訳者あとがき
山内一也
本書は、牛の致死的ウイルス感染症である牛疫との150年にわたる人々の戦いの物語である。現在「牛疫」の名前を知る人はきわめて少なく、「牛痘」と混同されることが多いが、牛疫は4000年前のパピルスでの記述にも出てくる古くからの病気で、農耕の重要な担い手の牛を全滅させて飢饉をもたらし、4世紀に発生した牛疫が東西ローマの分裂のきっかけとなるなど、たびたび世界史をゆるがしてきた。獣医学および獣医師という職業が誕生するきっかけとなり、OIEの設立、アフリカの植民地化を促進するなど、数多くの歴史的出来事にも関わってきた疫病である。その原因である牛疫ウイルスは、元はコウモリが保有していたものが牛の祖先の原牛に感染したものだと考えられている。
牛疫は、2011年に根絶が宣言された。これは、天然痘根絶に次ぐ偉大な成果である。天然痘はジェンナーの種痘を改良したワクチンで根絶されたが、牛疫の根絶は、蠣崎千晴の不活化ワクチンに始まり、エドワーズの山羊順化ワクチン、中村稕治のウサギ順化ワクチン、プローライトの耐熱性組織培養ワクチンと、それぞれの時代における最先端のワクチンを用いたことで達成された。しかも、ヒトだけを宿主とする天然痘とは異なり、牛疫の根絶には、家畜の牛だけでなく、野生のさまざまな偶蹄類も相手にしなければならなかった。それを可能にしたのは、20世紀におけるウイルス学の目覚ましい進展だった。しかし、複雑な国際情勢のもとでの根絶キャンペーンの成功は、科学だけでなく、さまざまな形の国際協力を必要とした。
マイアミ大学歴史学教授であるアマンダ・ケイ・マクヴェティは、国際関係史を専門とする歴史家の視点から、牛疫との戦いが国際協力や国際組織の設立の原動力となってきた経緯を、膨大な資料にもとづいて本書で詳しく紹介している。しかも単なる歴史的経緯に留まらずに、ウイルス学的進展との関わりについても、最新の知見も含めて正確な情報を数多く織り込んでいる。
本書では、牛疫との戦いにおいて培われた生物学的技術を国家安全保障の文脈でとらえた見解も詳しく述べられている。とくに冷戦後には、人間を直接標的とするのではない、食糧供給を標的とした生物兵器として、牛疫が最重要候補になり、米国、カナダ、英国で検討された経緯や、その際の科学者と国防関係者の間での葛藤などが生々しく述べられている。また日本では、第二次世界大戦中に、風船爆弾に牛疫を搭載して米国を攻撃する計画が進められていた。しかし、日本だけでなく、欧米の科学者にも、牛疫を生物兵器として軍事利用する計画にためらいは見られなかった。
科学と軍事研究の関係をめぐる問題は現在も続いている。21世紀は、遺伝子の解読する(読む)時代から合成する(書く)時代となった。そこで急速に進展した合成生物学が、軍事研究においても注目されている。たとえば、マラリア制圧のために、遺伝子ドライブという最先端の遺伝子編集技術を利用して、マラリア媒介蚊を不妊にする研究コンソーシアムが発足しているが、これには米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)が参画している。DARPAは膨大な予算に支えられた軍関係の研究組織であることから、遺伝子を改変した動植物の軍事利用に強い関心を寄せていると思われる。本書で紹介されている、牛疫ウイルスを兵器にも根絶にも用いるという生物学的研究成果のデュアルユース(軍民両用性)は、今日においても、さらに複雑な問題を提起しているのである。
アマンダ(著者)の執筆には、私も資料の提供や議論を通じて3年あまり協力してきた。そのきっかけとなったのは、拙著『史上最大の伝染病 牛疫』(岩波書店、2009年)だった。私は、旧友のテキサス大学教授フレッド・マーフィー(元・カリフォルニア大学獣医学部長、元・国際ウイルス学会長)に、この本の概要を英訳して送っていた。2015年3月、フレッドを通じてそれを見たアマンダが、中村稕治のワクチン研究や久葉昇の風船爆弾計画などの日本人科学者の活動について、私に情報提供を依頼してきたのだ。彼女は、2010年にエチオピアでの根絶活動を眺めてから、2012年に本書の執筆プロジェクトを開始していた。こうして、刊行された本書は、2018年秋に私の手許に送られてきたのである。
振り返ってみると、私の牛疫ウイルスとの付き合いは、1965年に国立予防衛生研究所(予研、現・国立感染症研究所)麻疹ウイルス部で、麻疹の発病メカニズムの研究のモデルとして、麻疹ウイルスの祖先と考えられる牛疫ウイルスを取り上げた時に始まった。
1980年代、私が東京大学医科学研究所で牛疫ウイルスの遺伝子の解析を行っていた頃、アジア、アフリカでは牛疫根絶作戦が進んでいて、冷蔵設備を必要としない耐熱性の牛疫ワクチンが求められていた。私は、大学卒業後に最初に取り組んだ研究として、北里研究所で耐熱性天然痘ワクチンの改良を行っていた。そこで、その際の経験を生かして、天然痘ワクチンに牛疫ウイルスの遺伝子を組み込んだ耐熱性組換え牛疫ワクチンを開発した。定年後は、中村稕治が創立した日本生物科学研究所を本拠として、このワクチンの実用化に向けて、インドや英国の研究所などと共同研究を行うかたわら、国連食糧農業機関(FAO)専門家、国際獣疫事務局(OIE)学術顧問として、牛疫根絶計画に参加してきた。このように、2011年の牛疫根絶宣言まで、約半世紀にわたって牛疫と関わってきたことになる。
私の研究人生は耐熱性天然痘ワクチンに始まり、耐熱性牛疫ワクチンで幕を閉じたといえる。その中で、牛疫ウイルスは私の研究パートナーとして尽きることのない興味を与えてきてくれた。米寿を迎えた今になって、牛疫が、これまで想像もしなかった形で、国際関係の歴史に深く関わってきたことを初めて知り、新たな興味がわくとともに、幸福感に浸っている。
病原体は国境を越える。病原体との戦いには国際的な連帯が必須である。本書が、この教訓を伝える一助となれば幸いである。
copyright © YAMANOUCHI Kazuya 2020
(筆者の許諾を得てウェブ転載しています。
なお転載にあたり行のあきを適宜加えました。
また若干の追記が筆者によりなされています)