みすず書房

新刊紹介

ご冗談でしょう、ラマクリシュナンさん

2025年12月23日

構造生物学者ヴェンキ・ラマクリシュナンが2009年にノーベル化学賞を受賞するまでの日々を綴った科学ノンフィクション『ジーン・マシン―ー細胞のタンパク質工場「リボソーム」をめぐる競争』。本書の読みどころについての専門的知見を踏まえた解説は、田口英樹先生によるものが巻末に収録されています。とても明快でためになるので、ぜひご一読ください。

 ・『ジーン・マシン』解説(「WEBみすず」で前半を公開中)

本稿では、上記「解説」にある想定読者のA「生命科学について興味はあるが詳細は知らないという一般の方々」に対象を特化して、担当した編集者の立場から、本書を読むうえで理解を助けるイメージやキーワードを提示し、ともに読むと理解の深まる関連書とあわせてご紹介したい。

 

読書室としてのリボソーム

DNAや遺伝子と比べると知名度の低い「リボソーム」の存在を、専門外の人が学ぶとどんなメリットがあるのだろうか。私が本書に関心をもったきっかけから、この問いに答えるとすればそれは「タンパク質の生まれ方が具体的にイメージできるようになる」ということに他ならない。タンパク質という単語を聞いて、食品に含まれる「三大栄養素」の「たんぱく質」としてイメージする人は多いと思われるけれど、実際にはタンパク質は生命活動のほぼすべてに関わっている機能分子なので、燃料や素材というより道具や工場だ。タンパク質(と一部のRNA)が「機能」をもつことの重要性に、生命科学の本を読むまで私は全然気がついていなかったので、ここで強調しておきたい。

「タンパク質は生命体でさまざまな機能を実行する。たとえばタンパク質は筋肉を動かす。光、手触り、熱を感じさせ、病気を撃退する。肺から筋肉に酸素を運ぶ。思考と記憶もタンパク質で可能になる。酵素と呼ばれるたくさんのタンパク質は、細胞内に何千という分子をつくる化学反応を触媒する。突き詰めれば、タンパク質は細胞に構造と形を与えるだけでなく、その機能をも可能にするのだ。」 (第2章 リボソームとの遭遇)

アミノ酸の長い鎖であるタンパク質は、それがさまざまな形状に折り畳まれることで多種多様な機能を果たしている。その素材となるアミノ酸がどういう並び順になるのかを指定しているのが遺伝子だ。しかし遺伝子とよばれるDNA領域はひとりでに動いてくれるわけではなく、細胞の書庫のなかに保管されて読み取られるのを待っている。その書庫から必要な情報を呼び出して、実際に「読む」という作業をすることで初めて、DNAの情報は実際に機能するものになる。その「読み作業」をするための「動く読書室」がリボソームだ。生命活動において、情報と機能を結びつける「交差点」に位置する分子がリボソームだといえば、その重要性が伝わるだろうか。本書はリボソームの世界的第一人者が書いた本なので、そのメカニズムについては自伝的エッセイとは思えないほど詳しく本書に記されている。

 

クセの強い著者の文体と、多すぎる登場人物について

本書を読むうえでハードルとなるのは、イギリスびいきの著者らしい、感情的に抑制の効いた文体と、出てくる人名の多さだと思われる。まず文体について。ラマクリシュナン氏の文章は正直言ってそんなにリーダブルではない。研究手法の解説が深まってきたと思ったら、次の段落に研究者のファッションが書いてあったりして、難易度の上下動が激しい。専門用語は本文に説明があり、ことさらに難しい表現が出てくることはないのだが、ところどころ「その情報、いま必要?」という記述が挿入されていて戸惑う。たとえば著者の恩師、ピーター・ムーアについてはこう書かれている。

「彼は茶色いコーデュロイのジャケットなど、いかにもプレッピーらしい服装をしていて、分厚い眼鏡と立ち居振る舞いのおかげで、アイビーリーグのインテリの既成概念にぴったりはまっていた。そして彼は実際その通りだった。若いうちに出世コースに乗り、そこから外れることはなかったので、生涯にわたってエリート機関にいるわけではないとはどういうことなのか、真に理解していたかどうか私にはわからない。」 (第2章 リボソームとの遭遇)

ムーア氏は、著者がインドからアメリカに移住して、物理学から生物学への進路変更で苦労しているときに、イエール大の研究室に受け入れた先生であり、その後ラマクリシュナン氏が研究者として画期的な実験をするときにX線ビーム施設の予約をアテンドしてくれたり、ノーベル賞の選考委員に著者を推薦したりと、本書において最重要人物のひとりといえる役目を果たした大恩人である。しかし著者はそんな恩師に関して、どこか冷めた記述をするのだ。

「彼は70歳で自分の研究室を縮小し、散漫散乱という難解な問題に集中することにした。これは結晶内のブラッグ反射間で散乱するX線で、動いている分子の部位に関する情報を含んでいる。難しくて時代遅れの問題であり、理解するだけの関心とスキルの両方がある人はごくわずかしかいないだろう。」 (エピローグ)

この物事を見る眼の冷静さは、本書を通して一貫しており、一種独特なユーモアをもたらしている。どうでもいいことを妙に詳しく、大切なことは極力簡単に書く。この変なバランス感覚が著者の文章の持ち味である。好みが分かれそうだが、本書が終盤に近づくにつれ、さりげなく短い表現のなかに著者の万感の思いがつまった言葉をいくつか発見して、私は涙した。

もうひとつの本書を読み通すうえでのハードルは登場人物の多さである。何度も登場する人物を見分けやすいよう、日本語版には原書にはない「人名索引」をつけたので、ぜひこちらを活用しつつ読み進めていただけたら幸いだ。本書には科学史上の偉人から著者の友人まで200名を超える人物が登場するのだが、私はここにも著者の物の見方、ある種の哲学が反映されていると思う。それはノーベル賞に輝くような重要な研究は一人のひらめきや努力ではなく、集団の力によってなされるのだという事実、そしてはじめは重要でないように見えた人が、後日振り返って考えると結果的に果たしていた役割の重さである。リボソームの構造決定という生物学史上の偉大なブレイクスルーは、けっして受賞した3人の働きだけではないのだ、だからそこに関わった人々を残らず書き残しておこう――私は本書に登場する人名の多さに、そんな著者の執念を感じた。

 

あわせて読みたいブックリスト

最後に本書とあわせて読むと楽しい本をいくつか紹介したい。

リチャード・ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(大貫昌子訳、岩波現代文庫・上下巻)

大学の茶会で紅茶にクリームを入れるかレモンにするかと聞かれて「両方」と答えるなど、ユニークなエピソードが満載の、物理学者の自伝的エッセイ。本書との関連では、下巻の最後に収録されているカリフォルニア大学の卒業講演「カーゴ・カルト・サイエンス」で、本物の科学とえせ科学を分ける点が何かについて語られるところが特に興味深い。『ジーン・マシン』でラマクリシュナンはファインマンのことを「理性の英雄」と書いているが、ファインマンが説いた科学的良心、自分をごまかさない徹底的な正直さは、ラマクリシュナンに強い影響を与えたはずだ。

余談だがパーティーが苦手という点においても、ラマクリシュナンはファインマンゆずりで、大学のレセプションで緊張のあまり、自分の息子に向かって手を差し伸べ「お目にかかれてうれしいです!」と握手する場面は、個人的に『ジーン・マシン』のハイライトの一つだと思っている。

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)

DNAの構造発見と、そこで語られなかった裏側の歴史や、発見が人々の生命観に与えた影響について、著者の博士研究員時代の思い出とともに綴られた科学エッセイの名品。この本では歴史的な称賛を浴びることができなかった重要人物が「アンサング・ヒーロー」という言葉で語られるのだが、『ジーン・マシン』に登場するラマクリシュナンの恩師P・ムーアも、まさにこの概念にふさわしい人物だと思う。

ジェームズ・ワトソン『二重らせん』(江上不二夫・中村桂子訳、講談社ブルーバックス/『二重螺旋』青木薫訳、新潮文庫)

言わずと知れた生物学史の名著。『ジーン・マシン』原著に寄せられた賛辞でも、この本と比べて語る方が多かった。ノーベル賞を受賞した当事者が、研究生活を赤裸々に語っているという共通点はあるものの、ワトソン氏の本にはあまりない「謙虚さ」のようなものが本書『ジーン・マシン』には強く出ていると思うので、ぜひ読み比べていただきたい。

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『ジーン・マシン』はとっつきにくいところもあるものの、賞レースのスリルと、科学的態度のさわやかさを味わえる稀有な本です。ぜひ書店の店頭で、お手に取ってみてください。(編集担当:河波雄大)