みすず書房

揺らめく(1)

揺らめく(1)

京都に用があって、友人の家に泊めてもらった。あの、奥に長い町屋だ。小2というから7歳の男の子がいる。幼かった3歳くらいの頃から生き物が好きで、当時は青虫や毛虫に関心があって、居間の壁には、図鑑の付録の、蝶と蛾の幼虫の実物大の細密画のポスターが貼ってあった。棚には、昆虫の本が並んで、まだ文字が読めたわけではないのに、親に読んでもらったその内容を諳んじていて、私に説明してくれたものだった。その彼が今、夢中なのは水生動物だった。居間には淡水の小ざかなを飼う小振りの水槽が4つ置かれて、それぞれに空気を送る電気ポンプの微細な振動音が響いていた。
 まっちゃんが生まれる少し前の頃、私は雪をモチーフにした作品制作を開始していた。冬の間、全国の豪雪地帯を訪ね廻っていた。そうして辿り着いたのが新潟の津南だった。冬の100日間の撮影を6年間重ねて、去年は写真集の出版のあと、7つの展覧会の開催に明け暮れた。そのあわただしさがひと段落し、こうして町屋の和室の澄んだ仄暗さの中に、6月の日差しが切り紙細工のように小さく坪庭に落ちている気配を感じながら、まっちゃんと一緒にいることは、なんだかとても心地よかった。作り付けの棚の天板に並ぶ水槽は、畳に座しているとやや高く、小さく縁取られた水面を見上げる形になっていた。
 かたわらの7歳のまっちゃんは、過ぎた7年間という時間が子供の姿を取って横にいるようで、だから心地よいのだろうか。
 たぶん私なんかよりもずっと心やさしいまっちゃんの性格も大好きだ。
 まだ性も未分化な小さな声が、水生動物について語っていた。まるで、水が、使い慣れない人の言葉を使って知恵を語っているみたいだと、私は水槽に切り取られた水面の揺らめきを見ながら思っていた。よく知っていることも、うろ覚えのことも、知らなかったことも、全部初めて耳にするように感じられ、私は、そのいちいちに相槌を打ったり、問い返したり、もう一度聞きたくて確認をしたりしていた。
 見上げる水面は、水底から登ってゆく空気の粒と、浄化されて水上から注がれる水流によって、細かな波立ちとたおやかな揺れを合わせ持っている。波間に虹が浮かんで消える。低い山の尾根を閃光が叡智のように走る。波紋と波紋が何事もなくすれ違う。水面の向こうの世界がふと幻を結ぶ。
 おおどかなたゆたいだけを見ていると、水槽の小さな水面が海の水面に感じられてくる。比較にならないほど大きさの異なるどちらの水面も、その鋭敏さに変わりはない。海の水面は、あの遠い月の引力に感応し、満ち引きを繰り返す。
 自らは生きておらず、動かず、形すらない。陸の形に従い、水槽の形にさえ従順に従い、河の堰を切って溢れ出るときも、それは自らの意思ではない。それほど受動でありながら、水であることをけしてやめず、頑なに水でありつづける。個体となり気体となっても水であり、その変容も意思ではない。どれほど深く切り裂かれても、見る間にその傷口はふさがる。何ものも水を傷つけられない。
 「さかなは水面を出られるけど、出てしまったら生きてはいけへんねんなぁ」と私は確認する。
 「そうだよ」と答えが返ってくる。
 「私たちは水面を突き破れるけど、入ってしまったら死んでしまうねんなぁ」
 「うん」
 水面は薄く見える、というよりも、水面という境界はそれ自体は存在せず、だから厚みも無いのに、でもあんなにも瞭然としていて、生と死を厳しく分ける。
 「さかなも息をしてるんやんなぁ」
 「口から水を入れて胸から出すときそこにあるエラで水の中の空気を摂るんだよ」
 そう、そんなことを昔、学校で聞いたと、水面を見上げながら、心の遠い片隅で思う。
 「陸上は空気に溢れてんのに、でもさかなは息ができなくて死んでしまうねんなぁ」
 「そうだよ」
 「私たちは水の中で空気が吸えへん」
 「溺れて、苦しくて、死んでしまうよ」
 「陸の生物はみんな、大昔の大昔、海から上がってきたのになぁ」
 「うん」
 母胎の胎児はエラのある時期がある。エラ呼吸をするわけではないそうだけれど、遠い昔の出来事をそうして繰り返し、記憶よりもはるかに深いその記憶をなんと呼ぶのか。
 水の中に生きることを捨て、そこに戻れなくなっても、水なしには生きてゆけず、私たちはただ意思を持つようになった水なのかもしれない。
 かたわらに静まっていたまっちゃんの影がふと動き出す。水中にさかなの糞を見つけて、細長いガラスのスポイトを使って捕らえる。すっかり手慣れた作業で、水中に漂うイトミミズのような糞を、面白いほど上手に吸い取る。スポイトの中ほどの膨らみに、糞が流れ込んで渦を巻く。
 …永くかかった雪のシリーズの終わりが見え始めた頃、次は「水」、それとも「海」がモチーフになるだろうと感じ出していた。いつでも私は、何かに呼ばれているような気がして、それを撮り始める。
 私が生まれ育った滋賀県は雪の多い場所もあるのだが、私の住んだところは1年に一度、綿雪が舞うくらいだった。子供の私は、その稀な雪の降るさまをただぼんやりと眺めているのが好きだった。明るい白灰色の空から雪はいつの間にか現れ、ゆっくりと下降をしてきて、地面に触れるや消える。そのささやかな出現と消失のヴィジョンが、私の内の「儚い」という言葉の意味の母胎となった。「儚い」という語に遭遇するたび、子供の頃のその降雪のときのひんやりとした空気、静かな時間、そして雪の出現と消失が、心の遠くに揺曳するのを感じた。大人になって写真家を職にした私は、いつか「雪」をモチーフにしようとずっと思ってきた。他のモチーフで作品制作をしている間も、ふとどこか遠い遠いところから雪に呼ばれているように感じてきた。
 「雪」がいよいよ撮りたくなって、生活のために働いていた出版社を辞め、冬が来るや、豪雪地と呼ばれる地を巡り出した。
 そうして辿り着いたのが津南だった。豪雪地の南限に近いそこに降る雪は北方の乾いたパウダースノーではなく、むしろ私が子供の頃見ていた湿った綿雪だった。でも私が目にしたのは、それが瞬時に消えてしまうどころか、積もりに積もって海の大波のようなうねる形を造り、街を呑み尽くした光景だった。「儚い」とは真逆のそのありさまに私は惹かれ、この地での撮影を決めた。撮り始めると『私はずっとこの地に呼ばれてきていたんや』と感じた。そうであったから、冬の厳寒期の100日をこの地に過ごすことを6年も続けられた。
 …水槽の水面が揺らめき揺らめくのを仰いで見つめていると、近い過去、遠い過去、そして個人を超える深層の過去が折り重なるように浮上してきてはふとほつれて消えてゆく。水中を昇る泡のいくつかが水面で消えずに泡のままさざ波に乗り、集まろうとしては散っていくみたいに。
 自分の外に在る何かを見つめることが、そのまま、自分の内を見つめることとなる。撮影がそのことを推し進める。モチーフはあらかじめ決めても、テーマは撮影しながら見出してゆく。そして、テーマは、私の心に在って、私自身に気づかれていないもの。こんど「水」をモチーフにし、いったい私は水のさきに、私の内に、何を見出すのだろう。
 撮影地津南一帯は、何をおいても「雪」がこの地を特徴づけていた。雪は意思を持たない。だから支配していたわけではない。この地の万物が、それぞれに刻む時を「雪」に合わせていた。冬は止まったように遅く、春は疾駆のように速まるというように。 万物万象の無数の様々な時が層をなしてひとつに響きあって、その響きがあるところがすなわち「この地」だった。人の定めた境とその名をやすやすと越えて広がるこの地。冬が過ぎても、「雪」は水に大気に姿を移して、時を、統べるのでなく、律していた。水も大気も凛としていて、すなわち「雪」だった。洞穴の湧水は、高山に降った「雪」が地に染み込んで、長いときで40年も掛け再び現れたもの、薄闇に反響する水音は、この地が豪雪地に変わった8000年前の、その永い時の響きで、それが今在る事物の刻む時の響きとひとつに溶け合って響くと感じられた。撮影を通じて、どの季節であっても、この地に立つと、私は、この地固有の時の響きを感じ取るようになった。私が見出したのは「雪が律する時」だった。
 …さかなの中には、水の中でも、陸の上でも、息ができるのがいるんだよと言う声が聞こえてくる。
 「そうなんや」と、この場を離れていたのを引き戻されたみたいな気持ちで言う、「じゃ、肺もエラも両方持ってるってこと?」
 「ううん。エラとヒフ呼吸。あと、口に水を溜める」
 「ヒフって、肌のこと?」
 「うん」
 人も皮膚呼吸をしていると聞くけれど、それか…。海でも陸でも生きてゆけるなんて最強やんと言おうとすると、それを見越したように声が言う。
 「ヒガタだけで生きているんだよ」
 ヒガタ?ああ、水と陸の境の広いぬかるみ。干潟。
 「どっちでも息ができるのに、陸を自由に歩けへんし、海を自由に泳げもしぃひんねんなぁ」
 「そうだよ」
 「なかなかうまくいかへんなぁ」
 水か陸か、どちらかにしないと、それぞれでの自由が狭まってしまうなんて、なんだかイソップ物語にでも出てきそうな教訓だ。
 あんなに鋭敏に揺らめいて、手を差し入れればなんの抵抗もなく受け入れるあの水面が、なんと峻厳であるのだろう……
 まっちゃんは私と話しながら、水中の糞をスポイトで吸い取っては、ティッシュペーパーで漉していた。昨日、同じようにして集めた糞を、ドライヤーで乾かして匂いを確かめたいと、まっちゃんが言い出した。私が頷くと、彼は嬉々として実行した。糞は無臭だったけれど、まっちゃんはむしろ糞を乾かすという作業をおもしろがって、さらにドライヤーで吹き続けて、やがて乾ききった糞が飛ばされてしまうと、それをいとも楽しげに笑った。子供の頃ってそういうものと思った私は、「昔、まっちゃんくらいのとき、友だちとカエルを壁にぶつけて潰して遊んだなぁ」と、甦ってきた記憶をそのまま口にした。まっちゃんの顔が見る見る曇っていった。「なんで、そんなかわいそうなことをしたん」 まっちゃんの価値観からしたらそうなると、自分はひょっとしたらトラウマになることをこの子に言ってしまったかと私は悔いた。今、こうしているところを見ると、杞憂だったようだが。
 子供の私に琵琶湖は他の子供たち同様に遊び場に組み込まれていた。或るとき私が執心した遊びに、岸に打ち上げられたさかなの死骸を見つけてはその場に穴を掘って埋める…お墓を作ることがあった。さかなを哀れに感じたわけでもなく、純粋に遊びとして、いつの間にか始めて、気に入って、飽きてまたいつの間にか忘れてしまうまで、私はいったい何匹のさかなを埋めただろう。私に付き合わされた友人は面白がらず、それどころか露骨に嫌な顔をしていた。1匹埋めて満足に浸っている私の脇で、友人は、他のことしようやぁと言っていた。私は意に介さず、さかなを埋め続けた。
 まっちゃんの母親である友人は、「同じ年頃の友達がほとんどいないのが気がかり」と私に言った。まっちゃんの、昆虫や水生動物への深い関心と事細かな知識では、たしかに敬遠されてしまうか、と私は思った。子供は、関心と遊びの一致で友だちを選び、それは悪い事とは言えない。私は、さかなの墓作りを友だちに押し付けてしまったけれど。
 そんな私が小学校の同級生のひとりと仲良くなって毎日のように遊び始めた或る日のこと、常々私のことをかわいがってくれていた近所のおばちゃんから、「菜央ちゃん、あの子とあんまり遊ばないようにしとき」と不意に言われた。意味のわからなかった私は、「なんでなん?」と問うた。おばちゃんは頷くばかりで答えようとしなかった。私がそのことを忘れだした頃、おばちゃんは同じ言葉を繰り返した。私の方も「なんでなん?」の問いを繰り返した。おばちゃんは意を決したように言った、「あの子、あっち(・・・)の子やねんで。日本人と違うんよ」 私は普段のやさしいおばちゃんの気配とは異なるものを感じはした。それでも、『何なん?その線引き。あほくさっ』と思った。自分には遊んでいて楽しいという正当な理由があるとも思った。私にだって、遊びたくない子、嫌いな子はいたけれど、日本人かどうかが基準になることなんかなかった。その子の家の前で遊んでいたとき、彼女と挨拶をしたおっちゃんが振り返って私に言った、「なんでここ(・・)にいるんや。日本人やろ」 あのおばちゃんと同じような気配だった。私も友人も、…私たちは互いが気に入って、一緒に遊びたいと思った、それだけだった。私たちは、大人たちの言葉を意に介さず遊び続けた。私は友人の家に入りびたり、食事の相伴にもあずかり、そのまま泊まりもした。そこで生まれて初めて食べたキムチには『世の中にこんなに旨いものがあったんか!』と心底驚嘆した。その子の父親は、その家の子供のような顔をして食卓についている私を見ると、「なんや、またこの子はおるんか」と言った。言葉は乱暴だったけれど、私を帰らせようとする響きは全くなかった。私は遊びに行くと、「あれ、今日も出るかな、あれ、あれ」とその子に言い、その子は「あれってキムチ?おかんに言っとくわ」と笑った。
 29歳の時、彼女は不意に死んでしまった。東京で暮らす私に、「なな(・・)の心臓止まってしもてん」といきなり告げるその電話があったとき、私は言葉の意味を取りあぐねて、「何言ってんの?」と応えた。ほんの2週間前、私は彼女に写真のモデルになってもらっていた。当時の私は、まだ自分の制作法にたどりつく前で、あらかじめテーマを設定してから撮影に入っていた。「女である私が〈女であること〉を写す」がそれであった。モデルとなってくれる人には、私の目の感じるイメージを勘案してテーマに添うよういろいろと注文をつけて撮影していた。彼女には、素顔での撮影を依頼していた。表情やポーズを付ける撮影の合間、彼女は、「ノーメイクのぶっさいくな顔、発禁とちゃう?」とか「なぁ、なぁ、こういう変顔、開発してん。使えへん?」とか、私を絶え間なく笑わせつづけた。それが彼女だった。学校を異にするようになり、やがて写真家を目指して私が東京に出ても、会えば昔のままだった。彼女はいつでも明るく、私なんかより前向きで、現実的で、健康そのもので…それであったのに、私は彼女の突然の死が受けとめられず、混乱した。彼女の妹さんから、姉の手を握ってあげて、と頼まれた。弔問に訪れた人たちに握られつづけた彼女の手は温かかった。葬儀から日が経っても私の混乱は収まらず、逆に増してゆくばかりだった。空気を吸っても体に取り込めない、そんな苦しさを感じた。陸に打ち上げられたさかなみたいだった。眠りは常に浅くて、自分が極端に敏感になってしまっているのか、それとも全く逆に、極端に鈍感になってしまっているのかも知れず、ただただ不毛に毎日が過ぎていって、鬱病になってしまったと思って、私は精神科を訪ねた。私の話を聞き終えた医師は、「本当の鬱の人はね、自分を鬱とは言ってこないもの。友人がそのように突然亡くなれば、誰でも今のあなたのようになりますよ。あなたは病気じゃなくて正常なだけ」と言い、それでも睡眠導入剤を処方してくれた。医師の診断を否定する気は起きなかった。『この人は、まだ友達が死んだことがないんやな』とただ思った。睡眠薬なんかに私のこの不眠は解けるものかと高を括って呑んだのに、私はぐっすりと眠って、朝すっきりと目覚めた。
 そしてそれからほどなく、私は再び写真を撮り始めた。日々という時の流れの中で、笑い、怒り、時に泣いてきた。
 20年が経ったと、揺らめく水面が私に囁いたみたいだった。本当に寸刻だ。あの時から今、その時間と、目前の水面のひと揺れの時間と、いったいどれほどの相違があるのだろう……

過去の連載記事

(ゆれる水脈)