みすず書房

新刊紹介

「梗概」全文公開 宗教形象とイメージ史の名著

2024年8月9日

前田耕作(和光大学名誉教授)

1962年、レヴィ=ストロースの『野生の思考』が出版されたとき、呈示された「未開の思考」の在り様が民族学の枠組みを超えて現代思想に多大な衝撃を与え、構造主義の流行のきっかけをつくったことは、60年代の思想史的事件としていまでも記憶されている。だがこのときレヴィ=ストロースが力点を置いた無文字社会における「宗教形象」の問題はヴェルナンを除いてはそれほど重要視されなかった。

それまで古代ギリシアの神話と思想と社会構造の問題を主として研究してきたヴェルナンは、ひとりレヴィ=ストロースが展開した「宗教形象」の分析を古代ギリシア文化にも適用し、主題化する必要を痛感し、それまで素描のままに放置してきたモチーフ「イメージ」論を再考、70年代のコレージュ・ド・フランスで「ギリシアの宗教思想」において神像が果たす機能の分析にとりかかる。なぜギリシア人は人形(ひとがた)の神像に特別の関心を抱いたのか、ギリシア人にとってそもそも像とはなんであったのか、この基本的な問いをプラトンのミメーシス論からカッシーラーの象徴論に至る理論の流れを検討し、造形の象徴性を理論的に解き明かす道筋を示す。それは古代ギリシアの研究域で神話(ミュトス)と理性(ロゴス)の間に第三の軸(イメージ)を打ち立てる試みでもあった。

「ジョルジュ・デュメジルはマルセル・グラネの言葉を引いて〈方法とはその人が経めぐった後に残した軌跡のことだ〉(辿った道が方法になる)といったが、本書で私が扱った難しい問題、イメージの歴史人類学にとっても、やはり同じことがいえよう」とヴェルナンは語っている。


もっとも基本的でもっとも応えられていないギリシア文化の問題は、なぜ神が人間の形として表現されたか=神人同形の思想的起源の問題である。最初に呈示される理論的展望は、「古代宗教比較研究」という講座名に沿うもので、今日でも宗教史の考察には極めて重要な指針の役割を果たすだろう。

ヴェルナンの本書の主題もそこにあり、第一章は見えないものである神の力をいかに見える形に表したのかを、ギリシア人の「分身」という考え方を心理学的に分類しながら、やがてイメージ(像)へと辿り着くプロセスを古文献と考古遺物の分析を通して明らかにする。この場合、バンヴェニストが語源分析をした「コロッソス」(巨像)という言葉が解明の糸口となっている。

第二章以下は、異神(=他者 ゴルゴン・ディオニュソス・アルテミス)の文献・遺物の具体的な分析と個々の主題についての問題点を、人文諸科学の最新の成果に照らし合わせながら多角的な視野から洗い出す。

第二、三章では、詩と悲劇のなかで「身代わり」ということが、どんな形態をもって表れるかを追求することで、死者の姿が帯びる多層的な象徴性を浮かび上がらせる。

第四章では、仮面のもつ象徴機能を考古遺物の形象を手がかりにして解き明かしながら、ゴルゴンのもつ多重性(女性性・仮面性=他者性)を抽出する。

第五章では、ゴルゴンを分析したのと同じ手法を、ギリシア神話の中でもっとも把握し難い古い女神アルテミスに適用し、この女神をもっぱら豊饒の女神とする呪縛から解放し、アルテミスの越境的な多面性を明らかにする。それはギリシアの多神教の異教的根源を照らし出すことにもなっている。本書の面白さの白眉は、このアルテミス論の展開にあるといえる。

第六章はドゥティエンヌによって設定された問題、エウリピデスのディオニュソス神に捧げられた悲劇『バッカイ(バッコスの信女)』における仮面神の機能を分析し、ギリシア人の心性の変化の大きさを照らし出そうとするものである。ギリシア人の心性がその社会構造と不可分であることはいうまでもないが、ギリシアの宗教的側面の掘り下げは始まったばかりであり、その先駆的役割を果たしたヴェルナンの所論は、問題提起の広汎さにおいて、関連諸学との交錯のさせ方においても、規範的な在り方としての位置を保持し続けている。

本書は、神話学におけるヴェルナンの立ち位置・視座を簡潔に呈示しているだけではなく、なお未解決な古代宗教へのアプローチの思想的斬新さを失っていない。ギリシア神話・宗教への方法序説としても示唆に富む。

各章の末に付せられたセミナーへの貢献者への言及も講義録ならではのもので、今後の研究の方向と可能性を示唆するもので重要である。

なお1985年にアシェット社から出版された『眼の中の死』(及川馥・吉岡正敞訳、叢書ウニベルシタス、法政大学出版局、1993年)は、本書の第二部、第四章「神々の像 I ──ゴルゴン」と主題が一部重複している。

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(本書の翻訳出版の企画者であった前田耕作先生は2022年10月11日に逝去されました。)

  • ジャン=ピエール・ヴェルナン『形象・偶像・仮面――コレージュ・ド・フランス 宗教人類学講義」上村くにこ・饗庭千代子訳の目次ほか詳しい書誌情報はこちら(みすず書房ウェブサイト)