みすず書房

新刊紹介

『政治理論と動物』序論

2025年6月12日

動物という存在は、政治理論のなかでどうとらえられてきたのか。本書の主題を明瞭に示す「序論」を、刊行に先駆けて公開いたします。

序論――動物と政治理論

(抄)

本書では、政治的共同体がヒト以外の動物との関係をどのように律するべきかという問題を扱う。これは重要な問題であり、というのも当然ながら、すべての政治的共同体は、社会において動物がどう扱われるべきかに関して、なんらかの立場を表明しなければならないからだ。すべての政治的共同体は例外なく動物との重要な社会的相互作用をもち、そのなかで動物は伴侶、交通手段、畏敬の対象、働き手、神、食料源、あるいは単なる共有環境の一部といった、さまざまな役割を担う。政治的共同体はこうした相互作用を規制すべきか、またするとしたらどのような方法で、どんな理由で、どんな目的で規制するのかという課題について、重要な判断を下さなければならない。そしてもちろん、すべての政治的共同体は実際にこうした判断を下している。たとえば、過去数年を振り返るだけでも、数々の興味深い展開があった。2007年、イングランドとウェールズで動物福祉法が施行された。俗に「動物の権利章典」とも呼ばれるこの法律は、動物虐待の罰則を強化し、英国動物虐待防止協会(RSPCA)により大きな介入権限を与えるものだ。重要な点として、この法律はまた、動物の飼育者の法的義務の内容を大幅に書き換えた。イングランドとウェールズの動物飼育者は、ただ動物に対する残酷な行為を控えるだけでなく、飼育動物が適切に収容され、痛みを感じることなく、通常の行動をとれるように、積極的な措置を講じることを法的に義務付けられたのだ。一年後の2008年、スペイン議会は大型類人猿に拷問からの自由、生存権、自由権を認める法律を制定することを勧告する決議を採択した。評論家の間には、この動きについて、議会は事実上、動物に人権を与えるよう勧告したのだという意見もあった。さらに一年後の2009年夏、中国の法曹界は、同国初の動物福祉法の起草に向け、手探りながらも一歩を踏み出した。現状、中国ではペット用または食肉用として販売される動物を殴打したり、拷問したり、殺したりしても、罪に問われることはない。

これらの例は、個々の政治的共同体がヒト以外の動物の扱いに関して異なる立場をとることを端的に表している。もちろん、先の例に基づいて、それぞれの政治的共同体における動物の扱いに違いはあれど、全体として同じようなトレンドが見て取れると論じることもできる。国家による動物の保護が拡充され、改善されつつある流れのことだ。しかし、動物福祉法規が概して厳格化しつつあるという主張は一理あるものの、だからといって必ずしも現実に動物が置かれた状況が改善しているとはいえない。たとえば、現代社会において飼育され、屠畜され、食用にされる動物の数を考えてみよう。世界の一人あたりの食肉消費量は、1961年から2007年までの間に二倍以上に増加し、2050年までに再び倍増すると予測されている。政治的共同体においてより厳しい動物福祉法規が施行される傾向があるのは確かだとしても、そこでは同時にかつてないほど多くの動物たちが飼育され、屠畜され、食用にされているのである。政治的共同体が動物との関係をどう律するべきかを問うことは、単にどんな法律を制定するかという問題にとどまらないのだ。

本書のおもな関心は、政治的共同体が動物の扱いに関して、なぜ現状のようなスタンスをとっているのかを説明することではない。また、政治的共同体がこれまでにとってきたさまざまなステップを比較することでもない。本書の目的はむしろ、政治的共同体はこれこれの方針をとるべきであるという、さまざまな政治理論家の主張をタイプ別に紹介し、分析することにある。言い換えれば、本書で扱うのは「規範的」問いであり、政治的共同体が動物との関係をどう律するべきかという問題だ。たとえば、イングランドとウェールズの動物福祉法は、動物福祉の法制化に向けた重要かつ前向きな展開なのだろうか? それとも、切羽詰まった保守派の一手であり、人間が動物をみずからの目的のために所有し搾取することは許されるという考えを定着させるものでしかないのか? スペインは大型類人猿にも人権を与えるべきなのか? もしそうだとしたら、いずれは大型類人猿にとどまらず、こうした権利を感覚をもつすべての動物にまで拡張すべきなのか? 中国は、英国やスペインなどの欧州諸国にあるような動物福祉法規を制定すべきか? それとも、中国は自国の共同体の動物に対する態度に基づいて、まったく異なる方針を打ち出すべきなのか? このような規範的問いが、本書の主題である。

しかし、重要な但し書きとして、本書では動物に関連するありとあらゆる規範的問いを扱うわけではない。そもそも本書は政治理論についての本であり、政治理論家のおもな関心は、個人ではなく政治的共同体がとる行為にある。したがって、政治理論家は、わたしたち一人ひとりにベジタリアンになるべき道徳的義務があるかどうかといった疑問には、あまり関心をもたない。これらはむしろ道徳哲学が扱うテーマだ。それよりも、政治理論家がずっと興味をもちそうな疑問としては、政府が食肉業界とどんな関係をもつのか──支援するのか、規制するのか、廃業を迫るのか──といったものがある。だからといって、政治理論家も個人の道徳心にまったく関心がないわけではない。共同体は言うまでもなく個人の集まりであり、国家の政策は個人の規範と行為に決定的に依存する。加えて、これから見ていくように、一部の政治理論家は、個人のよき生と政治的共同体の繁栄は分かちがたく結びついていると考える。こうした指摘は重要だが、それでも政治理論の最大の関心事が、政治的共同体がいかにみずからを律するかであることは、心に留めておくとよいだろう。これはつまり、政治思想家自身の言葉で言えば、政治理論の最大の関心事は「正義」である、ということになる。

本書で取り上げるもっとも重要な論争のひとつが、動物は正義の対象になりうるか、あるいはなるべきかをめぐるものだ。後述のように、さまざまな思想家がこの問題について異なる見解を示してきた。しかし、いまの段階で、動物を正義の対象に含めるというのが実際はどういうことなのかを、ある程度把握しておくことが重要だ。わたしの考えでは、これには二つのことが含まれる。第一に、正義を動物に拡張するとはすなわち、動物の扱いは政治的共同体のなかで強制すべき問題であると認識することである。つまり、動物を正義の対象に含めるとは、わたしたちと動物の関係を単なる私的な個人の問題とみなすのではなく、公的かつ政治的な問題、国家が規制すべき問題とみなすことなのだ。したがって、たとえばわたしたちは、論理的に言って中国は現在のところペットや家畜動物を正義の対象に含めていないと判断できる。なぜなら、中国には動物をどう扱うべきかに関する強制可能な国家法がないからだ。しかし、第二に、正義を動物に拡張するとは、動物の扱いは政治的共同体が動物自身の利益のために強制すべきことであると認識することでもある。そもそも、動物を正義の対象に含めるとすれば、そこには動物は正義に値するという暗黙の了解がある。かりにある国家が動物福祉法を、動物自身が置かれた状況を憂慮してではなく、思いやりを示すのはよいことだという考えだけに基づいて施行したならば、この政治的共同体が正義を動物に拡張したとみなすことはできない。むしろ、思いやりや慈善を動物に拡張したと評するほうが適切だろう。そうではなく、ある個体が正義の対象に含まれるのであれば、その個体は自身の利益のために一定の扱いを保証されるのであって、他者の利益のためだけにそうなるわけではない。たとえば、欧州連合(EU)が1997年に調印したアムステルダム条約では、法的拘束力をもつ議定書のなかで、研究、運輸、農業、国内市場に関する法令を制定する際には動物の福祉を考慮すべきであると明言されている。注目すべきは、同議定書において、この条項は動物がもつ感覚に基づき、動物のために存在することが明記されていることだ。つまり、同議定書は、動物は動物自身の利益のために正義に値することを、EUが明確に認めた文書とみなすことができる。EUと中国の対照的なスタンスを見れば、動物が正義に値するかどうかが、重要かつ意見の分かれる問題であることがよくわかる。加えて、この問題は国家間だけでなく、政治理論家の間でも議論の的となる。

では、政治理論家は動物の問題についていったい何を言っているのか? 動物が正義に値するかについて、動物のための正義が具体的に何を意味するかについて、どんな主張をしているのか? 本書はこうした疑問に、現代西洋政治理論の主要学派を体系的に取り上げ、それぞれが動物について示唆することを検討していく。功利主義、リベラリズム、共同体主義、マルクス主義、フェミニズムを順に紹介し、それぞれが動物のための正義にまつわる議論にどのように貢献してきたかを検証し評価する。しかし、その前に重要な注意書きを示しておこう。政治理論において、動物の問題がおおむね無視されてきたことを忘れてはいけない。ごく単純に言って、ほとんどの政治理論家はこれまでも、いま現在も、政治的共同体が動物に対して何をなすべきかに関して、何の主張もしていない。政治思想の歴史を振り返ってみれば、この沈黙は誰の目にも明らかだ。もちろん、だからといって動物が政治理論の主要文献において一切言及されていないわけではない。実際、政治思想家はしばしば著作に動物を登場させてきたが、それらは比較対象として、上位存在である人間を際立たせるために利用されるだけだった。政治理論家はしばしば動物を引き合いに出して人間に固有の特徴を指摘し、その特徴に基づいて、政治的共同体がどうあるべきかに関するみずからの主張を組み立ててきた。たとえば、アリストテレスが考える人間に固有の特徴とは道徳と知的美徳の能力だった。それゆえ、政治的共同体の究極的目標はこれらの徳を増進することであると、彼は主張した。一方、キケロやトマス・アクィナスといった理論家にとって、人間に固有の特徴は理性だった。かれらは、人間は理性のはたらきにより自然法を導出でき、これを国家法の基礎とすべきであると論じた。さらに、マルクスに言わせればヒトを定義づける特徴は生産労働であり、彼によれば、この力の完全な実現は共産主義社会においてのみ達成可能だった。

これらすべての例において、政治理論家は動物を利用しつつ、政治的共同体がいかにみずからを律するべきかに関する主張を組み立てた。しかし、どれをとっても動物の扱いを自身の主張のなかに含めることはなかった。ここで取り上げた思想家(アリストテレス、キケロ、アクィナス、マルクス)はみな、ヒトと動物は質的に異なり、そのため動物を正義の対象とみなすことは適切でないと考えた。かれらは動物の扱いを、私的、道徳的、あるいは宗教的問題として興味深いものと考えたかもしれないが、ここにあげた理論家にとって、それは政治的共同体が規制すべき問題ではなかった。動物の問題に対するこのようなアプローチは、大なり小なり現代の政治理論にも受け継がれている。現代の政治理論家の多くもまた、現代の政治的共同体が直面するさまざまな切迫した課題と比較して、わたしたちが動物をどう扱うかという問いは考慮に値しない、またはごく些細な問題だと考えている。

しかし、政治理論家が動物の問題を無視してきたことを誇張することもまた慎むべきだ。政治的共同体は動物に対して何をなすべきかという問いが、理論家にとって重要性を帯びるようになったのは1970年代のことで、これはとりわけ「アングロアメリカン」の系譜に属する理論家と関わりが深い。第三章で取り上げるが、1975年に初版が刊行されたピーター・シンガーの『動物の解放』は、現代の共同体が家畜動物や実験動物、その他の動物をどう扱うべきかという問題への関心を劇的に高めることに貢献した。シンガーの著書は、現代社会がごくわずかな恩恵のために動物に信じがたいほどの虐待行為をおこなっていることを暴き出すとともに、このような不正義を非難し是正するための功利主義的枠組みを提示した。重要な点は、シンガーの著作が政治理論家によるさまざまな反応を(いまなお)引き出しつづけ、これにより動物が正義に値するか、具体的にかれらにどんな正義をなすべきかといった問いが、現代政治理論の文献に頻出する話題となったことである。

加えて、動物の問題への取り組みを現代に限った現象と捉えないことも、また重要だ。アリストテレス、キケロ、アクィナス、マルクスはいずれも動物に関心を向けなかったが、政治思想史においては、動物の問題を正面から取り上げた理論家もいた。それどころか、動物のための正義をめぐる現代の議論の多くは、かつて通ってきた道なのだ。……

――続きは書籍をごらんください――

(著作権者のご同意を得て抜粋・転載しています)