勝田さよ
編集者から一通のメールが届くところから、本書は始まる。「この話は本当?」と問うそのメールには、医療のエラーを米国の死因の第三位とするBritish Medical Journal誌の論文が添付されていた。そんなはずはないと真相究明に乗りだしたオーフリ医師は、調査を進めるうちに、医療のエラーの背景には実にさまざまな要因があること(一筋縄では解決できそうにないものも多い)、そして、エラーはそれを犯した医療従事者にも患者や家族にも予想を大きく上回る影響を及ぼすことに気づく。それを広く世に知らしめるほうが、論文の主張の正否を証明するよりずっと重要なのではないか――
事実の究明という当初の目標をわきに置き、オーフリ医師は、エラーを分析・分類し、自身の経験も加味しつつ解決策をさぐる、という困難な作業に取りかかる。
医療のエラーにかぎらず、なにかことが起きると、その事態を引き起こした人物だけに非難が集中しがちだ。その者をとがめ、問題が起きた箇所のみに対処して終わり、ということも少なくない。だが実際は、小さなエラーがいくつも重なり問題として表面化するのがふつうで、そのエラーの背後にはいくつもの要因が存在すると、オーフリ医師は指摘する。診療に不向きな設計の電子カルテ、現場への配慮が足りないアラームシステム、過酷な勤務形態や恒常的な人員不足、医療従事者間のヒエラルキー、医療従事者間あるいは医療提供者と患者・家族間のコミュニケーション不足、責任感や主体性の欠如、望ましくない文化などだ。そうした要因を、オーフリ医師は、チェックリスト化できる具体的なことがらと、コミュニケーションや主体性、文化など、目に見えにくく伝授のむずかしい特性に大別し、それぞれに適した防止策あるいは考え方の変革が必要だと説く。
エラーの要因として後者の特性を語るには、ときに現体制の批判めいた言葉も口にしなければならない。現役の臨床医として、勇気のいることだったのではなかろうか。だが、オーフリ医師は、批判すべきは(言葉を選びつつも)きちんと批判する。一方で、自分の失敗を語ることにもためらいはない。すべては、まず患者ありきという医療に対する彼女の姿勢からきているように思う。一読者として敬意を感じるところだ。
本書ではまた、患者家族の視点からも医療のエラーが描かれる。かなりのページが割かれた二つの症例は、医療ドラマのエピソードかと思うほどドラスティックな内容だ。そして、話は二例の不幸な転帰では終わらない。エラーを犯した側のその後の対応や、事実の説明を求める家族がぶちあたる制度の壁、そうしたものが家族に与える影響の深刻さにも話が及ぶ。本書一冊で、エラーを犯した者・その影響をこうむった者双方のエラーのとらえ方や心情を知ることができるのだ。
訳しながら、どちらの側も相手の心情や行動の動機をきちんと理解できていないのではないか、と考えるようになった。たとえば、本書では、エラーを犯した医療従事者の心情が、「患者に害を与えたという胸を焼かれるような悲しみと恥ずかしさ」といった強い言葉で何度も語られる。エラーを報告したがらない一番の理由は、医療過誤訴訟への恐れではなく「深い慚愧の念」だというアンケート結果も示される。だが、患者としてしか医療に接する機会のない私には、エラーの当事者である医師がそこまで強い気持ちを感じているとは想像もできなかった。逆に、重大なエラーが患者家族にどれほど甚大な影響を――それも長期にわたって――与え得るかを本書の二例を通してはじめて実感する、という医療従事者もおられるのではないかと思う。
本書の最後で、オーフリ医師は「医学はチームスポーツで、医師や看護師だけでなく、患者や家族や親しい友人もその一員(なのに)敵のチーム、少なくとも課題が対立するチームにいるように感じられることが多すぎる」と嘆く。「実際は、患者が快方に向かうよう助けるという一つの目標があるだけ」なのに。その原因のひとつは、医療提供者と患者が真に理解し合えていないところにもあるのではないだろうか。
翻訳に当たり、医療のエラーやヒューマンエラーを扱った書籍を何冊か手に取った。表現のしかたは違っても、どの書籍にも、さまざまな要因の関与する複雑なシステムでは、どんなに注意し対策をほどこそうとエラーはゼロにはならない、という内容のことが書かれていた。本書も同様だ。医療では、疾患のあらわれ方が一様ではない上、病気の経過に影響しそうな患者の社会的背景も多岐にわたる。医療従事者への負担も並大抵のものではない。ゼロ・エラーの達成はまず不可能だろう。だが、できるところから手をつけ「エラーの蔓延と深刻さを最低限に抑える」ことはできる。そのあいだに、考え方の変革につとめ組織的な解決法を実行に移す。そうすれば、一層の低減も可能であろうし、少なくとも人命にかかわるような重大なものは「ゼロ・エラー」を達成できるにちがいない。そのような視点に立ち、すぐに実践できる具体的なことがらから抜本的な対策へのアプローチまで、さまざまなヒントを提示してくれるのが本書である。
一人でも多くの医療従事者の方に――もしかしたら耳に痛い箇所もあるかもしれないが――読んでいただきたいと思う。それから、それ以外の方にも。だれしも、人生のどこかでなんらかの形で医療とかかわりをもつはずだ。そして、オーフリ医師の言うとおり、医師や看護師はもとより「患者や家族や親しい友人も」、患者を無事に快方に向かわせるという目標を一にするチームの一員なのだから。
お忙しい中、丁寧に原文に目を通し、まちがいを指摘しよりよい訳語をご提案くださった監修の原井宏明先生に、心から感謝します。
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