
その者の内と外の境に位置する自己イメージは、10代半ばからの10年間の私がそうであったように、鎧のごとく堅固に形成されることもある。その場合、その者を捉える者が感じるイメージもまた堅固だ。私で言えばさしずめ「道を踏み誤っている者」のイメージとでもなるだろうか、おとんに限らず誰もが私をそう見ていただろうし、私はそう見られるように、結果的にであれ、イメージを操っていた。歳を重ねるにつれ、私は自己イメージの形成に関心が薄れてしまった。友人は、どうでも良いようなメイクと服装で現れる私に、「私たちはもう、例えばTシャツにジーンズの格好でもキラキラしていられる年齢じゃないんだよ。それにあんたはもっと芸術家っぽい格好したらどうなの。そんなじゃ商売に差し支えるでしょ」と言い、私はごもっともと思いはする。それにそんな私でも、午前中の宅配の訪いに、起床時のままのパジャマ、寝癖でカオス状態の髪、その姿で対応することには、さすがに苦痛を覚える。意図せぬ(それとも、意に反する)姿であっても、否応なくそれは自己イメージとして機能し、相手が私に重ねる意味・価値のイメージ形成の決定的な素材たりえている。しかし、ある人の自己イメージとその人を見る者の感じるイメージ、その二重のイメージがどれほど堅固であっても、そのさきの「答えであるのに問い」を垣間見ることは可能だ。現に、祖母は20歳の私のイメージのさきに向かって「こんなに立派に大きくなって」と言ってくれた。
カメラが、写真が、そんな二重のイメージの防壁を透過し、そのさきを捉えうることには、私は疑念を抱いていなかった。もちろんカメラ任せで良いということではない。病の悪化によって、祖母は人生で培ってきた自己イメージを、私は幼少時から長く祖母に重ねてきたイメージを、それぞれ剥奪されて、そうして二重のイメージが消え去っていてもなお、祖母の「答えであるのに問い」を写し出すにはシャッターチャンスが厳然とあった。それは他のどんなポートレートでも同断だ。誰もが撮影で経験することだが、シャッターを切るタイミングがわずかでも前後するなら、そのカットは写し手の意から逸れて、単にカメラという機械が切り取った瞬間になってしまう。被写体の人物がどれほど堅牢な自己イメージで身を固めていても、その先にあるものが垣間見える瞬間が巡り来る。それを切り取らなければならないが、その時、反射的にシャッターを切っても遅い。その瞬間の到来を、被写体の人に緊張を与えないようにして、しかし、和気あいあいでもなく、つまり、その人が自分一人だけでいるかのようになれるようにして、ある意味、気長に持つ。『そろそろ来るかな』と感じられ出したら、発現の寸前の予兆を見逃さないようにする。いよいよファインダーに目を当てるときが来たなら、私は、目だけの存在になる。そうして、ふと浮かぶ予兆の直後のそれの現出と同時になるように(カメラの構造からくるタイムラグも感覚に織り込んで)シャッターを切る。どんな撮影でも、それは狩猟同様、シューティングだ。
カメラは、あるいは、写真は、世界の一切を一挙に写し取れない。例えば、時間から流れを差し引いて、「瞬間」に凝固させてしまう。「瞬間」は標準的なカメラでは4000分の1秒から無限秒(任意時間)までだけれど、いずれであれ時間の流れは損なわれて凝固し、すなわち「瞬間」となる。また空間も、1次元差し引かれて2次元となる。撮像素子(フィルムやCCD)を持たないカメラオブスクラはバロック時代に画家に用いられたけれど、彼らには、その機械は透視図法のメソッドを得てもなおてこずる「3次元から2次元への正確な変換」をスクリーンに見せてくれるハイテク装置だった。視野も、レンズごとの画角に縛られ、カメラの方が肉眼よりも制約が大きい。…カメラはそのように、世界に有るものを差し引いて記録してゆく機械、しかしだからこそ、撮影者は、主要ではないものを意図的に差し引いて(あるいは、背景化して)、自分が表現したいことを相対的に増幅することができる。そして撮影者は、被写体に手を加えて、例えば、コスチュームや化粧や撮影環境の選択などで、さらに増幅することもする。ポートレートでは、多くの場合、被写体人物の自己イメージ、ないし撮影者が被写体人物に感じるイメージを増幅して写真にすることが多い。様々な「イメージ操作」によって、それ以外の要素を背景化するから、それはイメージの純化とも呼べる。時には、被写体人物の自己イメージが虚飾に利用されていること(例えば、高貴なイメージで、自らの卑しさを隠すなど)を暴くポートレートもあり、この場合、被写体人物の自己イメージを、撮影者が皮肉を込めて増幅していて、それも「イメージ操作」の一つのあり方だ。いずれであれ、イメージの増幅が、その写真を、日常的な人物スナップとは異なったもの、すなわち「ポートレート」にする。私は撮影法としてその真逆を目指した。被写体人物の自己イメージを差し引き(背景化し)、撮影者の私が感じる被写体人物のイメージも差し引き(捨て)、以て、イメージのさきにある、その人の「私」、言い換えれば「答えであるのに問い」、また言い換えれば「そこにただ在ること」を浮かび上がらせることを目指し、それもまた、日常スナップとは異なる「ポートレート」になるはずと思われた。その人自身とその人を捉える者の二重のイメージの能うかぎりの減損、そのポートレート。
被写体は、著名人や外貌がユニークな人である要はなかった。翻って、著名人や外貌がユニークな人でも構わないとも。知己か否かも問わなかったから、撮影承諾の得やすい友人、知人、家族をまずは写し、彼らの紹介からモデルになってくれる人を得ていった。自己イメージは誰もが大なり小なり形成している(中には、人並みで目立たないことを目的に自己イメージを形成している人さえいる)ので、その多寡にも条件はなかった。
服装・化粧等、何の注文もつけず、「ご自由に…」と事前に伝えておいた。屋外でも、室内でも、ロケーションの条件も臨機応変とした。撮影時は、祖母に言ったことと同じ、「こっちを向いて(カメラを見て)」とだけリクエストした。格別のポーズも、動きも、また表情作りもお願いしなかった、というよりも、いずれもしないようにしてもらった。
「笑顔」は特に避けた。「笑顔」は、相手に害意を持たず、逆にコミュニケーションを望むことを示すアイコンで、その発信も受信も、人に生来備わったものだ。「笑顔」の意味・価値・目的を改めて意識し、そのパフォーマンスを向上させようと、練習で鏡に笑顔を映す人はいくらもいる、しかし、鏡に向かって、そこにいる「自分」に笑いかける者はいない。ナルシシズムや、自分を鼓舞するようなケースは別だけれど。赤ちゃんは鏡に映った自分に笑いかける。鏡のそこに見るのは「他者」で、「自分」ではなく、だから笑いかける。…「笑顔」を写真にするならば、見る人はその生得の意味によって「笑顔」を捉え、視線はそこにとどまってそのさきには及ばなくなる。「笑顔」に限らず、何かの感情を示す表情は、また、緊張や警戒に伴う表情は、私が写真に定着したいものを隠す障壁になる。他者といる際に「常に笑顔でいる」を鉄壁の自己イメージとする人だっているのだ。もちろん、「常に強面でいる」「常にポーカーフェイスでいる」などなど、いずれも相手に対しての盾の役割の強固な自己イメージたりえる。
日の丸構図。無表情。無ポーズ。無動き。…この撮影フォーマットで統一することとした。子供の私が鏡に対して、そこに映し出された〈少女〉に「この子は誰?」と問うたそのビジョンだ。祖母の写真もそのように撮っていた。日の丸構図は、写真の教科書では禁止だ。しかし、その構図は鏡では当然のものであったから、私はそれを採ったのであって、教科書に逆らうことで奇を衒ったのではない。「絵」が、対象をいかに描くかにその存在を現すのならば、「写真」も、対象をいかに写すかにその存在を現す。写真は、けして風景を素通しで見せる窓ガラスのような消極的な存在ではない。レンズやボディの種類、フィルムサイズ、また、シャッタースピード、被写界深度、露出、そして、光線など、技術的な要素それ自体に、「写真」は存在しない。撮影者が能動的に、意図的にそれら要素を活用するところに「写真」は存在する。
写し方のフォーマットの統一で、人それぞれの「答えであるのに問い」を、見る人に感じ取ってもらおうと私は思った。私が被写体の人に望んだのは、独りで鏡に向かった人の在り方だった、外面も内面も。感情からの表情とポーズ、というよりも、心の何らかの活動をうかがわせる表情とポーズを差し引き、当人だけでなく背景を含めて、事件(出来事)や物語を差し引き、そうして私は作品から、人が共通して一目で読み取り、それで終わってしまう要素を、可能な限り弱めて差し引いて、そこに見えてくるのがイメージのさきにある「答えであるのに問い」となるようにした。そこに私の「写真」が存在し、人が目にするそれは、素通しのガラス越しの被写体でも、カメラがその機能によって自動的に捉えた結果でもなく、私の意図の結果だ。
作品を一枚一枚積み上げてゆくことは、現実には、一人一人に会い、1カット1カット、シャッターを切ってゆくことに他ならない。霞を食って生きてゆける仙人が羨ましい。学生時代から、時給の良いアルバイトを選んできていた。それでも、収入の多くがフィルム代や現像代、プリント代、そして撮影地への移動費で羽が生えたように消えていった。最初のアパートは新しくてきれいであったけれど、案の定というべきか、1年も経たずに賃貸料が負担となり、寝泊まりの部屋を提供してくれるパチンコ屋に勤め始めた。店舗の階上の部屋は、開店から閉店まで、それはもう賑やかで、朝一番に流される勇ましい音楽は20年を経た今も耳の奥で鳴りつづけている。ホステスも経験した。察しが悪く気が利かず、しかも相手の話を盛り上げられない私には顧客がつかなかった。私の食事の粗末さを見兼ねて、同僚の一人がお弁当を作ってきてくれた。大手のカメラ販売店に勤めたのは、フィルムやプリント用ペーパーの社員販売に惹かれてのことだった。はなはだいい加減な働きぶりであったけれど、そこで知り合った方の紹介で、大手出版社の写真部に滑り込めた。アルバイトの身分でも、収入は安定し、「プロカメラマン」の技術が習得でき、かつ、個人的な撮影活動に会社の設備が使えた。取材に出れば経費で食事ができ、その上、一番下っ端の私は、会食の誘いは一つも断らず、美味しいもので腹を満たして、自分が負担する機は一切ないまま、食費を大幅に節することができた。ご馳走になる際、冬眠前の熊のように限界まで食べてしまう私の習性はここで完成した。それでも、ポートレートのシリーズに加え、雪をモチーフにするシリーズも始めたくて、冬の100日間の休職など叶うはずもなく、私はその出版社を辞めてしまった。
ポートレートの撮影を続けてゆくうち、私は、人以外の物・動植物・風景・光景に、『これ、人がただそこに在ることと気配が似ている』と感じるようになった。例えば、誰もいない祖父母の家に、シーフードヌードルの容器に飾られたコスモスの造花。〈造花〉は、言葉で表せば「花を模した工作物で、部屋を飾り、人の目を憩わせるためにあり、リアリティが尊ばれる」というような意味・価値・目的を人から与えられて、そのイメージで捉えられ、「染料で彩色された布や顔料を練りこまれた樹脂の造形物」ではなく「コスモスに準ずるもの」として見えている。でも、祖父母の家ではそのイメージを重ねる人がいないのだ。人の不在が常である場で〈造花〉に遭遇することは、私にはその意味・価値・目的が揺らいで感じられる経験となった。あまつさえ、シーフードヌードルの容器は、生前の祖母がそれを〈花瓶〉に用いたことで、本来の意味・価値・目的が別のそれに置換されていた。もとより自己イメージを持たぬコスモスの造花もその容器も、動きのない埃臭い空気の中、人がもたらすはずのイメージを欠いて、「ただそこに在る」を露わにし、そうして私の目にしたそれらは、まさに「答えであるのに問い」そのものだった。
無人の祖父母の家では、電気、水、ガスの供給が止められていて、明かりも水栓もコンロもまた、それぞれの意味・価値・目的がやはり揺らいでいた。意味・価値・目的を充たす機能を喪ったそれらは、機能していた頃よりもよほど、物それ自体の「ただそこに在る」を露わにしていた。電気、水、ガス各社に連絡をしてそれぞれの供給が始まると、明かりは瞬いて灯り、蛇口は水を吐出してシンクを響かせ、コンロは青い炎とともに燃焼音を上げ、そうして私の目の前、それぞれがその意味・価値・目的のイメージを再びまとって、さらにそれが周囲に波及して、家全体がにわかに息を吹き返していった。幼い私は、ファミリーレストランのおもちゃで、魔法の消失を経験したけれど、ここでは事物が魔法をかけられて、その効験が波紋のように広がっていくさまに立ち会えた。人が他者や事物という対象に、意味・価値・目的のイメージのベールを被せることは、「ただそこに在る」を一瞬で減圧させる魔法。一日の営みのなか、そのときそのときの心の在りようの流れそのものとして意味・価値・目的は生動し、人は世界に魔法をかけつづける。その私たちが、自分のかけた魔法に幻惑されてしまうことも珍しくはない。宝石は、光に鋭敏に反応する。私たちがそれに価値を感じるならば、魔法のベールがかかって、その宝石は「魅力」という輝きをいや増しにする。もし、そのとき人が宝石に、卓越した意味・価値・目的ゆえに驚嘆するなら、瞳孔が開いて、本当に眩しさが増しさえして、それは、カメラで言えば、プラス方向の露出補正操作にあたる。
物には意思がないから、人のように自己イメージを創ることはない、でも、人が与える意味・価値・目的のイメージは帯びている。なるほど、〈鋏〉の「紙などを切る」の意味・価値・目的は単なるイメージではなく、〈鋏〉はそれにふさわしい機能を具えていなければならない。しかし、それでも、〈鋏〉は「紙などを切る」の性質を持った物質なのではない、そんな性質は科学的に調べたって出てこない。「紙などを切る」は、例えば「磁気を帯びている」というような科学的な性質ではない。「紙などを切る」は、人が事物にその意味・価値・目的を重ね、その現れのイメージで捉えて初めて生じる。大昔の遺跡からは、人工物でありながら、それの意味・価値・目的が不明な事物がときおり発掘されるが、その方がむしろ事物の本来の在り方だ。もっともその用途不明の遺物は「神秘的」という意味・価値のイメージのベールを直ちに被るだろう。黒曜石は、高所から落下するような自然現象によっても、刃物のように割れる。それは黒曜石の科学的な性質だ、けれども、それが〈刃物〉となるには、人が「物を切る」という意味・価値・目的をそれに重ねて捉えてこそだ。大昔、人は天然の黒曜石で指を負傷しただろう。その時、「これは物を切るのに使える」と閃いたのなら、それは科学的な性質の発見ではなく、新たな意味・価値・目的の創造というべきだ。人は、黒曜石の科学的性質を利用して、石塊を人為的に割って加工して、よりその意味・価値・目的に適った〈刃物〉の生産を始める。そして使い勝手を高めるにとどまらず、見るからに優れていそうな外見を施す、すなわち「イメージ操作」もおこなう。人における自己イメージの形成は、この「イメージ操作」の側面が大きい。10代半ばからの10年間の私の自己イメージはまさにそれだった。自己イメージによって、人が自分に重ねるイメージをコントロールし、以て、私はそれに鎧の役割を担わせていた。
…そうして私は、事物のポートレートも撮り始めた。人が事物の与える意味・価値・目的のイメージのさきで、そこにただ在る「答えであるのに問い」の姿を写していった。人物の撮影とプリントを重ねて、「事物のポートレート」にたどりついたとき、その展開に私は驚かなかった。むしろ、10歳の私が鏡の自分に『この子は誰?』と感じていたその感覚が『これはなに?』に近く、物に対しているようであったことを思い出して、『もともと人とそれ以外のものとの間に、特別な境を置く必要なんかなかったんや』と腑に落ちたのだった。
撮影対象の拡大は、実感としては自由の増大で、私は目に立ち現れてくるものにシャッターを切り続けた。そのうち、私は、人が重ねる意味・価値・目的のイメージがふと揺らぐ光景との偶然の出会いに心惹かれるようになった。〈夏みかん〉は、下手な縫いぐるみのように粗い目で縫われたとたん、その意味・価値・目的のイメージが揺らいだ。〈茶碗〉は、割れたのをいい加減に接着され、注がれた水が静まらず、漏水を始めたとたん、その意味・価値・目的のイメージが揺らいだ。にもかかわらず、どちらの物も、揺らぐ意味・価値・目的のイメージのさきで、勁くしたたかに、そこにただ存在していた。イメージのさきの「答えであるのに問い」の在る場は、人とそれ以外のものとが隔てなく並ぶ場でもあった。
人は、自己イメージを形成する、また、人生(例えば、写真家になる)を形成する。では、それは、人が自らの存在意味を創造するということだろうか? もしそうであるのなら、祖母は、あの認知症によって、過去の自己イメージも人生も失い、その再形成も叶わなくなって、そうして「人でありながら人であらぬもの」になってしまったということになる。しかし、写真はそれに、否の異議申し立てをしていた。けれども、それはどんな異議であるのだろう?撮影が、回答と言えぬまでも、何かを教えてくれると私は信じていた。
「答えであるのに問い」という呼び方は、人が対象に与えている意味・目的・価値のイメージのさきに垣間見えるそれが、私にとって(あるいは誰にとっても)どのようであるかを表していて、それに即した呼称とは言えなかった。私がそれを発見した、などとは到底思えなかったけれど、言葉にも知識にも疎い私は、適切な呼び名をと思っても途方にくれるほかなかった。「答えであるのに問い」などという呼称は、それに接する人にはイライラを喚起するばかりの名辞であろうと思われた。私が文章表現などで用いるときも、いちいち文脈を添えないと使い物にならなくて不便だった。たとえば、枕詞よろしく「意味・目的・価値のイメージのそのさきの」と先行させなければならない。…私は、撮り溜めてきた写真を見てもらいながら、人に意見を請うてみた。
「仏教では、我性を否定して無我を説き、金剛不壊の我の存在ごときは自我(意識)の我執が生み出す迷妄と断罪する。そんな我執は、不如意の苦をもたらすから、滅すべきものとされる。菜央さんにとって『答えであるのに問い』であるところの、イメージのさきに見るそれはその我の存在じゃなさそうだ。だって、菜央さんにあっては、それは写真となって、つまり個人的な幻覚や錯覚、迷妄ではないのだから」と、その人は語り始めた。「変転する現象の奥の不変の我の存在は、西洋哲学では実体と呼ぶものに相当する。実体を否定する立場もあれば、肯定する立場もある。菜央さんが、私たちが相手に重ねて見るイメージのさきにあるそれは、たぶんその実体とも一致しない。菜央さんが言うイメージは、実体や物自体と対比的に用いられる現象とも一致しないし、そのさきのそれは、内面のどこかに潜む核…桃の実の中の固い種みたいなもの(実体)でも、現象の彼方の物自体ともまた異なっているし」その人はさらに続けた。「自然科学で言えば、その者をその者たらしめるものなのだから、DNAに相当するのだろうけれど、菜央さんの写真が、DNAを感じ、それを表現している、ではねぇ…。心理学なら、人格となるだろうか、でも、お祖母さんは、その人格が病で損なわれてしまったわけで、菜央さんの写真が見せるのはその人格ではない…」
本当はもっと長く丁寧に説いてくれた。しかし、望むようなぴったりの名辞がどうもなさそうだとわかってくると、『なんか、子供の頃、お腹が痛くなったときみたいや。講義はええから、なんかいい呼び名をはよ見つけてぇや』と、申し訳ないけれど思ってしまった。言葉の習得が苦手で、勉強が嫌いで、厄介なことは人任せ、…成人して色々変化したようでいて、困ったところで一貫性のある私だ。「私は私」というトートロジーくらい奥深いものはないのではなかろうか。答えでありながら、答えたりえていない、でも、空疎なのでもない……
「私は誰?」「自分とはなんなのか? 生きることの意味はなんなのか?」に答えようとして、世の東西、時代を問わず様々な立場から、それを指差して、その存在を肯定したり否定したり、また、推測されるその本性からいくつもの呼称がつけられてきた歴史があることだけは理解した。それは私の発見ではないのだから当然だ。私は私の立場からそれを指差す役を果たす呼称をつけようと思った。提案されたり、提案したり、また仰山たらしいものは避けたくて、あれこれ思案のあげく、「個の存在」にした。ほとんど何も語るところのない呼称だけれど、私が捉えているものを、指差してはいるかなと思った。私がすべきことは、あるいは、したいことは、「個の存在」について論ずることではなく、私が直観している「個の存在」を、写真を見る人の前に、そう、ごろりと投げ出すことだった。
ポートレートを一枚一枚撮り、それを見て、気づきを次の撮影に反映し、そのプリントでまた気づきを得てゆく、その積み重ねが、物のポートレートへの展開につながり、自己イメージや人が与えるイメージのさきの「個の存在」の場は、人とそれ以外のものとが隔てなく並ぶ場、という認識を得ることになった。そのように、私は、言葉ではなく、「写真」で考えてゆく。私は、一枚一枚の撮影とそれで得る写真とで、写真集へと、あるいはそのテーマへとにじり寄ってゆく。
あらゆるものは時間の中で変化する。けれども、その変化は、任意の存在からまた別の任意の存在への転化ではない。鉄は鉄として変化して朽ちてゆく。釘はそれの在る環境に応じて、一本ずつ異なる時間を掛け、錆びて砕けてゆく。釘はそうして一本一本それぞれの「個の存在」だ。
生き物は、環境に応じる生命活動が加わるから、変化は複雑になる。でもそれとて、他の存在への転化ではない。例えば桜は、同じ場所に在っても、開花の時期は木ごとに少しずつ異なり、樹形も同一にはならない。それでも桜は桜、生き物は物以上に「個の存在」だ。
人は、人格や性格、そして明瞭な自我意識…個性が具わるから、さらに一層、変化は複雑を呈する。人生の過程で、考え方、価値観といったものも大きく変化してゆく。それに相関して、自己イメージも変化してゆく。しかし、それもまた他人への転化ではない。「あの人は、今と昔では、まるで別人だね」というような例は確かに実在する。でも、仔細に観察するなら、一見別人と感じられるその変化も、やはりその人らしいものなのだ。自己イメージは「個の存在」に順接的に現れることもあれば、逆接的に現れることもある。自らに無いものを有るように見せかける自己イメージもあって、それが逆接的な自己イメージの現れ方の一つだ。どちらの顕現であれ、それはその人の一貫性を物語る。偽りの選択、その内容の選択、それにさえ、その人の一貫性がある。大きな出来事(事故・事件・病…)を経験すると、物事の捉え方、考え方、価値…人生観は一変する。その変化には一般的な傾向は見られても、結局のところ、その変化は人それぞれなのであり、言い換えれば、その人の変化が起きる。変化の一貫性、そこにその人がいるのだ。家族を無残な事故・事件で不意に奪われる経験をして、そのとき、神を見失う人もいれば、逆に、神を見いだす人もいる、もちろん、それ以外の様々な、その人らしい変化がある。どのような経験をしても、人生観に有意な変化のない人もいて、それもまた、その人なのだ。時間の中での変化の一貫性、それが「個の存在」の在りよう……
カメラの向こうの赤ちゃんにも「個の存在」は見ることができた。もちろん老人にも。祖母のように、病で多くを失ってさえ、「個の存在」は損壊せず、しかと見ることができた。写真は、それの現に在ること、そう、「個の存在」の証しをしてくれた。人それぞれの「個の存在」は、誕生から死まで、勁く、したたかに存在し続ける。
幼い頃の私、10代の私、20代から30代の私、そして40代の今の私。私は変化を重ねてきたけれど、私は変化してもいない。私は私…。旧い友人は「あんたが写真家とはねえ。真っ当に大人になれるかも怪しかった子が」と言い、「でも、あんたらしいか、昔っから行動力だけはあって、『学校サボって大阪に遊びに行こう』って口にしたその時には足は駅に向かってたもんなぁ」と続け、…その素朴な見立ては、でも、正確と私は思う。
やがて私は、風景・光景にも、「個の存在」のようなものを感じるようになった。例えば森に、また例えば都市に…。〈森〉は、一個の名辞を持っていても、それは地面、川、樹木、草、昆虫、動物など、多種多数の集合だから、「個の存在」とは言えない。〈都市〉も同様だ。建物、道路、鉄道のインフラ、そして様々な目的で集まる人々などなど。…それでも、「個の存在」を感じた。私は自分のその感覚に従って、風景・光景の写真も始めた。風景・光景のポートレートとして。
そのプリントを見るうちに気づき始めたのは、「個の存在」の「個」が、「孤」を意味していないということだった。「個の存在」は孤絶を本性としていないどころか、全く逆に、他の「個の存在」と関わりを結ぶことを本性としていた。
〈森〉は、雑多なものがただ集まった物置のような存在ではなく、動植物が相互に関わりを結んで、そうして総合されて「系」を創り出していた。一つの系。…だから、それは「個の存在」のごとく現れると思われた。「系」は、相貌を呈するのだ。〈森〉の相貌、〈都市〉の相貌…。だから、ポートレートが成立する。
例えば〈机〉という「個の存在」にしても、それは多くの部材が総合されて成り立っている「系」と言える。そして、〈人〉という「個の存在」もまた、「系」だった。体は数多の物質が関係し合って総合的な統一をなし、生命活動をおこなう一個の「系」。
「個の存在」を、その成り立ちから眺めるならば、それは「系」であって、むしろ「系」を成していないものの方が少ないのではないだろうか。そして、「個の存在」がすでに「系」であるのならば、その「個の存在」が他の「個の存在」ないし「系」と関わりを結んで、単なる寄せ集めとなるのではなく、より大局的な「系」を構成してゆくのはいたって自然なことだ。地球を一個の生命体のように捉えて、ギリシャ神話の女神の名を借りて、ガイアと呼ぶそうだけれど、それも「系」の捉え方と、私には思えた。そして、ガイアが私たちの最大の「系」ではないだろうとも。
祖母が亡くなり、荼毘に付されたとき、親族は火葬場の一室で待機し、葬儀もその頃になると歓談の空気も生まれだして、私はそんな部屋を抜け出て、敷地の中を一人ですずろに歩いた。私の心もあたりの木立も、不思議に静かだと思った。ふと建物に振り返ると、ひときわ抜きん出た煙突があちらに眺められた。その周りに何もなく、開けた青空だけを背景にする煙突の先端からは、薄灰色のごくわずかな煙が昇り、さらに薄まりながら、空の青になじむように消えていっていた。
生前の祖母は、「私は生きていても意味のないものになってゆく」と日記に記し、孫とわからなくなった私のような者にさえ「こんなでは生きていたくない」といくどか口にした。病気の進行がやがてその発言すら奪ってしまった。祖母が否定していたのは「生」ではなく、病がもたらしている「自分の在り方」だった。病の悪化を逆転させる術はなく、それからの解放はつまり「死」しかなかった。だから、祖母が息を引き取ったとき、『お祖母ちゃん、やっと自由になれたんや。そうなんや…』と、私は自分に言い聞かせた。「死」は解決ではないとわかりつつ…。
それから「個の存在」のポートレートのシリーズの撮影に並行して雪国のシリーズの撮影も開始して、やがてその地の夏山にも入った私は、動物の屍を頻繁に目にするようになった。死んだばかりで他の動物に喰われた形跡をとどめるものから、清潔な標本のように骨ばかりとなったものまで、埋葬されることのないそれらは「死」が本来何であるかを、私に見せた。一頭の動物は自立した活動をなすから「個の存在」だけれど、同時に、細胞という「個の存在」が何十兆と関係しあって総合的な統一をなす「系」でもある。「死」は、その「系」の数多の結び目が一斉に解けて、散逸の一方となって、もはや同じ「系」には戻れないことだった。「生」と「死」の境は、かつては心臓にあると言われ、やがて脳にもあると言われ、けれども、本当の境はどこにどのようにあるのだろうか。
「私」という「個の存在」は同時に「系」であっても、自らの存在を確認でき、かつ、自律性・独自性が高いから「個の存在」と捉える方が自然だ。「死」はそれを一変させる、というよりも覆す。「私」という「個の存在」が一個の「系」でもあったことをその崩壊があらわにする。細胞の数だけで何十兆、そして一個の細胞もまた、数多の「個の存在」からなる「系」なのだから、死はいったいどれほどの数への崩壊、散逸であることだろう。しかし、「死」はけして無への廃滅ではない。散逸する微小な無数の「個の存在」は、他の「個の存在」「系」に関わりを結んでその構成要素になりうる。死んだ動物は、一部は他の動物に喰われ、また昆虫に喰われ、あらかたは微生物に喰われ、そうして喰った側の構成要素となり、あるいはその活動源となり、そう、新たな「個の存在」となり、それは最前よりも大きな「個の存在」や逆に小さな「個の存在」への多様化であり、いずれであれ、しかし、けして無にはならず、ずっとずっと存在し続ける。朽ちた釘だって、微小な「個の存在」への分解と散逸の末、植物の、また動物の「個の存在」の「系」に組み込まれる。生と死の境のない、また生物と無生物の境のない、「個の存在」と「系」の交錯の果てない流れ…。
マタギに案内をされて入った雪国の春の山は、雪解け水で湿潤な地面に、多くの草が若葉を展べて、晴れて気温も上がる中、その緑の匂いは濃厚で渦巻くようで、息苦しささえ覚えた。そうして歩む先の草間に、動物の骸が見え始める。近づくと、半ば露出した頭蓋骨の形から鹿、まだ若い鹿と知れた。「…雪崩だべかな…」とつぶやくマタギの声が傍に聞こえた。全身、骨の露出が夥しいが、しかしまだ被毛も肉も残って骨も乾いておらず、はっきりと腐臭が立っていた。吹き迷う風の向きによってはその腐臭は息を止めてさえ防げなかった。腐臭と草いきれが混じり合い一つとなった匂いは、私には初めて経験するものだった。今も記憶にはきと刻まれているその匂い、それこそは、生と死の境のない、また生物と無生物の境のない、「個の存在」と「系」の交錯の果てない流れの、その匂いだった。吐き気を催すようなそれが、しかし、世界の本来の在りようなのだ。
人が文化として生み出した火葬、また埋葬は、死のその在りようを覆い隠してしまう。埋葬はまだしも、火葬は、屍の分解と散逸を大幅に単純化して、しばらくの煙とひと山の灰にしてしまう。だから私は、もし自分が死んだら、動物のように森に放置して欲しいと思う。「死」は、新たな「個の存在」「系」への再構成の始まりであり、死者はけしてその変移を意識できないにせよ、これも輪廻転生の一つのあり方かもしれなかった。祖母の荼毘の折、私は、薄い灰色のわずかな煙が煙突の先から立ち昇って青い空に溶けて消えるのを見守った。あのとき空に消失した煙は、しかし無となったのではなく、ただ私の目に見えなくなっただけで、新たな「個の存在」「系」への再構成が始まっていたのだ。あれから多くの撮影を重ねた今の私はそんなふうに思う。
〈都市〉という人為的な「系」に身を置けば、自覚しようとしまいと否応なしに、私たちは「個の存在」として生きたまま、〈都市〉の構成要素となる。自然である〈森〉では?そこに暮らしている者ならば、その「系」の構成要素となっているだろう、しかし、例えば旅人は、非構成要素の異物にとどまり、その者が「系」の調和を乱すようであれば、破壊者だろう。森の住人も旅人も等しく人だから、その者が何を為すかによって、構成要素にもなれば異物にもなる。
幼い時から、私は〈家族〉という「系」の中で、また〈学校〉という「系」の中で、異物だった。人が作り出す「系」は自然法則よりも意味・価値・目的で組み上がっているから、それをよく体得できなかった私は、合目的な構成要素たりえず、ときに「系」の破壊者だった。…それでは、大人たちからくどく叱られもするか、と思わないでもない。
「個の存在」は時とともに変化する。「系」の相貌も時とともに変転する。…億年、万年、千年、百年、十年、一年、季節、月、日、そして一瞬。そんな相貌にカメラを向けているのかと思うと、「私」という意識など消失し、自分がほんの一瞬の眼差しにすぎない存在であることを実感する。カメラのシャッターの切れる音は、無限の広がり…時間の中に響いてゆくかのようだ。
写真を撮り重ねることで、ものの見え方、すなわち世界の現れ方は変様する。そうでなければ、私が写真でなにかを考えたとしても、それはほんの思いつきであったということだ。自分の内奥に潜んでいるものの存在に、写真によって気づくとき、ものの見え方・世界の現れ方は変様する。目前の世界で、常に背景に沈んでいたものが浮上してきたり、前景に見えていたものの構成が変じたり、全体に捉える気配が様変わりしたりする。そして、目の惹かれる対象も移ろう。
「個の存在」が関わりを結んで「系」をなす。しかし、私たちの感覚にとって「系」というには規模が小さく、かつ、存続の時間が短い結び目もある。いくつかの「個の存在」が、人為の関与なく、自ずとふと関わりを結び、多くが人に気づかれることも見られることもなく、束の間で解けるその結び目。いわば、無名(アノニム)の関わり、結び目。
空の鉢の底に落ち葉が溜まること。小石の集まりに雨が黒点をつけること。道路の陥没を縁取って草が生えること。木の葉の陰に、繭が静まっていること。毀れたビニールハウスの骨組みの中に草木が繁茂していること。布の上にとりどりの釦がこぼれて散ること。水面に波紋が一つ広がること。………
それらは、擦れ違った人の瞬時の印象のように、束の間の相貌を私に見せた。8年前に始まったこのシリーズの最後に、私が多く撮り重ねたのが、無名(アノニム)の関わり、その結び目の須臾の間浮かんで消えるその相貌のポートレートで、この世界には無名の結び目の方がはるかに多いことが見えてきたのだった。どれほどささやかな関わりであっても、この世界を構成している一つであることに変わりなく、その無名の結び目を生むために過去は存在し、未来はその結び目を欠いては成立しない。私たちの創り出す意味・価値・目的の外で、無名の結び目は、世界に欠くべからざるものなのだ。
祖母は、「生きていても意味のないものに私はなってゆく」と言い、人の創り出す意味・価値・目的からすれば、その言葉のとおりとなった。しかし、あのようになってもなお、祖母という「個の存在」と他の「個の存在」との結び目は、世界にとっては欠くべからざるものだったのだ。祖母が亡くなり、「系」としての結び目が一斉に解け、微小な「個の存在」に散逸して、それでもなお、その全ての「個の存在」は、世界の存立に欠くべからざるものでありつづけている。…これが、自我まで損なわれて、「こんなで生きていたくない」と口にするさえなくなった、病床の祖母に対して、『これで人として生きていると言えるのだろうか』と問わずにはいられなかった私が、多くの撮影を重ね、写真集にまとめることで得た帰結だった。病床の祖母のポートレートから始まって9年が経っていた。
存在することは、人の創り出す意味・価値・目的、言い換えれば人の尺度、その外に位置して、その適用はかなわない。「私」であれ、また諸事物であれ、万物の存在に、全てを超越してそれ自体存在する意味・価値・目的など無い。私たちが勝手に、諸事物や人に、「意味が大きい」「意味が少ない」「価値が大きい」「価値が少ない」「目的が大きい」「目的が少ない」というようにレッテルを貼り付けて、そうして諸存在のほんの一部、それとも、ある一面を掬い上げているだけだ。
写真家になろうとして、多くを捨てて、未だ何者でもなく、東京に来たばかりの私は、私という「個の存在」として、ただそこに在った。病によって多くが奪われ、何者でもなくなってしまった、病床の祖母は、祖母という「個の存在」として、ただそこに在った。朽ちてゆかぬものはなく、だが、その朽ちてゆく過程のさまも、その存在のそれであり、時という、残酷なまでにひたすら進み続け、けしてとどまらぬ流れの中、滅びは覆せずとも、最期の瞬間まで勁くしたたかにそれで在り続ける、それが「個の存在」だ。光り輝くことでもなく、闇に沈むことでもなく、ただそこに在るということ……
子供の私は、鏡に映る自分に『この子は誰?』と思った。目前のその子は「答えであるのに問い」だった。今もそのことに変わりはない。「答えであるのに問い」すなわち「個の存在」の内容は、当人にあっても推測の域を出ない。なにかしらの企図、例えば、「写真家になろう」が、自らの「個の存在」に適っているかは試してみなければわからない。そして、適っていたか否かは、結局、企図が一生のものとなったかで知れるのだろう。写真家であれ、なんであれ、何者かになることは一朝一夕にできることでないから、どうしても、企図の遂行は〈義務〉となる。〈義務〉は〈自由〉ではない。しかし、私が自らに課す〈義務〉は…〈自己義務〉は…少なくとも他から強いられる〈義務〉ではない。それに、意識の私は、〈自己義務〉を捨てて、〈好き勝手〉や〈わがまま〉に時間を費やしてしまうこともできる、それほどに「私」は自由だ。人は白紙に生まれ、何にでもなれるから〈自由〉なのではない。「個の存在」が「答えであるのに問い」で不可知であるが故に〈自由〉なのだ。そして、不可知でも、「個の存在」「答えであるのに問い」は誰にもあまねく存在するが故に人は〈人生の自由〉を持つ。
…私が思い出せる最古の記憶は、母の勤め先の病院に併設された託児所に向かうバスからの窓外の眺めのもので、それは、能うかぎり物事の意味の希薄な、かつ、ある日あるときが数えきれないほど何層にも重なっているモンタージュ映像、あるいは、形があるようで明瞭な形はない混沌、またあるいは、様々な形の見いだしうる混沌、そう、刺繡の表側の模様を支える裏側の、おびただしい糸の交錯のような記憶だった。
世界は、「個の存在」が関わりを結んで「系」をなし、「系」もまた関わりを結び、「系」は幾重にも重なって、全体を成している。世界は、過去から未来へ広がり続ける時間という無地の布に、結び目で連なる「個の存在」という糸が縦横無尽に張り巡らされているようなもの。永遠の広さの布地と、無数の結び目と、無限に交錯する糸。
世界という交錯する糸の複雑さは、私の最古の記憶のそれの比ではない。言語を絶した複雑さ。 私たちは、そのごくごく一部に意味・価値・目的を以て、それぞれのイメージで対象を掬い上げているにすぎない。それは刺繡の表に浮かび上がっている模様。その模様をいくら合計しても世界にはならない。世界は、人が模様を掬い上げることを許す刺繡の裏側。
私は、「個の存在」と、その関わりである「系」と、「系」とも呼べない束の間の結び目と、そのポートレートで写真集を編み、『繡』と名付けた。
2024 春
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