広場の少女アンネ・フランク
『アンネ・フランクはひとりじゃなかった』訳者あとがきより
2022年6月24日
第二次大戦中の1940年5月、ドイツ軍はオランダに侵攻した。それから5年間、オランダはドイツの占領下におかれる。ユダヤ人迫害もすぐに始まった。
しかし首都アムステルダムでは、保育士、学生グループ、法律家をはじめさまざまな人たちが、ユダヤ人を助けようとレジスタンス活動に参加する。そして生まれた物語の一つ、「カルマイヤーのリスト」の冒頭を紹介しよう。
「ハンス・カルマイヤーは、シンドラーより多くのユダヤ人の命を救いました。とくに私と家族は、カルマイヤーに返しきれないほどの恩義があります。彼がいなければ、私たちはここにいなかったでしょう」
少女時代、アムステルダムでアンネ・フランク一家と親しかったハンネローレ・クラインがのちに語った言葉だ。ハンネローレとその家族は、ユダヤ人として強制収容所に送られる運命にあったものの、最終的にそれを免れ、大戦を生き延びることができた。
1942年7月、クライン家とフランク家には同時に、「ドイツにおける労働」への呼び出しが届く。しかし両家の命運を最終的に分けたのは、ハンス・カルマイヤーの存在だった。ドイツ人法務官として、オランダのユダヤ人認定を審査する責任者だったカルマイヤーは、のちにハンネローレたちのユダヤ人認定を取り消す判定を下し、クライン一家の命を救った。彼女のカルマイヤーに対する最大級の賛辞には、いかなる誇張も含まれていないといえるだろう。
かのシンドラーがチェコスロバキアの工場で救ったユダヤ人は1200人、それに対しカルマイヤーが関与して救われたオランダのユダヤ人の数は、最近の研究成果によると2659人。この「カルマイヤーのリスト」については、近年もオランダで刊行物が相次ぎ、新聞で特集が組まれ、ドキュメンタリー番組が放映されている。(本書より)
レジスタンスの活動はいずれもドラマに満ちている。本書は良質な「歴史読み物」としてもお薦めしたい一冊だ。