みすず書房

新刊紹介

〈長期主義〉思想と「客観的な証拠と入念な推論」

2024年1月10日

道徳哲学者マッカスキルは、2015年出版の前著『〈効果的な利他主義〉宣言!』(邦訳は2018年。千葉敏生訳)で、慈善活動をするなら「できるかぎりの影響」を与えられるように活動すべき、と主張した。この主張のキモは①「同じ金額と時間を使うならば、客観的な証拠と入念な推論に基づいて、より多くの人を救えるような使い方をしましょう」ということと②「配慮の対象は、身近で共感しやすい人だけでなく、遠い海の向こうに暮らす人びとも含めた世界の全員と考えてください」ということだ(もっと詳しくは、『〈効果的な利他主義〉宣言!』をご覧ください)。

この度刊行された『見えない未来を変える「いま」』で展開されるのは、前著の考え方のキモ、とくに②をさらに発展させた主張だ。世界の全員へと広げた目線を、今度は未来の全員へと向けてみよう、というのである。この発想のカギとなるのは〈長期主義〉という比較的新しい哲学的思想である。
この〈長期主義〉を標榜する論者にはさまざまな立場がある。極端なものになると、「長期的な未来にプラスの影響を及ぼすことが、現代の「唯一」の道徳的優先事項であり、現時点でそれ以上に重要なことはない」と主張する(「強い長期主義」。本書p. 326)。これは、今を生きる人びとは、未来を生きる人びとのことだけを考えて行動せよ、と言いかえることもできるだろうか。
こんな「強い長期主義」の極端な主張に出くわせば、そんな馬鹿げた考えになど付き合っていられない、と思う人は多いだろう。
だが本書は、そうした極端な立場はとらない。本書の立場は、「長期的な未来にプラスの影響を及ぼすことは現代の主な道徳的優先事項のひとつである」(p. 325)というものだ。著者はもう少しかみ砕いて「未来の世代の利益を守るために、私たちのすべきことは今よりずっとたくさんあるという考え方」とも説明している(p. 1)。未来のために現在のあらゆるものを犠牲にせよ、という主張では決してない。

とはいえ、数世紀~数百万年先の未来を考えるからには、世界戦争、AIの乗っ取り、気候急変など、どうしても推測せざるをえなかったり、空想に回収されてしまいがちな話題もある。しかし、これこそが本書の読みどころ。『〈効果的な利他主義〉宣言!』で重視した「客観的な証拠と入念な推論」は、本作でも健在なのだ。現在アクセスできる限りの証拠と、過去の歴史や科学的事実から行える限りの推論を駆使し、私たちが解決すべき問題の所在を明晰に整理することで、単なるSF的妄想にとどまらない、説得力ある議論を展開している。そして特に重要なのは、「いますぐ」実践可能な行動の指針が明確に示されていることだ。このことが本書を、単なる理想論ではない、地に足のついた水先案内の書としている。
また、本書は〈長期主義〉の思想を日本語で読める、初めての成書でもある。一見現実離れしていると批判されそうな考え方が、本当のところ何を主張しているのかを知りたい読者にも、大いに勧めたい。


ところで、本書の随所に、ガラスのたとえが現れる。以下にいくつか引用する。

……歴史は溶けたガラスに似ている。現時点では、社会にはまだ弾力があり、息を吹き込めば色々な形に変えられる。しかし、ある時点から、ガラスは冷え固まり、ずっと形を変えづらくなるだろう。できあがった造形は、美しいかもしれないし、醜悪かもしれない。または、ガラス自体が粉々に割れてしまうかもしれない。すべては、ガラスがまだ熱いうちに起きた出来事によって決まるのだ。(p. 14-15)

思想、出来事、制度などが色々な形を取りうる「柔軟性の時代」には、ある出来事が非常に重大で、持続的で、偶発的な影響を及ぼすことが多い。そして、そのあとには、硬直性や固定化の時代が待っている。この図式は、ガラス吹きに似ている。初めのうちは、ガラスはまだ溶けていて、息を吹き込むことで色々な形に変えられる。しかし、ガラスが冷え固まると、再び溶かさないかぎり、それ以上の変形は不可能だ。(p. 59-60)

……中国の諸子百家は、柔軟性の時代だった。まだ冷え固まっていないガラスと同じで、この時代の中国の哲学的文化は、息を吹き込めば色々な形に変えることができた。ところが、宋王朝の時代になると、文化はより硬直化した。いわば、ガラスが冷え固まったのだ。思想の変化が起こりえないわけではなかったが、それまでよりもずっと起こりづらくなっていた。(p. 104)

……未来の人々にとっての問題のなかには、私たちが原因で引き起こされるものもあるだろう。そして、問題の発生を食い止めることのほうが、起きてしまった問題を解消するよりも、たいていは簡単だ。ガラスを壊さないことのほうが、砕け散ったガラスをくっつけ直すよりも簡単だし、石炭を燃やさないことのほうが、大気中から二酸化炭素を吸い取るよりも簡単なのだ。(p. 333)

このガラスの比喩のように、次々と押し寄せてくる未来の形は、今こうしている間にも固まり始めています。よりよい未来の形とはどんなもので、どう実現すればよいかを考えるために、なるべく早く本書を繙いてみてください。悪化していく問題への対処は「いま」が一番御しやすいのですから。