飄々とした画風で郷里山口の風土や表情豊かな動物たちを描き「日本人にとっての油彩」を追究した画家の初の評伝、安井雄一郎『松田正平 飄逸の画家』。
2021年3月刊行予定の酒井忠康『芸術の補助線』より、松田正平の人と芸術に寄せられた文章を、著者のご同意を得て抜粋しウェブ掲載いたします。
酒井忠康
飄々として、ちょっと渋い感じの、何とも形容しがたい人物画や風景画を描く油絵画家の松田正平氏(1913-2004)を、宇部の自宅に訪ねたのは、いつだったのかを思い出そうと、カタログの年譜をみて、だいたいの見当をつけた。妻の精子夫人が亡くなって、一年ぐらい経ってからのことだから、2001年の秋だったように思う。(中略)
松田さんは目をしょぼくれさせてアトリエに入ってきた。わたしたちは隅っこに立っていたが、スケッチブックや絵の具類が床に散らかっていて足の踏み場もない。色紙や短冊、それに書き散らしの紙が、無造作にテーブルに載っかっている。ガラス瓶には白いバラが二本差してあったが、椅子はテンデンばらばらに置いてあって、さて、どこに座ればいいのか、とまどっていると、ご当人は、古ぼけた革製の大きなソファに腰を下ろして、まず一服させてくれという。
菊川さんが、わたしを紹介すると、やさしそうな眼差しでうなずき、日々の暮らしの不便さを訥々と語った。まぢかに迫った個展(フォルム画廊)の話をしているうちに、洲之内徹氏(1913-87)とのかかわりにおよんで懐かしそうであった。松田さんは第16回(1984年)「日本芸術大賞」の受賞によって、にわかに世間に知られる画家となった。その陰にいたのが洲之内さんである。菊川さんは洲之内さんの弟子である。わたしの師匠の土方定一とも洲之内さんは昵懇の仲であったから話題がその人に絡むのは自然の成り行きだったのだろう。
しかし、わたしはこの画家と(遅ればせながらでも)ひと時をもてたことを喜んだと同時に、いつか鎌倉で個展をしてみたいと思い、そのことばかりを考えていた。帰りがけに松田さんは、それとなく「このところモーパッサンを読むのが愉しみでな――」といわれた。エッと思ったが、モーパッサンといえば海(と風)を好んで書いた作家である。松田正平の絵画のなかにも、この海(と風)が生命のひかりをはこんでいる――と思った瞬間、画家はニヤッと笑みして「パリで買ったモーパッサン全集の〈原書〉を読んでいる」といわれたのである。二の句を告げずに、わたしたちは失礼した。
このときから十数年を経て、鎌倉で「松田正平展」(神奈川県立近代美術館・山口県立美術館、2013年)が開催された。せんだって見に行った。なかでも三十年ものあいだ描いてきたという《祝島》や《周防灘》の連作は、何ともいえない詩情がただよっていて、やはり、どれもいいと思った。甘くて、苦くて、松田さんの人生のように深い。しかも靄がかかっている。「いまだによく描けんけどね――」と遠慮がちにいう松田さんであるが、「絵を描くのに邪魔なものは、できるだけ捨ててきた」とサッパリしている。そんな絵の身振りであるから、こっち(鑑賞者の側)がいくら穿鑿たって、本音が聞けるわけがない。
何を、いかに描くか、そんな理屈をとっくに捨てた人の絵であるが、しかし、そのことを真剣に研究した人の絵である。わたしは《画家の父》(1942年)と《自画像(Mの肖像)》(1986年)を見比べた。ここには描きようのない「人生」を描いてきた松田正平の「時の流れ」を感じさせるものがあった。