原 直史
(新潟大学人文学部教授)
はじめに、縁あって本書日本語版の出版に、監訳者という身に余る立場で携わることができたことを、心から嬉しく思う。のちに述べるように、私は早くから本書の英語版原著や常野を扱ったさらに以前の論文に触れ、その内容に非常に魅力を感じていたからである。
エイミー・スタンリー氏は、アメリカにおけるアジア史・日本史の研究者である。氏にとって日本史は当然外国史であり、母語ではない言葉、しかも今は使われていない古い日本語を、当時の「くずし字」で読み解きながら研究を重ねてきた。私は大学院生時代に、同じように19世紀の手書きのオランダ語文書を読むゼミに参加していたことがあり、その大変さは容易に想像できる。私はこれも不思議な縁で、最近スタンリー氏の大学院での恩師にあたる、ハーヴァード大学のアンドルー・ゴードン教授と知己を得ることになったが、教授はスタンリー氏を、非常に優秀な学生で、とりわけ古文書の読解に関しては抜群であったと評しておられた。
スタンリー氏が常野を最初に紹介したのは、おそらく2016年4月、The American Historical Review(『アメリカン・ヒストリカル・レビュー』)誌第121巻第2号に掲載された、「Maidservants’ Tales :Narrating Domestic and Global History in Eurasia, 1600‒1900」である(「女中奉公の物語──一七〜一九世紀ユーラシアにおけるドメスティックかつグローバルな歴史の語り」として、2025年刊の『資料学研究』第22号に拙訳を掲載している)。この論文でスタンリー氏は越後の林泉寺を出奔して、江戸で奉公を重ね、最終的には井沢博輔と結ばれて江戸に定着した常野の生涯を紹介したが、この論文の圧巻は、同じように故郷をあとにして都会に働きに出、女中奉公を重ねて最終的に都会に定着する女性のケースが、ヨーロッパからアジアに至るユーラシア全体で、非常に多く見いだせる「普遍的な物語」であること、これは「近世(Early Modern)」と呼ばれる17〜19世紀にかけての時代相と深く結びついていることを、膨大な文献の渉猟とともに明らかにしたことであった。私はかつて、「近世越後の女性を扱った英語論文がある」旨を聞き及び、この論文と出会った。かなり以前のことである。そして衝撃をうけた。
近代以前の女性が、コミュニティや家から離れて一人で生きていくさまを考察する際、私たちはしばしば遊女・娼婦としての境涯に注目しがちである。スタンリー氏が最初に出版した著書も、Selling Women: Prostitution, Markets and the Household in Early Modern Japan(『売られる女性──近世日本の売春・市場・世帯』[未訳])(2012)であり、まず売春に触れられていた(他方でhousehold=世帯の維持に既に着目している点も見逃せない)。他方で近世ユーラシア各地の都市では、社会経済の発展によって、支配層や富裕層・中間層の家における家事労働需要が広く成立し、女中奉公人が大量に求められたのだった。彼女たちはたしかに、売春せざるを得ない窮地に陥ることもあり得たが、常野のように、少なくとも売春を生業とせず女中奉公を渡り歩いて生き抜く女性もまた多かったのである。
この論文のスタンリー氏の手法は、一次史料を用いて常野の生涯を詳細に深く分析していく「マイクロ・ヒストリー」の手法と、ユーラシア規模に広がる各地の女性の事例を広く渉猟し比較する「グローバル・ヒストリー」の手法を組み合わせた「マイクロ・グローバル・ヒストリー」の手法といえる。この手法を用いることで、近世ユーラシアにおいて女中奉公が持った意味の大きさを、氏は実に説得的に示したのであり、私はそのことに、興奮に似た興味を覚えたものである。
そして2020年、スタンリー氏は本書の英文原著を出版した。当然私も買い求めた。そして再度興奮することになる。本書は研究論文とは違った、また別の大きな魅力を身にまとって、私たちの前にあらわれたからである。
本書の魅力のひとつは、詳細な背景描写にある。原著は日本の江戸時代についての前提知識があまりないであろう、英語圏の一般読者にむけて書かれた。したがって、当然背景の説明が多くなる。では、日本人読者にとってそれらは不要かというと、答えは否である。日本人の一般読者が思い浮かべる江戸時代像は、往々にして近代以降に定型化した時代劇の中のそれであったりすることも多い。しかしスタンリー氏は、参考文献を見れば一目瞭然のように、最新のものも含めた、日本語、英語による良質で確かな先行研究の成果を、十分に咀嚼したうえで、背景描写に生かしているのである。例えば中山道を板橋宿から江戸の町に入り、駒込・本郷・湯島を経由して内神田に落ち着くまでの常野たちの歩みに沿って、語られる背景描写はどうだろう。町並みの様子、大名屋敷の内と外、神田明神の祭礼の意味、神田市場の喧騒と黙々と荷を運ぶ人足まで、リズミカルな筆致で綴られる背景描写は、そこを移動する常野たちの足取りを、ビビッドに浮き立たせ、まるで目に見えるかのように伝える舞台装置の役割を担いながら、江戸の町のあり方と奥行きを余すことなく紹介する役割をも担っている。
身分制に基礎をおいた江戸時代の社会は、支配者である武士から百姓、町人、さらにここで描かれた「人足」たちや、町奉行の下での処刑の場面に登場する被差別身分の人びとに至るまで、多層的なレイヤーをなしている。「人足」たちの姿には市場の問屋商人は目を留めもしない。幕閣の武士も彼らとは別の世界に生きている。しかし「人足」がいなければ市場に商品は集まらない。そして幕閣は江戸に流入し「人足」などとして暮らす人口が増えることによる社会の動揺に無関心ではいられない。江戸のような巨大都市であればあるほど、身分制が作り出す無数のレイヤーはどこかで繫がりを保ち相互依存しながら、「都市」全体を作り上げている。これこそが江戸という巨大都市の底知れない奥行きである。
― 続きは本にてごらんください ―
© HARA Naofumi 2026
(筆者のご許諾を得て抜粋転載しています)
