと失礼できる店。そんなありがたい店は、なかなか思いつかないのだ。
いまの東京では、ある水準以上の店のほとんどが「おまかせ」で営業している。そしてそのなかの少なくない店が「一斉スタート」である。このことは、鮨を、客の都合でさっさと食べることのできない鮨屋ばかりになったことを意味する。客を一定の時間に来させて、一斉に抓みを何品か出し、それから順々に握りを供する店が増えた。多くの店が17時からと20時からというふうに2回転で営業する。この「一斉スタート」のシステムを最初に見たのはいつだっただろうか。今世紀になってからのことのような気がする。当初はかなり驚いた。
私の記憶のなかで鮮烈なのは、さわ田という鮨屋を訪れた体験だ。さわ田はいま銀座に移転し、著名な国際的ガイドブックで二つ星を取っている。間違いなく超高級店で予約困難店だ。だが、おそらく今世紀の初め頃にさわ田を最初に訪れたとき、さわ田は開店間もない頃で、中野区の大久保通り沿いで営業していた。完全にひとりだけでやっている面白い鮨屋がある、と聞いて訪れたのだった。予約時間の10分前に店の前に到着すると、店の灯は消えていた。すでに暗くなった片側一車線の狭い大久保通りは交通量が多く、路側帯に小さくなって身を潜めて待っているしかなかった。ほんとうにここでよかったのかと心細くなった。だが時間ぴったりになると灯が点され、戸が開いて親方が出てきて招き入れてくれた。5席しかない狭い店で、彼がひとりで鮨を握り、そのかたわらにお茶を淹れたり酒を出したりしてくれていた。薬缶の湯が付け場の隅で滾っていたのを覚えている。ほとんど独学で鮨を学んだという親方の鮨は強い酢飯が印象的だった。十分おいしかったと記憶する。ただ、何より記憶に残っているのは、暗くなった大久保通りの路側帯で開店を待っていた時間の心細さだ。この体験はけっこう衝撃的だったが、それでも当時、「一斉スタート」の形にしないと、たったひとりでやっているあの店が回っていかないことは、ひしひしと理解できた。その大久保通りのさわ田に私はたしかもう一回行った。銀座に移ってからは、遠くなったので一度も訪れていない。銀座に行かなければ、定期的に通う店の一軒になっていたのか、あるいはそうでなかったのか。
ともかく、あの時期のさわ田の切実な「一斉スタート」は抵抗なく受け入れられた。特に文句はなかった。とはいえそれは、六本木の奈可久や下北沢の小笹寿しなどで味わっていた体験とは異質の時間だった。鮨屋で鮨を食うことは、もう少し柔らかい、ゆとりに満ちた体験だった。同年齢の奈可久の鈴木さんの鮨の仕事の水準を自分の仕事と引き比べて打ちのめされたり、小笹寿しの岡田親方からいろいろお小言を食ったりということはあっても、そこにはなにかほのぼのとしたくつろぎがあった。基本的に客が自由に時間を使える感覚があり、親方の度量に甘えてもいいという感じがあった。一方、さわ田体験は違っていた。いい鮨は食えるが、ある種窮屈な体験だった。
本質的に「一斉スタート」は不自由だ。ケージに入れられて餌を待つブロイラーになった感じがどうしてもつきまとう。何の選択も意思表示もできないという状況だ。これは客に相当な負担をかけていると言えるだろう。そういう負担を客にかけるのを承知の上で、人件費をできるだけかけないで無駄なくいいものを供し、それを価格に反映すれば客の負担と釣り合いが取れるだろう、という店側の思いの結果として、「おまかせ」「一斉スタート」というシステムが始まったのだと思う。それが実現すれば、たしかに客には窮屈の見返りとして価格という形で恩恵が与えられる。やがてこのシステムは広まっていき、成功した店が次々に出てくるようになった。20年近くずっと月一回訪れている鮨さいとうはその代表だろう。鮨さいとうが有名になり、三つ星レストランになったことも手伝って、このシステムはどんどん広がっていった。
もはや、この「おまかせ」「一斉スタート」は、東京ではほとんど標準になったと言ってよい。たいていの店がそうなってしまえば、客はそれに従うしかない。いまの若い人は鮨屋に行くと「おまかせ」で握ってくれるのが当たり前のように思っていて、鮨屋は自分から注文するところではないと思っている人も多いらしい。こうなると、そうでないシステムと比較することさえできない。生まれたときからインターネットがあった世代にとって、それがない世界が想像できないようなものである。
こうして、土曜日の17時から18時までに手早く鮨を抓んで満足することを望んでも、なかなか実現しないという状況が生まれた。いまや、鮨屋は2時間なり2時間半なりの時間を確保して訪ねる場所になった。それは、フランス料理やイタリア料理のレストランのようなものになってしまったということだ。鮨屋がそもそも江戸の独身男性のファストフードだったという出自など誰も意識しない。志賀直哉の『小僧の神様』の鮨屋も忘れられてしまった。私の感覚で言うと、鮨屋は鮨屋らしい場所であることをやめつつある。鮨屋をめぐる時間体験は本来のものとは大きく変わってしまった。
往時の鮨屋では、抓みから食べる客もいれば、いきなり握りから注文する客もいた。延々と抓みで飲み続ける客もいれば、さっさと10カンくらい食べて帰る客もいた。そうした雑多な時間の過ごし方をする客たちにつきあいながら、それぞれの客ができるだけ満足するようにはからうことを自然にこなす。それが鮨屋の親方の仕事だった。親方は魚と酢飯を扱うだけでなく、客との時間もケアしていたのだ。というより、客が鮨屋で過ごす時間を按配することこそが親方の本分だったのだろう。私が食べ始めた頃の鮨屋はそんなところだった。あの頃なら、どんな鮨屋でもさっさと鮨を頬張って1時間で帰ることなど何の問題もないことだった。
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以前のそうした体験でとても印象的だったのは、人形町の喜寿司での何度かの体験だ。喜寿司は築100年を超える木造一軒家のたたずまいが印象的な、東京の町場の鮨屋を絵に描いたような鮨屋である。鮨を食べ始めた80年代以来しばらくは年に一度くらいお邪魔していたが、90年代になっておぼえたのが、開店直後に予約をしないで行くことだった。とはいっても、それはそんなにしょっちゅうではない。東京の西側に住んで働いている身の上だったから、夕方に東京の東側、旧江戸に属する地域に仕事があるようなとき、たまにそんなことができる状況が生まれたにすぎない。結局5回か6回くらいのことだったのかもしれない。だがそれはとても忘れがたい、愛おしいできごとだった。
考えてみれば、当時の私が人形町に行くこと自体、喜寿司という鮨屋の存在がなければありえなかったように思う。人形町、以前は東京で一番栄えた寄席だった人形町末広があった町、落語に登場する甘酒横丁が残っている町、旧花柳街の粋をとどめる独特な町並みを持つ町。そこを私が訪ねることは、喜寿司がなければずっと遅れたはずだ。
大学入学のときに上京して最初に住んだのが渋谷区で、世田谷区、豊島区、板橋区、文京区、品川区といったところを転々としていたので、昔の江戸の中心だった台東区、中央区、墨田区、といったところに馴染みがなかった。いまはほとんどの人が忘れているが、いまの港区、新宿区、渋谷区といったところは江戸の郊外であり、江戸そのものではなかった。私のオフィスのある神宮前はもともと隠田村であり、オフィスの窓から見える渋谷公会堂のビルのあたりは国木田独歩の『武蔵野』の舞台だった。雑木林に覆われた武蔵野の原風景が、渋谷には明治の末まで残っていたのだ。一方、私が鮨に目覚めた頃に大切にしていた鮨屋は、六本木の奈可久、下北沢の小笹寿し、目黒の廣鮨と、東京の西側の店ばかりだった。こう考えると、喜寿司は私にとって「江戸」の入口になってくれた場所だったのかもしれない。「江戸的なもの」について海外の精神分析関連の学会で講演したこともある私にとって、江戸は重要な主題になっているのだが、喜寿司は江戸に私を連れて行ってくれたありがたい存在だと言えるだろう。
17時にがらっと戸を開けると、まだ誰も先客がいない店のつけ台の一番手前に親方が立っている。喜寿司はいまもそうだ。いまは四代目親方が立っているが、90年代はその父親である先代、三代目親方の油井隆一さんが立っていた。すらっとした知性的な面持ちの親方だった。三代目はすきやばし次郎の親方と同様左利きで、鮨好きなら誰でも知っている人物だった。親方の前に座る。ガラスケースにネタが並んでいて、つけ場の上の方の壁には今日のネタの書かれた木札が並んでいる。どうされますか、と尋ねられる。お茶を頼み、たいてい、おすすめのものを8カン握ってください、と言った。客は私だけだから、ひとつ食べればすぐに次の鮨が出てくる。あっという間に8カンを食べ終わると、木札に書いてあって出てこなかったものを頼む。そういうとき、よく梶木を頼んだ。梶木鮪は最近鮨屋ではほとんど使わなくなっているが、本鮪より色が変わらないので、花柳街の出前の鮨に好まれたという。そういうことを抜きにしても、梶木はおいしい魚である。ほぼ必ずある煮烏賊も頼んだ。ときにはあと1、2カン食べて、懐具合に余裕があれば中トロの鉄火巻、そうでなければ干瓢巻を最後に食べてお勘定した。
店にいた時間は30分もなかったのではないだろうか。本当に短い時間だった。だがいま思い出しても至福の時間だった。もちろん喜寿司の鮨はうまかった。だが私の幸福感は鮨のうまさからくるものだけではなかった。静かな時間そのものが満足をもたらしてくれていた。親方とはほとんど口を利かなかった。親方はけっして気難しそうではないが、静かだった。たまにネタの産地を尋ねたら答えてくれた。しかし、基本的に静かだった。だが満ち足りた時間だった。
あの静かで深い幸福感が何に由来するのかを思いめぐらしてみると、油井さんとたったひとりで向き合っていたことだということがわかる。私はその時間、油井さんを独り占めできていた。敬意を抱いている職人が、どうなさいますか、と自分だけに尋ねてくれて、欲しいものを言えばすぐに自分だけのために何かをしてくれる。これほど素敵なことがあるだろうか。当時、親方は私の名前さえ知らなかっただろうが。至福の時間を過ごした後、店を出ると黄昏が迫っていた。記憶のなかでは、店の硝子戸に夕日が当たっていた。もっともよく考えたら店は東南を向いているから、それは私の思い込みなのだろう。いずれにせよ余韻に浸りながら、人形町今半の前を通り、甘酒横町を抜けて、何となくその辺をぶらついて仕事の場所に向かったものだった。
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「おまかせ」のシステムで鮨を食うと、「どうなさいますか」という問いがない。何も尋ねてもらえない。この問いに対して、抓みで何かおいしそうなのある? とか、ちょっと切ってもらってすぐ握ってもらうよ、とか、今日はすぐ握りにするから、お茶で、とりあえず烏賊握って、とかの返事をする機会もない。食事の時間のありようを、自分の好み、時間の都合、懐具合、体調といったものに合わせて誂えることがまったく許されない。親方と客はそれぞれ、握ることと食べることに従事しているだけだ。そこには交わりも重なりもない。たとえ親方と雑談したとしても、鮨を食うという鮨屋における本質的なできごとを介した交わりはない。それでは鮨屋にいる時間に人間/親方は登場して来ず、その時間を自分の人生の時間のなかに親しく棲みつかせることが難しくなってしまう。そして、油井さんとのあいだで体験したようなこと、ひとつの文化を具現する親方という敬愛する人物に、自分の気持ちや好みを伝え、それに添って何かをしてもらい、感謝を感じるという貴重な関係性の体験も生まれない。
江戸前の鮨というものをこれから維持するときに、こうした部分を抜きにして考えることは果して妥当なのだろうか。妥当だとすると、おいしいものをできるだけ安く能率的に供せば江戸前の鮨は維持できるということになる。それでいいのか、それともそうでないのか。いま、江戸前の鮨はそういう岐路に立っている。それは、江戸から東京へと続く町場の文化としての鮨が変質して、別のものに生まれ変わりつつあるということかもしれない。もちろん鮨は古典芸能ではない。そのままの形で「保存」されるようなものではない。客を楽しませ、客の人生を豊かにすることに貢献し、客がそれに金を払うことで生き続けるものだ。時代に合わせて客のニーズに合わせて変化すること、そしてそれを基礎に鮨屋が食っていけることは、生き残ることと不可分なことだ。
それは映画館で観ていた映画を配信で自宅で観られるようになって、映画を観る体験が変質したことに似た変化なのだろうか。一見そのようにも感じられる。だが、映画の場合は観客の便利さに奉仕するための変化なのだ。鮨はどうなのか。鮨の本質的喜びが犠牲になり、しかも客が自分の都合を制限されるという事態が生じているのではないだろうか。好きなときに好きなように鮨を食べられる自由がどんどん失われつつある。いったい誰のための、何のための変化なのだろうか。
このことに、前回のこのエッセイで取り上げたすし匠の中澤親方は、大きな疑問を感じているようだった。だが、この問題に自覚的な親方はどれだけいるのだろう。食べる側もそうだ。もしかすると、江戸前の鮨という文化は単においしい鮨を食べるためのものではないと考えている、私のような食べ手はすでに絶滅危惧種なのかもしれない。
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とはいえ、17時に到着して18時前後に満足して店を出る。そういうことが可能な店がいまでもないわけではない。
ときおりこの状況で利用している店のうちの一軒が銀座の鮨竹である。鮨竹は新橋のしみづで修業して独立した竹内さんという女性が親方をやっている店だ。女性の親方はまだまだ珍しいが、親方はとても腰の据わった気持ちのいい人で、開店してもう10年以上経っている。銀座七丁目の雑居ビルの4階にあるカウンター8席だけのこぢんまりとした店で、弟子とふたりだけでやっている。壁には木札が掛かっている。「お好み」をやっているということの意思表示だ。ここは抓みを食べることが前提とはなっていない。「おまかせ」にするか「お好み」にするかを客が選べる店である。その意味で、土曜日17時に行って1時間だけで食べることが可能な店だということになる。座れば、どうしますか、と尋ねられるが、木札の数はそんなに多いわけではない。私が「お好み」で食べるとしても、どっちみち全部食べてしまうことになるので、ひとわたり全部握ってください、という返事をすることになる。
それにしても木札に、おぼろ、という字があるのがいい。おぼろがひとつのネタで、それを握ってくれと言えば握ってくれる、というのが実に江戸前の鮨屋だという感じがする。これは喜寿司でもそうなのだが、このようなあまり儲かるとは思えないネタを木札に書いていることに心意気を感じるのだ。
お茶でひとわたり、12、3カン食べて、巻物を何か食べれば、ほぼお腹はいっぱいになる。まだそれほど客でいっぱいになってはいない時間帯なので、握りはテンポよく供される。こうして18時前にはお勘定を済ませてしまえる。そのお勘定は銀座とはとても思えないほどリーズナブルだ。銀座でよくこの値段でできるなあ、といつも思う。
しかし、今月は鮨竹とは違うところに私は予約を取っていた。神保町の鶴八だ。土曜日の17時から18時に鮨を食いたい状況で選ぶのは、鮨竹と鶴八の二軒である。
鶴八は私の鮨人生の初期に読みふけった『神田鶴八鮨ばなし』の舞台だ。当時の私にとってこの本は江戸前の鮨のバイブルのような本だった。著者の師岡親方の柳橋美家古での修業時代のことも書かれており、修業というものを考える出発点になった本でもある。鶴八はいま、師岡親方の弟子である石丸親方がやっている。必ず「お好み」で食べることになっている店だ。初めて電話で予約する人は女将さんから、うちは「おまかせ」はやってないけどいいか、と尋ねられる。若い人は鮨屋が「おまかせ」で食べるところだと思ってやって来るから、あらかじめ伝えておく必要があるらしい。
実は私がこの店に通い出したのは、つい3年前だ。地理的に遠いこともあったが、鶴八は恐れ多い店だと感じて近づけなかった。バイブルとしてあの本を読んだことで身構えてしまったのだろう。知り合いから現在の状況を聞き、なんだか気が楽になってそれからは行けるようになった。
考えてみると、新橋しみづの親方は新橋鶴八をやっていた頃の石丸親方のもとで修業した。だから石丸親方は鮨竹の竹内親方の祖父のようなものだ。土曜に鮨を食いたい私の欲求に応えてくれる二軒に、何やら血縁のようなものがあるというのも、不思議な気がする。やはり修業というものは何かを伝えていくものなのだ。
つけ場の後ろに掛かっている木札にその伝承されたものが具現している。ただ、鶴八の木札は年季が入っていて、しかも種類がかなりある。注意しないといけないのは、それが簡単に裏返ることだ。ネタが無くなると裏返るのだ。好きなネタで裏返っていないものは、とっとと注文するに限る。17時の開店と同時に入っても、土曜は昼の営業があるのですでに結構裏返っているものがある。だがこの日はそうでもなかった。たくさんのネタがまだ残っていた。
狭くていくぶん薄暗い古風な店のなかで、親方はいつも通り、着物に襷掛けで握っている。私よりいくつか年長の親方には風格を感じる。「おまかせ」と違ってひとりひとり食べたものが違うので、何を誰に出したかを女将さんとお弟子さんとで絶えずチェックしている。私も何から食べて何で終わるかまでをプランニングして、2種類か3種類ずつ注文していく。店側も客側も、個別性というものに携わっている。この計画と注文の過程はとても能動的であり、「お好み」の醍醐味だが、最近の若い鮨食いたちはこれが面倒だと思うらしい。鮨に何を求めるかが根本的に変わってきつつあるのだなあ、と思いながら、私は食べ進む。親方があんまり忙しそうなら少し待って、タイミングを見て注文する。下北沢の小笹寿しで岡田さんにたしなめられたことだ。私のなかで岡田さんが確実に生きていることを感じる。
鮑の塩蒸しを少し抓んだ後で握ってもらい、縞鯵からはじめて最後の鉄火巻まで、45分くらいで食べ進んだ。縞鰺を出す親方に、「こんな11月なんて時期に昔は縞鯵なんかなかったですよね」と尋ねると、親方が「海が変わってしまいましたね」と悲しそうに呟いたのが印象的だった。いつも通りとても良心的な会計を済ませて、「今年もお世話になりました。よいお年を」と挨拶すると、親方はなにか言いたそうにも見えたのだが、「よいお年を」とだけ返事をしてくれた。
出るときに女将さんから角封筒をいただいた。店の外で急いで封を切ると、親方の引退の挨拶がそこにあった。
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今後の鶴八がどうなるのかはわからない。とりあえず、年内にもう一度予約を試みようと思う。親方にありがとうを言えなかったからだ。そして私にとっては、土曜の幸福な鮨食いの場所がひとつ消えるのかもしれない。鶴八の親方は「海が変わ」り、江戸前の鮨の文化が変化しているこの時期に、鮨職人としてのキャリアを閉じることを決めた。
もちろん、それは大きな物語の一部でもある。その物語に私もかかわっている。江戸前の鮨について語ったこと、すなわち、その本質は何なのか、生き残るために何を犠牲にしなければならないのか、犠牲にするものが本質を脅かすことはないのかといった問題は、精神分析も共有していることだからだ。そして、私が精神分析を止める日もそう遠いことではない。
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(精神分析家、鮨屋で考える)土曜の夕方に思うこと
2025年12月1日
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2025年9月1日