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「パッシング」 最後の数行
完全に落ち着いた人生を送ることはできなかっただろう、意識の奥底につねにうずくまっているあの暗い秘密をかかえたままでは。
(「パッシング」)
「パッシング」(1929年)は第三版以降、初版にあった最後の数行が削除された。今回の翻訳は初の初版による邦訳である。削除された理由は不明である。
作者の意図と関係なく、作品に勝手に手が入れられてしまうことがありうるのだ。
Centuries after, she heard the strange man saying: "Death by misadventure, I'm Inclined to believe. Let's go up and have another look at that window".
それから何百年もたったような気がしたが、アイリーンの耳にあの見知らぬ男がこう言うのが聞こえた。
「不慮の事故死か。どうもそのようだな。上に行ってもう一度あの窓を見てみよう」
初版の原作の最後は「that window」で終わる。「この窓」に向けてミステリーは収斂する。
本書の出版は映画「パッシング─白い黒人─」(レベッカ・ホール監督・脚本)とは関係なく出発しているが、2021年10月からNetflixで映画が配信されている。白黒映画の雪のマンハッタンが美しく、肝心な最後の場面で原作の「息をのむ」感じを再現しているのに驚いた。まさに「that window」をめぐって。
映画は2021年サンダンス映画祭でプレミア上映、女性映画批評家サークル(Women Film Critics Circle:WFCC)最優秀賞を受賞。ジョセフィン・ベイカー賞(有色人種女性の経験を最も表現した作品)、カレン・モーリイ賞(歴史や社会における女性の地位や、アイデンティティを探すことを最も良く表した作品)も受賞。主演を務めたヒロイン二人テッサ・トンプソンとルース・ネッガには、ベスト・スクリーン・カップル賞が贈られた。
パッシングをした、何をするかわからない美貌のクレアでなく、黒人社会で堅実に生きる主婦アイリーンの苦悩がよく伝わってきた。
「流砂にのまれて」 新しい女は今の女
「流砂にのまれて」(1928年)は著者ネラ・ラーセンのデビュー作である。
「パッシング」が有名だが、真の傑作はこちらでは、とつくづく思う。
安心を求めながら安全でない人生ばかり選んでしまう。
(「流砂にのまれて」)
あなたが黒人と白人の混血で、どちらからも差別されたら。
レストランや商店に入れず、列車や劇場の席を区別されたら。
美しい雑貨や洋服、本に目がないとしたら。
理想の実現をめざす職場や同僚にうんざりして退職、わずかなお金をもって大都市をめざすとしたら。
合衆国という残酷な差別社会から出ていこうと考えた先が別の差別社会だったとしたら。
名門出の婚約者はまじめだが退屈な男であるとわかったら。
親友の女性がじつはあなたに嫉妬していたら。
キスと恍惚感を与えてくれた男から後日「あれは質の悪いカクテルのせいです」と言われたら。
自尊心に深い一撃をくらい、「自分は大馬鹿者だとわかった経験」のあとで、人生でただ一度、実際的になろうとして衝動的に結婚してしまったら。
(「二つのもの、つまり神と男の両方をキープしようと考えた」)
愛する子どもたちがいても、夫や「自分が迷い込んだこの泥沼から、何とかして抜け出そう」と心に決めたとしたら。
そんな主人公ヘルガが気になるあなた、ぜひ本書を読んでください。