梅原季哉
第二次世界大戦の終結から、80年。「ルールなど知らない」と言わんばかりの姿勢を取り、むき出しの軍事力をかざして、横紙破りを押し通すような国々の振る舞いが、目に付くようになった。
例えば、軍事力を使って隣国に侵攻し、国境を変更してはならないというのは、国連憲章をはじめとする国際法によっても明確に定められた、国際社会の「ルール」のはずである。だが、2014年にウクライナからクリミア自治州を奪ったのを皮切りに、2022年2月には全面侵攻に踏み切ったロシアは、プーチン大統領が言うところの「特別軍事作戦」には、そんな「ルール」など適用されず、無視しても構わないと考えているかのように映る。そして、相変わらずの「アメリカ第一」をかざしてホワイトハウスに戻ってきたトランプ米大統領は、「戦争を止める」と言いつつ、ウクライナを後押ししてきたバイデン前政権の方針をほぼ、反故にしてしまった。トランプ大統領はプーチン大統領のことを独裁者とみなしたり、非難したりすることを拒んだばかりか、ウクライナのゼレンスキー大統領に対し、自分に対する態度が「失礼だ」、「もっと感謝すべきだ」と難じ、「取引に応じなければ、我々は手を引く」などと、全世界が注視する面前で𠮟責を浴びせた。そんな構図を目の当たりにし、もはや米国を守護者として仰ぐことは期待できないと感じた欧州各国では、自分たちの軍事力を増強するほかないとの論が大勢を占め、英仏が米国に代わって核抑止力の「傘」を提供するべきだという論まで飛び出している。
力には力で報復、という論理が渦巻く中東では、イスラエルが2023年10月のハマスのテロ攻撃に対する自衛権の行使と称してガザ地区への侵攻を続け、子供たちも含む無辜の市民が犠牲になったという知らせが絶えない。たとえ自衛のために武力を使う際であっても、無差別の被害を市民に及ぼすような攻撃は国際人道法違反であり、許容されないというのが、やはり国際社会の規範だったはずだが、イスラエルはそうした批判に耳を傾ける姿勢をいっさい見せていない。
日本を取り巻く東アジアに目を転じれば、国家間の戦争こそ起きていないものの、現状は残念ながら、安寧とはほど遠い。北朝鮮は核・ミサイル軍備の拡充を着々と進め、かつては国連安全保障理事会で対北朝鮮制裁に賛成していたはずのロシアにウクライナ戦線で兵力を供給し、事実上の同盟関係に踏み込みつつある。中国は、グローバル経済の中で占める存在感も背景に、やはり軍拡路線を歩む。死活的利益と位置付ける台湾問題では、統一のためなら武力行使も否定しないという構えを強めている。
日本でも、「きょうのウクライナは明日の台湾」といった言説を、多くの政治家や識者らが口にするようになった。経済的には、右肩上がりの成長を謳歌できた時代はとうに過去の記憶となり、日本社会全体が少子高齢化に足を取られ、縮小基調の話が否が応でも耳に入ってくる。騒然とした国際環境のただ中にあって、これまで戦後80年、日本が軽武装の経済大国として享受してきた平和は、もはや心もとないものになりつつあるのではないか。そんな漠とした不安を抱く人は決して少なくない。
「戦争をしない国」としての戦後日本の自画像は古びたものであり、日本も「普通の国」になるべきだ、といった言説は以前から保守論壇では定石として唱えられてきたが、昨今はSNS上で、平和を説く人に対して、「お花畑」、「平和ボケ」と嘲笑する声が反響するさまも珍しくなくなった。
では、日本は「新しい戦前」に向かおうとしているのだろうか──。
本書は、綿密なデータに基づき、そうした既成概念に対して根拠のある形で疑義を呈し、異なる視点を提示している。読者の皆さんが平和な日本を信じたいか、懐疑的なのかにかかわらず、このような世界情勢の中だからこそ、ぜひ一読してみる価値のある一冊といえる。
原著Japan’s Aging Peace: Pacifism and Militarism in the Twenty-First Century(Columbia University Press, 2021)は、日本を主題とした研究調査の成果として、米国で出版された学術書である。原著のタイトルは、Agingという一語に両面性が込められているが、邦題ではそれを「老いと成熟」という二つの言葉に置き換えた。日本が好戦的なタイプの軍事主義に進まない背景として、「高齢化」が物質的な制約となっていると同時に、平和文化が「成熟」してきたことによる概念上の抑制も働いている、というダブル・ミーニングのAgingである。さらに、タイトル全体で、Aging Peacefully(穏やかに年を重ねる)といった含意もにじませている。
著者のトム・フォン・リ(Tom Phuong Le)氏は気鋭の国際政治学者で、カリフォルニア州のリベラル・アーツ名門校として知られるポモナ・カレッジの准教授を務めている。著者にとって初の単著となる本書は、彼が留学生として初めて日本を訪れて以来、現在に至るまで20年間にわたってのジャパン・ウオッチャーとしての蓄積を形にしたものといえる。
ベトナム系アメリカ人である著者は、冒頭の献辞や序文を読めばわかるように、日本人女性を伴侶とし、日本語にも通じている。これまでのキャリアを通して、日本では首都圏だけでなく、広島にも住んだことがあり、地方でのフィールドワーク経験も豊富だ。文化社会的にみて、「米国もまた東アジアの一部だと考えている」と述べる彼にとって、日本はもはや、単なる研究対象として外部から眺めてきただけの対象ではなく、個人的にもつながりを持ち、思い入れがある存在だろう。ただし、その分析手法はあくまで客観的であり、各種の統計データや、多くの人々を対象に積み重ねてきたインタビューを通じた観察結果などを駆使して導き出した結論には、それゆえの説得力がある。
本書の論旨について正確に理解してもらうには、訳者がこの一文の中で下手につまみ食いして紹介するよりは、本文を精読していただくのが本来は正道だろう。それでも、蛇足であることを承知の上であえて端的に指摘するならば、本書を貫く最大のキーワードといえるのが、「非軍事主義の生態システム(antimilitarism ecosystem)」である。
まず、国際関係論の先行研究の多くが「軍事(軍国)主義」対「平和主義」の二項対立という枠組みにあてはめて国家と軍事力の関係を捉えてきたのに対し、著者は、「軍事主義(militarism)」を、何らかの形で国家による軍事力行使を正当とみなす、ダイナミックで多元的な枠組みとして位置付ける。その下部類型としてさまざまなタイプが考えられるが、非軍事主義についても著者は、「軍事力の行使よりも外交を優先せよと説きつつ、場合によっては軍事力も正当化しうるとみなすという点においては、一種の軍事主義でもあるともいえる」(第二章)と指摘する。確かに、大まかに「根強い平和主義」と形容されがちな戦後日本社会の平和志向の社会・文化は、その内実をみれば、憲法九条の下でも自衛隊の存在を認めてきたし、冷戦後は特に、国際安全保障、中でも人間の安全保障に資するという文脈で、自衛隊の海外での活動を制限つきながら許容するようになったことを考えれば、絶対平和主義とは異なっており、「非軍事主義」というとらえ方の方がしっくりくる。翻訳にあたって、militarismについては、伝統的な「軍国主義」だけを指すものではなく、多元的な概念であるという著者の主張をくみとって「軍事主義」という訳語を原則として採用したが、場合によって、第二次世界大戦時の日本に言及した用例などについては「軍国主義」という語も併用した。
(中略)
著者は「日本語版に寄せて」で示唆しているように、日本の非軍事主義が時代遅れになったと批判しているわけでは決してない。むしろ本書は「不安定さを増す世界にあって安全保障に貢献してきた非軍事主義という困難な道のりへの肯定」だと位置付けている。ただし著者は、日本の平和文化を形づくる「ルール」が持つ、容易には変容しない「強さ」を指摘する一方で、政策的に主導権を握ることができない「弱さ」もフェアな形で描写している。それは指弾ではなく、どうすれば目的を達成できるようになるのかという教訓を学び取ってほしいという意図が背景にある。そうした教訓を学び取り、今後の課題に取り組むことで、日本だけでなく国際社会全体にとっての安定と繁栄につながってきた非軍事主義を、より普遍的で強靱なものにしてほしい──本書の結語からは、そんな著者の希望が感じられる。
――続きは本書をごらんください――
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