ナチスのユダヤ人迫害を描いたV・E・フランクル『夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』(初版1956年)の翻訳者で、上智大学名誉教授、臨床心理学者の霜山徳爾先生が、10月7日、90歳で逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を表します。
霜山徳爾先生のこと
「あの愚かしい太平洋戦争の絶望的な砲火硝煙の戦場体験を持つ者は、今や七十歳代の終りから私のように八十歳前半までの老残の人間のみである。どうしても骨っぽい、ごつごつした文体になってしまう。またそれはアウシュヴィッツの現場をみた者には避けられないことかもしれない。それに対して、新訳者の平和な時代に生きてきた優しい心は、流麗な文章になるであろう。いわゆる“anstäendig”な(これは色々なニュアンスがあって訳しにくいが「育ちのよい」とでもいうべきか)文字というものは良いものである。半世紀の間、次々と読者に愛された本書が、さらにまた読みつがれるように、心から一路平安を祈るものである」
これは2002年秋、『夜と霧 新版』(池田香代子訳)を刊行したとき、同書の巻末に寄せられた霜山徳爾先生の「『夜と霧』と私――旧版訳者のことば」の一節である。
霜山先生は、1952年、西ドイツの政府留学生としてボン大学で勉強され、同時に、民間のすぐれた精神分析家から教育分析を受けておられた。そんなある日、書店でヴィクトール・フランクルという著者の『一心理学者の強制収容所体験』という本を入手され、心から感動された。『夜と霧』の原著である。すぐにウィーンに赴かれてフランクルと出会われたときの詳細は上記の文章にゆずるが、先生は帰国後すぐ、みすず書房に同書の翻訳を申し出られ、当時のみすず書房編集代表であった小尾俊人は、先生の訳文に写真と解説を付け、『夜と霧』として出版した。1956年8月15日のことであった。
『夜と霧』は空前のベストセラーになり、それから半世紀を超えた今も、みすず書房の売れ行きナンバー1の本である。先生ご自身も「その当時はみすずさんも窮乏の時代(今でもそうかもしれないが)でかなりの貢献をしたのではないかと思う」と書かれているが(「フランクルと私」『みすず』1997年10月号)、まさにその通りである。先生の一冊の本との出会いが、みすず書房という小さな出版社を支えた。しかし『夜と霧』という本の力は、たんなる私企業の存続に貢献しただけでなく、100万近い日本の読者の心に届き、この国の「良心」を支えつづけている。
『夜と霧』はなぜここまで読まれつづけるのだろう。先生ご自身、この点について書かれている。「『夜と霧』がベスト・セラーになると、ひとしきり似たような強制収容所ものが多数、出版されたが、残ったのはやはり『夜と霧』であった。何故『夜と霧』がベスト・セラーになり、ロング・セラーになったか、ということは興味深い。最も心を打ったのは詩人の故石原吉郎氏の言葉である。氏自身、終戦後、長期間シベリアで強制収容所生活を送った人であるが、彼は〈『夜と霧』が人の心を打つのは、フランクルが「告発しない」ことによります〉と述べているのである」(同上)。
2001年のことだったろうか。1997年に亡くなられたフランクルの要望にしたがって、写真も解説もなく、別のヴァージョンの『夜と霧』を刊行すべく、新訳者の池田香代子さんといっしょに、霜山先生宅をたずねた。「今まで本当にお世話になりました。これを機会に、将来の若い読者のことも考え、新訳を出したいと思います」。それまでの言い尽くせないほどの先生への恩義を考えると、とても無礼であることは承知していた。しばしの沈黙のあと「わかりました。そうされてください」との先生のお言葉があった。そして、冒頭に記した文章まで頂戴したのである。
結果、『夜と霧』は旧版と新版がバトンタッチするのではなく、二種類の『夜と霧』がいまでも読み継がれている。読者の好みもあるのだろうが、それだけ特権的な本だということの証かもしれない。
寛大という言葉では表現できないほど心の広かった霜山先生。私どもみすず書房にとって最も大切な人であった先生は、2009年10月7日、静かにこの世を去られた。
合掌。
みすず書房編集部 守田省吾