[評者]
西山崇
(ニューヨーク州立大学ブロックポート校歴史学科)
吉田省子
(北海道大学大学院農学研究院)
有賀暢迪
(一橋大学大学院言語社会研究科)
森口由香
(京都大学大学院人間・環境学研究科)
[著者]
伊藤憲二
(京都大学大学院文学研究科)
[企画]
古川安
(総合研究大学院大学統合進化学研究センター)
水島希
(叡啓大学ソーシャルシステムデザイン学部)
[評者]
西山崇
(ニューヨーク州立大学ブロックポート校歴史学科)
吉田省子
(北海道大学大学院農学研究院)
有賀暢迪
(一橋大学大学院言語社会研究科)
森口由香
(京都大学大学院人間・環境学研究科)
[著者]
伊藤憲二
(京都大学大学院文学研究科)
[企画]
古川安
(総合研究大学院大学統合進化学研究センター)
水島希
(叡啓大学ソーシャルシステムデザイン学部)
2024年3月10日(日)に伊藤憲二著『励起――仁科芳雄と日本の現代物理学』上・下(みすず書房,2023)の合評会(葉山科学史・科学論ゼミナール主催)がオンラインで開催された。合評会は前半で、著者の伊藤憲二氏(京都大学大学院文学研究科准教授、科学史)による本書紹介の後、4人の評者にそれぞれの視点から講評をいただいた。評者は、西山崇(ニューヨーク州立大学ブロックポート校歴史学科准教授、科学史)、吉田省子(北海道大学大学院農学研究院客員教授、科学史)、有賀暢迪(一橋大学大学院言語社会研究科准教授、科学史)、森口由香(京都大学大学院人間・環境学研究科教授、アメリカ史)の各氏。休憩をはさんで後半は、各レビューに対する著者のレスポンス、それに対する評者からのコメントをいただいた。最後は参加者からの質疑応答の時間にあてた。オンラインの参加登録者は70数名。2時間40分にわたり熱のこもった議論が展開した。本稿は著者・評者に後日発表内容を改めて原稿化していただき、それらをまとめたものである。字数に限りがあるためすべてを網羅しているわけではないが、合評会での議論のエッセンスが少しでも読者の皆様に伝われば幸いである。(企画者)
伊藤憲二
ご来場いただいた参加者の皆様、評者の皆様、企画者のお二人、この本の実現に御助力いただいたすべての皆様に感謝する。ここではまず拙著『励起――仁科芳雄と日本の現代物理学』がどのような本であるかについてお話しする。
この本は伝記という形をとっているが、通常の意味での伝記ではない。伝記という言葉からは、例えば仁科という個人の内在的な本質があると前提して、それを捉えようとしたり、その本質によって仁科の生涯を説明したりするようなものが想起されるかもしれない。ところが本書はそもそも個人についてそのような見方をとらない。むしろ本書のとるアプローチは「環境は人を創り 人は環境を創る」という仁科自身の言葉がよく表している。ただし、これは時代状況と個人との相互作用を言ったものであるが、本書は環境と個人とをより一体的に捉え、相互作用の代わりにカレン・バラッドの唱える内部作用(intra-action)という発想にも示唆を受けている(1)。そのうえで、科学史研究の対象である知識生産を個人のものではなく集団的なものと考え、仁科個人の思想よりも、仁科とそれに関わる集団の科学研究の実践と知識生産のインフラストラクチャーを対象にすることが、本書で目指したところである。
科学史は広い意味での知識の生産や流通を対象とする学問である。知識生産に関する重大な誤解は「知識は人間個体の頭脳の中で生まれる」、したがって、「個人の思考や思想を理解すれば、知識生産や知識の変化を理解できる」というものだ。この立場からすると、知識の研究はもっぱら個人の思想を調べればよいことになる。従来の科学史においては、古典的な思想史的方法、すなわち残された著作などから、過去の個人(科学者、学者、研究者)の思考や思想を理解するという方法が大きな位置を占めてきた。しかし、実際には知識は個人的なものではなく集団的・社会的なもので、しかもその集団は人間だけでなく、非人間アクターも含まれる。科学が集団的なものであるというのは別に新しい考えではなく、(非人間アクターのことを除けば)例えばトマス・クーン『科学革命の構造』(1962)においてすでに述べられていたことだった(2)。
そして、知識の生産や知識の流通を対象とするならば、知識生産の産物である知識や思想だけではなく、それを取り巻く様々な実践も重要な対象であるはずだ。特に20世紀以降、科学者が同時に思想家であることはまれになり、「思想」は彼らの科学を理解するうえで相対的に重要でないか、分析の道具として粗すぎるか、あまり関係がないことが多くなった。実践が重要であることは実験室科学や野外科学のような「手を動かす」ことが明らかな分野では分かりやすい。しかし、理論研究でも、ダイアグラムの作成や計算など、「手を動かす」側面があり、実践について語ることができる(3)。このように、思想ではなく、実践と文化に着目することも、私の独創ではなく、新しいことでさえない。例えば、Robert E. Kohlerという人が四半世紀ほど前の文章で次のように書いている。「科学はどのように機能するのか? 科学者たちは自然界の知識を創造するためにどのような仕事をしているのだろうか? 科学史家や科学社会学者は、1970年代後半からこのような問いをますます執拗に自らに問いかけるようになった。ほんの20年前には、理論の論理的分析が科学論にとって中心的な課題だったが、今日、科学的作業と実践への関心がそれに置き換わっている」(4)。
知識生産・流通の実践を集団的な営みとして捉える一つの方法は、それを全体として成り立たせる仕組みを問うことである。本書ではそれを知識生産のインフラストラクチャーとして着目する。知識について「インフラストラクチャー」を問題にするのは、ここ数十年ほど科学史、科学技術社会論で議論されつつある観点である(5)。仁科が、次の世代の人たちが研究を発展させていくための土台を作った、というのはすでに以前から言われていることでもある。例えば、朝永振一郎は次のように書いていた。「先生によって我々にもたらされたものは、学問的な発見よりも、サイクロトロンよりも、もっと貴重なものである。先生はわれわれの間に物理学的研究の近代的な方法に対する自覚をもたらされた」「実際、先生の行き方は、仕事の実績よりも、まず必要なその土台を作ることにあった」(6)。ここで朝永が指摘しているような「土台」は学問的な研究の対象となるはずであり、これが私の言う「知識生産のインフラストラクチャー」である。これは伝統的な科学の制度史において扱われてきた対象、例えば大学や研究所といった研究機関、あるいはインフォーマルな研究者集団の規範のようなものだけではなく、個々の研究実践を実現させる土台となるような集団の文化、組織、装置全般を含むものを考えている。
結局『励起』とはどのような本か? 科学的知識生産の集合的な仕組み、知識生産のインフラストラクチャーについて議論する研究と言える。ただしそれについて書くのに、その知識生産のインフラストラクチャーを作って維持した人物を中心にした伝記という形式をとり、伝記としての要件を備えるようにしたのである。
1. カレン・バラッド(水田博子・南菜緒子・南晃訳)『宇宙の途上で出会う――量子物理学からみる物質と意味のもつれ』人文書院,2023.
2. トマス・クーン(青木薫訳)『科学革命の構造』新版,みすず書房,2023.非人間アクターについては、たとえば、ブリュノ・ラトゥール(荒金直人訳)『パストゥール あるいは微生物の戦争と平和、ならびに「非還元」』以文社,2023.
3. David Kaiser, Kenji Ito & Karl Hall, “Spreading the Tools of Theory: Feynman Diagrams in the USA, Japan, and the Soviet Union,” Social Studies of Science 34 (2004): 879-922; 伊藤憲二「研究における物質的なものと非物質的なもの――日本の学問史からの視座」『思想』1090号(2015年2月): 34-52.
4. Robert E. Kohler, “Moral Economy, Material Culture, and Community in Drosophila Genetics,” in Mario Biagioli, The Science Studies Reader (Routledge, 1999), pp. 243-257 on p. 243. 日本語訳は筆者による.
5. Geoffrey C. Bowker & Susan Leigh Star, Sorting Things Out: Classification and Its Consequences (MIT Press, 2000); Paul N. Edwards, et al., Knowledge Infrastructures: Intellectual Frameworks and Research Challenges (Deep Blue, 2013); ポール・エドワーズ(堤之智訳)『気候変動社会の技術史――気候モデルと観測データと国際政治』日本評論社,2024.
6. 朝永振一郎「仁科先生」玉木英彦・江沢洋編『仁科芳雄――日本の原子科学の曙』みすず書房,1991, 新装版2005, 3–7,特に pp. 6-7.
西山 崇
まずは英語圏における日本近代史の一研究者の視点から、『励起』の二つの特徴を挙げてみたい。一つ目の特徴は、徹底した実証現場主義のアプローチである。これは多岐にわたる分野で、国際的に活躍した仁科を「行動の人」(6頁)と捉え、彼の軌跡を追うために著者自身が「行動の人」となったことによる。仁科が具体的に何を課題とし、どのように捉えて、どのように行動で解決しようとしたのかを追うことは、机上で思想を追う言説研究とは違う。その結果、著作全体で2,700以上ある脚注の中、オンラインソースはわずか20である。このアプローチは人的要素、「偶然」、その他の色々な条件が、それぞれの時代背景の中でユニークに噛み合うことの重要性を描き出した。著者自身、「歴史は明らかに単なる事実の羅列ではなくなる。それは決して因果関係や法則性に還元できるようなものではない」と6頁でまとめている。その過程で提供される莫大な情報は、軍事外交史などで使われる反事実的な質問(counter-factual questions)とそれに基づく歴史の探求に対して、必要なリソースと手がかりを提供している。
『励起』の二点目の特徴は、その読み応えと読みやすさである。郷土史から始まり科学外交史で終わる大著の中で、先行研究への問題提起と、著者独自の推論・推測が至る所に散りばめられており、読者の興味をそそる。それに加え、簡潔に「One idea in one sentence」という英作文での鉄則を一貫して順守することで、読みやすさに繋がっている。実はこの点は、著者の英語論文にも共通しており、また、英語圏での科学史の大著にも顕著に見られる。この読みやすさは英語から日本語に翻訳されると残念ながら失われがちなことから考えると、『励起』は、英語で論文・研究書を執筆する者にとっては重宝すべき、日本語で参照できる研究書の具体例である。
続いて本著で扱っている内容について「科学」と「文化」という面で二点に絞って言及したい。一点目は「コペンハーゲン精神」(6章)という概念である。著者は「あいまいさという点において、『コペンハーゲン精神』という言葉も例外ではなく、実際に多義的に用いられている」(207頁)としているが、その「精神」を各所で引用符を使わずに記述しており、著者は仁科の事例を挙げて「コペンハーゲン精神」とは、実は、内在し、不変的で本質的な要素の模索に登場するような「精神論」ではなく、より具体的な、ボーア流の研究のやり方とその産物であり、つまりコスモポリタンな研究人材が、民主的で自由な討論に参加し、その中から生まれる同士間のシナジー(「情熱と才気」246頁)の繋がりである、としている。著者が触れている第一次大戦後のデンマーク特有の地政など、国家レベルでの外的環境要素はあるものの、「コペンハーゲン」の首都に特化した国立大学の環境・土地柄(例えば冬が長い、首都の図書館が年中無休、財源など)とは違う内容である。よって通常使われる「コペンハーゲン精神」概念の奥深さを再考させられる。
最後に特筆すべきもう一点は、英語圏での先行研究の紹介内容である。本著ではMorris Low著作に見られる「サムライ」概念について鋭く言及しており、これをオリエンタリズムの「一種」とし、また仁科や高峯譲吉は士族ではない、という反例を明示することで、英語圏での研究が、史実からかけ離れていることを明示している。しかしLowは「サムライ」を造られた概念「Construct」とも表現している。『励起』は高峯を例に「『サムライ化学者』のような虚像」(110頁)を問題視し、「武士道的な倫理観は必ずしも彼らの行動を律するものではなかった」(36頁)と捉えている。ここ最近の英語圏での日本史研究では、この「武士道的な倫理観」自体が一枚板でも不変でもなく、明治から平成までの間に多様に変遷しており、ナショナリズム(「国のため」という考え)の一端として、社会文化や思想にいかに浸透したかを解析している(1)。終戦前8月7日には仁科は「文字通り腹を切る時が来たと思ふ」(744-5頁)と書き残したが、これは彼個人の強い責任感(746頁)を、当時使われていた言葉で表現したものであろう。仁科は士族でないものの、当時のコンテクストとして「武士道」という概念を反映したナショナリズムの機運の、当時における高揚を反映しているのではないだろうか? また仁科が戦後に学術研究の再組織と理研の再建と運営(24章)、日本の科学の復興・世界的科学の進歩への貢献(26章)をしたのは「国のため」というナショナリズム、またインターナショナリズム(また他の要素)を少なからず反映したのはないだろうか? こう考えるとLowの文化研究も史実だけをベースに一蹴してもよいものだろうか、という疑問は残る。
1. Oleg Benesch, Inventing the Way of Samurai: Nationalism, Internationalism, and Bushido in Modern Japan (New York: Oxford University Press, 2014).
吉田省子
仁科芳雄という個人を歴史的文脈という場の励起状態に喩え(9頁)、彼をそのようなものとして描くと宣言した本書は、単なる群像劇では終わらぬ伝記であり、日本の現代物理学や現在の科学界を取り巻く状況の素性を表面化し、仁科芳雄とは一体何者だったのかと問い続ける。
本書は、仁科の役割は研究そのものというより、研究を実施するのに必要な知識生産のインフラストラクチャーを作ったことにあるとする。だが、仁科が何者であったのかということはまだ定まっていないとも強調する。それは著者が、インフラの創設と存続、つまり仁科の遺産がどのように現在に効いているのかという評価は「のちに生きる者たち次第」だ、と認識しているからである。結語で著者が読者に突きつけた5つの問い又は評価軸は、今まさに私たちが直面している問題群に他ならない(964-965頁)。
この評価軸に関し著者はいかなる試論を用意しているのかと問わずにはいられない。また、読者の一人として、このスタイルの伝記では環境要因・アクターをどこまで広げていけば十分なのか、厖大な一次資料群の取り上げ方の基準はどうしたのかと、思い惑う。線引きのジレンマに著者は悩まなかったのだろうか。
さて、著者は量子力学の日本への伝播に関する説明モデルとして、量子力学を用いた理論的・実験的研究が暗黙知・技能的知識なので仁科の帰国が鍵だった、という枠組みをとらないし、理化学研究所での「物理学輪講会」(『物理学文献抄』岩波書店,1927)や1928年の京都帝国大学の荒木俊馬による集中講義の事例等をもって、すでに活発だったとして仁科の役割を矮小化もしない(307-314頁)。
続けて著者は、シェイピンとシャッファーが『リヴァイアサンと空気ポンプ』で述べた概念、装置の基盤となる社会的、文化的、技術的コンテクストの再現という概念に読者の注意を向けさせたうえで、それらのコンテクストの再現を必要としない、共鳴現象という認識の仕方を提案する。共鳴を起こし得るような社会的、技術的、文化的な状況が形成されたときに、ある媒介がトリガーとなって共鳴を起こすというのである(374-375頁)。
本書では、仁科は量子力学を研究するための技能知そのものをコペンハーゲンで習得して、それを日本の研究者に伝えた人物としては描かれずに、ヨーロッパにおける量子力学の研究を実際に体験し、日本に育ちつつあった環境をさらに良好なものにすると同時に、自らも研究に関わった人物として描かれる(375頁)。受け皿があったという静的な認識を超えた共鳴という動的なこの認識は、今後の日本の量子力学受容史の中で仁科が占める役割の定説となり得るし、他の事例でも援用可能な認識枠組みたり得るかもしれない。
では、カピル・ラジの『近代科学のリロケーション』での移植・移転・再配置という枠組みはボーア研究所と仁科研の関係に嵌め込むことは可能だろうか。著者は、ヨーロッパの環境そのものが日本の仁科研究室に移植されたのではないと述べているので(375頁)、その枠組みを意識しつつも退けている。空間的・時間的・社会的スケールの違いもあろうが、気にはなる。
ところで、著者は仁科が「物理学の…新たな発想と手法を持ち込むことによって、生物学に新しい研究領域(557頁)」を開こうとしていたと記述する。今日、育種学者は突然変異原として重イオンビームに熱い視線を送り、理化学研究所仁科加速器科学研究センターの育種学者が、「重イオンビームによる育種技術の開発」で2023年に日本育種学会賞を受賞し、物理学者と「ちぐはぐな会話をしつつ」共同研究を始めたと述懐している(『育種学研究』25: 170-17, 2023)。確かに、仁科は物理学帝国主義的な人物として描かれてはいないが、生物学者と向き合う中で、ちぐはぐと言えるような感覚を抱くことはなかったのだろうか。
鵜飼保雄(『植物改良への挑戦』培風館,2005)によれば、物理学者と育種学者の共同研究は、台北帝国大学理農学部育種学講座教授の市島吉太郎(1915年東北帝国大学農科大学卒業1928年に赴任)がX線照射で初めて突然変異体を得た1932-34年に遡る。荒勝文策が「1928年12月に台北帝国大学理農学部に赴任し、X線照射によるサトウキビの品種改良に協力していたらしい」とあるので(421頁)、物理の荒勝と育種の市島との共同だと推測される。彼らの間にもちぐはぐがあったとして、それはどのような文脈でのことだったのだろうか。
合評会終盤で、発端は西山氏と森口氏の報告なのだが、仁科研の物理学者たちのマッチョなホモソーシャル性が話題となったように、21世紀の四半世紀が過ぎようとしている今、彼らの振る舞いを見つめる視点は多様になっている。時は経つ。励起状態の遷移した先を知った読者は、著者が最後に放つ5つの問いに向き合わざるを得ない。
なお、「第V部 戦争」は別種の合評会が待たれる。
有賀暢迪
科学史の分野で日本の科学者を対象とした伝記といえば、まず思い浮かぶのは1973年刊行の『長岡半太郎伝』である。板倉聖宣・木村東作・八木江里の三者によって書かれたこの本は、2段組で本文719頁、本編が計5部・25章からなるたいへん分厚いもので、単なる人物伝というにとどまらず、長岡半太郎(1865–1950)という人物を通して日本における物理学の展開を論じたものである。
伊藤憲二氏の『励起』は、この『長岡半太郎伝』に似ている。単なる人物伝というにとどまらず、仁科芳雄(1890–1951)という人物を通して日本における物理学の展開を論じているからである。両者の扱う時代はかなり重なるが、主人公の年齢差により、『励起』では昭和前期から戦後初期にかけての記述が特に厚い。しかも、単著であるにもかかわらず、本書は2段組で本文973頁、本編は計6部・28章と、『長岡半太郎伝』を量的に上回っている。
戦後日本を代表する物理学史家であった広重徹は『長岡半太郎伝』を書評する中で、次のような評価を記している(『科学史研究』第13号,1974)。
長岡の遺した厖大なノートや日記などの一次資料が十分に駆使されていること、長岡の生涯と業績を日本科学史の全体的な推移の中に位置づけるべく努力がはらわれており、そのさい日本科学史そのものについても出来合いのものを断片的に引用するのでなく、しばしば著者たち自身の調査研究に基づいて述べられていること、によって本書は一つの科学史の業績とよばれるに十分値する。
この文章は、「長岡」を「仁科」に、「著者たち」を「著者」に置き換えれば、『励起』にもほぼそのまま当てはまるだろう。ただし、ここには重要な違いも存在する。
第一の相違点は、『励起』が仁科の「生涯と業績」というより「生涯と行動」を描いていることである。「行動」、あるいは実践への注目については本書の序で詳しく説明されているが、別のところでも次のようにある。
仁科は思想ではなく、行動の人であり、その言論もまた思想の表明というよりは、行動の一部として読むべきなのである。そして、その個々の行動から何が仁科を駆り立てていたのかを理解しなければならない(660頁)。
『長岡半太郎伝』では、長岡の代表的な研究業績である土星型原子模型の議論にかなりの紙幅が割かれていた。対して『励起』の場合、仁科の業績として知られる「仁科゠クラインの式」も論じられてはいるし、仁科によるボーアの相補性原理の受容に関する記述も確かにある。だが全体としては、本書が問題とするのは仁科が何を考えていたかではなく、何をしたかである。「20世紀以降の学術における研究活動は、思想ではなく、かなりの程度、実践の問題であり、特に自然科学系の学問についてはそうである」(6頁)という観点が、『励起』を『長岡半太郎伝』とは質的に異なるものとしている。
このような実践の重要性については評者も大いに同意するところだが、「思想」をどこまで排除すべきかには議論の余地があるだろう。著者は、「日本の人文系学問には思想に対する過度の執着が見られ、科学史においてもその傾向は強い」(5頁)と指摘し、さらには「書かれたものから、その筆者が何を考えていたのかを推測することは常に困難を伴う。書いた通りのことを考えていたという保証はまったくないからである」(660–661頁)とも述べている。後者は「総動員下の学術政策」を扱った章に現れる文章であり、この主題に関わるテクストを分析するような文脈では至極真っ当な主張だが(だからこそ史料批判を要する)、一般論としてはどこまで適切だろうか。評者には、拒否すべきなのは「一貫した思想体系」(659頁)を想定することであって、その時・その場における人物の考えまで排除するのは行き過ぎであるように思われる。この点は、本書が(特に日本における)科学史研究全体に投げかけている問いであろう。
次に、『励起』を方法の面で特徴づけているのは、各種のアーカイブ資料、とりわけ仁科が遺した厖大な書簡の利用である。仁科の書簡は関係者の手で保存され、かなりの部分がすでに出版されていた。具体的には、仁科の地元である岡山県里庄町の科学振興仁科財団が編纂した二つの書簡集に加えて、2006年から2011年にかけては仁科記念財団の協力の下、浩瀚な『仁科芳雄往復書簡集(I, II, III +補巻)』がみすず書房から出ている。さらに著者自身も、本書執筆の過程で、未整理のまま保管されていた「横山資料」を再発見した。これは仁科の秘書を務めた横山すみが保存していた書簡の写しで、それまで知られていなかった手紙も大量に含まれていたという。
評者は以前、国立科学博物館に勤務しており、同館が所蔵する長岡半太郎資料を担当していた。この資料は『長岡半太郎伝』執筆時に使われたものだが、同書では書簡はそれほど引用されていない。広重の書評にあるように、主に参照されているのはノートや日記である。翻って『励起』では、極めて多くの書簡を引用することで、出版物に現れない仁科の行動を描き出すことに成功していると言える。しかし同時に、それ以外の仁科の個人文書はわずかしか引かれていないということも、科学アーカイブズの観点からは気にかかる点である。「行動」に注目する科学史にとって特に有益な資料が書簡であるとして、「思想」を排除することにより結果的に資料が見落とされてしまう可能性はないのだろうか。
評者の見るところ、『励起』は著者の科学史家としての並外れた力量に加えて、資料の保存・整理における相当な蓄積があって初めて可能になった書物である。はたして将来、同じような著作は現れるだろうか。広重は先の引用に続けて、『長岡半太郎伝』が今後、科学者の伝記の一つのモデルになるだろうとしたうえで、「本書がよい先例となって、科学者の遺稿類が図書館や博物館に寄託されるという習慣がわが国にも確立されることを希望したい」と書いていた。この言葉もまた、『励起』にそのまま当てはまると言ってよいだろう。
森口由香
多くの読者と同様、筆者も本書の圧倒的な情報量と広がりのある考察に感銘を受け、細部まで手を抜かない誠実さに心打たれた一人である。アメリカ史という異分野出身の筆者に、知的刺激に満ちた合評会の場を共有させてくださった伊藤憲二先生およびオーガナイザーの先生方に心から感謝を表したい。
まず筆者が本書に共鳴した点は、その越境的・架橋的な性質である。序章に述べられている通り、科学研究は歴史的・社会的な背景の中で営まれる活動であり、科学あるいは科学者だけを取り出してその歴史を語ることはできない。筆者自身も外交史・文化史・科学史を架橋するテーマを探究する中で、それらが不可分に結びついていることを痛感する。分野越境的なアプローチの利点として、「正史」や「通説」では語られない重要な要素に光を当てることができる点が挙げられる。例えば筆者の分野では、国家間の外交関係だけに着目すればアメリカの影響力は絶大に見えても、知的交流や文化に着目すれば、その限界や、逆にアメリカが影響を及ぼされる側に立つような場面が見えてくる。本書でも、ただ仁科一人の偉人伝でも、原子物理学の発展史でもない越境的な歴史が描かれている。科学者たちが、各時代の政治的・社会的背景に翻弄されながらも、そこで与えられた条件の下で、またそこで遭遇する人々と交渉しながら研究する様子からは、科学と外部世界との深い相互関係が看取される。
ディシプリンの越境性はまた、史資料の越境性・多様性にも通底する。実証歴史学においては伝統的に、外交文書のような公文書が一級史料と格付けされ、日記や書簡等は「客観性」の薄い補完的な史料と見なされてきた歴史がある。しかし近年、こうした「非伝統的」史料の重要性が認知されるとともに、「伝統的」史料もその時代背景や個人の認識から自由ではないこと、すなわち公文書のテクスト性が指摘されている。本書が依拠する日記や書簡などの史料は、科学者たちの人間的横顔を生き生きと描き出すことに貢献しているが、それと同時に、書簡という媒体のもつ公文書的な性格も浮き彫りにしている。すなわち仁科らの書簡は、ただ科学者どうしの関係や彼らの関心事を示すのみならず、その時代の科学と為政者や財界との関係をあぶり出す公共性のある史料でもある。例えば研究資金を提供した三井報恩会とのやり取りや、戦時動員をめぐる科学者どうしの対話、また戦後の占領軍とのやり取りなどがその典型例である。外交文書は客観性が高く、書簡は主観的であると断定することは早計である。むしろ公文書が為政者の世界観を映す一方、書簡がより客観的に時代を描き出すこともあり得ると考えられる。
三番目に言及したいのは、本書が二分法的な問いを排している点である。戦時中の科学者を「科学動員への推進派だったかどうかで二分するのは、あまりに粗い認識である」(659頁)と述べられている通り、本書はYes/Noで回答できるような単純な問いではなく、むしろ「なぜ」「どのように」「いかなる文化的・社会的背景の下に」ものごとが起きたのかを問いかけている。二分法的な問いは世界をより単純に見せ思考停止をもたらすが、多元的な問いは世界の複雑さに光を当て、より高次の思考へと読者をいざなう。本書は間違いなく後者のプロジェクトであると言えよう。
最後に二つの質問で拙文を閉じたい。一つ目は、本書を読んで戦前の科学がいかにトランスナショナルであったかという点を改めて想起させられたことに関連する。ここに示されている科学者たちの国際交流は、1930年代が日中戦争から太平洋戦争に向かう暗い谷間の時代であったという歴史観に修正を迫るものであり、また外交・安全保障とは違う観点から歴史を見ることの有用性の証左でもある。歴史学の時代区分は、しばしば戦前と戦後に線引きされてきたが、最近は「貫戦史」というアプローチが盛んである。本書は科学のトランスナショナル性を貫戦史的に描いていると見ることができる。ただ、このようなトランスナショナル性は、欧米側から見ても同じように見えるのだろうか。換言すれば、欧米の科学史を貫戦史的に見たとき、日本との交流はどのように位置づけられるのだろうか。
二つ目の質問は、科学史が「(白人)エリート男性の歴史」になりがちな傾向を克服するにはどうしたらよいかという、筆者自身も悩んでいる問題である。本書には、研究を手伝う非エリートの人々や女性がしばしば登場し、「エリート男性の歴史」に抗っているように見えるが、彼ら・彼女らが周縁的存在であることに変わりはない。科学史を「エリート男性の歴史」から脱却させることについて、著者の考えを伺いたい。合評会では、これら二つの質問に対して著者から洞察に富んだレスポンスをいただいたが、紙幅の関係で含められないことをお許しいただきたい。
伊藤憲二
最初に、この厚い書物を評する労をとられた評者の皆様にお礼申し上げる。ここではすべてのコメントに応答できないが、どれも非常に示唆的で勉強になるものだった。
まず、西山崇氏が取り上げた「サムライ」概念について応答したい。文化資源が作用する仕方は重層的であり「サムライ」アイデンティティが作用した可能性は否定しないが、問題はそれを優先して取り上げるのがどれほど有用で妥当かである。英語文献で日本の科学者に「サムライ」を重ね合わせるのは、ステレオタイプを利用し強化するものだ。さらに、「サムライ」の強調によって、仁科家の家業、干拓事業をし、農業や塩業にいそしむという、仁科のアイデンティティにとってより重要な側面を見落とすことになる(1)。
次に吉田省子氏のコメントのうち、いくつかの点に応答する。最後の仁科の遺産の評価の問題は、あらかじめ評価軸が用意されているようなものではなく、仁科芳雄という出来事は、彼が死んだあとも、まだ完結していないということが言いたいのである。次にラジの枠組みのうち、もっとも重要な点である知識の還流という側面は、「ヨーロッパの環境そのものが日本の仁科研究室に移植されたのではない」ことと必ずしも背反しないと考えている。ヨーロッパにおける研究実践が発生するような環境が仁科研究室に作られたというのが私の主張である。同じ実践が発生するならば、環境が同じである必要はない、というのが「共鳴」のメタファーの重要な点なのだ。しかし、その実践の還流をとらえるためには吉田氏が示唆しているように、より大きな空間的・時間的スケールの研究が必要である。それは最後の章の仁科の遺産にも関わることで、本書ではそのごく一部にしか光を当てていない。
有賀暢迪氏の問題提起、すなわち「思想」をどこまで排除すべきか、に応える。テクストを書き手の思考とするのが必ずしも成り立たないのは自明で、それが常に成り立つことは前提できない(2)。他方で、それが成り立つこと、つまり書き手が実際にテクストに自分の思想を書くことがないわけではないのももちろんだ。問題は特定のテクストの産出も含めて、歴史上のアクターの行為をどう記述するかである。私が主張するのは、そのアクターの考えや意図をもってあるテクストを説明するのは唯一の記述でも、必ずしも可能な記述でもないということだ。他方で、その説明が説得的なら排除する理由もない。思想は、科学史研究が成り立つ充分条件でも必要条件でもなく、もし問題にするならそれが有意義で、信頼できる理由が必要で、なければ問題にすべきでない。仁科の思想をあまり問題にしないのは、資料的な制約でできないからではなく、問題にする必然性が必ずしもなかったからだ。拙著が伝記という形式をとりながら、実際には仁科個人でなくその周囲の集団を扱っている以上、仁科個人の思想が重要であるとは限らない。
科学を個人の思想で考えるのは、半世紀以上前にトマス・クーンの『科学革命の構造』が出た時点ですでに唯一の方法でなかったはずなのに、なぜそれに固執する必要があるのかむしろ不思議に思う(3)。なぜか日本では外的・内的科学史という枠組みが温存され、科学を集団的な実践として捉える実証研究が育たず停滞しており、英語圏の科学史との乖離が今後も拡がることを危惧する。
拙著をモデルとして、同様の著述をすることは推奨しない。書くのに厖大な労力を要し、読むのに努力を要するこのような本は、昨今では出世を放棄する覚悟のあるような人間しか書けないだろう。しかし、分量についてはさておき、拙著は比較的最近の科学史のアプローチをいくつか取り入れており、読む人によっては参考になるものがあるかもしれない。上の世代と同じ手法の同様な研究のほうが上の世代からは評価されやすい(自分を評価する後進を優遇して学閥を作りたがる人は確かにいる)が、それでは進歩がない。拙著でも重視する先行研究は批判して乗り越えることを心掛けた。この本についても、モデルとするよりもむしろ乗り越えて先に行ってほしい。
最後に、森口由香氏の質問に答える。トランスナショナルな貫戦史は重要な課題である。日本科学史では連続性を強調する種類の貫戦史が1970年代の広重徹にあり、後にGHQ資料が使えるようになって中山茂らの占領期における断絶の実証的研究が現れた。英語圏では広重より中山が知られているため、比較的最近になって日本の戦前と戦後との科学の連続性を唱える人たちが新規性を主張するという喜劇が起こっている。事情を複雑にするのは、世界的な科学史においては第二次世界大戦が科学の性格を大きく変える転換点だったことだ。例えば米国科学の貫戦史における連続性・不連続性は、日本科学史の連続性・不連続性とずれている。このずれが科学上の国際交流において引き起こす現象は興味深いと思う。
第二の問い、科学史を「エリート男性の歴史」から脱却させることは、私のように基本、周縁にいて科学史からもずりおちそうな人間には魅力的である。日本の科学史は長い間、西洋中心・男性中心だった。その要因の一つは科学思想史的なアプローチが優勢だったことだ。思想を体系化して述べるようなチャンネルが与えられているのは、エリート男性だからである。
ご指摘のように拙著は仁科芳雄だけを描いたものではなく、あまり知られていない人物が多く登場するが、彼ら彼女らの役割が周縁的であることは否めない。しかし、実際に男性中心的であった時代の科学のことを描いて、その問題点や偏向を明るみに出すのも脱却の一つの在り方である。例えば、拙著でも若い男性の集団からなる活発な研究者集団は決してよいことばかりではなく、マチズモに起因する問題を指摘している。別の脱却の方法は、「科学」概念を解体しその特権性を問い直し、周縁化されがちな知識生産の形態を科学史研究の対象に取り込むことだ。例えば、この合評会の企画者の古川安先生が主宰する日本の女性科学者を対象としたプロジェクトでは、もう一人の企画者である水島希氏が家政学の歴史研究に取り組んでいるが、これは有望なアプローチだと思われる(4)。
1. これについては次の文献でも論じた:Kenji Ito, “Cultural Difference and Sameness: Historiographic Reflections on Histories of Modern Physics in Japan,” Evelyn Fox Keller and Karine Chemla, eds., Cultures without Culturalism: The Making of Scientific Knowledge (Duke University Press, 2017), pp. 49-68.
2. これは例えば、実験室研究における「文書への描出」の分析によっても示唆される:ブリュノ・ラトゥール, スティーヴ・ウールガー(金信行ほか訳)『ラボラトリー・ライフ――科学的事実の構築』ナカニシヤ出版,2021, pp. 59-79.
3. トマス・クーン(青木薫訳)『科学革命の構造 新版』みすず書房,2023.
4. これについては例えば次を参照:ロンダ・シービンガー(小川眞里子・藤岡伸子・家田貴子訳)『科学史から消された女性たち――アカデミー下の知と創造性』工作舎,初版1992, 改訂新版2022, pp. 132-146.
評者から著者の応答に対する短いコメントをいただいた後、最後に、参加者からいくつか質問をいただいた。仁科はどのように語学を学んだのか、岡山中学の影響があったようだが仁科が受けた語学教育に関する資料は残っているか(伊藤氏応答:岡山中学の教師が優れていたことは確か。仁科は当時ESSに所属しておりシェイクスピアなどは読んでいたようだが具体的な詳細は未調査)、広島・長崎の2発の原爆投下後の仁科の反応について、ウラン濃縮に困難を抱えていた仁科は、爆縮という仕組みに興味を持ったのだろうか(伊藤氏応答:2発投下したことに対する反応は不明。原爆の作り方自体には戦後も関心を持ち続けたと言われているが、爆縮方式そのものには関心を持っていなかったように思われる)などである。
そのほか、評者、企画者も加わりジェンダーに関連する議論も続いた。合評会全体を通し、「エリート男性の歴史」からの脱却、マチズモと帝国主義との関係、ホモソーシャルな環境、といったフェミニズム的論点が数多く挙げられたことは、仁科芳雄に限らず、これまでの日本の物理学者の伝記をめぐる議論ではほとんど見られなかった現象だと思われる。今回、合評会を主催した葉山科学史・科学論ゼミナールでは、科研プロジェクト「日本における女性科学者の誕生についての系統的研究」(古川安代表)の議論も行っている。『励起』が他の研究プロジェクトと交差し、議論がさらに発展する可能性が示されたことは今回の合評会で得られた大きな成果の1つと言えるだろう。ご協力いただいた評者の皆様、参加者の皆様、そして著者の伊藤憲二氏に深く感謝する。(企画者)
[主催]葉山科学史・科学論ゼミナール