あいかわらず、鮨を食い続けている。
いまは2025年の夏だ。2023年8月、月刊『みすず』が休刊になった号に「精神分析家、鮨屋で考える 番外編」を書かせてもらってから2年になる。その後も鮨を食い続けている。
ひとことではうまく説明できないが、私にとって鮨を食べることは人生の抜き差しならない重要な一部だ。考えてみれば不思議なことだ。その理由を考えることが、鮨を主題にした連載を始めた理由なのかもしれない。もう25年以上、年間50回を超えて鮨を食っている。この数年は年間70回ほど鮨屋を訪れている。酔狂なことだと人は思うだろう。だが私は相当真剣にこれを続けている。かなり無理をしていると言ってもいい。
その無理は何と言ってもお金の問題だ。
私は巨万の富をすでに蓄えて若くしてリタイアした富豪ではないし、指先でクリックして動かすお金で大きな利益を得るような仕事をしてもいない。精神分析や精神分析的セラピーやスーパービジョンといった、ユーザーとの1時間ほどのセッションの対価をいただくことを生業としている。経済的に言えば単純な仕事と言えるだろう。仕入れも在庫もない。いわばシンプルに、時間という商品をユーザーに売るというやり方で収入を得ているのだ。
売れる商品は限られている。もともと1日は24時間しかない。その24時間のうちで仕事に使える時間は限られてくる。人間である以上眠らないといけないし、食べないといけないし、風呂に入らないわけにもいかない。髪を切りに行ったり、歯医者に行ったり、といったこともしないといけない。買物の時間はネット通販のおかげで26年前の開業の頃よりずっと減ったのはありがたい。ともかく私の場合、頑張っても週に40時間足らずしかユーザーに売れる時間はない。通常、休日以外は、この神宮前のオフィスに朝8時にやって来て患者と会う。1時間にひとりのペースでユーザーと会って、精神分析やセラピーやスーパービジョンをする。その対価としてお金をもらう。そのお金で暮らす。自分がユーザーと約束した時間にこのオフィスにいること、生きて存在することがなければ、私には一銭も入ってこない。暮らしが成り立たない。
鮨について『みすず』に書き始めたとき、私はまだ大学教員の仕事もしていた。だがこの7年、フルタイムの精神分析家として働いている。つまり、完全に時間の切り売りだけで暮らしている。学会に出たり風邪をひいたりして休めばお金は一銭も入ってこない。事実、コロナの嵐が吹き荒れた時期も、そしてそれ以後も、私は一度もコロナに罹っていない。罹って休んでも給料をもらえる勤め人ではないから、罹るわけにいかないのだ。海に出なければ何の収入もない漁師のように、とにかくオフィスに来ないと話にならない。国の都合で祭日を増やされると、確実に減収になるのでとても迷惑している。
有限の時間を売っているその私が、鮨を食うという、かなり金のかかることを続けている。一方で、江戸前の鮨はどんどん高くなっている。この5年の価格上昇は驚くほどだ。感覚として2倍近くになった気がする。魚がどんどん高くなっていることがいちばんの理由だが、40年あまり鮨を食ってきた私も経験したことのない、異常な上昇速度だ。この調子でいくと、いつまで鮨が食えるのか、とても心配になる。
歳も歳だからあとどれだけ仕事を続けられるかわからない。耳が聞こえなくなったり、認知症になったり、大病をしたりすれば確実に終わってしまう。年金だけで暮らすことになったら、鮨を食うことなど夢物語だ。としたら、いまから鮨などという贅沢をするよりも、節約してお金を貯めたほうがよさそうなものだ。愚かだと言われてもしかたない。だが私は、どうにもこれを続けるしかないらしい。
すでに何度も書いているように、私は鮨という食べ物に魅かれているだけではなく、鮨屋という生業、鮨屋の親方という人間、そしてこの世における鮨というもののありかたに魅かれている。鮨を取り巻く文化、鮨というものの自然とのやりとりに魅かれている。魅かれていると言うより、より正確には、そこに自分や自分の生業や精神分析という文化を重ねている。このことが私を鮨から離れられなくしている。そのことはわかっている。
そんなわけで、私は鮨を離れないだろう。だが、このまま、よい鮨、真っ当な鮨がどんどん高くなったら、どうなるのだろう。私個人はがんばってぎりぎりまで鮨屋に通い続ける。だが、私のような酔狂な人間でも、回数は減るだろう。ふつうの鮨好きの人ならもっと減ってしまう。やがて鮨は、やたらにお金を持っている人たちのものになってしまう。というより、もう実際そうなりはじめている。この状況のなかで、鮨は鮨であり続けるのだろうか。江戸前の鮨は、もともと立ち食いの屋台で供された町場のファストフードという出自を持ち、それが鮨というもののスピリットをかたちづくっていた。その鮨が根本的に変質してしまうのだろうか。
もちろん、江戸前の鮨がいまでさえ十分に贅沢で高価な食べ物であることは事実だ。だが、それにもかかわらず私が80年代から食い続けてきた鮨は、江戸から東京の町場の雰囲気を纏っているものだった。昨今、そこそこの水準の鮨屋はどんどん増えている。私が食い始めた80年代前半とは大違いだ。小ぎれいで、「おまかせ」しかやらず、場合によっては一斉スタートで、そこそこおいしい鮨屋。親方はそつがなく、ネタの説明も尋ねれば丁寧。そんな店が爆発的に増えている。それはそれでいいことなのかもしれない。だがそこには、江戸から東京の町場はない。鮨の本質的な部分が失われつつあるようだ。何かが終わりかけている感じがする。
鮨を食い始めた頃、80年代の東京で、30代の私は六本木 奈可久や下北沢 小笹寿しや目黒 廣鮨で圧倒的な何かを体験した。その体験こそ、私の鮨との結びつきのイニシエーションだった。しかし、いま私が30代だったら、いまどきのこぎれいなおまかせの鮨屋にあれほどの吸引力を感じるだろうか。おそらく感じない。
江戸前の鮨は生き続けているのだろうか。それとも何か別のものに変質していくのだろうか。そしてその変質したものはやはり江戸前の鮨なのだろうか。ひとつの文化としての江戸前鮨はこの先どうなるのか。
いずれにせよ、江戸前の鮨は大金持ちか、年に数度しか鮨屋に行けない人のためのものになりつつある。鮨は地に足をつけて働く人のものではなくなりつつある。というより、地に足をつけて働くというような概念は、この東京ではもう絶滅しつつあるのかもしれない。手で触れうるモノ、具体的な時間といったものを売ること、それが真っ当に売れるようになるまで修業すること、そうしたことがもう価値を持たなくなりつつあるのかもしれない。私は、鮨屋だけでなく精神分析家という仕事の将来にも、暗澹とした気持ちを抱くことになる。
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御成門に冨所という鮨屋がある。真っ当な鮨屋だと思う。抓みはうまいがいかにも鮨屋の抓みだなというもので、凝った和食屋のようなものは出さない。大ぶりの握りには男気を感じる。コロナ禍のさなかも深夜まで営業してくれた。ほんとうにありがたかった。そして何より、懸命に、という言葉を使いたいくらいに、値段を抑えてくれている店である。出しているものとの釣り合いでいえば、極度に高コスパだと言える。
その冨所にシンジ君という若い人がいた。冨所ではシンジ君はとても気の利く2番として機能していた。2番というのは親方の隣にいてさまざまなことを目配りする存在だ。いい2番がいることは店を円滑に回す上でとても重要なことだ。あるときいつものように2ヵ月ぶりに冨所に行ったら、彼がいなくなっていた。どうしたのかと親方に訊いたら、築地の鮨処 やまとという鮨屋に「出向」していると言う。鮨処 やまともいい鮨屋だ。やまとと冨所は鮪の仲卸も同じで、仲がよいようだった。やまとは修業先から独立して開店して比較的すぐの頃行ってみたが、親方ひとりで切り盛りしている感じで、おまかせが全部出てくるのに時間がすごくかかった。それで私は敬遠していたのだが、シンジ君が行けばスムーズに回るようになるのだろうな、と思った。冨所の親方もそれを考えて、そしてシンジ君の修業のことも考えて、彼を「出向」させたのだろう。そういえば、冨所の親方も修業時代、和食屋の樋口に行っていた時期があったことを思い出した。
しばらくしてシンジ君と、冨所の親方の兄弟子がやっているあき山という和食屋でばったり出くわしたこともあった。元気そうだった。修業が順調に進んでいるという感触があった。最近、そのシンジ君がいよいよ独立して築地で店を出すことを冨所で聞いた。
開店の日が過ぎたので、電話して出かけてみた。3人先客がいた。どの人もシンジ君のことを修業時代から知っている人らしかった。開店時に雇ったバイトがすぐに辞めてしまったらしく、彼は完全にひとりで店を回していた。悪くない鮨を握っていたが、ひとりでやるのは大変だろうな、と思っていると、奥さんがやって来た。奥さんは別の仕事をしているようで、仕事が終わってから店に来るらしい。店では普通に飲み物を出したりして手伝っていた。息の合った感じで、これからこのふたりがどんなふうにこの店でやっていくのだろう、などと考えた。ふと、夫婦ふたりだけで店をやっている、荒木町の鮨 てるのことが脳裏をかすめた。
そこに有名な鮨屋の親方ご夫婦が客で入ってきた。その親方の店は昔1度か2度か行ったきりだが、鮨処 やまとの親方の修業先の親方も冨所の親方の修業先の親方も、みなその親方を敬愛していることは知っていた。その親方ご夫婦はシンジくんのことを気にかけて、彼の鮨を食べてみようとしているのだ。シンジ君にとっては、親戚のえらい伯父さんみたいな存在だろう。シンジ君はその親方に心持ち緊張して握っているようにも見えた。シンジ君がいろんな人に評価され、気にかけてもらい、愛されていることを私は感じて、ちょっとうれしくなった。ハイボールのあと、ふだんは半合しか飲まない日本酒を1合飲んでしまった。
鮨屋に通うことはこのようなことを含んでいる。ただうまいものを食う以上のものである。人間が成長し、変化し、一人前になる過程に触れることだ。鮨屋に通うことは、そうした人間的な事態に継続的に参加するということだ。お金を払って、自分の意思で参加するのだ。
若い人が誰かのところで修業する。たまたまだったり、親方に憧れてだったり、誰かの紹介でのことだったりする。以前ちょくちょく行っていた日本橋蛎殻町 すぎたは地方の鮨屋の信頼が厚いようで、地方の鮨屋の息子が何人も修業していた。そんなさまざまな縁で親方という人物が若い人の前に登場する。若い人は親方と店の周りの人間的なネットワークのなかに組み込まれる。店で働き、仲間の弟子たちと交わり、客と交流する。そのうちに一人前になってゆく。親方という生身の人間とその周辺の生身の人間たちに交わることによって、弟子は鮨屋になる。
このような出会いかた、交わりかたがいまの世の中には少なくなってきている。特定の誰かとの交わりのなかで変化し、成長し、大人になり、一人前の何者かになる。そういうことから人の生きかたがどんどん離れているのが、いまの世の中で起きていることだ。多くの人が企業に就職する。どのような部署に配属されるかはわからない。とりあえずいろいろな部署に回されて、そこでいろいろな人と関わる。しかしその関わりは会社の都合で中断される。特定の誰かと一人前になるまで交わり通す、というありかたはもうそこにはない。
ヒトという種はもともと何十万年かのあいだ、小規模の集団で移動して狩猟採集生活を営み、子どもはその集団のなかで一人前になっていた。1万2000年前に農耕が始まり、定住して集落を作って暮らし始めても、産業革命以前はごく少数の大人とだけの交わりを通して一人前になっていた。それがおそらく、生物としてのヒトの自然だ。人間は生物であり、生物であることは人間のありようを強力に規定している。私は医者として、精神分析家として、その強力さに実感を持っている。農耕が生み出した穀物食に人が耐えられず、糖尿病や肥満が全世界で蔓延していることでもそれはわかる。生身の特定の誰かとの交わりの価値に触れることなく成長することは、ヒトの自然を超えている。ここでも、ヒトの自然に対する徹底的な挑戦が展開しているのだ。
一方、鮨屋の修業にはヒトの自然もともとのありようが保存されている。それは、生身の親方という人間との交わりのなかで一人前になる生業だ。私がやっている精神分析家という職業も、訓練分析家やスーパーバイザーという人たちと交わり通すことによって一人前になる。何より、精神分析は患者が分析家と独特の設定のなかで交わり通すことだ。私の関心ある落語や俳句の世界もよく似ている。つまるところ、生身の人と交わり通すことで人が一人前になるようなものに、私の関心は向くらしい。
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今年の夏にはうれしい再会があった。かつて通い詰めた四谷 すし匠の中澤親方のニューヨークの店を訪れることができたのだ。
鮨を精神分析とからめて何か書きたいと考え始めた頃、私は当時四谷 すし匠の親方だった中澤さんにインタビューをした。中澤親方がもうすぐ四谷の店を若手に任せて、ハワイのリッツ・カールトンに店を出すことを決めた時期だった。ハワイの店は2016年に開店したが、その準備にかなり時間がかかったと記憶しているから、そのインタビューは2015年くらいのことだったのだろう。親方に私のオフィスに来ていただき、1時間半のインタビューに2回応じていただいた。鮨のことを夢中で語る親方との至福の時間だった。私はそのインタビューの素材を、連載の冒頭に置こうともくろんでいた。
だがその3年後から始まった『みすず』での連載に、インタビューの内容を直接使うことが私にはできなかった。中澤親方の話はあまりに濃厚であまりに豊饒だった。咀嚼することが難しかった。彼は鮨屋の親方にはとても珍しい、語れる親方だ。いつもいつも鮨のことを考えている親方は他にもいるだろう。しかし、その考えていることを自分の言葉で人にわかるように、そして面白く語れる親方は珍しい。鮨というものが持つ文化的輪郭、自分のなした革新の伝統のなかでの位置づけ、鮨の未来像についての展望、そうしたことを気持ちのこもった、しかし明晰な言葉で語る。私の知る限り彼は、少なくともあの世代では、そうした言葉をもつ唯一の親方である。その彼が熱を込めて3時間近く語った言葉に私は圧倒されていた。
連載の第6回「コロナウイルスと桜」になって、ようやく中澤親方に言及した。「この連載で私は親方の発言をいままで一度も直接的に引用していないが、そのインタビューがなかったら、この連載を始めることはできなかっただろう」。鮨について書き始める前に中澤親方の話を聴いたことは、この連載のエッセイを書く上で通奏低音として機能していたように思う。
連載を始めて以来、その親方が始めたハワイでの仕事をこの目で見たいと思っていた。とうとう我慢できず、2020年3月、意を決して飛行機を予約し、2泊3日の強行日程でハワイの中澤親方の店に出かけようとした。親方の店に行くことだけが目的の旅だ。だが、コロナ禍はもう勃発していた。その予約の前の週の水曜日に、月に一度通っている鮨さいとうで、この週末にハワイのすし匠に行く、と言うと、いま行くのはやめたほうがいい、と親方にも客たち全員にも言われた。私は、行くと言い張ったが、数日のうちに行ったら帰って来れなくなる状況が見えてきて、ぎりぎりのタイミングで泣く泣くキャンセルした。緊急事態宣言発令の直前の時期だった。
コロナも落ちついた頃、中澤親方がニューヨークのマンハッタンのど真ん中で鮨屋をやるという話が伝わって来た。今度は何としても行きたい。とにかく数日でもいいからニューヨークに行って親方の店に行く。そういうプランを真剣に考え始めた。だが、鮨を食うことを目的にニューヨークまで行くというのも、なかなか決断しづらいことではあった。ずるずると時間は流れた。
自分が歳をとったという自覚は、外的なできごとをきっかけに不連続に襲ってくるものだ。私も去年から今年にかけて、そういう体験をいくつかした。自分はけっこうな歳になった。そう自覚すると妙に自分の年齢が気になってくる。どんな鮨屋に行っても、たいてい自分が親方を含めてその場で最年長であるということに愕然とする。もちろんそれは鮨屋に限らない。私はほとんどの日の夕食が外食だ。どんな店に行っても、たいてい私が最年長だ。そうこうしているうちに、中澤親方が私の10歳年下であることを思い出した。彼も還暦を超えているのだ。そのことを明確に自覚したとき、もうぐずぐずしている暇はないと思った。彼がニューヨークにいるあいだに彼が何をやっているのか、目の当たりにしておかなければと強く思った。
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中澤親方の弟子のなかでいまいちばん馴染みにしている、青山の匠 進吾の親方にお願いして予約を取り、私はニューヨークに向かった。親方の店Sushi Shoはニューヨーク公共図書館の真ん前にあった。マンハッタンのど真ん中だ。
親方の店はにぎわっていた。親方を真ん中に握り手を3人配置した半円状のカウンターは、夢の舞台といった趣を見せていた。親方は英語はできないが、それでも片言とフロアスタッフの補助を交えながら客にネタについて積極的に伝えようとしていた。東京にいたときと同じだ。握りの合間に抓みを挟んでくる「おまかせ」のスタイル、たくさんの弟子たちを背後に置いてそうしたことを可能にしているシステムも維持されていた。
ただ、彼が「お好み」への強い志向を持っていることは窺えた。東京でインタビューしたときも、鮨は本来「お好み」のものであって、「おまかせ」は食材の無駄の削減と客あしらいの円滑化のための方便だ、というような発言をしていたが、その考えは変わっていないようだ。ひととおりの「おまかせ」を供した後、今日はこれとこれとこれと…とネタを示して「お好み」のパートに突入する、という構成を四谷の店でもやっていたが、そのスタイルはさらに洗練されたものになっていた。可能な限り客に自由度を与えたいという思いを感じた。すべてを淡々と「おまかせ」にするよりも、はるかにスタッフ側の負担は大きい。Sushi Shoでも、握っていない見習い職人が常時6、7人、握っている親方たちの背後にいた。彼らの多くは日本から連れて来た弟子で、顔見知りの人も何人かいた。それだけの労力を費やしても、親方は「お好み」にこだわっている。ユニークな「おまかせ」の構成で20年以上前に東京の鮨食いをあっと言わせたにもかかわらず、彼は「お好み」にこだわっているのだ。ここに親方の葛藤がある。
すべての客に渡すスタイリッシュな英語のリーフレットには、「江戸前」「お好み」という見出しがあり、それに説明を加えていた。「江戸前」については、シャリに焦点があること、シャリとマッチするようにネタを酢締めや昆布締めといった手法で精緻に処理すること、そうした処理や温度の管理によってシャリとネタの調和を実現することが書かれてあった。「お好み」については、本来30年前までは鮨は「お好み」で供されたものであり、それが伝統的な形なので、Sushi Shoでは「おまかせ」の後で客に「お好み」という冒険をしてもらうのだ、と書かれていた。外国人の客にも本来の江戸前鮨をわからせたい、という親方の強い意思を感じた。
食べ終わった後、親方の娘さんがお茶を淹れてくれる奥の空間に通されてすこし休んだ。エントランスにもウェイティングバーと言ってもいい空間がある。この店は恐ろしく空間が豊かだ。ものすごくお金がかかっているだろうと感じた。この空間を親方が維持するのはなぜなのだろうか。親方は、日本の鮨屋代表としてニューヨークに来ているという思いがあるのだろうと感じた。
親方の仕事が終わった後、親方の住まいで少しいっしょにお酒を飲む機会をいただいた。そこで語られた親方の話には、基本的に鮨の将来、いまの東京の鮨の状況についての危機感がにじんでいた。親方は驚くほど、東京のさまざまな店のことを知っていた。つねに現在の状況に関心を向け、それに問題意識を持ち、それを明晰に語る。親方は変わっていなかった。
江戸前の仕事という手数のかかるものを守ることは重要だ。それを採算ベースで実現するには、「おまかせ」が現実的ではある。しかし、「おまかせ」では客と親方のあいだの生きた交流の場としての鮨屋の空間の本来の意義は減殺される。「お好み」の鮨屋にあった江戸、近代の東京の町場の雰囲気は消える。
こういうことは、東京にいるときからの親方の葛藤だったのだと思う。そして、いま食材が高騰して問題は深刻になっている。さらに、日本人よりもはるかに鮨がわかっているアメリカ人が増えていることも、親方にとってはなかなか大きな問題のようだった。彼らの鮨への傾倒は並大抵ではない。だからネタで妥協することはできない。さらに見習いとして入ってくる人手がものすごく貴重になっている。現地で雇った厨房の一番下のクラスの見習いでも、日本円で50万円くらいの月給を与えているらしい。料理人になる人間、修業する人間はこれからどんどん減るだろうと、親方はこの面でも楽観的ではなかった。
こうしたことは、結局は客が払う料金に直結する。私は馴染みの人間だということでかなり安くしか請求されなかったかもしれないが、Sushi Shoはお酒やチップをいれるとだいたい1000ドルと言われている。このニューヨークの現実は東京の将来の状況なのかもしれない。食材の高騰と職人の払底という現象は確実に東京でも起きるからだ。それは最初に描いた、「お金持ちのものになった江戸前鮨」を生むだろう。
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中澤親方が「お好み」を強調していることは真剣な気持ちなのだと思う。だが、その親方も「お好み」だけで回すことは現実には不可能だろう。70年代までの東京の鮨屋は新鮮であればいいという方向に行っていた。江戸前の仕事という、元来保存を目的にしたさまざまな処理を施したネタの深い味わい、酢飯との相性の良さを再発見して、「仕事をしてある鮨」を称揚する言説が一般に語られたのは、1982年に出版された山本益博の『東京・味のグランプリ200』を嚆矢とするのではないだろうか。
つまり、いまの江戸前鮨はある種のルネサンスとして現れたものだ。中澤親方はこのルネサンスの最も有力な担い手であった。しかし、この手のかかる江戸前を現代の社会で実現しようとするルネサンスには、「おまかせ」という方向がどうしても必要になった。彼は「おまかせ」という方向に東京の鮨の舵を切った人物のひとりでもある。仕事をした鮨としての江戸前鮨は確かに復活した。だが、「おまかせ」の繁栄により、立ち食いのファストフードから始まった、町場の、肩ひじ張らない、客の自由を重んじる食べ物であるという鮨の本質は失われる危険が生まれている。客との交流の一切ない、ロボットのような鮨屋でも「おまかせ」ならこなせるのだ。こうして食べ物としての江戸前鮨のルネサンスは、文化としての鮨を危機にさらしているのだ。中澤親方はこの葛藤を生きている。そしてその葛藤に自覚的であり、絶えずそれと格闘している。だから、彼は魅力的なのだ。
それにしても、これから鮨は生き続けるのだろうか。鮨が生き続けるということはどういうことなのだろうか。生き続けるために何かを犠牲にすることになるのだろうか。そのとき、江戸前鮨は江戸前鮨なのだろうか。
当然私は、精神分析家として、精神分析がこの先、生き続けられるのか、という問いをこころのなかで絶えず反響させながら、この問いを問い続けている。そしてその問いを問うことが、おそらく、私が鮨屋に通い詰めることの理由のひとつであることは間違いない。文化が生き延びることとは、絶えず時代とのあいだの葛藤に満ちたやり取りの末に、何かを失い、何かを獲得する運動を続けることを含んでいるのだ。
過去の連載記事
(精神分析家、鮨屋で考える)鮨が生き続けること
2025年9月1日