男性性の普遍を探る
【書評】チェ・テソプ『韓国、男子』
2024年12月2日
異文化に接することの意義は何だろうか。外国の知り合いができたときに、その国のことを知っていれば話が弾むかもしれないが、それよりも自文化を相対化するきっかけになることが重要な意義である。自身が当たり前だと思っていたことが他地域ではそうではなかったり、逆に自分たちが特別だと思っていたことが世界ではよく見られることだったり、視野を広げるのに異文化に接することほど効果的なことはない。そして、接する異文化が増えれば増えるほど自己省察は深まり、文化の輻輳性や人類の普遍性に対する感性は研ぎ澄まされていく。
チェ・テソプ氏の『韓国、男子』は、「自己省察を深める」という意味での異文化接触の意義を限りなく感じさせてくれる一冊である。読み進めるうちに、日韓の読者が互いの文化論を読むときに抱きがちな「日本と韓国は似ているか、似ていないか」といった古典的(だがさして面白みのない)問いは無化され、現代の男性が抱える問題が、近代化の過程や文化的・社会的事情が異なるにもかかわらず、多くの地域で驚くほど共通していることが明らかになる。その意味で本書は韓国の男性性の現代史という意義に留まるのみならず、人類が経験した近代化の帰結としての、男性問題の普遍的な側面を読者に強く印象づけるものである。
序章では「いま、韓国の男たち」と題して著者の問題意識が語られる。男性の権利擁護を謳う市民団体「男性連帯」代表の「事故死」というショッキングな事例から始まる本章で著者は、過激な女性嫌悪言説への男性たちの支持は、必ずしもそれを主張する人物への熱狂的な支持を意味しているわけではなく、聴衆である男性の内面の「欠乏」を埋めるためにそうした運動自体も都合よく消費されている(つまり、発言者は誰でもいい)ことを指摘する。そして、本書の目的は、今日の「韓国男子」が抱えるそのようなマインドの源流を探り、理解することにあると表明される。なぜなら、著者自身は社会学者であると同時に、自身も韓国男子という「困難な存在」であり、「誰かを抑圧することなしにひとりの主体として、また、他人と連帯しケアを行う者として生きていけるのか」(p. 12)という問いに向き合わねばならない者だからである。
第1章「問題になる男」は、韓国におけるこの状況を、「私たちの時代に新たに持ち上がってきた『男の問題』」という、より普遍的な問題へと接続する(p. 44)。家父長制に代表される男子優先の思想は、朝鮮の近代において、妊娠中絶による産み分け(男児選好)、その結果としての出生性比の不均衡という形で表出した。しかし今日、学校においては男子より女子の成績がよい傾向が世界各地で見られるし、学歴がなくても建設業や製造業である程度稼ぐことができた時代は終わりを迎えている。つまり、以前は男性しかいなかった競争の場に現在は女性もいるのである。そこで散見されるのが、女性蔑視とないまぜで主張される、「男性が被害者である」という言説である。著者に言わせると、そのような形の女性蔑視に陥る男性たちは依然として「とりあえず社会の主流におり、圧倒的な優位を占めて」いて、彼らの主張は「家父長制の費用は払わずに家父長制の恩恵を享受する」ことを求めているにすぎない(pp. 44-45)。そうした錯誤に陥らない、「男の問題」についての「正しい問いと探求のため」(p. 45)には、男性性研究のこれまでの歩み、成果や課題を振り返ることが肝要になる。
こうして、第2章はその振り返り、つまりこれまでの男性性研究の理論的・学問的検討の章となっている。この章で紹介される男性性研究の重要な成果の一つは、「男性支配とは、権力を持った少数の男性のために、さして見どころのないその他大勢の男性が、情熱と誠意を尽くして仕える不公正なゲーム」(p. 76)だという気づきである。現代の「はく奪感」は、この構造のいびつさに耐えられなくなった男性たちの感覚とみなすことができる。
韓国の男性支配の構造について、本書では語られていない例を一つ紹介しよう。新自由主義が進んだ韓国ではさまざまな場で苛烈な競争がもたらされ、格差が深刻な社会問題となっている。若年層の就業問題もその一つで、高い失業率、非正規雇用の増大、就業開始年齢の上昇など、多くの問題が生じている。大企業の正規職に応募が殺到するため、内定をつかみ取るためには名門大学卒の学歴だけでは足りず、大学院卒の学歴や留学経験、語学能力や資格など、履歴書に記載できる事項がたくさんなくてはならない。それゆえ、大学卒業後あるいは在学中に休学して海外留学したり、資格取得の学習に時間を費やしたりする。男性の場合は兵役も終えなくてはならない。よって、無事に内定を得て仕事を始めるのが早くても20代後半であり、30歳をこえてからというケースも珍しくない。問題は、時間とお金をかけて努力をしたところで報われるとは限らない、つまり就職できないかもしれないということである。
さらに、入社しても将来が約束されたわけではない。定年まで勤められるケースは稀で、昇進レースという新たな競争が始まる。昇進レースにおいても就職活動時と同様、能力開発に励むものの、役職が上がれば上がるほどポストが減るだけでなく縁故者が有利となるので大多数は途中で脱落する。つまり、現行のシステムは就職においても昇進においても多くの「情熱と誠意を尽くした」敗者を生み出すシステムなのである。
第3章から第5章はいよいよ、韓国男子たちの「不幸に始まり次々と失敗を重ねる歴史を生きてきたし、最近の状況もあまり愉快なものではない」軌跡(p. 77)が描かれる。第3章では民主化まで、第4章では90年代の繁栄とIMF危機、第5章では2000年代以降の新たな変化が述べられる。時折ユーモアを交えて語られる筆致のせいか、あるいはテーマ自体がもつ面白さのためか、いずれも高密度の章でありながらそれを感じさせず、まるで動画を見ているかのように読み進めることができる。そして読後には、およそ80年に及ぶ「韓国男子」の歩みをたどることが、まさに韓国の現代史を捉えなおすことに他ならないのだということに思い至るであろう。その一方で、話の節々で今日の状況との繋がりや他地域との類似性を発見することができる。
たとえば、光復後に「戸主制に代表される家父長制秩序を構築して男たちに社会的権威を与え、女性を二等市民化した」ことが、現在に至るまで韓国社会のジェンダー構造に大きな影響を与えているという指摘は、韓国のジェンダー問題を単純に儒教思想や兵役制度のみに帰するのではなく、国家建設という大きな枠組みとの関連で捉える必要を示唆するものである。またたとえば、社会格差が急激に拡大した時期の“歪み”として発生した90年代の「至尊派」事件は、現在の「女性嫌悪」との繋がりを連想させるだけでなく、被害者が加害者と同等かあるいは弱い立場の人であったという点に現代の無差別暴力事件の特徴を重ねあわせることができる。さらに、経済成長の熱狂とその後のIMF危機は、規模こそ違え日本のバブル経済の崩壊と類似している。もちろん、常に雇用問題は抱えつつも世界的躍進を遂げた韓国と、いまだ失われた〇〇年が続く日本とで、その後の展開は大きく異なったわけであるが。
2000年代以降の男性性をめぐる状況を描く第5章には、よりグローバルな共通項を見出しやすい。たとえば、前述のように男性の被害者性を強調する言説、あるいは、女性嫌悪の表現として匿名掲示板などサイバー空間に生起する事象などである。韓国で語源不明にもかかわらず侮蔑語として広まった「味噌女」の背景には、男性の「恐怖」があると著者は指摘している(p. 195)。「味噌女」という概念的主体は男性の支配が及ばないような性格の主体性を持っており、男性である自分のことを慮ってくれない。それが男性に恐怖をもたらし、「味噌女」を嫌悪・侮蔑の標的にするのである。しかしながら著者は語る。「彼らが感じたものは想像上のはく奪」(p. 198)にすぎないと。現実には若年世代の苦境は性別共通のものであり、集団としては女性の方が劣悪な状況にあることは統計的事実である。すなわち、同世代の女性を攻撃する男性たちは自分たちと同等か弱い立場にある存在を攻撃しているという点で、先の「至尊派」に通ずるものであるし、日本を含め世界中で繰り広げられているミソジニーや民族差別の構図にも類似するものである。
また、韓国が経済発展を謳歌していたとされる90年代前半の「オレンジ族」「ヤタ族」、それが一転して凋落したIMF危機当時の「かわいそうな父親」など、男性たちはこれまで哀楽どちらの面でも女性たちの存在を無視することで男性優位の構造を維持してきたことも明らかになる。要するに、今も昔も男性優位の「構造」自体は変わっておらず、「男性が被害者」言説には、男性問題として正面から採り上げるべき実態がないのである。しかし、実態がないものほど解決が難しく始末に負えないものはない。果たして男女間の対立を解消する道筋はあるのだろうか。長い思索の旅路の果て、結びの「韓国男子に未来はあるか」で再び、序章で表明されていたのと同じ著者の問題意識が語られる。
「誰かを抑圧することなしにひとりの主体として、また、他人と連帯しケアを行う者として生きていけるのか?」(p. 261)
深い探求の甲斐もなく、否、それゆえに本書執筆当時の著者は、この問いに対する回答を保留する。しかしながら、より最近の、20代男性と20代女性の対照的な投票行動やバックラッシュについて紹介した「日本語版へのあとがき」では、次のような「確信」を含むコメントを寄せている。
「……こんな確信を抱いている。日本の男性性をはじめとして、男性性はそれ自体、似通ったかたちでの失敗と卑屈さに陥っていること。『近代的な男性性』はそれ自体、最終的に成功することのできない、矛盾に満ちたプロジェクトであった、と。」(「日本語版へのあとがき」より、p. 269)
日本では2021年8月、小田急線車内で起きた刺傷事件が大きく報道された。一方、韓国では2016年5月、ソウルの地下鉄江南駅近くの男女共用トイレで20代の女性が面識のない30代の男性に刺殺されるという事件が起きていた。どちらもミソジニーとはく奪感がもたらした犯罪である。他にも、2021年の東京オリンピックでは、アーチェリー女子韓国代表金メダリストが、髪が短いことを理由に韓国内のSNSで中傷され社会問題になった。一方、日本でも(ジェンダー問題に限った話ではなかったが)パリオリンピックで選手への誹謗中傷が話題となり、対策の必要性が語られた。先に述べたように、SNSで盛り上がったからといって投稿者が応援されているとは限らない。多くの閲覧者にとって発言者は誰でもよく、自分以外の誰かが騒ぎを起こしてくれることが、自分の手を汚さずに気楽に中傷の盛り上がりの消費に加わるために重要なのである。
しかし、そんなことをしたところで被害者が増えるだけで、男性たちの生きづらさが解消されるわけではない。いったい、みなが生きづらくなってしまったこの時代、どうすればよいのだろうか。容易な答えはないが、一男性としての自省も含めて書くなら、まずは、私たち男性以外にも今の社会を形成している存在がいることを自覚し、社会を構成する全員の生きづらさが少しずつ解消されていく方法を考え、実際にその考えにもとらない行動をすることである。これまで男は「男性支配」の構造の中であまりにも他者の生きづらさに無自覚であった。また、自身の生きづらさに気づいた後もこの構造自体を変えることには消極的であった。それがどれほど社会に負の影響を及ぼしてきたか、韓国の例を見るまでもなく深く自省せねばなるまい。私たちがすべきは「情熱と誠意を尽くして仕えて」きたゲームのルール変更であって、「#MeToo」を嘲笑することでは決してない。そうしなければ、はく奪感や恐れを克服できる日はいつまで経っても訪れないであろう。
大きな変化は小さな積み重ねから生まれる。まずは、身近な他者の生きづらさに耳を傾ける、自身の生きづらさを口にする、生活の中でお互いの生きづらさを僅かでも解消できる方法がないか探るといったことからで十分である。「個人的なことは政治的なことである」、今こそ私たちみなにとってこの言葉が意味を持つのではないだろうか。
最後に、私的な話題で本稿を締めくくることをお許しいただきたい。原著が刊行された2018年、私は年末にジェンダー史学会での発表を控えていて、韓国の男性性の動態を通時的に記した資料を探していた。本書の存在を知ったとき、何というベストタイミングであるかと驚喜しつつ、すぐに韓国から取り寄せ、何度も読んだことを記憶している。東アジアの男性性に関する論稿は当時も今も限られている。本書はこれからも東アジアの男性性および多文化社会時代の男性性を研究する上での必須文献であり続けるに違いない。
そして、実は本書で参照されている参考文献に、私も寄稿している書籍が含まれているのだが、それは日本で刊行された書籍の翻訳書ではなく、韓国で企画され刊行されたものである。男性性の問題に関し、文化的背景は異なれど、抱えている問題、到達点は似ている。ゆえに通文化的な研究は可能であるし、意義も大きいはずである。本書を上梓されたチェ・テソプ氏にあらためて感謝するとともに、本著を日本語で読めるということもまたボーダレス時代の賜物であり、大変嬉しい限りである。
(評者:佐々木正徳 立教大学外国語教育研究センター教授 韓国社会論)