エッセイ集『ダブリンからダブリンへ』の仕込みと熟成には長い時間がかかっている。なにしろ30歳代だったパット・ボランが来年には還暦を迎えるのだ。この詩人の名を知ったのは、21世紀に変わる頃の『現代詩手帖』に本書の著者である栩木伸明さんが連載していた「アイルランド現代詩オルタナティヴ・ガイド」のおかげだが、そこではパット・ボランが「若手の専業詩人として堅実なキャリアを積み上げつつある」と紹介されていた。
その間に著者は、夏休みには詩人宅に「居候させてもらう」ほど詩人と親しくなった。2019年の夏にかけて「パットとその家族が奥さんの実家のあるイタリアへ行っている間、留守番をしたのだが、一足先にダブリンへ戻ったパットと同居した時期もある」と本書のあとがきで書いている。
パット・ボランが暮らすダブリン郊外のバルドイルは、ホウス岬のつけ根にあって海辺にも遠くない。『ダブリンからダブリンへ』の原稿と一緒に数多くの写真を著者から預かったときからずっと、この風景と、詩人の愛犬コーディーの姿が強い印象を残していた。だから装丁にはこの写真を使わせて欲しいとお願いした昨年秋のメールへの返信メール(編集作業の時期はコロナ禍で面談も遠慮していた)の嬉しさは格別だった。私信ではあるが引用を許して頂こう。
《この本の構想を思いついたのは、コーディーと散歩していたときのことですし、全文を引用したパット・ボランのホウスの詩はぼく自身の詩でもあるように思っていて、逆コースを描いてパットとコーディーに出くわすのは、ぼく自身かも知れないとさえ思うのです。そして、あの詩が描き出す二重の円環は、あとがきの最後につけた、ダブリンと東京を結ぶ楕円軌道と重なるようにも思うのです。また、おっしゃるように、この本のテーマである時間の推移が、丘のてっぺんから下界を見渡しているコーディーの後ろ姿に見てとれるようにも思います。》
このメールで「ホウスの詩」と書かれているのは、パット・ボランの「ホウス岬のシャクナゲの森で」と題された素晴らしい詩のことで本書の9ページに載っているから、ぜひ本書を開いていただきたい。英語のまま味わいたければ、詩人がこのところ自らのホームページに発表しているポエトリー・フィルムでご覧になることもできる。
https://patboran.com/poetry-films/
ここにアップされている「Rhododendron Gardens, Howth」というフィルムがこの詩の朗読である。ここで詩人の声と美しいピアノ音楽を聴きながら、犬のコーディーが森の小道を抜けて丘の頂上に出てゆく場面を見ていると、こんな風景と時間を過ごしていられたら、なんと豊かな人生だろうかと思う。