みすず書房

新刊紹介

「はじめに」全文ウェブ公開

2023年3月10日

『歌うカタツムリ』で毎日出版文化賞を受けた著者の新たな代表作。渾身の書き下ろしです。


千葉聡

「自然が好きになった」と「自然に好きになった」は一字しか違わないが、まったく意味が異なる。前者は、海が好き、山が好き、植物や動物が好き、いまはアウトドア派、などの意味だが、後者は、「なぜあなたはそんなに自然が好きなのか」などと聞かれたときに、よくある答えだ。

前者の“自然”は英語ならネイチャー(nature)──西欧由来の、明治以降に普及した概念。大まかに言えば、人間とその創作物以外の存在のことだ。後者の“自然”は古代中国由来の概念で、何かの行為を加えない、あるがままの状態を表す。その意味の中に天地万物を含んでいたため、ネイチャーの訳語に“自然”があてられた。重なりがあるとはいえ、両者は大きく異なる概念である。

日本の伝統的な世界観では、人間と自然を明確に区別しないと言われるが、現代日本人には、それがどのような感覚なのか、理解するのが難しい。そもそも“自然”を語った時点で、その感覚は霧散するはずだからだ。

「人と自然の調和」「人と自然の共生」が日本の誇るべき伝統であり、その知恵と生き方を取り戻して自然環境の問題を解決しよう、という主張がある。だが、五節句、彼岸、盆や月見の行事さえ縁遠くなり、季節の移ろいに合わせて野外の植物や小動物が日常に溶け込んだ習慣は、現代日本からほぼ失われている。日常の習慣は空気のごとく当たり前ゆえに、大半は文書にさえ残らない。真似はできるかもしれないが、失われたものを元に戻すことは不可能だろう。

西欧文化を受容し、情報化社会に生きる現代日本人にとって、自然と人間が調和していたとされる過去の日本は、もはや異国である。もしそんな異国に魅力を感じるのだとしたら、それはおそらくロマン主義のエキゾティシズムと同類のものだろう。自然との調和、自然との共生という表現自体、その伝統が失われたか、それが幻だったことの証左ではないか。なぜならそれは、西欧の概念に翻訳しなければ、語れない過去を意味するからだ。

二度と取り戻せない知恵と生き方にこだわるよりは、いまも確かに残っている独自の文化や自然──守れる文化や守れる自然を確実に守り、次代に伝え、新しい価値に発展させるほうが大切だろう。そもそも森羅万象と関わる日本の伝統世界には、必ず仕切り役として土俗的な因習がともなうが、現代人はそれを有害なものとして拒否し、排除してきた。だが拒絶されたものこそが、知恵、つまり問題の伝統的な解決策だったわけで、私たちはそれに代わる策をもたない。

それゆえ現代の私たちは、自然が関わる問題の解決を迫られたとき、答えを近代西欧の知恵──科学と技術で導くしかない。それが現在の問題を引き起こした根源であるとしても、それに解決を頼らざるを得ないのだ。

もちろん背景にある近代西欧の自然観は一様ではない。自然を狭く、人為の範囲を広くとる場合もあれば、精神活動とその結果以外の部分は自然に含めることもあるし、人間を自然の中に含める場合もある。

だがここでは、自然を、人間と人間の直接の創作物以外のもの、と定義しよう。どこまでを人為とするかは、じつは非常に難しい問題で、おそらく自然との境界は不明瞭だ。しかし、あえてそこまで踏み込まず、上記の単純な見方を採ることにする。

たとえば野菜は自然物か人工物か。畑で育てた野菜なら、自然と人為の共創物、農地も同じ。ものによって関わる度合いが違うと考えよう。人手の加わった二次林でも、野生生物が豊かな森は、自然度の高い環境というわけで、自然環境に含めるとする。

自然と人工のような二分法、二項対立、世界の単純化、法則化は、自然科学の定石である。複雑な世界から本質的な要素と法則を抽出し、単純なモデルにして世界の理解と説明を試みるのだ。モデルの妥当さを裏づける証拠があり、モデルの予測が現実の系の振る舞いと合致するなら、モデルは実用上の問題を解決する強力な手段となる。

だが、これは自然科学がはらむ危険な側面でもある。もし対象とする系が著しく複雑で、多様な要素で構成されていたら、その一面しかモデルでは説明できない。ところが、現実の、つまり考慮も説明もできていない、あらゆる面が関わる問題の解決策に、その単純なモデルが役立つと錯覚し、実際に使われてしまう場合があるのだ──あたかも世界があまねくひとりの神で支配されていると信じているかのように。

それはたとえば、企業組織の本質を、利益の最大化とコストの最小化という、単純だが企業の一面を正しく表すモデルで理解した経営者が、そのモデルを経営手段に採用し、あらゆる業務を損得計算で判断するようなケースと似ている。この場合往々にして、社員が失敗のコストを恐れてイノベーションが生まれない、コストのかかる安全性への配慮を怠り、事故が起きる、などの問題が生じて逆に経営が傾いたりする。

しかも系があまりに複雑で観察が困難な場合には、観察やデータで裏づけられたものではなく、たとえば「企業経営の本質とはそういうものだ」という信念の類にも似た“イデオロギー”でしかないモデルが、科学に化けて現実の問題解決に利用されてしまうことさえある。

農地や生態系など、生物が関与する環境は、まさにそうした複雑で多様さに溢れた系の例だ。したがってそこに生じた問題を自然科学に基づいて解決するのは、時に大きな危険がともなう。特に環境を単純なモデルでとらえている場合は、要注意である。系の複雑さに隠れている重要な要素が見落とされている可能性が高いからだ。

とはいえ、私たちには、ほかに手段がない。自然環境に生じた問題は当面、自然科学を利用しなければ解決できない以上、危険を知りつつ、科学を利用するしかないのだ。

自然を良くするため、自然から利益を得るため、また有害な自然に対処するため──それが善意であれ、悪意であれ、正義であれ、欲望のためであれ、目的と動機の如何にかかわらず、自然環境に何かの操作を加える行為がいかに危険か、また、どうすればその危険を回避しつつ、目的を果たせるのかを考えておく必要がある。

そのための手段のひとつは、過去へ遡り、何が起きたのかを知ることだ。歴史は問題を解決してはくれないが、問題を解決するために、何を覚悟しなければならないかを語ってくれる。

それは実のところ現代の私たちの、自然に対する意識と無関係ではない。自然に与えた操作と、それに対して自然が示した応答の歴史は、自然に対する価値観にも波及するからだ。

なぜあなたは「自然が好き」なのか、その理由の一端は、歴史にある。

さて本書はこうした自然科学を舞台に、“有害”な生物に立ち向かう作戦家と、“有益”な生物の使い手らをめぐる、一般的な問題を追って展開する。だが本書の意図は、この問題の解決ではない。そうした一般性は目的としていない。終盤に明かされるその意図は、ごく個別的なものである。だがどんな個別の問題も、背後には普遍的な歴史があり、等しく考慮する意義がある。それに、個を大切にすることなく、全体の問題を適切に解決できるはずはないのだから。

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