きょう、東京はこの冬はじめての本降りの雪となった。朝、そのなかを駅へと歩きながら、昨年の秋、この本の装丁について相談したときに、デザイナーの松本孝一さんに「カバー写真のような、雪の降る日の清冽な空気感をまとう本にしたい」と伝えたことを思い出していた。
本書にはさまざまな切り口が考えられるだろう。
第一に、中国の歴史や社会のなかで、猿まわしの旅芸人の生がどのようなものであったかを描いていること。猿まわし師は、取材当時の中国において最も低い生活水準にあり、世間的にもしばしば軽んじられる存在であった。著者は、楊林貴という猿まわし師の興行の旅に同行することによって、その現実を活写した。その一方で、著者は多くの猿まわし師たちを訪ね歩き、民国期以降、国共内戦を経て、大躍進、文革、そして改革開放へと目まぐるしく変遷してきた中国の歴史のなかで、時代ごとに変わる「正しさ」に彼らがいかに翻弄されてきたかも聞き出している。さらに、近年立て続けに発生しているSARSや新型コロナウイルス感染症とも、猿まわし師たちは無関係ではいられないという。
第二に、猿にまつわるさまざまな中国民間の習俗を描いていること。河南省新野県の猿まわしは、孫悟空(『西遊記』)や黄忠、関羽(『三国志演義』)、北宋の武将・楊延昭(『楊家将演義』)、さらには北宋の清官・包拯に明の濁官・厳嵩といった歴史上の人物にまつわる故事や、土地の伝統戯劇である「豫劇」と結びつきながら成立した民間芸能であるという。その歴史は漢代にまでさかのぼる。また、人びとは猿をまわすだけでなく、これを崇めて祠に祀ったり、生活や医療のために猿の皮や骨を利用したりもしてきた。こうした風習についての記述も興味深いものであろう。
猿まわしに使うお面と帽子
冠と衣装をつけた猿
ただ、こうした題材としての多面性にもかかわらず、著者が猿まわし師という名もなき人びとを20年もの歳月をかけて追いつづけたのは、彼らの、自らの境遇を恨むでもなく、一日一日をひたすら生きる姿に強く感じるところがあったからなのだろう。2003年1月9日、興行先の四川省から河南省新野県へと帰る列車での心情を、著者はこのように書いている。
この頃は最も寒さの厳しい季節にあたり、北へ向かう列車は進むほどに寒くなっていった。一昼夜を経て、私たちの列車は陝西省内の石廟溝駅で停車し、そのまま何時間も動かなかった。停車中は人に見つかって追い出されやしないかとひやひやして、喋ることもできない。
車内は異様に静かで、嘉陵江の川の流れや、列車が重圧の下で時たま発する金属の軋む音が聞こえた。寒い冬の夜、砕石が積まれた車両に寝そべり、天を仰いで無数の星々を眺め、そばには熟睡する猿まわし師たちがいる。(…)静かな夜の帳の中で、まるで彷徨う亡霊になったかのようだった。
この頃、曹福川はもはや化繊の防寒下着がいかに暖かいかを語ることはなくなっていて、とっくに布団を体に巻きつけていた。私もまた、彼の背中にくっついて暖を取った。それでも寒くて眠れなかったので、私は座りなおし、空を眺めた。空の星々も、再び走りだした列車に合わせて漂いながら移動しているようだった。明け方の太陽がこの冷えきった体を照らして、遊離した私の魂を呼び戻してくれることをどれほど希求しただろうか。こんな感覚は人生で初めてだった。私は心の中で自問した。どうしてこんなにも苦しい撮影をしているのだろう? この猿まわし師たちがこんなにも苦しい思いをしているのはなぜなんだろう? 彼らは社会の最底辺の、最も苦しい方法で金を稼いでいる人たちだ。しかしその中にもある種の気骨が透けて見える。それは新野の猿まわし師たちの人格によるものなのだろう。
上の引用文で彼らが夜を明かしているのは、屋根のない貨物車両だ。中国内陸部の冬の冷え込みは独特で、雪が降らずとも屋外を歩けば関節が痛み、屋内でも暖房がなければ布団をかぶっていても寝付けない。一方、夏になれば、蒸し釜のような暑さとなり、最高気温が40度を超す地域もある。本書を編集しながら、著者の取材がどのような体験であったのかを自分の身に置き換えて考えるたびに、それが頭で理解するよりはるかに過酷なものであることにはっとし、頭でっかちな自分の悪癖を突かれるような思いがした。
本として形となったいまにして思えば、私が装丁に体現しようとした「清冽」のイメージは、著者の文字と写真を通して感受した猿まわし師たちの生きざまと、そこへ向けられた著者のまなざし、そしてそのように生きる人びとへの私自身の感情が綯い交ぜになったものなのだと思う。
1994年から10年にわたり報道記者をしていた著者は、中国において報道によって社会的矛盾を解決することにある種の限界を感じたという。しかし、本書の最終章で描かれる地方政府機関による猿まわし師たちの起訴とそれに続く2度の審判においては、著者による取材が世間一般の猿まわし師たちに対する理解を助け、社会的弱者に対する法執行のあり方をめぐる世論を動かしたことが、その結末に大きく寄与した。もちろん、中国の裁判制度は日本とは異なるため、日本的な意味合いでの「勝訴」として評価することはできない。しかし、誰も彼らに手を差し伸べず、彼らのために声をあげなければ、罪に問われた猿まわし師は救済されることもなくそのまま見捨てられていただろうことは、想像に難くないのである。これと同様に、中国の人びとは、中国の現実のなかで、できるかぎりの可能なかたちで、自分たちの社会をよい方向へと動かそうとしているのではないか。そうした胎動を、中国の外部にある私たちはどのように感受しうるのだろうか。それは、「ゼロコロナ」下の中国の友人たちをSNS越しに見ながら、たびたび感じたことでもあった。
日本に籠もって生活していると、中国の政治的局面が先鋭化すればするほどに、同じ時代を中国で生きている人びとの姿が見えなくなっていくような気がする。この本が、そうした人びとの存在に思いをいたすきっかけになればと願っている。
編集担当:松原理佳