「アルファロメオ狂騒曲」試し読み
松本俊彦『誰がために医師はいる』より
2021年4月6日
本書は、Carl Erik Fisher, The Urge: Our History of Addiction. Penguin Press, 2022の全訳である。
冒頭から私事で恐縮だが、まずは、本書読了直後の感想を述べさせていただきたい。
一口でいうと、それは「やられた!」であった。告白すると、僭越ながら私はかねてより「こんな感じの本」を書きたいと願っていたのだった。
着想したのは三年ほど前、拙著『誰がために医師はいる──クスリとヒトの現代論』(みすず書房、2021)に収載された連載エッセイ執筆中のことだった。「現在執筆中の連載エッセイでは枠組み的にそぐわないし、そもそもいまの自分は力量不足。しかしいつかは……」と心に念じ、以降、暇を見つけてはひそかにメモを準備し、参考になりそうな文献を渉猟してきた。
ところが、本書はやすやすとそれを実現してしまっている。内容も私がイメージしていた以上のものだ。それを、おそらくは自分よりも年若い同業者が、私ではとうてい達し得ない高い水準で実現している。
不思議と悔しいという感情はなかった。むしろそこにはすがすがしさや痛快ささえあった。あるいは、「でかした!」と膝を打つ感じに近かった。
私の直感はまちがっていなかった。本書は、2022年1月に刊行されるとたちまち好評を博し、早くも同年10月には、あの『ニューヨーカー』誌において「Best books of 2022」の一冊に選ばれている。
前置きはこのくらいにして、さっそく本題に入ろう。
本書の特徴は、著者が依存症専門医であるとともに、自身がアルコール依存症からの回復者であるという立場から、米国の依存症対策史を記述した点にある。実際、本書では、著者自身による回復の個人史──今日風にいえば、「当事者研究」といえようか──と、米国の依存症対策史とが交錯し、不思議な共鳴をしながら進行していく。その構成とストーリーテリングの見事さは、もはや精神科医の余技では片付けられない水準に達している。実に巧みだ。
いや、「巧みだ」などといういい方は誤解を招くかもしれない。本書は決して、筆の立つ精神科医による、単なる「器用に書かれた依存症啓発書」などではないからだ。
強調しておきたいのは、何よりもまず本書には、米国の依存症対策のあり方を俯瞰的かつ中立的にサマライズし、対策の問題点を鋭く指摘した、一線級の学術資料としての価値がある。
現代における国際的な薬物対策は、よくも悪くも米国に振り回されて展開されてきたことを考えれば、本書は、米国のみならず、国際的な薬物政策に大きな影響をおよぼす一冊となりうる力を備えている。その意味で、依存症の治療・支援はもとより、政策の企画・立案、さらには啓発や報道にかかわる者すべてにとっての必読書であると断言したい。
なるほど、過去には類書もあった。
米国依存症対策史書といえば、何をおいても、まずは依存症史研究家ウィリアム・L・ホワイトによる大著Slaying the Dragon: The history of addiction treatment and recovery in America(Chestnut Health Systems, 1998;邦題『米国アディクション列伝:Slaying the dragon(スレイング・ザ・ドラゴン)──アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』、鈴木美保子・山本幸枝・麻生克郎・岡崎直人訳、ジャパンマック、2007)を挙げるべきだろう。
同書の、膨大な資料に基づく詳細な記述は、確かに圧倒的といってよく、私自身、同書から多くを学んだのは事実だ。
しかし、原書刊行から四半世紀を経過した今日となっては、2010年以降、世界中で巻き起こったハームリダクションに関する記述はかなり乏しいと言わざるを得ない。したがって、次代に語り継ぐべき重要な古典書であることはまちがいないが、コンテンポラリーな史書としての寿命はすでに尽きている。
では、ホワイトの大著の不足を補う文献としては、何があるのか。
これまでならば私は迷わずヨハン・ハリ著Chasing the Scream: The First and Last Days of the War on Drugs(Bloomsbury Pub Plc USA, 2015;邦題『麻薬と人間百年の物語──薬物への認識を変える衝撃の真実』、福井昌子訳、作品社、2021)を推したであろう。
実際、同書におけるハリの名言「Addiction(依存症)の対義語はConnection(つながり)」は、自身の著作においてたびたび引用させてもらってきた。
しかし、一部で冷ややかな反応があったのも事実だ。その原因は、同書の著者ハリが「作家」であるという点にあった──「しょせんは非専門家による非学術的かつ情緒的な主張にすぎないのでは?」。その手の批判に遭遇するたびに、私は返答に窮してきた。
その点では、本書の著者フィッシャー氏には、ハリにはない、圧倒的な強みがあるといえるだろう。それは、彼が依存症を専門とする精神医学者であることに由来する。
それだけではない。著者は依存症から回復した当事者でもあるのだ。個人的には、この点はきわめて重要であると考えている。というのも、私を含め依存症専門医の多くは、回復者に対してある種の劣等感を抱いている。なにしろ、自身が依存症になった経験もなく、したがって、12ステップ・プログラムにきちんと取り組んだ経験もない。それなのに、依存症のことをさもわかっているかのように語るたびに、私自身、後ろめたさを覚えないではいられなかった。
それどころか、そうした劣等感は、私たち専門医に当事者への過剰な忖度を強い、ときとして率直な発言を躊躇させることもあった。しかし、当事者でもある著者ならば、そうした劣等感や無用な忖度からは自由であろう。(…)
――つづきは書籍をごらんください――
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