私は、もともと本書を紀行記として著そうと考えていた。
ユダヤ教徒だった聖パウロが地中海を横断してジグザグに進んだように、ダマスキオスの旅路をなぞることは興味深いと思った。彼が旅したシリア、ダマスカス、バグダッド、エジプトの一部、トルコの南部の境界のすべての地に到達することはけっして容易ではなかったが、それはほぼ達成可能だった。
だが、この着想と本書を執筆する間に経過した何年かに、これを行うのは現実的に不可能になった。
これから書くように、それ以来、シリア内戦はシリアの一部を新たなイスラム国カリフの支配下に置いてしまった。音楽は禁止され、書物は燃やされた。英国外務省はシナイ半島北部へのすべての旅に注意喚起した。
2015年、イスラム国の民兵はイラクの都市モスルの南にある古代アッシリア帝国の都市ニムルドを「偶像崇拝」の町であるという理由で、強制排除しはじめた。イスラム国の民兵にハンマーを持たせ、およそ三千年昔の彫像をその台座から横倒しする画像は世界に行き渡った。
「悪しき偶像」は破壊される必要がある。パルミラでは考古学者たちによって注意深く修復されたアテナの偉大な彫像の遺跡が、さらにもう一度攻撃された。ふたたび、アテナ像は首なしになった。彼女の腕も切り取られた。
私の思い描いた旅は不可能になってしまった。その結果として、代わりに、本書は一種の歴史上の紀行記になってしまった。意義深い特定の場所、特定の時代で一時停止をし、ローマ帝国全土を旅をする。
いかなる紀行記と同様、私が的を絞った場所のそれぞれは個人的な選択であり、ある意味で議論の余地のある場所ではある。はじまりとして、古い神々と神殿への散発的な暴力をいっそう深刻なものに拡大した、紀元380年代半ばの帝国の東に位置したパルミラを選んだ。
しかし、同じように私はさらに昔の神殿攻撃もしくは、さらに後代の攻撃を選ぶこともできたはずである。それは、なぜどこかがはじまりであり、どこかははじまりではないか、という問題である。
私は結末として紀元529年頃の時代のアテナイを選んだ。しかし、さらに東の都市──住民たちがふたたびキリスト教に改宗できなかったとき、彼らは殺戮され、その手足が切り取られ、他者への見せしめとして通りの高いところに吊るされた──を選ぶことができたはずである。
これは古代ギリシア・ローマ世界における、キリスト教徒による破壊についての本である。破壊は、キリスト教徒の襲撃だけではなかった──火事、洪水、侵略、さらに時代そのものがその役割を演じた──しかし、本書は特にキリスト教の襲撃に的を絞っている。
これは教会がこうしたことを記憶に留めなかったためではない。記憶には留めた。しかし、この時代におけるキリスト教の善行の物語は何度も何度も語られてきた。そうした書物は図書館や書店で増えつづけている。
一方で、キリスト教が打ち破ってきた人々の歴史と苦しみはあまり語られてこなかった。本書はひたすらそれらに着目する。
本書で年代記として記録された破壊は数えきれない。それでもなお、現代世界では忘れられたも同然になっている。
もっとも影響力のある教会史家の一人は、キリスト教がすべての抑圧を止め、支配権を握ったそのときの瞬間を「かつてはあえて顔をあげなかった男たちまで、笑顔と輝く目で挨拶を交わした」と描写した。
後世の歴史家はそろってこう言った。なぜローマ人は改宗するのを喜ばなかったのか? 分別のある人々は、みっともない男根イメージを想起させるユピテルなどの神々と好色なヴィーナスなど、彼ら自身の宗教を実際にはけっして信じなかったという見解がある。
そうではなく、次のような主張もある。
ローマ人は思慮深い宗教(唯一神教と理解する)が姿を現すやすぐに、不合理で、紛らわしい儀礼のある多神教を進んで捨て、キリスト教徒になるのを待ちわびていた。
たとえば、サミュエル・ジョンソンがあいかわらず歯切れよく言ったように、「何も宗教を持たない者が容易に改宗できたのは、彼らが手放すものが何もなかったからである」。
ジョンソンは間違っている。多くの人が喜んで改宗したのは事実である。とはいえ、そうではなかった人も多かったのだ。
多くのローマ人、ギリシア人は彼らの宗教的自由が取り上げられるにつれて、にこやかな表情は消えた。書物が焼かれ、神殿が破壊され、古代の彫像がハンマーを抱えた乱暴者たちによって打ち砕かれた。
本書は彼らの物語を記述する。人間の歴史がこれまで目にしてきた、芸術に対する最大の破壊を臆することなく悼む本である。キリスト教の勝利の背後にある悲劇についての本である。
最後に一つの注を記す。
多くの善良な人たちは、多くのよい行いをするためにキリスト教信仰に駆り立てられている。私は、自分自身がほぼ毎日そうした恵みにあずかっている者であることを知っている。
本書はそうした人々への攻撃を意図したものではない。彼らが本書をそのように受け止めないことを願っている。
唯一神教とその武器をひどい目的に用いる人間は存在したし、いまなお存在する。キリスト教はより偉大でより強固な宗教だと言える──その事実を受け容れ、立ち向かおうとするなら。
(著作権者の同意を得て抜粋・転載しています。なお
読みやすいよう行のあき、改行を適宜加えています)