
中井菜央 個展「ゆれる水脈」のお知らせ
『ゆれる水脈――写真 表象のさきに』刊行記念 ふげん社(東京・目黒) 9月11日(金)-10月4日(日)
2026年8月24日
本書は写真家・中井菜央による、半生と制作経験の記述を通じ、「撮る者にとって写真というものが何であり得るか」を示す書である。
かつてロラン・バルトは、写真を見る者の立場から、「写真」のエイドス(本性)を定着するために、客観を必須とする科学の方法を断念し、かえて、主観の明証性を利用した。『明るい部屋』(花輪光訳、みすず書房刊)である。
同様に、中井は、「私」を一般化せず、「私」を「私」のままに、「写真」に迫ってゆく。それは、自ら写真を撮る者の立場から捉えた「写真」のエイドスである。
中井は、写真制作にあたって、あらかじめテーマを設定することなく、モチーフだけを決めて撮影に入り、その過程でテーマを見出してゆくスタイルを取ってきた。
けして知られぬ世界そのものを、カメラは客観的に、人は主観的に、それぞれ表象にして捉え、「写真」において客観と主観は総合される。その「写真」=世界の現れは、世界そのものと「私」を垣間見せようとする。
〜。私の内にいくら目を凝らしてもただただ不分明でしかなかったものが、私の外に在るものをひたすら見つめて見つめて、そうして写真にすることで見いだせることの不思議さ、言い換えれば、外へ向かった果てに内が見いだせることの不思議さ。喩えるなら、我が家を出て、世界の果てをめざし、長い長い旅を続けたある日、目の前に我が家が出現するような不思議さ…。(50頁)
写真を撮り重ねることで、ものの見え方、すなわち世界の現れ方は変様する。そうでなければ、私が写真でなにかを考えたとしても、それはほんの思いつきであったということだ。自分の内奥に潜んでいるものの存在に、写真によって気づくとき、ものの見え方・世界の現れ方は変様する。目前の世界で、常に背景に沈んでいたものが浮上してきたり、前景に見えていたものの構成が変じたり、全体に捉える気配が様変わりしたりする。そして、目の惹かれる対象も移ろう。(71頁)
観念はそうして数を増し、その結びつきを変化させ、あるいは複雑にし、私たちが世界から掬い上げるイメージ(表象)を、より世界世界そのもの、刺繍の裏の糸の交錯のような実相に少しずつ近づける。たとえ到達は困難でも、いや、世界そのものを見るということが絶対の不可能でも。(138頁)
中井は、そうして「私とは、世界とはなにか」を一貫して問い続けてきた。本書では、その一連の経験が具体的に語られ、一歩一歩、「写真」のエイドスににじり寄ってゆく。
子供の私は、明るい白灰色の曇り空からにじみ出てくるように現れる綿雪が、地面に落ちて儚く消えるさまを飽きることなく眺め続けた。私は「雪」を見ていた、けれども、むしろ「今」に同化して「時」を見つめていたと、『雪の刻』を創り終えてそう思うようになった。あの雪の光景が、私の深奥の水脈に合し、その流れとなり、そうして長い年月をかけて私を『雪の刻』の制作へと導いたのだとも。子供の私は、私なりの永遠を見いだしうる、その淵に立っていたのかもしれない……(117頁)
港通いの数ヶ月を経て、ようやく底引き網の漁への同行が許され、早朝からの漁の、約束の三時に間に合うには、二時に起床しなければならなかった。
事前に何をどう撮るかを定めない私は、心の深奥の水脈が揺れて『これ!』と感じられる被写体の有無を、その場で確かめてゆく。だから、漁の船にもまずは乗ってみると決めていた。
闇のなか、桁引き船と呼ばれる中型船の明かりに、出航を控える十数人のシルエットが入れ替わり立ち替わり浮かんでは消える。(126頁)
写真制作も、今回の執筆も、中井を導くのが「水脈」、心の深奥の無意識。それは言葉の外にあって、意識の私への非言語の意思表示を行い、それが「ゆれる」である。
中井は、生きる「水脈」が論理的な整流でも、ただ混乱した流れでもないといい、テキストでは、観念が、記憶が、思いが、その流れを模して構成されていく。
「水脈」に流れる諸観念は思いがけない配列で響き合い、テキストはその響きを帯び、それは読む者ひとりひとりの「水脈」とも響き合う。
「写真」を人生の選択とし、愚直にそれと向き合ってきた写真家が、自身の過去、また現在に対峙し、そこに浮上してきた言葉を掬い、綴る。その一つ一つが、言葉に写し出された写真の一葉一葉としてここに在る。
全46枚の写真(カラー)は、2枚の未発表作品を除き、2024年から2026年の執筆時期に並行して撮り下ろされた。