みすず書房

新刊紹介

「訳者あとがき」抜粋公開

2024年3月8日

大塚紳一郎

ここにお届けするのは子どもの発達、家族や教育といったテーマを扱ったユングの主要な論考を訳出したものです。全18巻あるドイツ語版ユング著作集のうしろから二番目、第17巻「パーソナリティの発達」の全論文が本書に収録されています。これに加えてなぜか第八巻に収録されている「人生の転期」論文も収録することにしました。人間の発達をテーマにした本書には欠かせないものだと思ったからです。

本書に収録されたこれらの論文のうち、突出して有名なのは「パーソナリティについて」と「人生の転期」の二本でしょう。どちらもユングの著作全体のなかでも特に重要なものとして、参照される機会の多い論考です。

「パーソナリティについて」はユングがあちこちで特に何の説明もなく用いている「パーソナリティ」という言葉の意味を真正面から論じた唯一の論考であり、ユング心理学の分野では必読文献のひとつに数えられるものです。もう一方の「人生の転期」はさらによく知られているかもしれません。人間の一生を太陽の行路に喩えた有名なメタファーが披露されているからです。比喩表現の名手であるユングが生み出した数多くの傑作のなかでも、この太陽のメタファーには特に人の心をつかむ力があるようです。実際のところ、発達心理学やライフサイクル論に関する講義や書籍のなかで、これを図解したもの──半円が四等分されているだけのシンプルな図──を目撃したことのある方も多いのではないでしょうか。

この二本の論文には眩いばかりの存在感があります。まさにスターの風格です。他の論文は後回しにして、まずはこの二本から先に読んでしまうのもよいアイディアかもしれません。

ただ、それ以外の論文はどうでしょうか? ユング心理学に詳しい方々にも、あまり知られていないものばかりかもしれません。そもそも、本書のもととなった著作集の第17巻は250ページほどしかない、比較的薄い一冊です。『心理学と錬金術』が収録された第12巻(600ページ以上あります)、『結合の神秘』の第15巻(三冊もあります)などの堂々たる姿と比べると、少々地味な印象は否めません。

本音を言うと、訳出を開始したころ、私は何度か不安に陥りました。「ひょっとして、これを面白いと思うのは、自分だけなんじゃないか」「時代に即さない記述ばかりが注目されて、それ以外の箇所は読んでもらえなかったら……」。本書の価値が伝わらなかったときのことを考え、ふと心配になってしまったのです。

けれども、訳出が進むにつれ、そうした心配を感じる機会は少しずつ減っていきました。そしてすべての作業を終えたいま、私は本書の価値を心から確信しています。「教育にとっての分析心理学の意義」はユング心理学全般、特に夢分析の恰好の入門編となってくれるでしょう。「分析心理学と教育」におけるユングの語りに真剣に耳を傾ければ、大人としての責任の重さに身が引き締まる思いがするはずです。「心理学的関係としての結婚」を読んで、結婚や恋愛という関係の奥深さを感じずに済む人がいるとは思えません。その他の論文も、それぞれ独自の魅力や意義を持つ、味わい深いものばかりです。時代や社会的背景の違いを乗り越えて読み継がれていく、特別な書籍と同じ力を本書に収められた各論考も有しています。

個人的な話になってしまいますが、じつは私がはじめて翻訳したユングの著作が本書に収録された「心理学的関係としての結婚」でした。学生時代にドイツ語の勉強のために、というのはもちろん建前で、実際には退屈しのぎに訳してみたのです。苦労して最後まで読み終わったときには、もちろんそれなりに感慨深いものがありました。けれども、年齢を重ね、大人として生きているいま、私はこの論文の味わいをはるかに深く感じることができています。読み返すたびに味わいを増していくような静かな魅力が、この論文にはあるようです。本書に収められた他の論考にも同じことが言えます。

思うに、それは私たちが誰かと友だちになることと少し似ているのではないでしょうか。もちろん出会った瞬間から意気投合する場合もあります。互いに性格や趣味嗜好、主義主張などがよく似ていて、たちまち理解し合えるということもあるでしょう。それはそれで素晴らしいことにちがいありません。

ですが、それとは反対に、仲良くなるまで時間のかかる相手もいるでしょう。出会ったときにはそれほど話す機会がなかったのに、時間を経て再会したときには、なぜか最良の友人になるということもあります。付き合いを深めていくうちに、はじめのうちは気がつかなかったその人の本来の魅力に気づいていくということもあるでしょう。時間がかかったぶん、気がつけば、自分にとってかけがえのない存在になっている──私にも何人か、そうした友人に心当たりがあります。

書物との出会いも、それと同じようなものではないでしょうか。本書はわかりやすい本ではないかもしれません。明日からでもすぐに使えるような、便利な心理学のテクニックを伝授してくれるものでもないでしょう。本書が伝えているのはむしろ大人としての責任、本当の意味で成長することの困難とその意義といった、重みのある課題ばかりです。けれども、だからこそ本書に収められた各論考は生きていく上で何度も振り返る価値のある、そしてそのたびに味わいが増していく、特別なものばかりなのです。

ユング心理学に専門的な関心を持つ方だけでなく、親と子の関係、教育の役割、人間の成長、つまり心に関心を抱くすべての人にとって、本書はかけがえのない一冊になる。私はいま、そう信じています。

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(筆者の許諾を得て抜粋転載しています。なお
読みやすいよう行のあきなどを加えています)