新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい始めて早2年が経とうとしており、いまだに予断を許さない状況だ。各国政府は国民の生命を守るための対策を講じているが、一筋縄ではいかない問題がある。強力な感染症対策をとれば経済活動は停滞し、多くの国民の生活は危機にさらされる。一方、経済活動を重視して感染症対策をゆるめれば、多くの国民が病に苦しむことになる。
何を優先するか。身に降りかかる出来事や国内外の報道に触れるなかで、多くの人が大なり小なり考えたことだろう。
現代で大切にされている「自由」も、感染症対策にあってはどうしてもいくらか制限しなくてはならない。しかし、どこまでの制限なら許されるのか。この問いに哲学的に明確な答えを出すことはむずかしいが、どの国の政府も対策をとる際に必ず意識するものがある。それは憲法と法律、そして世論だ。いかに革新的な技術や方法があるとしても、法や世論を無視して強行することは、民主国家ではむずかしい。
本書でなにより重要なのは、憲法や法律は天から与えられたのではなく、なんらかのイデオロギーのもとでつくられた、ということを丁寧に解説している点だ。合衆国憲法の起草者たちは理想の国家を実現できるよう条項を案出した。民主国家の国民は、法律の制定にかかわる代議士を投票によって選出する。投票権を持つ国民はそれぞれに、経済的利益を追求する者、健康と安全を重視する者、とにかく自由な活動を願う者など多様な価値観をもっており、票に思いを込める。法を無視できない以上、感染症対策の大部分は、つまるところ建国の父たちと国民の多数派のイデオロギーによって形作られてきた。
このように法制度を軸にして歴史上の感染症を眺めてみると、おもしろいことが見えてくる。「経済繁栄と感染拡大のトレードオフ」という構図が必ずしも成り立つわけではないのだ。果たしてそこにはどんな関係があって、そのメカニズムはどのようなものだろうか。感染症のタイプによって、どんな違いがあるのだろうか。そして国際的な比較を通して、何が見えてくるのだろうか。本書が取り扱う歴史はアメリカのものだが、日本に暮らす私たちにも多くの教訓を与えてくれる。
感染症に対峙するうえで、国家が果たす役割の大きさを痛感する昨今。一市民として現状をどうとらえるかを考えるとき、本書の着眼点は大切なヒントとなることだろう。