2022年2月にロシアによるウクライナへの全面侵攻が始まってから、これまで首都キーウや南部、西部、そして前線近くの東部まで広く巡ってきた。そしてそこで生きる人々に話を聞き、写真を撮ったり、かつての仕事先のコネを使って日本のメディアに映像や記事を提供したりしてきた。しかし、戦争が長引くと徐々に世間の関心も薄れて、メディアへの売り込みも難しくなった。
5回目の渡航となった2024年2月、北東部スーミにあるロシアとの国境周辺で取材を試みたが、もうその成果を発表できるメディアは見つからなかった。仕事としての取材をほとんど諦めた気持ちで向かったのは東部、ウクライナ第二の都市ハルキウ。そこでスケートボードに没頭する若者たちと出会った。空襲警報が鳴り響く街のなかで、彼らは不思議な存在だった。本稿は、滞在中の出会いや会話について合間に残したメモを日記として書き起こしたものである。

2月26日
車掌のおばさんに急かされ、ずっしり重いバックパックを背負った。車両からホームへ飛び降りると、寒さで一気に目が覚める。キーウから鉄道で約500kmを一晩かけて運ばれ、ロシア国境に接する工業都市ハルキウに到着。まだ早朝だったが前回も滞在した宿に荷物を置かせてもらう。昨日からウクライナ南西部チェルニウツィの知人パーシャが紹介してくれた学生と連絡をとっていて、これからその人物と会うことになっていた。指定された場所がやや遠かったので、配車アプリを使った。ハルキウを訪れるのはたった一年ぶりなのに、それでも車窓からの風景が懐かしい。
指定された集合住宅に到着すると、学生はすぐに部屋を案内してくれた。国際経済を学ぶ21歳の大学生で、ここで妻と暮らしているという。若くして結婚することはここでは珍しくないようだ。ダイニングテーブルにはパソコンが置かれていて、夫婦はほとんど毎日ゲームをして過ごしているらしい。彼は席についた瞬間から早口の英語で、私に質問を始めた。ロシア語もウクライナ語も挨拶程度しかできないので英語が話せるのはありがたい。日本から来たというだけで、アニメの話題で盛り上がれると思ったのかもしれないが、私はそういったことに疎いのですぐに話題もなくなり、自然と戦争の話になった。私が西側の援助についてどう思うか尋ねると、彼は少し宙を見据えたあと腹の上で両手の指を組んでから一気に話した。
「ウクライナ国民の未来は各国の支援にかかっている。ウクライナにはロシアほどの武器はない。しかし、ここで私たちが民主主義のために戦っていることを、世界が理解してくれていると信じている」
どこか公式声明のような口調だった。彼があまりの速度で話すので次第に私は聞き取れなくなり、ぼんやりと考え事を始めた。彼の口調には熱が入り、何度も「つまり、ヒロ、聞いてくれ。我々は……」と自分で自分を遮るように話し続ける。もしかしたら私が聞き流しているのがバレていたのかもしれない。パーシャから「会ってみろ」と言われたから彼に会っただけで、特になにかを聞きたいわけではなかった。それなのに意図せずインタビューっぽい形になってしまった。私の質問が原因だったかもしれないし、さりげなくとはいえ彼の前にICレコーダーを置いたのがまずかったのかもしれない。これまでも似たようなことはあった。戦争の話題になると個人の思いがどこかに消えて、いつの間にか国家を代表するような語り口になるのだ。戦時下なのだから仕方がないとはいえ、もっと個人的な話を聞きたかった。だが、もう彼を止めることはできそうにない。
パーシャは一体どんな目的で私を彼に引き合わせようとしたのだろう。曖昧ではあるが、その意図はぼんやりと想像できる。ウクライナはとても広い。面積は日本の1.6倍だ。比較的安全な南部に住むパーシャはハルキウを訪れたこともないし、どんなところかは想像できないのだろう。一人で移動するときっと困るから助けたいと思ってくれているのだ。その気持ちは大変ありがたい。だが、困惑することもある。パーシャはよくメッセージで「次は何がしたい?」と聞いてくるからだ。
私は何がしたいのか。これまで、ウクライナを広範囲にわたって見てきた。だが、「見た」というより、「眺めただけ」というような感覚が拭えない。表面をなぞっただけで、手のひらにはなにも掴みとれていないという物足りなさがある。これでは日本でニュースを眺めているのとあまり変わらないのではないか。欲を言えばもっと視点を定めたい。そして、この国の状況というものを俯瞰ではなく、地面に足を置いた状態で見上げるように捉えたいと思っていた。もはや仕事として金にならない以上、自分がやりたいことがすべてだ。
漠然とだが今後の撮影の候補はふたつあった。ひとつは、キーウ郊外の町ブチャに住むコンスタンティンという老人の暮らし。ブチャは首都キーウの陥落を目指すロシア軍に一時的に占領されていた町だ。激戦の末にウクライナ軍に解放されたあと、ロシア兵に殺されたとみられる多くの民間人の遺体や、丸焦げになった戦車などの写真や映像がニュースを通じて世界中に広まった。2022年9月、私は雇った通訳(どういうわけか通訳はウクライナ語とロシア語しか話せなかった!)とともに破壊された家々を撮影していると、散歩中のコンスタンティンに声をかけられて自宅に招かれた。壊れた戦車や遺体が散乱していたという通りに彼の家があった。自宅には多少の被害はあったが、コンスタンティンはそこでアーシャという名前の犬と暮らしていた。
その後、私は一人で何度も彼の家を訪れた。言葉は理解できないものの、彼が占領下で体験したことやその後の暮らしを知りたかった。先週、北東部スーミへ取材に行く前に顔を出したとき、私は思い切って彼の家に滞在させてほしいと頼んでいた。彼の家族はすべて国外に避難しており、「部屋はある。いつでも来い」と言ってくれている。そのためにはキーウに戻らなければならない。
そしてもうひとつの候補。2022年5月、いま私がいるハルキウをはじめて訪れたときのことだ。多くの住民が街から避難し、残った人々は地下鉄のホームに身を寄せて暮らしていた。地上の大通りはたまに乗用車や軍用車が通るだけで、人が暮らす気配はほとんどなかった。郊外では戦闘がまだ続いていて、時々、雷に似た爆発音だけが鳴っていた。一人で通りを歩いていると、空爆で破壊されたスポーツ用品店を見つけた。爆風で散らばっている運動靴やガラスを撮影していたときだった。突然、妙な音があたりに響いた。爆発とは違った甲高く乾いた連続音だった。振り返って見た光景に私は唖然とした。傾斜のある通りから、一人の男がスケートボードで滑り降りてきたのだ。男は私の存在など目に入らないらしく、私の眼のまん前を横切っていく。そして男は両手を広げ、体をやや後ろに倒し、前輪を浮かせてウィリーをした。男はそのまま器用に角を曲がって私の視界から消えた。あまりにも唐突だったので、その男が何歳ぐらいだったとか、どんな格好をしていたかは思い出せない。だが、その残像は人のいない街を我が物顔で自由に楽しんでいるように見えた。いったいあの男は何者だったのだろう。
その後もハルキウを何度か訪れたことで、あの男のようなスケーターたちがいつもたむろしている場所を知ることができた。街の中心部にある、ハルキウ国立オペラ・バレエ劇場だ。その劇場の建築様式はソビエト構成主義建築だとかブルータリズム建築だとか呼ばれているらしく、灰色でコンクリートむき出しの外観が異様な存在感を放っている。せり上がった屋根は、まるで陸に乗り上げた戦艦か空母のようにも見える。建物の前は干上がった噴水がある大きな広場で、そこにはいくつかのベンチが一直線に並んでいる。そのベンチが、彼らのたまり場だった。実はこれまでに彼らに何度か接触を試みたことはあった。いつも集まっているのはたったの3~5人ほどだが、街に人が少なかったから彼らの姿が目につきやすかった。年齢はだいたい15歳から20歳くらいで、ほとんどが未成年だった。ベンチに座っている彼らに話しかけても「あいつに聞いてくれ」と他の仲間を指さしたり、ゲラゲラと笑ってスケボーに乗って逃げるように滑り始めた。要するにまともに取り合ってくれなかった。侵攻直後から発令された総動員令によって18歳から60歳の男性は原則出国できなくなっている。私はこれまで何度も、18歳になる前に国境を越えて出ていく子どもや若者の姿を見ていたから、今も街に残っている彼らを不思議に思った。アニメ好きで早口の学生への聞き取りを終えて、今回もスケーターのたまり場へ向かうことにした。
街の中心部へ戻ると夜7時を過ぎていた。灯火統制のためハルキウの街は暗かったが、オペラ・バレエ劇場前の広場にはいくつか電灯があり、ベンチを照らしていた。近づいていくとそこには以前より多い7、8人のスケーターが集まっていた。夜になると人数が増えるのかもしれない。ストリートファッションの装いで、タバコをふかして酒を飲んでいる者もいる。ハルキウではロシア語が広く使われているので、彼らの前に立ち、覚えたてのロシア語で「ドブリ・ヴェーチル(こんばんは)」と声をかけてみた。一人が返事をしてくれたが、ほかの面々は私と目を合わせようともせず、滑っている仲間を目で追っていた。それだけだった。どうやって彼らと距離を縮めればいいのだろうか。
私は基本に立ち返るように考えた。これまでは個々人に取材をしてきたが、集団を取材するには代表する人間に話を通したほうがいい。そうでなければ話を聞くにしても撮影するにしても揉め事になるのは必至だ。さっき返事をしてくれた少年に単刀直入に「ここにリーダーはいるの?」と聞いてみた。彼は英語がわからず、少し話せるという別の青年を呼んできた。
「リーダー? そんなのいないよ。みんなファミリーみたいな感じ」
そう言ったのは、デニスという青年だった。「ここにいるみんなは友達なの?」と聞くと「ほとんどは海外に避難した。ポーランドとかドイツとか」と答えた。デニスによると、戦争前は毎日30人ほどのスケーターが集まっていたという。お互いの顔は知っていてもそれほど仲良くなかったらしい。残された者だけになった今、毎日顔を合わせているうちに家族のようになったらしい。夜が更けて彼らは帰り支度を始めた。みんなにもっといろいろ話が聞きたいと言うと、「また明日ここに来ればいい」とデニスが言ってくれた。真っ暗な道をスマホのライトで照らしながら帰る。思い返すと今日も朝から空襲警報が鳴りっぱなしだった。
2月27日
朝からサイレンがやかましい。空中での迎撃に成功して爆発する音が鳴ることもあれば、ミサイルが着弾して地響きのような音が鳴るときもある。なにも起きないこともある。この街はロシアとの国境から近すぎるために、迎撃できる可能性が極めて低いと聞いたことがある。午前中、市内のメディアセンターに顔を出すとスタッフのグレゴリーが私を覚えていてくれた。相変わらず忙しいようで、ひっきりなしに彼のスマホに電話がかかってくる。その合間を縫って、ハルキウ州全体の状況について教えてもらい、ついでに前線近くの撮影が可能か相談した。もしかしたら写真や記事が売れるのではないかという期待も僅かに残っていた。すると彼は「救出ボランティアに同行すればいい」と提案してくれた。ハルキウ州東部では今も戦闘が続いており、そこから住民を脱出救助する地元の団体があるらしい。そういった話はこれまでも耳にしていて、前から気になっていたので好都合だった。
夕方、例のオペラ・バレエ劇場に向かう。劇場前の広場には、いつものようにベンチに座ったり寝転んだりしているスケーターたちがいた。昨日会ったメンバーは私を覚えてくれていたのか、なかば強引にこちらから握手を求めるとなんとか応じてくれた。スケーターの中に、一人だけ妙な男がいた。シワだらけの顔にヒゲもじゃで、50代ぐらいだろうか。「うひゃひゃ」と一人で笑いながら、ボロボロのスケボーを手にしてふらついている。私を見つけると、男はロシア語で大声を上げながら向かってきた。近くにいた青年が言った。
「He legend(彼はレジェンドだ)」
まさかと思って私は苦笑いをした。この男がスケーターの「レジェンド」? どう見てもアル中か、浮浪者のようだ。名前はチャイカというらしいのだが、奇声を上げながら奇妙なトリックを繰り出しては、失敗するとまた雄叫びを上げた。それをみんなが見て笑っている。笑われるレジェンドというのも変な話だが、本当に彼はすごい男なのだろうか。このグループのボス的な存在ならと思って話しかけたが、彼は呂律も回っておらず、何を言っているのかさっぱりわからない。私の混乱をよそに、スケーターたちは劇場前の広場で自由に滑り始めた。この広場にはいくつか階段があり、彼らはスケボーに乗ってそこからジャンプして楽しんでいる。東京でいえば渋谷の新国立劇場や銀座の歌舞伎座の敷地で好き放題やっている感じだろうか。戦時下で、大人が構っていられないから、自由に楽しめているのかもしれない。私はただ突っ立って眺めていた。日が暮れると寒さでガクガクと震えだした。吹きさらしのここはすでに氷点下だろう。広場の噴水だった場所には雪も残っていた。滑り終えてベンチに戻ってきた青年に「寒くないのか?」と聞いた。「全然平気」と息を上げながら答えたのはジェーニャ。見たところ彼らのなかでは年長(26歳)のほうで身長は190センチ以上ありそうだが、痩せていてひょろりとしている。最初見たときは彼がリーダーなのかと思ったが、どちらかというと物静かな青年という雰囲気だった。
トリックに失敗するたびに「Блядь(ビッチという意味のスラング)」と感情を露わにするのはブベルという20歳の青年だ。やんちゃな性格のようで、撮影しようとするとおどけたポーズをとり「いい写真は撮れたか? ブラザー」と私に聞く。彼は英語が話せるがそれはすべて米国のヒップホップを聞いて覚えたかららしく、呼びかけるときや会話の末尾に必ず「ブラザー」もしくは略して「ブロ」をつける。スケボーで汗をかいて袖をたくし上げた時に両腕にタトゥーが入っているのが見えた。昨日話したデニスは今日も来ていた。彼は17歳でフレンドリーな物腰だった。大学ではデザインを勉強しているらしいが、今では授業はオンライン化されているという。写真を撮られるのは嫌いではないらしく、レンズを向けるとわざとらしく物憂げな表情を見せようとする。それは彼なりに「戦時下の写真らしさ」を演出しているのかもしれないし、あるいは、単に思春期の延長としてそうしているのかもしれない。
他にももっと年少の子たちがいたが、いつのまにか帰っていた。この日はジェーニャとブベルが最後まで残るらしい。彼らに別れを告げて、帰る道が同じだというのでデニスと一緒にスーパーへ向かった。「酒はいらない。エナジードリンクで」と売り場から缶を持ってきた。ラベルには「NON STOP」と書かれていた。「腹は減っていないのか?」と聞くと「家でママが作ってくれている」という。私は生で食える食材を買って部屋に戻った。
2月28日
昨日の夕方、メディアセンターのグレゴリーから連絡があった。救出活動に同行できそうだという。向かう先はハルキウから東に車で120km走ったところにあるクピャンスク。ロシア軍が欲しがっている町だ。2年前の侵攻開始時には一時ロシア軍に占領されたが、約半年後にウクライナ軍が奪還した。形勢を立て直したロシア軍が再びこの地への攻勢を強めており、街を東西に分ける川の東側まで進軍していると伝えられている。今回はあくまで救助活動に同行するだけなので自由に動けはしないが、戦闘地域の雰囲気が少しはわかるだろう。昨夜も激しい空爆があったばかりだとグレゴリーは言っていた。
早朝、合流する予定の場所で待つと、1時間ほど過ぎて両腕にタトゥーを入れた私と同世代の英語を話す男性が現れた。彼はアレックスといって、事前に連絡をとっていたボランティアのスタッフだ。アレックスの話によると、救助は危険な活動だが(後日、彼らのメンバーの一人がドローン攻撃で亡くなったと聞いた)、なにより困難を極めるのは避難させるために住民を説得することだという。残っている住民は高齢者がほとんどで、彼らは故郷を離れることに抵抗がある。だから救助に向かう前から粘り強く説得を続け、事前に逃げる準備をしてもらってピックアップしにいくらしい。一緒に向かうのは住民への連絡役を担当するローマンと運転手のアンドレイ。直前でアレックスに別の予定が入ってしまい、英語を話せる者がいなくなったが仕方がない。かなり古いワゴン車で出発した。
2時間ほど走り、いくつもの検問所を越えたところで助手席のローマンが振り向く。「防弾ベストをつけよう」とジェスチャーをした。車はすぐにクピャンスクの町に入った。攻撃を受けたのか、丘の上のほうに黒い煙が昇っているのが見える。破壊された住宅の前を軍用車が土煙をまき上げて走る。道路沿いには根本から切られた街路樹の切り株が点々とある。残っている住民が切り倒して暖房や煮炊きの燃料にしているようだ。連絡役のローマンは片手に持ったスマホで地図アプリを表示させながら、反対の手に持ったもう一台のスマホで避難希望者に連絡を取り続ける。避難の説得はすでに済んでいるようで「到着したらすぐに車に乗り込んでほしい」という手順を伝えていた。一軒の家の前でお年寄りが3人待っていた。避難するのは老夫婦二人で、もう一人は隣に住んでいる女性だ。女性は町に残るという。
ローマンがすぐに夫婦の荷物を預かり、車に乗ってもらう。二人を乗せてドアを閉めようとしたときに、大きな爆発の音が鳴った。その後すぐに連続して小さな爆発音が響く。クラスター爆弾かもしれない。ローマンが私を見て顔を横に振る。車窓から空を見上げるとミサイルの軌跡なのか、飛行機雲のようなものが空に残っていた。通りでは出歩いている住民より兵士の姿のほうが目立つ。クピャンスクは町としてはもうほとんど機能していないのではないだろうか。次の待ち合わせ場所に到着すると、おばあさんと大きな荷物を持った少年が待っていた。少年はおばあさんの孫の友達だという。彼女の家族や孫はすでに避難しており、近所に残っていたのが孫の友達、ということらしい。少年はおばあさんが車に乗るのを見届けると一人で去っていった。この状況で残ってどうしようというのだろう。戦闘地域は複雑に入り組んでいるようで、何度も迂回しながらノロノロと進む。道がぬかるんでいて、車も古いからずいぶん揺れる。私たちが町の中心部にいたのはたった30分。郊外にも避難希望者がいたため、クピャンスクにいたのは1時間ほどだろうか。その間に何度も爆発音が聞こえる。町の中央付近に戻ると飲み物や車の修理工具などを路上で売っている地元の人たちがいた。おそらくウクライナ軍の兵士を相手に商売をしているのだろうが、危険を承知で残って店を構えているのはすごい。車が町を離れると緊張が解けたのか、ローマンとアンドレイの表情が少し柔らかくなった。故郷を離れなければならない避難者の胸の内はわからないが、静かに外の景色を見ている。避難者をハルキウ市内のボランティアセンターに送り届けると夜になっていた。ローマンたちは明日もまた救助に向かうという。「家族は心配していないの?」と運転手のアンドレイに尋ねると彼は少し笑ってから答えた。
「親戚や家族はみんな国外に避難して、残っているのは俺ひとりだ。毎日、朝と夜に電話して「今日も無事だった」って伝えてる」と、短い英単語をつなぎ合わせて言った。もし危険な目に遭ったとしても、アンドレイはきっとあの調子のまま家族に「今日も無事だった」とだけ伝えるのだろう。町に残った少年のことも思い出すが、私一人の力では何もできない。そんなことを悶々と考えながら、結局は図々しくオペラ・バレエ劇場まで車に乗せてもらった。ぜひスケーターにクピャンスクの現状を伝えたい。
いつもの挨拶のあと、彼らの目の前でちょっと誇らしげにヘルメットと防弾ベストをドサリと地面に下ろす。
「クピャンスクへ行っていたんだ」
「へえ、どうだった?」
「むちゃくちゃだよ。何度も爆発音はするし、街はボロボロで……」
私が言い終わる前に彼らはもうスケボーの板に飛び乗り、トリックを始めた。なんで聞いてくれないんだ。どういうことだ。一体、彼らは何を考えているのだろう。

2月29日
今日はハルキウ滞在の最終日。昼間は誰もいなかった劇場前の広場に、この日も午後になるとスケーターたちが集まっていた。毎晩こうしてたむろしているのだろう。ふと素朴な疑問が浮かんだ。彼らは、どうやってスケボーを手に入れているのだろうか。この街にスケートショップはあるのか、ブベルに聞いてみた。
「ここにはまともなショップはない。俺たちはオンラインで買うか、誰かが使ってたのをもらうかだな、ブラザー」
確かに彼らのなかにはボロボロのスケボーを使っている者もいた。ブベルも詳しくは知らないらしいが、プロ向けのショップはキーウにふたつ、あとは私が去年訪れた南部の港町オデーサにひとつあるという。スケボーをする環境としてはキーウのほうが恵まれているのかもしれない。
「キーウにはスケートスポットもスケートパークもたくさんある。でも集まらない。わかるか? ブロー」とブベルは言った。みんなそれぞれ、ばらばらに楽しんでいるということだろうか。
「ブロー。ここはコミュニティが小さいんだ。でも、そのぶん結束は固い」
「ハルキウのスケーターはみんなここに集まるの?」
「イエス、ブロー。ここは特別な場所。ウクライナでここが一番いい」
そう言って、へへへと笑った。
夜。広場の片隅に立って話し込むスケーターのなかに、少し浮かない顔をした青年の姿があった。デニスがその青年と話している。彼も同じくデニスという名前で、「名前も年齢も同じで誕生日も近い。親友だ」と紹介してくれた。もう一人のデニスは言った。
「母親が、一緒にポーランドへ逃げようって言ってるんだ。俺はまだ17歳だから出国できる」
父親は兵士で自分はひとり息子なのだという。
「でも本当はここに残りたい。ここにいれば、いつでもスケボーができる。仲間にも会える」
「いつポーランドに行くの?」
「もうすぐだと思うけど、すべては親が決めることだから」とデニスは言った。
やるせなさを感じているような雰囲気だったが、込み入った話を聞けたわけではない。コミュニケーションがはかどらないのは私が部外者だからだろう。私はウクライナ人でもなければ、彼らとは年齢差もあるし、ロシア語も話せない。いまここでそれを悩んでも仕方がない。滞在費のための懐具合も心細いので、改めて出直した方がいい。スケーターたちの連絡先としてInstagramやTelegramのアカウントを教えてもらった。ここに来ればまた彼らに会えるはずだ。後ろ髪を引かれる思いで私はキーウへと戻ることにした。私にはまだやることがあった。
3月1日
なんにつけ予定を立てるのが苦手な私はいつも移動手段や宿の確保は後回しになる。昨夜、夜行列車のチケットを取ろうとしたら満席だった。以前は簡単に買えたのだが、今はそれだけ人の移動が増えているということだろう。仕方なく、移動手段としては最も安い深夜のミニバスで戻ることにした。乗り込んだ瞬間、車内の空気にむせた。強烈な体臭がこもっていた。暗い車内を見渡すと乗客のほとんどが兵士だった。おそらく短い休暇をもらって故郷に戻るところなのだろう。誰も言葉を発さない。深夜のバスだから当たり前なのだが、つい重たい空気を感じてしまう。いつまでも続く戦争に誰よりも嫌気がさしているのは兵士だろう。兵士のなかには顔に巻いた包帯に血がにじんでいる者、腕にギプスをつけた者もいる。臭いはしばらくすると慣れた。
早朝、キーウのバスターミナルに到着。このままポーランドまでバスで直行すればたったの15時間で安全なワルシャワにたどりつく。私はキーウ駅まで出て、郊外にある地下鉄の終着駅、アカデミステチコへ向かった。これからブチャに住むコンスタンティンじいさんに会いにいくのだ。侵攻が始まったころ、アカデミステチコ駅のホームでは多くの住民が身を寄せ合って暮らしていた。そのとき私も取材で訪れたが、警備中の警官にカメラもスマホもメモ帳も、さらにはパスポートまで取り上げられ、何ひとつ記録を残せなかった。いまはふつうに地下鉄の駅として稼働している。駅を出てブチャ行きの巡回バスを見つけた。はじめてブチャを訪れた頃は破壊された住宅がまだ多かったが、今ではほとんどが取り壊され、更地にされるか新しい住宅に建て替えられている。じいさんの家の修理はもう済んでいるようだった。私は彼の家の前で、塀越しに叫んだ。
「コンスタンティン!!!」
じいさんと連絡を取るのはひと苦労だ。彼は携帯電話をふたつ持っている。ひとつは通話専用の古い小さな携帯で、彼はこれを肌身離さず持っている。だが私のスマホに入れているSIMはデータ通信専用なので彼に電話がかけられない。じいさんはもうひとつ、スマートフォンも持っていて、連絡に使えるTelegramのアプリも入っている。でもこれはいつも自宅に置きっぱなしで、私がメッセージを送っても電話をしてもほとんど見ていないようだった。要するに、じいさんと連絡を取るには直接家まで行って塀の外から大声で呼びかけるしかない。家にはインターホンもない。何度か呼びかけると、庭に黒い大きな動物が勢いよく飛び出してきた。じいさんの愛犬アーシャだ。わんわん吠えて、塀の隙間からこちらを伺う。そしてじいさんが出てきた。残念ながら私は彼の言葉は理解できないが、じいさんは嬉しそうだった。久しぶりの再会で私も嬉しい。じいさんは「よくぞ無事だった」と言いたげだ。キーウやブチャに比べればハルキウなんてとんでもなく危ない場所だと思っているらしい。
相変わらず庭は荒れていて、よくわからない機械の部品や鉄くずが散乱している。彼は現役のころ、ソビエトを代表する航空機設計局のアントノフでエンジニアをしていた。世界最大の輸送機ムリーヤ(悲しくもロシア軍によって破壊されてしまった)の開発にも携わっていたらしい。機械部品の収集癖があるのかもしれない。なかには戦闘で破壊されたロシア軍の装甲車のスクラップもあり、周りの家に聞こえないようにしつつも大声で「これはалюминий(アルミニウム)だ! 高く売れる」と、身振り手振りで教えてくれたこともある。日本に帰るまで、しばらくじいさんの家に居候させてもらうつもりだ。無償で世話になるのは気が引けるので、畑仕事を手伝い、食費を含めた謝礼を渡すつもりでいた。じゃがいもやクルミなどの食料倉庫代わりに使われている部屋に通してもらった。日当たりもよく、いくつか野菜の苗が窓際に置かれていた。「ここでいいだろう」という仕草をして、じいさんが古びたソファを叩いた。そこはいつも犬のアーシャが寝ている場所だ。「ドーブレ、デャクユ(良い、ありがとう)」と私は答えた。アーシャには申し訳ないが、そこが私の寝床となった。犬臭いが、それもそのうち慣れるだろう。
じいさんの娘や孫たちは避難しており、今ではポーランド、オーストラリアと散り散りになっている。妻のオルガは、戦争前にコロナウィルスに感染して亡くなったと聞いていた。テーブルやキッチンは散らかっているが、男の一人暮らしならふつうのことかもしれない。私にあてがわれた部屋の窓からは雑草ばかりの庭が見えた。じいさんは占領中にロシア兵が庭に入ってくるのをこの窓から見ていたと以前教えてくれたことがあった。夜になると、じいさんは娘家族とスマホを使ってビデオ通話をしていた。私にもカメラを向けられた。オーストラリアに住む孫はさすがに流暢な英語を話す。私がつたない英語ながら画面越しでちゃんと会話しているのを彼は満足げに見ていた。通話が終わったあと彼は何かを熱心に伝えようとしたが、理解できない私を見て深い溜息をついた。以前からそういうことはよくあったが、何を言いたいのかよくわからなかった。
3月2日
夜中に何度も犬のアーシャに起こされた。暗闇の部屋で、小突かれたり顔を舐められたりするとギョッとする。私が彼女の寝床を奪っているからよく思っていないのは当然だろう。遠慮してソファの隅に体を寄せて一緒に寝たはずだが、今朝起きるとアーシャは床で寝ていた。寝ている間に蹴飛ばして追い出したのかもしれない。じいさんは朝から土いじりをしていた。手伝うほどの作業ではなさそうだったので、ひとり町へ出て住民から証言を集める。すでに世界中のマスコミが同じことをしているはずで、意味があるのかわからない。謝礼を払うと手持ちの現金がどんどん心細くなっていく。集団虐殺された民間人の遺体が見つかった場所に向かった。一時は日本でもニュースで話題になった場所だが、今でも訪れる度に新しい花が置かれている。
午後、スーパーで食材や菓子を買って家に戻った。実は私には、じいさんと会話してウクライナ語の勉強をしようという企みがあったのだがすぐに頓挫した。彼が私に話していたのはロシア語だった。そもそもじいさんの出身はキーウではなく、東部のルハンスク州である。ハルキウもそうだったが、ウクライナ東部はほぼロシア語圏なのだ。キーウでも戦争前までは日常的にロシア語を使う人達が半数近くいたと聞く。彼もキーウで長く働いていたからウクライナ語も使えるが、日常的に話しているのはロシア語らしい。ふたつには共通する語彙も多いのだが、ウクライナ語の簡単な単語しか知らない私には会話は難しい。
ノートに書いたメモを眺めながらポテトチップスを食べていたら、じいさんが「そんなもの食うな」といった仕草をした。芋ならいくらでもお前の部屋にあるだろ、というようなことを言いたいらしい。あとで米をバターで炊いたものを作ってくれた。ハムをのせて食べる。「スマーチノ(おいしい)」とウクライナ語で伝えたらじいさんは嬉しそうに笑った。じいさんは置きっぱなしのスマホでYouTubeを見ている。「シチョー、ツェ?(ウクライナ語で、これ、なに?)」と聞いたら「информация(インフォルマツィア)」と言った。ロシア語で「情報」という意味らしい。スマホを覗くとそれはニュース映像だった。「嘘か本当かわからないがいろんな情報をチェックしておかないといけない」というようなことを身振りで伝えてくる。そういえばこの家にはテレビがない。その代わりというわけではないが、巨大な冷蔵庫と冷凍庫がそれぞれあり大人数で暮らしていた名残を感じる。
はっきり言ってしまうと彼は孤独に暮らす老人である。近所の親しい人は殺されたか、国外に避難していった、と以前通訳を介して教えてくれたことがある。孤独な暮らしが染み付いてしまったせいか、私がいてもトイレの際には気にせずドアを開けたまま便器に座っている。その状態でアーシャに話しかけたりもする。以前、通訳を交えて聞いたときには、ロシア兵が進軍してきたとき、兵士が吠えるアーシャを殺そうとした、と言っていた。じいさんは兵士に「殺さないでくれ。私がここに残っているのはこの犬の面倒を見るためなんだ」と言ったという。
彼の暮らしを唯一慰めてくれるのが犬のアーシャなのだろう。YouTubeのニュース映像から大きな音が鳴るたびに、うずくまったアーシャが耳を立てる。じいさんはウォッカを飲み、いびきをかいて寝てしまった。
3月3日
部屋で物音がして目を覚ました。ソファで寝ている私の枕元の窓際に野菜の苗がいくつか置かれていて、じいさんが手入れをしていたのだ。起き上がるとじいさんは「お前は寝過ぎだ」というようなことを言った。時計を見るともう10時を過ぎている。苗はパプリカ、にんにく、唐辛子がようやっと芽を出したという程度。小さい芽など私にはどれも同じように見えるが、彼は「これがパプリカで、これが唐辛子で……」と何度も熱心に説明してくれる。しかし、私が手伝うことは何もなさそうだった。ひととおり苗を愛でたじいさんは畑と部屋を何度か往復したあと、ウォッカを煽って昼寝に入った。
暇を持て余した私は、連絡を取っていた知人のジャーナリストに「モシュンという集落に行ってみたらどうか」と勧められた。ブチャから5kmほど北東にある村だという。聞き慣れない名前だったが、訪れてみるとここも激しい戦闘があった地域らしい。住宅のほとんどに砲弾の穴や無数の銃痕があり、崩れたままの家もあった。復興の見通しはまるで立っていなさそうだった。破壊された家々の隣には白いコンテナがぽつんと置かれていて、集落の住民はそれを仮住まいにしているようだ。カメラを肩にぶら下げて、ぶらぶらと歩いていると、1台の乗用車が急に止まり中年の男性が飛び出してきた。すごい形相で、激しくまくし立てている。怒りを露わにしながらどこかに電話をし始めた。おそらく工作員かスパイかだと思われているのだろう。案の定、すぐにパトカーに乗った二人組の警官がやってきて路上での尋問が始まった。やましいことはなにもないし、これまで何度もこういった経験をしているので慣れているのだが、彼らの言葉がよくわからない。
警官も私も困っていると、ちょうどタイミングよくコンスタンティンからTelegramの着信があった。これ幸いとスマホを警官に手渡し、コンスタンティンじいさまに事情を説明してもらう。すると警官の一人が「オーケー」と言ってパトカーの後部座席に乗るよう促してきた。じいさんが私を送り届けるように住所を伝えてくれたようだ。乗車を断れる状況でもないので、せっかくならとありがたく乗せてもらう。ところが、パトカーはブチャの町とはまるで違う方向へ進み、ついにはボロボロに崩れた集合住宅の合間へと入っていった。運転する警官は何も説明せず、気のせいか車内に不穏な空気が漂っている。このまま秘密の尋問部屋かどこかに連れていかれるのではないか。駐車スペースのようなところで車は停まった。「ここだ。降りろ」と身振りで言われたので、大人しく従って車を降りた。「カム(来い)」と言って警官が歩き出す。私は黙って彼らのあとをついていくしかない。瓦礫が散らばっており、足元に気をつけながら歩く。いつの間にか警官二人に前後を挟まれた形になっており、緊張で汗をかいてきた。一体、私をどうしようというのか。突然、前を歩く警官が立ち止まった。彼は崩れたアパートに残っている壁を指さした。そこには世界的に有名な、あのバンクシーの壁画があった。正体不明の覆面アーティストがウクライナ各地で作品を残しているのはニュースで見ていた。
「どう思う?」というようなことを警官が私に聞く。どうやら、これを見せようと案内してくれたらしい。私は一瞬全身の力が抜けそうになったが、なんとか姿勢を整え「ドーブレ、ドーブレ(良い、良い)」と両手を広げ大げさに言った。私の反応に警官たちも満足そうに笑った。警官の一人が隣の壁を指差した。「おい、新作があるぞ!」みたいな意味のことを言う。確かにもうひとつ壁画があったが、どう見てもバンクシーのタッチとは似ても似つかない素人くさい絵だった。誰かが真似をして描いたのだろう。警官たちはスマホを取り出し、新作の写真を撮り始める。「あなたも撮りなさい」と身振りで言われ、できればすべてを穏便に済ませたいと思うあまり私は神妙に頷いてから、その壁画をカメラで何枚も撮るふりをした。彼らの気が済むとまたパトカーに乗せられる。あちこち走ったあと、助手席の警官が振り向いて「それで、お前はどこに住んでるんだ?」と身振りで聞いた。「私は歩いて帰るから大丈夫、ありがとう」と伝え、パトカーを降りて警官たちを見送った。ミニバスを乗り継いでじいさんの家に帰ると笑って迎え入れてくれた。私も笑うしかなかった。
夜。じいさんと晩飯を食べたあと、私は寝床のソファでハルキウのスケーターたちのInstagramを眺めていた。彼らは写真や映像の投稿をほとんどしないが、24時間で消えるストーリーズという機能を使って一時的に映像をアップしている。いずれ消えてしまうので、思わず見逃したくないという気になる。その映像がかっこいい場合はメッセージを送ってみる。何もアップしていないスケーターは今頃何をしているのだろうかと考える。こんな夜更けに私は一体何をしているんだろうか。これは比喩だが、まるで私が彼らに恋愛をしているかのようだ。ついつい気になってスケーターのことばかり考えてしまう。ウクライナの西部やキーウに比べたらハルキウはとても危険なはずだ。ミサイルや自爆型無人機で攻撃され続けている。彼らはなぜこの状況で、スケボーに乗っているのか。ブベルは「ウクライナでここが一番いい」と言っていた。どういう意味なのだろう。そんなことをソファに寝転んで考えていたら、さっきまでウォッカを飲んでいたじいさんが乱入してきた。酔っ払って鼻息が荒いが陽気なご様子。そのうち歌を歌いながら手をひらひらさせて踊り始めたので、私も踊る。床で寝ていたアーシャが起き上がり、不思議そうな顔をした。
3月4日
今日は朝からじいさんがキーウに出る用事があったのでついていった。彼が以前住んでいた部屋を別の親子に貸していて、そこに庭で採れたクルミをわざわざ届けにいくという。すぐに用事は終わり、二人で並んで高架橋を歩いた。突然、遠くに見える巨大な工場を指さして「アントーノフ!」と言った。じいさんのかつての職場らしい。あれがアントノフか。かつてはソビエト時代の設計局で、現在はウクライナ企業として再編されている航空機製造メーカーだ。米国でいうボーイングのようなものか。「写真は撮るなよ」と身振りするので、私は大人しく従った。しばらく歩いたあと、なぜか兵士が私を呼び止めて身分証やらカメラの画像を見せろと言ってきた。じいさんが事情を説明してくれてすぐに解放されたが、去っていく兵士の背中に向かって自分の鼻を指で押し上げる仕草をした。「兵隊だからってえらそうにするなよ」ということらしい。じいさんはもう家に帰るというので、私は別れてキーウの街へ出てみることにした。
数日ぶりの大都会だ。キーウ市街地はハルキウに比べればかなり平穏で、郊外のブチャやイルピンのように壊れた建物もほとんどない。ふつうに人が行き交い、飲食店も営業している。ついつい浮かれた気分になりつつも、ハルキウで出会ったスケーターのことを考える。彼らはなぜ避難もせずに危険な街でスケボーを続けるのだろうか。そもそもスケボーがどういうものなのか、私はあまり詳しくない。ソビエト崩壊後もロシアの影響を受け続けているウクライナでスケボーをするということはどういうことだろうか。うだうだ考えても仕方がないので、結局自分でやってみるしかない、という結論になった。
手始めに私は手元のスマホでキーウのスケートショップを調べて向かうことにした。「Pro Boardshop」となんのひねりもない名前の店が、小さなショッピングモールにあった。スケボーの他に、スノーボードの板などもずらりと並べられている。戦争前まではそういったウィンタースポーツも楽しまれていたのだろう。客はおらず、ストリートファッション風の男性が店番をしていた。どれを選んだらいいのかわからない。昔、友人にスケボーをもらってちょっとだけやった経験はあるが、専門店に入るのははじめてだ。様々なパーツを組み合わせることぐらいはわかるが、すでに組んで売られているものもある。なんの知識もないまま来てしまったが、とにかく店員に教えてもらうしかない。中年のアジア人がこんなところでスケボーを買うのを不審に思われないか心配したが、店員は何を気にするでもなく、今履いている靴のサイズを聞いた。そうやってスケボーのデッキ(板)を選ぶのか。コンプリートモデル(あらかじめセットされているもの)のうち、巨大な昆虫がうねったような変わったイラストが入ったものを選んだ。ちょっと体験してみるだけだし、安いものでいい。ウクライナの土産にもなるだろう。店員に工具を使ってウィール(タイヤ)やトラック(タイヤと板をつなぐ部品)を調整してもらい、金を払う。4200UAH(フリブニャ)、日本円で17000円だった。痛い出費だと思ったが、クレジットカードが使えて助かった。完成したスケートボードを受け取って私は店員に聞いた。
「それで、どうすればいい?」
「ポシュトヴァ・プローシャに行けばいい。誰かが教えてくれる」
店員はそれだけ言って別の作業を始めた。Googleマップを見ると、ポシュトヴァ・プローシャは駅の名前で、付近に流れるドニエプル川沿いに広場があるらしい。訪れてみると確かにそこで二人の青年のスケーターが滑っていた。彼らはさまざまなトリックをしているが、周りに人はおらず見ているのは私だけだ。タイミングを見計らい、二人に挨拶をして「今日買ったばかりで教えてほしい」とお願いする。私はプッシュ(足で地面を蹴って移動すること)はできるが、オーリー(ジャンプ)ができない。たいてい初心者はそこでつまずくと聞いたことがある。彼らが実際にオーリーを見せてくれた。後ろ足で板を蹴り上げ、板の前面が跳ね上がったところを浮かせた前足で引きずりあげるようにして、空中に浮かび、両足で板の上に降りる。原理は簡単だが、体の動かし方がよくわからない。
「そこの手すりにつかまって練習すればいい」
それだけ言って二人のスケーターはどっかへ行ってしまった。私は必死に手すりにしがみつき、何度もオーリーの練習をした。手すりはほこりまみれで、手と胸のあたりが真っ黒になった。しばらくしてアル中の酒臭い男たちに絡まれる。本当にうっとうしい。教えてくれるスケーターがいなくなったのでここにいても仕方がない気がした。私は酔っ払いから逃げるように、キーウの中心部にあるオペラ劇場に向かった。実はキーウにも、ハルキウと同じように街の一等地にオペラ劇場があり、その前にスケーターが集まっていることを見たことがある。ウクライナではオペラ劇場とスケートボードはなにか深い関係があるのだろうか。それともただ滑らかな地面と、ある程度の広さを備えた場所がオペラ劇場前に限られてしまうだけなのか。
劇場前では3人のスケーターが階段に座っていた。近づくとそのうちの一人に「よう、覚えてるぞ!」と声をかけられる。私も彼を覚えていた。昨年、彼とはここで出会っていた。名前はディマといって、たしかハルキウ出身だったはずだ。その日は雨で、彼と劇場の屋根の下で一緒に雨宿りをしていたのを覚えている。結局その日はスケーターの友達が現れず、私と少しだけ話してディマは帰ったのだった。いまは16歳になったらしい。一年ぶりの再会の握手をして劇場の階段に並んで座る。私がつい先日までハルキウにいたことを伝えると、彼は羨ましそうな顔をした。
「母親はハルキウに残ってるけど、父親は仕事の都合でキーウにいて一緒に暮らしてる。でも父親はアル中で家事をしないから、俺がいつも料理してる。だから遅くまでスケボーができない。今はマジでクソみたいな暮らしだ」と言った。なかなか大変な生活らしい。
帰りがけにキーウの地下で、中国製のインスタントのカップ麺が自販機で売られていたのをふたつ買ってみた。ウクライナは戦時下でも食料自給率が高いし、ウクライナ料理もおいしい。それは素晴らしいことだが外食は金がかかるし、日本でカップ麺を食べて育った私には化学調味料がとても恋しい。
ブチャに戻るとすでに夜になっていた。じいさんはスケボーを手に帰ってきた私を見て「なんじゃこりゃ」という顔をした。「買ったんだよ! おれはこれに乗るんだ」と説明しようとしたら、じいさんは両手で頭をかかえ「ウァー、ウァー」と大げさに首を振った。まるで不良の世界に足を踏み入れてしまったことを嘆いているような反応だ。晩飯の時、じいさんにカップ麺を見せて、食べる? と聞くと「небезпечно(危ない)」と言った。このウクライナ語の単語は私がよく使っていたから、わかりやすいと思って選んでくれているらしい。カップ麺は中国で食べたことがあるものと同じで、お湯を注ぐと強烈なプラスチック臭がしたがそれでもおいしい。すぐに化学調味料が全身に行き渡り、血糖値が上がっていくのがたまらない。犬のアーシャが匂いを嗅ぎつけ、物珍しそうに擦り寄ってくる。

3月5日
じいさんとブチャの駅前まで買い物に行く。途中までアーシャが付いてきたが他の犬をみつけて、仲良くどこかへ行ってしまった。肉屋でソーセージ、酒屋でウォッカを買う。クレジットカードは限度額を超えていないらしく、ちゃんと支払えてほっとした。じいさんは帰宅後、畑の隅で土を混ぜ返す作業をしていた。手伝おうか、と彼の鍬に手をかけようとしたが、「俺のやることだ」という仕草をして渡してくれない。私は役立たずな男になったので、畑の脇でスケボーの練習を始めた。土の上ではやりづらいが、オーリー(ジャンプ)だけの練習なら走る必要はない。作業していたじいさんが「危ないからやめろ」というようなことを言う。「そう言わずに、コンスタンティンもやってみたら?」と私がスケボーを差し出すと、彼は鼻で笑い、被っていた野球帽を後ろ向きにして何かを言った。「ワシだってまだ若い」とでも言いたいのだろうか。
じいさんの畑仕事の邪魔をしてはいけないので、近所のスーパーマーケットの裏にある駐車場で練習することにした。ブチャにはそういう場所にしか広くて水平なところがない。ただ、そこは2年前に戦車が走り回った場所なためアスファルトがあちこち削れていてガタガタだ。まだうまくオーリーができず、転んだ。腰から落ちてむちゃくちゃ痛い。そのまま仰向けに寝転んでいると、いよいよ自分が何をしているのかよくわからなくなってくる。こんなところでスケボーが上手くなったところで、披露する友人もいないのだ。そろそろ日本に帰る準備をしなければ。スケボーはリュックに入れれば預け入れ荷物で持ち帰れるのだろうか。
午後はイルピン周辺で証言を聞いてメモを取るが、今更こんなもの何の役に立つのだろう。思い出したくもないことを話してくれた住民に申し訳なく思い、金を渡して逃げるように帰った。
夜はじいさんがソーセージを焼いてくれた。食べ終えたあと、昨日キーウの街で再会したスケーターのディマのことを思い出し、メッセージを送ってみた。
「今日の晩ごはんは何を作った?」
返事を打ち込むのが面倒なのか、すぐにボイスメッセージが来た。
「パスタを作った。でもクソまずくて失敗だった」
じいさんはウォッカを飲んで寝てしまった。私は寝る前にそっとひとり外に出た。庭の塀越しにブチャの家並みを見た。小雨が降りだしていた。街灯がぽつぽつと灯り、暗い路面を静かに照らしている。かつては駅前通りの路面のあちこちに油や焦げた跡があり、壊れた家々が並んでいた。悪夢を消し去りたいからなのか、その後すごい速さで道路や塀などが改修されていった。今では小綺麗な通りになっている。
部屋に戻ると、テーブルの上にある大きなコップをつい見てしまう。以前じいさんに通訳を介してインタビューしたときのことを思い出す。庭に入ってきたロシア兵に「水がほしい」と頼まれて、飲ませてやったのだと話してくれた。じいさんは「それを飲んだらロシアに帰ったほうがいい。ここにいると殺されるぞ」と兵士に伝えたらしい。数日前に私が彼に「その兵士にどうやって水を出したのか」と身振り手振りで聞くと、「ああ、これだ」と、テーブルの上、私のすぐそばにあった白いコップを指差した。それは琺瑯製の大ぶりのもので、黄色い花の絵が描かれていた。私はそれを教えてもらう前からそのコップを何度か目にしていたし、ただそこにずっと置かれているものでしかなかった。その時まで私が知らなかっただけで、戦争に直接関わるものはずっとここにあったのだ。それを手に掴み、眺めていると、それまでただ聞いていただけの話が、本当の風景として立ち上がってくるような気がした。「その兵士がどうなったかはわからない。きっと死んでる」とじいさんは言っていた。彼は今もそのコップを料理のときに使っている。
部屋の壁には2022年2月のカレンダーが残されたままだ。じいさんの生活を見ているかぎり、戦争によって家族が離れたことで、時が止まってしまったようだ。散らかった部屋を片づけてくれる人もいなければ、片付ける理由もなくなった。だが時間が止まっても、畑や苗の芽は育つ。かつては野菜や果物の収穫が多ければ町で売ることもあったらしいが、住民の数も減り、今ではそれもやめたと言っていた。それでもじいさんは畑を続けている。
じいさんのいびきを聞きながら、ハルキウのスケーターたちのInstagramをチェックするのが日課になっていた。今夜はどういうわけか、みんな同じ宣伝ポスターのような画像をアップしていた。そのうちの一人に「これは何?」と聞くと「ハルキウでもうすぐコンテストがある」と返事がきた。スケボーのコンテストのことだろうか? 大会があるのか? あの街で? 信じられない思いがした。ついじいさんを起こしたくなった。どうすればいいのだろう。これは再びハルキウに行くべきではないか。彼らがまともに私を相手にしてくれるかはわからない。しかし、いまは私の手元には彼らと同じようにスケボーがあるのだ。
[注]本文における地名・人名・固有名詞等は、著者が現地で実際に聞いた発音に忠実にカナにしました。そのため地域や発話者によりロシア語表記とウクライナ語表記が混在します。
過去の連載記事
(ウクライナ撮影日記)3年目のブチャ、キーウ、ハルキウ
2025年7月1日