みすず書房

新刊紹介

「はじめに」全文ウェブ公開

2022年9月9日

山本義隆

本書は、物理学の書です。記述は歴史的でもあり、時に哲学者の言説にも触れていますが、しかし量子力学史ではなく、ましてや科学哲学の書でもなく、基本的には量子物理学の原理的な理解のための書です。バークレー物理学コースの教科書『量子物理』には「すべての物理は量子物理である」とありますが、その意味では21世紀の今日、量子物理学の理解はすべての物理学の理解の基礎ということになります。のみならず20世紀に誕生した量子力学は、これまでの物理学理論のうちでもっとも成功した理論で、実際、説明能力が高く、広範な分野の現象に対してきわめて精密な理論を与えています。そして多くの研究者は、その精密な理論を駆使して問題の解決にあたり、また学生もそのように量子力学を使いこなせるように教育されています。

しかし量子力学については、それがたとえ技術的に使いこなせるようになったとしても、基本的な問題に考えおよぶと、現実にはなかなか納得し難いという面があります。というのも量子力学の基本的な考え方や物の見方は、それ以前の自然科学一般にくらべて相当に変わったもので、たとえば物が存在する――原子内に電子が存在する――ということひとつをとっても、それまでの物理学の理解とは大きく異なっています。それゆえ量子力学の技術的使用を離れて、原理的な考察に向かうと、たちまち困惑し、不思議な思いにとらわれることになります。次のように言うこともできます。近代物理学は数理科学として発展してきたのであり、そのかぎりで量子力学も、当然それなりに精密な数学を使わないことには、正確な理解は不可能です。しかし、精密な数学だけでは理解できないのが量子力学の本当の難しさなのです。かつて量子力学の形成過程で、理論の数学的形式が出来たからといって量子の謎が解明されたわけではないと言ったのがBohrですが、そのBohrの解決に納得しなかった筆頭がEinsteinなのです。

量子力学誕生からまもなく100年になる現在では、量子物理学の書としては、さまざまなレベルの解説書や入門書から教科書まで、公理論的に整備された原理重視型の書から数学的技法に詳しい実用的な書、あるいは数学的基礎に焦点をあわせた書から実験に詳しい書にいたるまで、数多く出版されています。もちろん基礎的・原理的問題に関しても、いかに考えるべきかが、それなりに整理された形でいろいろに語られてはいます。しかしそれぞれの著者の特定の立場から語られているそれらの記述は、かならずしも説得的という意味でわかりやすいものではありません。

そんな次第で、そのような基本的な問題に関しては、BohrやEinsteinそのほか量子物理学の建設に携わってきた人たちが建設当時に何を問題とし、どのように考え議論してきたのかを当時の文献に辿ってみることは、迂遠ではあれ今もって意味のあることだと思われます。本書はそのような意図で書かれたものです。そのため本書は、相当程度歴史にそって記述し、そして原典から数多くの引用を用いました。書名を『……を読む』とした所以です。しかしそれと同時に、あくまでも物理学の書であることを踏まえ、理論の基本的な部分については、数式表現もいとわずに正確に丁寧に書き込むことを心がけました。そのためにいささか大部な書になってしまいましたが、ご了解ください。

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