みすず書房

新刊紹介

プロローグにみる『リターンズ』の今日性

2020年12月22日

文化人類学の批判的歴史家ジェイムズ・クリフォードの翻訳書出版も、ロラン・バルトのそれと同様それなりの時間差をともなっていた。ジョージ・マーカスと共同編集した『文化を書く』は1984年に文化人類学の世界を揺るがしたシンポジウムが元になっているが、紀伊國屋書店から出たのは1996年、『文化の窮状』は1988年が2003年、『ルーツ』は1997年が2002年に訳書が出版された。3冊目の『リターンズ』も原書から7年遅れての出版である。

こうしたタイムラグは近年だんだん縮まっているが、思想や思考法の消化に時間がかかるのは必ずしも悪いことではないし、専門家と一般読者の本の読み方はおのずと異なり、テーマについての社会の認知度にも時差があるのだから、書物のかたちでの紹介が早ければ良いというものでもない。

その間に日本では「アイヌ文化振興法」(1997年)の成立により「北海道旧土人保護法」は廃止されたものの、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」がニューヨークの総会で2007年に採択されたのを受けて「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策に関する法律」(いわゆる「アイヌ新法」)が成立施行された2019年まで、アイヌは「先住民族」と規定されていなかった。そして、経済優先、インバウンド政策、差別の隠蔽として批判もある施設「ウポポイ」がオープンしたのはつい先日のことである。そんな今だからこそ、『リターンズ』に登場する、ニューカレドニア、カリフォルニア、アラスカにおける先住民文化とそれをとりまく社会のありようは、複雑にからみあう歴史と政治をめぐって多くの示唆を与えてくれる。

その『リターンズ』の「プロローグ」で、著者自身による本書の各部要約はみごとなものだ。

まず第一部。〈一般的かつ理論的な視点から書かれている。歴史的運命や発展する時間といった観念が、現在の文化的刷新や社会的運動を説明するためには修正される必要があることが議論される。歴史的変容と政治的行為主体を分析するための道具として、節合、パフォーマンス、翻訳の概念が導入される。レイモンド・ウィリアムズ、スチュアート・ホール、ポール・ギルロイに連なる文化研究から引き出された、文化的唯物論、ヘゲモニー、ディアスポラといったテーマが、文化人類学に由来する民族誌的-歴史的アプローチに結合される。〉
本文ではエイジェンシー、カルチュラル・スタディーズなどの術語が具体例をともない示されている。

つぎに第二部。〈典型的な先住民消滅の物語が、再生の物語になってゆく道筋を辿る。「イシ」は1911年、開拓移民の住むカリフォルニアの町に姿を現し、「アメリカ最後の野生インディアン」と考えられたことで有名になった。彼は1960年以降、シオドーラ・クローバーによる伝記がベストセラーになったことから再び有名になる。そして2000年頃、カリフォルニア・インディアンの人々がついに彼の遺骨を埋葬し、そのプロセスのなかで、開拓者の植民地的暴力の遺産を再び紐解いたときに、またもや新聞に見いだされることになる。私は遺骨の返還のプロセスに関心を抱いて、公開の集会に参加したり、参加者と話をしたりもした。かつてカリフォルニア先住民の消滅の象徴だったイシは、同じ先住民の存続を表象するようになったのである。その生においても死においても、謎めいた、そして生産的な彼の経験は、多くの人々にとって、様々に異なった仕方で意味をもっている。イシの物語は、今も続く植民地的暴力の遺産、人類学の歴史、癒しの効力、ポストコロニアルな和解の可能性、その他、多くの事柄を語りかけている。〉
シオドーラ・クローバーは作家アーシュラ・ル=グインの母親である。半世紀前に岩波書店が出した『イシ――北米最後の野生インディアン』は、鶴見俊輔の熱心な論評もあって広く読まれた。あの「イシ」の現在がこうなっているのか!という驚きがここにある。物語作家ル=グインの精神を支える物の考え方も改めて知ることができる。

そして第三部。〈太平洋島嶼世界に比較文化論的な一瞥を加えた後、アラスカ中部、とりわけ、コディアック群島に焦点を合わせる。アルーティク/スグピアク人の文化的刷新についての議論は、私のここ十年来の、学術的訪問(もしかすると、むしろ理論的性格をもったジャーナリズム)とでも位置付けられるような調査に基づいている。その成果は、二つの関連した論考にまとめられている。第一の論考は、文化遺産を巡る協同作業、とりわけ、『両方の道を見ながら』と銘打たれた2001年の重要な展覧会と、複数の著者による同名の著書について論じている。第二の論考は、先住民が運営するコディアック島の文化センターである、アルーティク・ミュージアムと考古学資料室を中心に据えている。描き出されるのは、フランスの現所蔵者から貸し出される形で帰還した19世紀の仮面と、それらの先祖伝来の器物が変わりゆく世界のなかで呼び起こすことのできる新しい意味である。仮面の翻訳された「第二の生」が、ローカルな歴史、多国籍的な先住民性、企業的多文化主義にまつわる州の政策などが錯綜する脈絡の中から見えてくる。〉
コディアック島のミュージアム活動についての章は、クリフォードらしい硬質な紀行エッセイになっている。もちろんレヴィ=ストロースの『仮面の道』(ちくま学芸文庫)への言及も忘れていない。

出版する側から見てとりわけ興味をひかれるのは、時代の変化に応じた著者クリフォードの大胆な発言だ。近年さまざまな機会にさまざまな形態で発表された論考を集成した『リターンズ』の文章には相互に異なるスタイルがある(もちろん訳文もそれに応じている)。それを踏まえたうえで著者自身が、『文化の窮状』以来、読書のあり方は変化してきたとまで書いているのだ。〈最初のところから読み始め、最後まで読み進めてゆく形で、本を一から十まで連続的に読む人たちは少なくなっている。人々は本の必要な部分をコピーし、スキャンし、ダウンロードする。『文化の窮状』や『ルーツ』は、「書物」として生きた時期を経て、コピーやPDFファイルの形で第二の人生を謳歌している。物理的なモノとしての学術書が旅するのにあまり適していないことは、あまりに明白になったのである。解体され断片化されて、テクストは広まってゆく。〉

ではどうするのか? 新たな流通形態にかんがみて、クリフォードは本書を構成する三部をほぼ同量にした。〈それぞれが別個に読むことのできる長い論考となっていて、どれから読んでも構わない。うまい呼び方が思い浮かばないので、私はこれらのテクストを学術的な「ノヴェラ〔中編物語〕」――読みやすさを犠牲にすることなしに、複雑さと展開とを維持する中間的な著述形態――というふうに考えてきた。一冊の長い本よりも三冊の短い本のほうが、時や気分に応じて、一層楽しむことができるのではないかと思っている。〉
本を手に入れると、散歩の折にポケットに入る分だけ破り取って読み続けたというのは誰であったろうか。とにかく、ジェイムズ・クリフォードの好奇心と構想力、発信力に改めて感服した。