みすず書房

新刊紹介

アイルランド現代詩人との四半世紀

2022年1月7日

エッセイ集『ダブリンからダブリンへ』の仕込みと熟成には長い時間がかかっている。なにしろ30歳代だったパット・ボランが来年には還暦を迎えるのだ。この詩人の名を知ったのは、21世紀に変わる頃の『現代詩手帖』に本書の著者である栩木伸明さんが連載していた「アイルランド現代詩オルタナティヴ・ガイド」のおかげだが、そこではパット・ボランが「若手の専業詩人として堅実なキャリアを積み上げつつある」と紹介されていた。

その間に著者は、夏休みには詩人宅に「居候させてもらう」ほど詩人と親しくなった。2019年の夏にかけて「パットとその家族が奥さんの実家のあるイタリアへ行っている間、留守番をしたのだが、一足先にダブリンへ戻ったパットと同居した時期もある」と本書のあとがきで書いている。

パット・ボランが暮らすダブリン郊外のバルドイルは、ホウス岬のつけ根にあって海辺にも遠くない。『ダブリンからダブリンへ』の原稿と一緒に数多くの写真を著者から預かったときからずっと、この風景と、詩人の愛犬コーディーの姿が強い印象を残していた。だから装丁にはこの写真を使わせて欲しいとお願いした昨年秋のメールへの返信メール(編集作業の時期はコロナ禍で面談も遠慮していた)の嬉しさは格別だった。私信ではあるが引用を許して頂こう。

《この本の構想を思いついたのは、コーディーと散歩していたときのことですし、全文を引用したパット・ボランのホウスの詩はぼく自身の詩でもあるように思っていて、逆コースを描いてパットとコーディーに出くわすのは、ぼく自身かも知れないとさえ思うのです。そして、あの詩が描き出す二重の円環は、あとがきの最後につけた、ダブリンと東京を結ぶ楕円軌道と重なるようにも思うのです。また、おっしゃるように、この本のテーマである時間の推移が、丘のてっぺんから下界を見渡しているコーディーの後ろ姿に見てとれるようにも思います。》

このメールで「ホウスの詩」と書かれているのは、パット・ボランの「ホウス岬のシャクナゲの森で」と題された素晴らしい詩のことで本書の9ページに載っているから、ぜひ本書を開いていただきたい。英語のまま味わいたければ、詩人がこのところ自らのホームページに発表しているポエトリー・フィルムでご覧になることもできる。
https://patboran.com/poetry-films/

ここにアップされている「Rhododendron Gardens, Howth」というフィルムがこの詩の朗読である。ここで詩人の声と美しいピアノ音楽を聴きながら、犬のコーディーが森の小道を抜けて丘の頂上に出てゆく場面を見ていると、こんな風景と時間を過ごしていられたら、なんと豊かな人生だろうかと思う。

もう一枚、大好きな写真があるのでお目にかけたい。《映画『ダブリンの時計職人』には、クロンターフからブル島へ渡る木の橋──広重の浮世絵に出てきそうな橋──が登場する。この全長三百メートルほどの橋は、パット・ボランのお気に入りである。ぼく自身もパットと犬のコーディーとともにこの橋を何べんも渡った。》(『ダブリンからダブリンへ』13ページ)

著者によれば、この写真に写っている「交通標識の先が橋なので、木造の部分が見えていないのですが、道の先は島」だそうである。本書では制作の都合上モノクロでしか収録できなかったから、ここではオリジナルのカラー版をご覧に入れよう。浮世絵に出てきそうな木の橋が見えないのは残念だが、空の青がたまらなく美しい。

『ダブリンからダブリンへ』という本のジャンル分けは難しい。アイルランド文化の研究エッセイであり、町で見つけたモノから始まる歴史の探究でもあり、自身も還暦を迎えた著者による回想という面もある。書店や読者への案内や新聞雑誌での広告には「名手による紀行文」と要約するしかなかった。ダブリンから出かけたヨーロッパの街の描写もみごとなので看板に偽りはない。しかし実のテーマは先ほどのメールにもある「時間の推移」であって、それはすぐれた文学作品の全てに共通するものだと言えるのではないか。