みすず書房

オッペンハイマーと仁科芳雄

科学史家による映画『オッペンハイマー』考、補論

オッペンハイマーと仁科芳雄

〔編集部注:この記事には映画『オッペンハイマー』の内容にかかわる記述が含まれています。〕

仁科芳雄の「伝記」を書いた人間として(1)、映画『オッペンハイマー』を観ると考えずにはいられないのは、仁科とオッペンハイマーの関係だ。彼らが直接会ったことは少なく、一見、あまりかかわりがないかのようではある。しかし、実は両者は深いところでつながっていた。そのことについて書きたい。

仁科芳雄とオッペンハイマーが直接会う機会はあっただろうか。二人がヨーロッパにいた時期は一部重なっていたが、滞在場所がずれていた。どこかの学会で顔を合わせた可能性がないわけではないが、それがあったとしても記憶に残るような交流がなかったことは、のちの手紙でわかる。仁科は欧州留学から日本に帰る前、1928年に米国各地を訪問し、12月にカリフォルニア工科大学やカリフォルニア大学バークレー校を訪問している。しかし、オッペンハイマーはまだそこに着任していなかった(2)

結局、仁科がオッペンハイマーと直接会ったのは1950年に日本学術会議の副会長として訪米したときが最初で最後だった。仁科はその後、海外へ行くことはなく、オッペンハイマーも仁科の生前に来日しなかった。仁科は訪米前の1950年2月28日付の手紙でオッペンハイマーに次のように書いている。

 

あなたにはまだお目にかかったことはありませんが、お名前はあらゆる情報源を通じて存じております。特に日本の科学のために多くの貢献をしたKelly博士を通じてよくお話を伺っておりました。まもなくお会いできたらと願っております(3)

 

そして3月14日にオッペンハイマーの自宅を訪問したときのことを、仁科はのちに次のように書いている。

 

高級〔高等〕研究所長オッペンハイマー博士を、途中で亀山博士がニューヨークに帰ったので我妻博士([ママ])と二人で訪ねたが、歯の治療にニューヨークに行って留守であった。夕方になって帰って来たので、同氏を訪れ、コクテール〔カクテル〕の歓待を受けた。すると、同席の朝永君が「これが有名なオッペンハイマーのコクテールですよ」と教えてくれたが、なかなか美味しいものだった。同氏とは日本学術会議のこと、アメリカにおける学会の諸問題、国際問題などについて話し合った。

当日はオッペンハイマー氏は歯痛のため気分がすぐれない様子なので、沢山の話を残したまゝ別れることにした(4)

 

仁科は4月2日、米国を発つ前日にサンフランシスコでオッペンハイマーに宛てて別れの手紙を書いている。「合衆国には大きな感銘を受けました。そして、多くのことを考えさせられ、学びました」(5)

このように仁科とオッペンハイマーが直接会ったのは一度だけ、しかも話を尽くしたわけでもなかった。それでも二人が密接につながっているという理由の一つは、共通の友人・知人が多いことだ。映画『オッペンハイマー』の登場人物の中でも、ニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルク、アーネスト・ローレンス、イジドール・ラビらは、仁科にとっても重要な人たちだった。特にラビは仁科が最初に理論物理学の論文を書いたときの共著者である(6)。ハンブルク留学時代にいつも一緒に昼食をとって議論を重ねた仲間だった(7)。戦後、日本学術会議の創設が決まった後、ラビは1948年12月に米国科学アカデミーが派遣した第二次学術顧問団の一員として来日し、仁科は20年ぶりの再会を後で感慨深く記している(8)

ローレンスもまた、仁科にとって大きな存在だった。仁科が彼に会ったのはオッペンハイマーの場合と同様、戦後に訪米したときだけだが、戦前から緊密に連絡をとっていた。サイクロトロンの建設を助けてくれたローレンスに仁科は戦前から感謝の念をもち、大きな敬意を抱いていた。仁科研にいた嵯峨根遼吉は、戦前・戦後に、ローレンスのもとで長期間滞在することになる。戦後、ローレンスは、仁科をはじめとして、戦後に困窮した日本の物理学者たちに援助の手を差し伸べた。仁科の死後、意気消沈していた理化学研究所の研究者にサイクロトロンを再建するよう励ましたのも彼である(しかし同時に、それはビキニ環礁での核実験にローレンスが立ち会った後で、日本に寄ったときのエピソードであることも付記しておく)(9)

映画ではまったく触れられていないが、オッペンハイマーと関わりの深い日本人物理学者たちが何人もおり、彼らは仁科とも縁が深かった。おそらく最初にオッペンハイマーと交流した日本の物理学者は、早期にゲッティンゲン大学に留学した杉浦義勝である(10)。杉浦は仁科とはコペンハーゲンで一緒に過ごすことになる(11)。また、1935年には仁科のもとでサイクロトロン建設の中心となっていた矢崎為一が渡米し、バークレーでローレンスのサイクロトロンを見学した。彼はそのときオッペンハイマーの講演にも出席している。杉浦からもらった紹介状を見せると、いつでも部屋に来てよいと言われたという。仁科への手紙で、矢崎はオッペンハイマーのことを「仲々口達者で、一言居士どころか数十言居士で、仲々元気のよい人です」と書いている(12)

オッペンハイマーと湯川秀樹

湯川秀樹は1939年にヨーロッパから日本に帰るとき、米国各地を訪問し、当然バークレーを訪れた。米国からの手紙で湯川は「理論方面はオッペンハイマー教授の独り舞台」と書き、もともと湯川の中間子論に反対だった彼が意外にも支持者に変わっていたことや、オッペンハイマーのもとで物理学を学んでいた日系カナダ人の日下周一に会い、オッペンハイマーが日下を「将来有望」と評したことを綴っている(13)。また、オッペンハイマーのことを「大変頭の鋭い反面、人懐こい親切な人」と書き、彼があちこち案内してくれたり、車で宿まで送ってくれたりしたことを日記にも記した(14)

オッペンハイマーが湯川に「人懐こい」側面を見せたことにやや驚く。これは日下が一緒にいたからかもしれない。日下はオッペンハイマーにとって、もっとも近しい日系人だったと言ってよいだろう。日下はその後も湯川と手紙のやりとりを続けた(15)。また1940年には来日し、日本の理論物理学者と交流している。彼が編集したオッペンハイマーの講義ノートは仁科研出身の小林稔によって翻訳された(16)

戦後、仁科研の関係者を含む幾人もの日本の理論物理学者がオッペンハイマーの助力を受けた。彼の援助の動機は原爆の罪悪感だったのか、サイクロトロンを失った日本の物理学者に同情したのか、米国におけるナショナリズム・人種主義の高まりに対抗してアジア人でも進んだ科学研究が可能なことを示そうとしたのか(17)、あるいはそれとも愛弟子の日下の死のせいなのか。

本人ですら自分を理解していたか定かでない人物の動機を詮索するのはやめておいたほうがよいだろう。事実ベースで見ると、日本への支援の少なくとも一つのきっかけは、湯川が高等研究所に招待されたことだ。まず1946年の9月16日、そのころプリンストンで助教授になった日下が湯川に葉書を送った(18)。湯川は翌年、渡米する学生に託すべく、1947年7月1日付で日下宛ての手紙とオッペンハイマー宛ての手紙を書いた。その中で、戦争中、日本でも坂田昌一や朝永振一郎によって理論物理学が発展したことをオッペンハイマーに知らせ、日本の物理学誌Progress of Theoretical Physicsの最初の3号を彼に送った。この雑誌、Progress は1946年から湯川が編集長となって発行された理論物理学の欧文誌であり、戦中の日本の理論物理学の成果が英文化されていたのである(19)。このときの手紙の中で湯川は、日本の物理学者たちが海外での研究の進展を知りたがっているので情報を送ってほしいと頼んでいる(20)。日下はこの年の8月に水難事故で亡くなってしまうが、オッペンハイマーには手紙が届いたのだろう。そして彼が湯川を高等研究所に招いた。この年の11月7日に、湯川は誘いを受諾する手紙を書いた(21)。湯川自身が不安になって何度も手紙を書いているように、日本から米国への手紙が届いたのか定かではない。オッペンハイマー側の文書では、1948年6月8日付の湯川の手紙があり、そのときまでにオッペンハイマーから二通目の手紙を受け取ったことがわかる。この手紙の時点でGHQの許可も下りて、旅行の手続きが済んでいた(22)。湯川は9月2日に羽田を発って米国へ飛び、5年ほど米国に滞在した(23)

オッペンハイマーと朝永振一郎

日本の理論物理学者は湯川を通して、オッペンハイマーに自分たちを助ける意志があることを知ったのかもしれない。彼らは手紙を書き、援助を受けた。そのもっとも顕著な例は朝永振一郎である。朝永は1948年4月2日付でオッペンハイマーに手紙を書いて自分の研究の概要を知らせ、木庭二郎、伊藤大介、田地隆夫らとともに書いた論文のいくつかを送った。その中で彼は「自己無撞着引算法(self-consistent subtraction method)」と名づけた方法によって、量子電磁力学における発散を打ち消すことができることを書いていた(24)

オッペンハイマーがこの手紙を受け取ったのは、3月30日から4月1日にかけてペンシルヴァニアの山地、ポコノで開かれた会議から帰った直後のことだった。この会議はシェルター島での会議に続く、当時の米国を中心とした理論物理学者の頂上会議で、オッペンハイマーが資金を得て企画した。参加者はボーア、パウリ、フェルミ、ディラック、ヴェンツェル、ホイーラー、ポーリングといった錚々たる人たちを含む。その会議の目玉となったのは、ジュリアン・シュウィンガーの講演である。彼は電荷と質量を実験値に「再規格化(renormalization)」する手法、つまり、日本で言うところの「くりこみ理論」についての40頁にわたる論文を8時間かけて発表した。フリーマン・ダイソンによるとオッペンハイマーはすべてを理解し、正しいと認めたという。他方で、リチャード・ファインマンがより直観的だが、根拠のはっきりしない彼のダイアグラムに基づいた計算法について不可解な話をし、ボーアやオッペンハイマーの批判を受けた(25)。このときは不評だったが、これが彼のファインマン・ダイアグラムの最初の発表であり、この方法はダイソンによってみごとに定式化され、標準的な計算方法として日本も含めて各地に広まっていくことになる(26)

オッペンハイマーは朝永が送った手紙と論文から日本の物理学者たちがシュウィンガーと似た方法を独自に発展させていることを見抜いた。朝永は海外の物理学者にとってまったく無名だったわけではない。戦前からすでに欧文の論文を発表していたし、前の年にオッペンハイマーが湯川から受け取ったProgress of Theoretical Physicsの最初の3号のうち、第2号には1943年に発表された朝永の超多時間理論の論文の英語版が掲載されていた(27)。オッペンハイマーは1948年の1月に朝永の論文のことをシュウィンガーに話しているので、実際に読んでいたことがわかる(28)Progressの最初の2号は1948年の春までにハンス・ベーテのもとにも送られていた。ベーテに朝永の論文を読むように言われたダイソンは深い感銘を受けていた。「一九四八年の春、東京の灰と瓦礫の中に座しつつ、あの感動的な小包をわれわれに送ってきた。それは、深淵からの声としてわれわれに届いた」(29)

それでも、くりこみ理論のインパクトはそれ以前の朝永の論文を上回った。オッペンハイマーは早くも4月5日付でポコノ会議の出席者に手紙を書き、朝永の手紙を写して送った(30)。さらに4月13日、朝永へ電報を打ち、日本における研究を総括する報告を書いてPhysical Review誌に出版することを強く勧め、喜んで仲介すると申し出た(31)

朝永は直ちにその報告を書いた。5月14日のオッペンハイマー宛ての手紙に原稿を同封し、それはGHQから米国陸軍省という経路で、オッペンハイマーに届けられた(32)。オッペンハイマーは5月27日に朝永の原稿をPhysical Reviewのエディター、ジョン・テイトに送り、「この記事を可能な限り迅速に出版することが非常に重要」だと書き添えている(33)。朝永の原稿の表題は「場の量子論における場の無限大の反作用について(On Infinite Field Reactions in Quantum Field Theory)」というもので、1948年7月15日の号にレターとして掲載され、オッペンハイマー自身の補足が添えられている(34)

シュウィンガー、ファインマン、ダイソンとならぶ発展の担い手として朝永が表舞台に登場したのはこれによってであると言ってよいだろう。このとき出遅れていれば、量子電磁力学の仕事でノーベル賞を同時に受けた三人目が朝永ではなく、ダイソンになっていた可能性もあった(ダイソンは自分の役割を小さく言うのが常だったが、使いやすいが根拠のはっきりしないファインマンの方法と、正攻法だがとっつきにくいシュウィンガーの方法が同等であることを示して両者を基礎づけ、その後の発展を促進したのは決して小さい役割ではなかった)。オッペンハイマーに認められた朝永は、1949年には招待されて高等研究所に滞在することになり、上述のように、仁科の訪問時に居合わせた。

オッペンハイマーに助力を求めたのは、朝永だけではなかった。武谷三男や渡辺慧、そして南部陽一郎もその中に数えることができる。だが、これについてはまた別の機会に語られるべきだろう。

オッペンハイマーと仁科芳雄

このように仁科とオッペンハイマーは、直接の接触はほとんどなかったが、朝永という仁科にとってもっとも重要な弟子を含む多くの共通の知人を通してつながっていた。だが、それだけではない。彼らが深いところでつながっていたというもう一つの理由は、彼らのおかれた状況と間接的なつながりゆえに、二人の活動には重要な共通項がいくつも生じていたためである。

二人とも量子力学が完成しつつあった時期にヨーロッパで学び、特にヴォルフガング・パウリに量子力学から相対論的量子論や量子電磁力学への発展を担うための素養を鍛えられた。仁科はコペンハーゲンに長く滞在したが、量子物理学の理論家となったのはハンブルクでパウリに学んだときである。オッペンハイマーはライデンに滞在した後、コペンハーゲンに行くつもりだったが、エーレンフェストに薦められて、スイスの連邦工科大学に移っていたパウリのもとへ行った(35)

オッペンハイマーと仁科は二人とも、ヨーロッパで身に着けた新しい物理学の研究を自国で実践し、それぞれ重要な研究グループを作った。映画ではオッペンハイマー以前には米国に量子力学の研究者がいなかったかのように描かれているが、それはやや誇張である。例えば、1925年に米国に戻ったジョン・スレイターは量子力学に取り組み、1929年には有名なスレイター行列式に関する論文を出している(36)。そして、1930年にハーバードからMITに移って物理学科長になってからは、東海岸における理論物理学の中心となった(37)。スレイターの前にも、エドウィン・ケンブル、カール・ダロー、ジョン・ヴァン・ヴレックを挙げることができる。それでもオッペンハイマーがバークレーを量子物理学の理論研究の一大センターとしたのは確かである。オッペンハイマーの仕事のうちでも、のちにブラックホールと呼ばれる現象についての1939年の先駆的な研究が特に重要である(一方、相対論に関する研究は仁科研ではほとんどなされていなかった)。しかしオッペンハイマーのグループにおいても、1930年代の半ばごろまでは宇宙線についての理論的研究が大きな位置を占めており、これは当時の仁科研でも重点課題の一つだった(38)。また、特に戦後は二人とも、自分自身の研究よりも研究指導者・組織者としての役割が目立つ。シェルター島やポコノの会議に見られるように、オッペンハイマーは米国における理論物理学の先端的な研究の推進を促すのに大きな役割を果たしていた。彼は他の研究者の発表を聞いて、その本質を素早く把握し、痛烈にこき下ろすこともあるが、発表者以上に明晰に定式化し、時には造語までして巧みに言語化し、新たな発展のヒントを与えたりした(39)。日本における仁科の役割については、拙著で詳しく書いたように、他の人たちや将来の研究のための研究の土台(インフラストラクチャー)を築いたことが重要だった。自分自身が研究を発表するよりも、他の人たちの研究を促進する役割を担ったのである(40)

二人とも、ボーアに心酔し、特にボーアの「相補性」の概念に強い関心を抱いた(41)。米国の物理学者はプラグマティストでボーアの哲学的志向を共有せず、「だまって計算せよ」という態度が主流だったと言われる(42)。だが、これもやや誇張であり、誰もがそうだったというわけでもない(43)。オッペンハイマーのグループは例外の一つで、フィリップ・モリソンによれば、そこではボーアが相補性について書いた文章を集めた『原子理論と自然の記述』は聖書であり、ジョゼフ・ワインバーグによれば「ボーアは神であり、オッピー〔オッペンハイマー〕は預言者」だった(44)。日本では、仁科のグループも含めて、若い物理学者たちの多くはボーアの思想や量子力学の解釈の問題に拘泥するよりも、量子物理学の新しい発展が提示する新しい問題を解くことに夢中になったが、哲学的な議論の需要はあったし、それに関心をもつ物理学者もいた。仁科はコペンハーゲンに滞在している間から、ボーアの相補性には強い関心を抱き、ボーアの有名なコモ講演の翻訳にも関わっていた(45)

 

ニ号研究と「マンハッタン計画史観」

戦争が起こると、それぞれの国の原子物理学の指導的研究者となった二人は戦時核研究に参加した。マンハッタン計画についてはもはやここで述べる必要はないだろう。仁科については、しばしば「ニ号研究」をマンハッタン計画の日本版のように見なし、「日本でも原爆開発をしていた」と評することがある(46)。私はこのようなとらえ方を「マンハッタン計画史観」と呼ぶ。この史観では、第二次世界大戦中、米国以外にも、規模は違ってもマンハッタン計画と同様のものがあって、原子爆弾の製造をゴールとした国際競争があったと見なし、その枠組みの中で戦時核研究・核開発をとらえることになる。

しかし拙著でも詳しく論じたように、この史観によって日本の戦時核研究をとらえることはあまり適切ではなく、不必要なバイアスを導入するおそれがある。単に予算と人員の差だけではない。マンハッタン計画が実際に戦争中に原子爆弾を使うことを想定して、製造まで最速で到達することを目指していたのに対して、仁科らの戦時核研究は、ラジオアイソトープの軍事利用の一環として、核分裂の連鎖反応を起こしてエネルギーを取り出すことが目標だった。そのエネルギーを動力に使うか、爆弾に使うかに関して、具体的なことはほとんど考えられていなかったし、そのための専門家も動員されていなかった。あくまで軍事研究であるにせよ、核エネルギー発生を目指した基礎研究にすぎず、しかもその段階ですら米国よりはるかに遅れていた。最小限のウランで連鎖反応を起こすために濃縮を試みた結果、部分的にマンハッタン計画と似通って見えたにすぎない。その研究のイメージが戦争末期に、戦況を挽回する決戦兵器として意図的に実体よりも誇大に描かれてしまった(47)

このように、戦時中にオッペンハイマーと仁科の果たした役割には大きな違いもあるが、それでも二人が第二次世界大戦中に核研究に動員され、指導的な立場にいた点は共通していた。

ボーアのヴィジョン

「科学史家による映画『オッペンハイマー』考」第2回にも書いたように、戦後は、科学、特に物理学の社会的位置の地殻変動が起こった。オッペンハイマーも仁科もそれに戸惑いながら、そこに自身の新たな役割を見出し、果たそうとした。そのときに両者の指針となったと思われるのはやはりニールス・ボーアである。映画の中でボーアが1943年12月にロスアラモスを訪問し、戦後のことについてオッペンハイマーと議論したことが描かれているが、実際ボーアは原爆が完成する前から戦後のことを考えていたと思われる。核兵器とそれについての知識は開かれた世界において国際的に管理されることが必要だと彼は考え、そのための「外交」を自身の重要な役割と見なした。1944年2月には、彼はすでに原爆による大惨事が予見される以上、それを避けるために各国が協調することが必然的でさえあると考え、そのための信頼関係を築く前提として核兵器に関する知識を東側諸国も含めて世界各国と共有すべきだとした。そのことを政策決定者にロビイングしはじめていることも史実として確認できる。ボーアはローズベルトに面会し、このような問題はチャーチルと協議して決めるべきだと考えたローズベルトによって英国に派遣され、チャーチルとも面会した。ボーアがソ連のために活動しているのではないかと疑ったチャーチルはともかく、ローズベルトはボーアの見解に好意的だったように見え、チャーチルを説得することをボーアに約束すらしていた。しかし、実際には1944年9月、ニューヨークのハイドパークにあったローズベルトの邸宅において、いわゆる「ハイドパーク合意」をチャーチルと締結する。その内容は、原爆のことは日本に使用するまで秘密にすること、早期にソ連に開示するようなことはしないこと、そしてその後も原爆の技術は米英で独占を続けることを合意するものであった。ボーアはそれを知らずに良い知らせを待っていたが、この時点でボーアの「外交」努力は完全に失敗していたばかりでなく、彼自身が情報漏洩の危険がある人物と見なされてしまった(48)。ボーアの企ては挫折したが、オッペンハイマーや仁科は、このようなボーアのヴィジョンを共有し、引き継いでいた。

核の管理と物理学者たち

映画では、理論的可能性でしかなかった全面核戦争をオッペンハイマーが幻視して、その危険を現実のものとして把握したシーンを描き、また水爆の開発に反対したことにも触れている。しかし、彼が将来の核兵器の使用を防ぐために原子力の国際管理の実現を目指し、そのためにどれだけのことをしようとし、そして挫折したのかは省かれている。当時の米国では、核兵器を米国の安全保障に不可欠な兵器と見なして、それを備蓄し活用しようとする強硬派と、核兵器は世界を破滅させる危険な兵器で、それが使われることがないようにソ連と協調して戦争の発生を防ごうとする宥和派が争い、米国の政策も最初その間を揺れ動いていた。当然、ボーアやオッペンハイマーとその周辺の科学者は後者を支持した。

映画でも触れられていたように、オッペンハイマーとトルーマン大統領の会見は、「私の手は血塗られている」というオッペンハイマーの発言がトルーマンを激怒させ、不調に終わった。それでも原爆の出現が新しい、危険な状態を引き起こしたことはトルーマンも認識しており、1946年の初め、核兵器の国際管理に関する具体案を作成するために特別委員会を設置し、国務次官ディーン・アチソンを委員長に任命した。アチソンはこの時期の米国外交政策の形成に大きな役割を果たすが、原爆に関する専門知識をもつわけではないので、諮問委員会を編成した。そこでデヴィッド・リリエンソールが委員長に選ばれ、さらに委員としてシェスター・バーナード、チャールズ・トーマス、ハリー・ウィニー、そしてオッペンハイマーが任命された。1946年3月にこの委員会が提出した文書はアチソン゠リリエンソール報告と呼ばれるが、そのドラフトは大部分オッペンハイマーが書いている。この報告は最終的に核兵器を廃絶して原子力を活用することを目指すもので、オッペンハイマーは全力を尽くして委員会メンバーを説得し、これをまとめあげた。そこでは、米国による原子力の独占が続かないことを見越して、各国が原子力を民生用に活用しつつ、その技術が核兵器に転用されることを防ぐための仕組みと活動(これに対して「保障措置」safeguardsという言葉がここで使われ、現在に至る)を提案している(49)。これを施行するために、各国が主権を部分的に放棄し、原子力に関わること(技術開発や鉱山など)を管理する権限をもった国際機関(Atomic Development Authority)の設置も提言し、さらに、そのような国際機関が機能するまでの経過措置として、米国が自発的に核技術の独占を放棄し、核に関する情報を開示することを提言している(50)

これを受け取ったバーンズ国務長官は内容にショックを受けたらしい。映画の中の人物と同様、うわべは愛想よく振る舞いながら、この報告書を骨抜きにするように動いた。そのため、報告書を具体的な政策にする役割をバーナード・バルークにゆだねた。バルークはオッペンハイマーもその作業のためのアドバイザーに加えようとしたが、オッペンハイマーは断ってしまった。

その結果できた米国の国際的原子力政策の提案、「バルーク・プラン」が1946年6月に国連原子力委員会に提出された。これはアチソン゠リリエンソール報告に基づきながら、重要な点で異なっていた。原子力国際管理の機関を国連原子力委員会のもとにおき、より強制力の高い査察を実施し、違反国に対する罰則を設け、これに関する安全保障理事会常任理事国の拒否権を無効にするという提案を含んでいた。ソ連はこれを米国が核独占を維持することを目論むものとして拒否し、交渉は暗礁に乗り上げた。ソ連は独自に核開発を急ぎ、早くも1949年8月に核実験を成功させた。米国も核開発を続け、軍拡競争がエスカレートすることになる(51)

このようにして、オッペンハイマーの核兵器廃絶と原子力の国際管理の目論見は潰えてしまった。オッペンハイマーが核兵器の廃絶に関して何もしなかったように言う論者がいるが、それは明らかに言い過ぎである。米国政府の中で影響力をもっていた時期のオッペンハイマーは、政府の外で科学者運動をしていた人たちよりも、米国の外交政策を核廃絶に向けて動かす可能性があった。果たして、スターリンを相手にそのような宥和的な外交政策が有効だったかどうかはまた別の問題である。

オッペンハイマーと対照的に、仁科にとって原爆の引き起こす大惨事は幻視でも理論的可能性でもなかった。彼は原爆投下後間もなくの広島と長崎の凄惨な状況を目の当たりにしたのである(52)。だが仁科は、米国を非難することに拘泥するよりも将来の危険に関心を向け、むしろ同じ悲惨さを繰り返さないために決して戦争を起こさないことが重要であると考え、核兵器の使用を防ぐための原子力の国際管理というボーアの考えに強く共鳴していた。軍隊・核兵器をもたないばかりか外交すら大幅に制限されていた日本で、仁科の活動はオッペンハイマーのそれとはやや異なるものになった。仁科は早くから原子力の国際管理に関心を寄せ、原子爆弾についての記事にそれを盛り込んだ。また彼は、日本におけるユネスコ運動に参加した。1946年にユネスコが創立したあと、草の根レベルでもっとも早く、もっとも活発に反応した国は日本であり、1947年から各地にユネスコ協会ができはじめたのである。1948年に日本ユネスコ協力会連盟が結成されると、仁科は委員長を務めた(53)。他方で、彼は1949年のソ連の原爆実験に衝撃を受け、ソ連に対して強い不信を抱くようになった。仁科は学術会議やユネスコを通して平和主義と原子力の国際管理を唱え続けたが、彼の弟子にあたる坂田昌一、玉木英彦、武谷三男など左派の学者が唱える平和主義的主張には、ソ連側が同じように振る舞わなければ実効性がないとして必ずしも賛成しなかった(54)

こうして、仁科がとった活動はオッペンハイマーと完全には同じではなかったにせよ、原子力の国際管理を目指した点では同様だった。

共鳴

このようにオッペンハイマーと仁科芳雄は直接の接触は一度だけで、手紙のやりとりもあまりなかったが、二人がそれぞれの国で果たした役割は共通点が多かった。科学史においては、直接の関わり、いわゆる「影響関係」によって、知識や科学的実践が伝播するのではなく、おかれた状況が部分的に似通っているために、同様な科学的実践が発生することがある。『励起――仁科芳雄と日本の現代物理学』の中で私は物理学における共鳴現象のアナロジーでこれを考えることを提案している。仁科芳雄がコペンハーゲンから量子力学やコペンハーゲン精神を日本に「持ち帰った」と言われることがあるが、それは適切に内実を表したものではない。一人の人間だけである分野の研究を丸ごと持ち帰って移植する必要はないし、それは不可能なのだ。重要なのは、似通った研究活動、科学的実践が日本でも発生することであり、それが起こるための土台が日本に作られることだった。その土台は仁科が日本に帰る前からできはじめており、仁科はそれを完成させると同時に、実際に活動が発生するきっかけとなった(55)。オッペンハイマーの活動と仁科の活動は一方から他方に伝わったという種類のものではなく違いも多いが、部分的には「共鳴」していた。

仁科が1951年の1月10日に亡くなって2年後、1953年9月14日から25日まで、国際純粋・応用物理学連合(IUPAP)の国際会議として国際理論物理学会議が日本学術会議によって主に京都で開かれた。このとき、ジョン・ホイーラーの発案とIUPAP会長のネヴィル・モットの賛同で仁科の慰霊祭が駒込の理研で開かれることになる(56)。この会議の準備を担った湯川、朝永をはじめとする日本の理論物理学者たちは、当然ながらオッペンハイマーの来日を熱望した。正式の招待状は1952年8月9日付で、学術会議会長亀山直人の名前で送られた。オッペンハイマーは参加するつもりで、NSF(米国国立科学財団)から旅費を確保し、セッションの司会を引き受け、飛行機の手配も済ませ、一般向け講演も予定されていた(57)。ところが、直前の9月1日になって湯川宛てに長い電報を打って不参加を表明した。理由は”unexpected pressing immediate obligations here”(予期せぬ、切迫した責務がこちらで生じた)とあって、はっきりとは書かれていない(58)

これは個人的な事情のためかもしれないが、政治的な情況が理由かもしれない。映画にもあったように、オッペンハイマーはこの1953年の初めに米ソを「瓶の中の2匹のサソリ」に喩えて米国の核戦略を批判し、「率直さ」によって外交的にその状況を打開することを求めるスピーチをした。これは一部の聴衆に感銘を与えると同時に、批判された核政策の支持者たち、例えばルイス・ストローズらを激怒させた。この年の5月にストローズはアイゼンハワー大統領に面会し、オッペンハイマーの評判を落とす活動を始めた。オッペンハイマーは誰が背後にいるかまだ知らなかっただろうが、彼を激しく攻撃する論説や記事が現れはじめていた。7月にはストローズが原子力委員会委員長に就任した(59)。オッペンハイマーは自分の政治的立場が危うくなってきたことを感じたのだろうか。

しかし、オッペンハイマーはこの年の夏の初めにブラジル政府の招きでブラジルへ家族で旅行しているし、11月から12月にかけて、BBC(英国放送協会)に招かれて、名誉あるリース講演をするためにヨーロッパを訪問しているのだ(60)。彼としては政敵に対して自分の立場を守ることよりも、米国の外交政策に影響を与える上で米国にいるべきだと考えたのかもしれない。BBCで講演するのは西側諸国に訴える良い機会だった。映画でもストローズが触れているが、1953年1月に米国大統領がトルーマンからアイゼンハワーに変わったことで、オッペンハイマーは米国の核政策に影響を与えるチャンスがあると見たのかもしれない。国際理論物理学会議のような純粋に学術的な行事よりも、そのような活動に高い優先順位を置くようになっていたことはあり得る。

いずれにせよ、この年1953年の11月、映画にもあるように、ウィリアム・ボーデンがオッペンハイマーを告発する手紙をFBI長官、エドガー・フーバーに送り、12月21日、オッペンハイマーは告発を受けたことをストローズから告げられた(61)。そして、映画『オッペンハイマー』冒頭の聴聞会のシーンとなるのである。

  1. 伊藤憲二『励起――仁科芳雄と日本の現代物理学』みすず書房, 2023. この本が通常の意味での伝記以上のものを目指したことについては前号の記事でも書いたので、ここでは触れない。
  2. 「仁科芳雄日記抜粋(滞米メモ)」中根良平, 仁科雄一郎, 仁科浩二郎, 矢崎裕二, 江沢洋編『仁科芳雄往復書簡集I 現代物理学の開拓 コペンハーゲン時代と理化学研究所・初期 1919-1935』みすず書房, 2006, pp. 102-103. 以下『書簡集I』と略記.
  3. 仁科芳雄からロバート・オッペンハイマー(1950年2月28日), 中根良平, 仁科雄一郎, 仁科浩二郎, 矢崎裕二, 江沢洋編『仁科芳雄往復書簡集 現代物理学の開拓III 大サイクロトロン・二号計画・戦後の再出発 1940-1951』みすず書房, 2007, pp. 1408-1409. 「Kelly博士」とはGHQの経済科学局科学技術課のハリー・ケリーのことである。
  4. 仁科芳雄「アメリカ原子物理学者訪問記」中根良平, 仁科雄一郎, 仁科浩二郎, 矢崎裕二, 江沢洋編『仁科芳雄往復書簡集 現代物理学の開拓 補巻 1925-1995』みすず書房, 2011, pp. 540-547, 特にp. 542. 「亀山」は亀山直人学術会議会長、「我妻」は我妻栄学術会議副会長。オッペンハイマーのカクテルとオッペンハイマー家の飲酒習慣については、例えば次を見よ:アブラハム・パイス(杉山滋郎・伊藤伸子訳)『物理学者たちの20世紀――ボーア、アインシュタイン、オッペンハイマーの思い出』朝日新聞社, 2004, pp. 373-375.
  5. 仁科芳雄からロバート・オッペンハイマー(1950年4月2日), Folder: “General Case File, Nishina, Yoshio, 1950,” Robert J. Oppenheimer Papers, Library of Congress, Washington D. C. 以下、Oppenheimer Papersと略記。
  6. Yoshio Nishina and I. I. Rabi, “Der wahre Absorptionskoeffizient der Röntgenstrahlen nach der Quantentheorie,” Verhandlungen der Deutschen Physikalischen Gesellschaft 9 (1928): 6–9.
  7. 伊藤『励起』上巻, pp. 266-277.
  8. 伊藤『励起』下巻, pp. 872-876; 仁科芳雄「Hamburg(1927)以来」『科学』19巻7号(1949年7月), p. 7.
  9. 伊藤『励起』下巻, 17章, 20章, 27章.
  10. 青木慎一「オッペンハイマー――その知られざる素顔」『日経サイエンス』54巻5号(2024年5月), pp. 78-87, 特にpp. 81-82.
  11. 伊藤『励起』上巻, 6章.
  12. 矢崎為一から仁科芳雄(1935年10月11日)『書簡集I』, pp. 390-394.
  13. 湯川秀樹「欧米紀行――一九三九年―」『遍歴』朝日新聞社, 1971, pp. 251-266, 特にp. 264. 
  14. 湯川秀樹「アメリカ日記」『湯川秀樹著作集7』岩波書店, 1989, pp. 156-211, 特にpp. 204-210.
  15. 戦前は1941年の次の手紙が最後である:日下周一より湯川秀樹(1941年8月31日), s03-20-025, 湯川記念史料室 (https://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~yhal.oj/web/FMs.html). 以下、URLは省略する。
  16. 伊藤『励起』下巻, pp. 619; ロバート・オッペンハイマー(日下周一編・小林稔訳)『電気力学』学術図書出版社, 1950.
  17. 例えばフリーマン・ダイソンは、朝永の研究が政治的な理由で歓迎された可能性を示唆している:Silvan S. Schweber, QED and the Men Who Made It: Dyson, Feynman, Schwinger, and Tomonaga (Princeton University Press, 1994), p. 201.
  18. 日下周一から湯川秀樹(1946年9月16日), s03-21-002, 湯川記念史料室.
  19. この雑誌については例えば次の研究を参照:秦皖梅「Progress of Theoretical Physicsにおける査読制度の確立」『科学史研究』62巻308号(2024): 325-340.
  20. 湯川秀樹からロバート・オッペンハイマー(1947年7月1日), s03-21-003, 湯川記念史料室. 2024年6月時点のリストでは1946年の手紙となっているが、実際の手紙の日付は1947年の7月1日である。
  21. 湯川秀樹からロバート・オッペンハイマー(1947年11月7日), s03-21-007, 湯川記念史料室.
  22. 湯川秀樹からロバート・オッペンハイマー(1948年6月8日), Folder: “General Case File, Yukawa, Hideki, 1948-1965,” Oppenheimer Papers.
  23. 湯川秀樹「アメリカ便り(第一信)――一九四八年」『遍歴』pp. 273-276, 特にp. 273.
  24. 朝永振一郎からロバート・オッペンハイマー(1948年4月2日), Folder: “General Case File, Tomonaga, Sin-itiro, 1948-1965,” Oppenheimer Papers.
  25. Schweber, QED, pp.195-197; フリーマン・ダイソン(鎮目忝夫訳)『宇宙をかき乱すべきか』上巻, 筑摩書房, 2006, p. 108
  26. David Kaiser, Kenji Ito, and Karl Hall, “Spreading the Tools of Theory: Feynman Diagrams in the USA, Japan, and the Soviet Union,” Social Studies of Science 34(2004): 879-922; David Kaiser, Drawing Things Apart: The Dispersion of Feynman Diagrams in Postwar Physics (University of Chicago Press, 2005).
  27. Sin-itiro Tomonaga, “On a Relativistically Invariant Formulation of the Quantum Theory,” Progress of Theoretical Physics 1(2) (1946): 27-42.
  28. Schweber, QED, p. 198.
  29. ダイソン『宇宙をかき乱すべきか』上巻, p. 113.
  30. ロバート・オッペンハイマーからポコノ会議参加者(1948年4月5日), Folder: “General Case File, Tomonaga, Sin-itiro, 1948-1965,” Oppenheimer Papers. 以下に再録: Schweber, QED, pp. 198-200.
  31. ロバート・オッペンハイマーから朝永振一郎への電報(1948年4月13日), Folder: “General Case File, Tomonaga, Sin-itiro, 1948-1965,” Oppenheimer Papers.
  32. 朝永振一郎からロバート・オッペンハイマー(1948年5月14日), Folder: “General Case File, Tomonaga, Sin-itiro, 1948-1965,” Oppenheimer Papers; レックス・E・グレイヴズからロバート・オッペンハイマー(1948年5月26日), Folder: “General Case File, Tomonaga, Sinitiro, 1948-1965,” Oppenheimer Papers. グレイヴズ(Graves)は旧陸軍省(War Department)の便箋を用いて朝永の論文を転送しているが、時期からして陸軍省(Department of the Army)の職員と思われる。
  33. ロバート・オッペンハイマーからジョン・テイト(1948年5月27日), Folder: “General Case File, Tomonaga, Sin-itiro, 1948-1965,” Oppenheimer Papers.
  34. Sin-itiro Tomonaga and J. R. Oppenheimer, “On Infinite Field Reactions in Quantum Field Theory,” Physical Review 74 (1948): 224-225.
  35. 伊藤『励起』上巻, pp. 266-270; カイ・バード&マーティン・シャーウィン(川邉俊彦訳)『オッペンハイマー』上巻, 早川書房, 2024, pp. 188-198.
  36. John C. Slater, “The Theory of Complex Spectra,” Physical Review 34(1929): 1293-1322.
  37. 米国における量子物理学研究の初期については次を見よ:Katherine R. Sopka, Quantum Physics in America: The Years through 1935 (Tomash Publishers, 1988).
  38. 伊藤『励起』上巻, 11章.
  39. 例えば、バード&シャーウィン『オッペンハイマー』上巻, 早川書房, 2024;パイス『物理学者たちの20世紀』, pp. 370-373.
  40. 例えば、理論物理の研究については次を見よ:伊藤『励起』 上巻, 8, 10, 12章.
  41. 相補性については伊藤『励起』上巻15章、あるいはすぐ下で言及するボーアの『原子理論と自然の記述』の主要論文(あるいはそのドイツ語版)の邦訳が収められている次を見よ: 山本義隆編訳『ニールス・ボーア論文集1 因果性と相補性』, 岩波文庫, 1999.
  42. Sylvan S. Schweber, “The Empiricist Temper Regnant: Theoretical Physics in the United States 1920-1950,” Historical Studies in the Physical and Biological Sciences 17(1986): 55-98; David Kaiser, How the Hippies Saved Physics: Science, Counterculture, and the Quantum Revival (W. W. Norton, 2011), Chapter 1; David Kaiser, “History: Shut up and calculate!” Nature 505(2014): 153–155.
  43. 例えばオッペンハイマーの弟子でもあるデヴィッド・ボームのような量子力学の基礎の問題にこだわり続けた人もいた。Olival Freire Jr., The Quantum Dissidents: Rebuilding the Foundations of Quantum Mechanics (1950-1990) (Springer, 2014); Olival Freire Jr., David Bohm: A Life Dedicated to Understanding the Quantum (World Springer, 2019).
  44. バード&シャーウィン『オッペンハイマー』上巻, p. 384.
  45. 伊藤『励起』上巻, pp. 270-272, 466, 及び14章.
  46. 例えば最近では、次のような記事がある:「日本も原爆開発していたの? 軍が理研や京大に依頼 湯川秀樹博士ら携わる」『毎日新聞』2024年6月7日朝刊3面.
  47. 伊藤『励起』下巻, 22章.
  48. Finn Aaserud, “Niels Bohr’s Diplomatic Mission during and after World War Two,” Berichte Zur Wissenschaftsgeschichte 43 (4)(2020):493-520.  ボーアの政治活動についての文書や出版物はボーア全集の第11巻に収められている:Niels Bohr and Finn Aaserud, The Political Arena (1934-1961), Niels Bohr Collected Works, Vol. 11 (Elsevier, 2005).
  49. 国際原子力機関(IAEA)として原子力管理のための国際機関が実現し、保障措置の機能をもったとき、その最初の対象国となったのはほかならぬ日本であった:Kenji Ito, “Three tons of uranium from the International Atomic Energy Agency: diplomacy over nuclear fuel for the Japan Research Reactor-3 at the Board of Governors’ meetings, 1958–1959,” History and Technology 37(1) (2021): 67-89.
  50.  “A Report on the International Control of Atomic Energy, March 16,” 1946, Department of State Publication 2498 (Washington, 1946) (https://fissilematerials.org/library/ach46.pdf)
  51. バード&シャーウィン『オッペンハイマー』中巻, pp. 315-333.
  52. なお拙著『励起』でも述べたように、原爆によって日本がポツダム宣言を受諾したというのは誤りだと考えている。広島に派遣された調査団が投下された爆弾が原爆であることを公式には確定したのは10日の午後であり、受諾がおおよそ決まった9日深夜の閣議とその後の御前会議より後である。実際には原爆がなくとも、ソ連の参戦と本土防衛体制の不備など、天皇の地位さえ保証されれば降伏するのに十分な理由があった。しかし原爆を理由にすることは日本側にも都合がよかったし、米国側にとっても巨額の開発費を正当化する必要があり、また後には投下そのものを倫理的に擁護する必要があった:伊藤『励起』下巻, pp. 753-759.
  53. 伊藤『励起』下巻, p. 880.
  54. 伊藤『励起』下巻, p. 882.
  55. 伊藤『励起』上巻, pp. 374-375.
  56. 伊藤『励起』下巻, pp. 957-959; International Conference on Theoretical Physics, ed., Proceedings of the International Conference of Theoretical Physics, Kyoto & Tokyo, September, 1953, Held under the Auspices of the International Union of Pure and Applied Physics, Organizing Committee, International Conference of Theoretical Physics, Science Council of Japan, 1954; Kenji Ito, “Repairing a Scientific Network: The International Conference of Theoretical Physics in 1953 and the Rehabilitation of the Japanese Physics Community,” Roberto Lalli and Jaume Navarro (eds.), Globalizing Physics: One Hundred Years of the International Union of Pure and Applied Physics, Oxford University Press, 2024, 159-171. 
  57. Folder: “Japan International Conference on Theoretical Physics 1953,” Oppenheimer Papersの関連文書参照.
  58. ロバート・オッペンハイマーから湯川秀樹への電報(1953年9月1日), Folder: “Japan International Conference on Theoretical Physics 1953,” Oppenheimer Papers.
  59. バード&シャーウィン『オッペンハイマー』下巻, pp. 164-180, 184.
  60. バード&シャーウィン『オッペンハイマー』下巻, pp. 181-182, 189-195.
  61. バード&シャーウィン『オッペンハイマー』下巻, pp. 195-210.