みすず書房

定義の決まり方

定義の決まり方

ルールは何のために

はじめに疑問を持ったのはフィギュアスケートの芸術点だったと思う。子供心にも圧倒的に素晴らしく見えた3回転ジャンプをもってしても、芸術点の低さゆえに金メダルに届かなかったあの選手は誰で、何処で開催のオリンピックだったか(1)。スポーツというのは、どれだけ速く走るかとか、どれだけ高く跳ぶかとか、どれだけたくさん点を取るかとか、そういう客観的な指標をもって優劣をつけるものではなかったのか。当該選手が自国の代表であったこともあり、なんとも言えないもやもやが残った。

審判の主観的判断が勝敗に影響を与えることにかんする議論は、スポーツの世界ではよく耳にするところである。オリンピックやワールドカップなど大きな国際イベントが開かれると、メディアや観客が「誤審ではないか」「依怙贔屓でないか」といった議論で盛り上がることは少なくない。などと冷静な風を装っているが、自分だってかつては随分と熱心に批判の弁を振るっていたのである。付き合わされた周囲はまあまあ迷惑だっただろう。

しかし問題は主観的な評価に限らない。客観的に正確無比な判断であっても時には議論の対象となる。その一つの例が2024年のパリオリンピックでのサッカー男子日本代表とスペイン代表の試合ではないだろうか。パスが出た瞬間、日本代表の細谷選手の身体がスペイン代表のクバルシ選手よりも前に出ていたと判断され、ゆえにオフサイドとして細谷選手のゴールが無効となった「事件」である。踵が僅かに出ていたかどうかという微妙な問題だったこともあり、当初は誤審ではないかという声が多かったが、時間と共にそうした批判は収まっていった。何と言っても判定はVAR(Video Assistant Referee)に拠るものなのだ。2022年のワールドカップ(カタール大会)で日本代表がスペイン代表に大金星を挙げるに至った「三笘の1ミリ」(2)を演出してくれたあのVARである。その正確さに疑義を申し立てるほどサッカーファンは恩知らずではない、ということだろう。

ところがその後に「そもそもオフサイドとは何のためのルールなのか」という議論が出てきた(3)。素人の浅い理解であることを予めお断りしておくが、オフサイドというのは、攻撃側の選手がゴール前に張り付いてゲームの面白みが失われるのを防ぐ目的“も”あって設けられているルールらしい。その精神からすれば、踵が数センチ前に出ていたからといってゲームのダイナミズムは失われない。VARによる判定はちょっと杓子定規にすぎて、むしろオフサイドのぎりぎりを攻める面白みを邪魔する恐れがある。ルールを見直す必要があるかもしれない。そういう議論のようである。日本人としての贔屓目もあるだろうが、それなりに妥当な指摘にも思える。

前回、「次は心理学での定義の話をします」と言っていたのに、いつまでスポーツの話を延々つづけるのか、しびれを切らしてきた読者の方も、そろそろお気づきいただけただろう。つまりスポーツでの審判基準というものも定義の問題である。フィギュアスケートの採点からサッカーのオフサイド、さらには陸上トラック100メートル走に至るまで、競技としてのスポーツで行われていることは、ルールという「定義」を定めることで、競技者のパフォーマンスになんらかの値を割り振る作業とも言える。競技の公平性を担保するためには定義に厳密に従った運営と得点の割り振りが求められる。しかし定義が厳密に守られていれば適切と言えるのかといえば、定義の正当性そのものが問題となることもある。「細谷の踵」はそのことを示している。

実際、「定義」すなわちルールが見直され変更されることは稀ではない。その際には当然、公平性と適切性が問題となる。バスケットのゴールの高さが1.5メートルになったら、高身長の選手にとっては「なんだよ!」ということになるはずだし(公平性の問題)、「そもそもバスケットって、そういう競技だったの?」という疑問も当然出るだろう(適切性の問題)。ゴール高1.5メートルは極端すぎて議論にもならないような例だが、もう少し微妙なルール変更、例えばスリーポイントのエリアを5センチ外に広げるとか、そんな案が出てきたら侃々諤々の議論となることは容易に想像できる。それをどう調整してルールを決めるのか。巷間聞こえるところによれば、どうも各スポーツの競技連盟などで決めているようだ。

決めるのは自分たち

つまりスポーツのルールは、当該スポーツの関係者の協議で決めるらしい。神様とか、国連とか、各国のスポーツ関係省庁が決めているのではない。これは研究の世界とよく似ている。学問ではさまざまな概念を定義するが、それらもまた、宗教的権威や国際機関や国家が決めるのではない。もちろん単位系のように国際機関が関わるものもあるが、科学にとってより中心的な概念——「質量」とか「加速度」とか「エントロピー」とか——の定義について言えば、政治家や宗教的権威、資本が出る幕はない。

物理学の概念ばかりを挙げてしまったが、専門家が概念を定義する点については心理学も同じである。性格、知能、態度、注意、記憶、学習など、心理学が扱う概念は多数あるが、それらの定義も、原則として、国家とか企業によって決められるものではない(4)。しかし物理学と少々事情が異なるところがある。心理学における概念の定義は、しばしば研究者間で意見の一致が見られないのである。例えば「性格とは何か」という問いが、心理学では未だに議論の対象となる。もちろん物理学でも「エントロピーとは何か」という議論は成立するだろう。しかしエントロピーという概念抜きに熱力学を論じようとする人が出てきたら、良くてドン・キホーテ扱い、通常は無視されるだけだろう。心理学では違う。「性格という概念は心理学に本当に必要なのか」という議論は中心的なテーマとなりうるし、そうした議論を持ち出す人が無視されたり、異端扱いされたり、学会から除名されたりすることもない(5)

定義が何種類もある?

ところで「性格」はまだ良い方である。概ね多くの研究者が同意している定義が存在しているからだ。心理学の世界ではもっと厄介な概念を扱わねばならないこと、扱いたいことがしばしばある。例えば「差別」「男っぽさ/女っぽさ」「推しへの愛」などである。日常会話で「あの政治家は差別的だ」とか「彼女には男っぽいところがある」とか「私の方が推しへの愛が大きい」などと言ってみるのと、研究として「だいたいの政治家は差別的である」とか「女性の管理職には男っぽい人が多い」とか「推しへの愛が最も強いのは30代である」といった仮説(6)を唱えるのは話が違う。そして困ったことに、これらの定義は心理学の教科書をひっくり返してみても載っていない。

さてどうするか。前回に引き続き日本心理学会の大会会場で心理学者に尋ねてみることにしよう。高校時代の姿に戻って大会のポスター会場に潜入するのだ。うろうろしていたら、自分のポスターを前に手持ち無沙汰にしている人の良さそうなベテラン風の心理学者が目に入った。今回はあの人に質問してみよう。「すみません、この『嫌悪感受性』って何でしょうか?」 明らかに“モグリ”とわかる若者の問いかけに、心理学者は柔和な笑顔を浮かべた。「嫌悪感の感受性ですね。基本6情動はご存知ですか?」 そこから丁寧かつ高密度の解説が続いたのだが、まとめると、汚いものを見たり嗅いだり聞いたりしたときに「汚いなぁ、嫌だなぁ」と感じる程度に、人によって違いがあるということらしい。それが新型コロナなど感染症への警戒心と関係している可能性を調べているらしい……という理解で良いのだろうか?

「そうです。そこでいわゆるアンケート調査を行ったのです。このPVDとTDDSが嫌悪感受性を調べた尺度です」「尺度?」「ああ、尺度というのはですね…」またもや高密度の解説が続いたのだが、つまり「●●はどれくらい嫌ですか?」といった質問をいくつか尋ねて1点から5点とかの範囲で回答してもらい、それらの合計点を「嫌悪感受性の得点」にした、ということらしい。「尺度は英語で言うと measurement。家具の大きさを測る時にメジャー、つまり物差しを使って測りますよね。 あれと同じです。回答者一人ひとりの嫌悪感受性を、 PVDとTDDSというメジャーで測ったのです。その得点が、これらの散布図のx軸になっています」 ははあ。散布図が何なのかも気になるが、その前に一つ確認しなければ。「なんでメジャーが二つあるんでしょう?」 家具の大きさを測るとき、念の為に何回か測り直すことがある。あれと同じことだろうか。

ベテラン心理学者の目がキラリと光った。「良い質問です。 PVDとTDDSは作った人が違うのです。PVDとTDDSがどう異なっているか調べることも、今回の調査の目的の一つです」 その時、後ろから別の心理学者が口を挟んできた。「取ったのはTDDSとPVDだけですか?」「そうです」「嫌悪感受性ならハイトのDisgust Scaleも有名だと思いますが、あれを入れなかった理由は何かあるんですか?」 回答を待つ間もなくさらに別の心理学者が質問を被せる。「対象は日本人ですよね。POPAの方が日本人には自然じゃないかと思うんですが、POPAを使うことは考えなかったんでしょうか?」 心理学者たちがあなたそっちのけで熱心に議論し始めるのを見つつあなたは思う。「尺度を作るって、どういうことだろう。作成者が違うと尺度も違うものになるのだろうか。念の為に測り直すという話ではないのだろうか」

いろいろ測ってみれば良い?

心理学者たちの熱に当てられて少し疲れたので、ポスター会場隣の休憩スペースで一息つくことにした。水を飲んでボーッとしていたら隣に若い心理学者が座って声をかけてきた。大学院生だという。「学部生?」「いえ、高校です(7)」「へー。実は僕もさっきのポスターの共著者で、というか、話してたのは僕の指導教員なんだけど、質問してくれてたじゃない。なんで尺度が二つあるのかって」「はい」「なんでだと思う?」「え、わかんないです」「いいから、なんか言ってみてよ」

何か高度な心理戦を仕掛けられているのだろうかと警戒しつつ、せっかくなので答えてみよう。「メートルとインチの違いみたいなものですか? それか摂氏と華氏とか」「うーん、ちょっと違うな。それだったら、わざわざ2回も測る必要はないじゃない。メートルとインチの変換式はわかっているのだから」「それじゃ、二つのメジャーは違うものってことですか?」「そうだね。違うものと言ったほうが良いだろうね。でも全く違うかというと、それもまた違う。そうだな、例えば『足の速さ』ってどうやって測ったら良いと思う?」「50メートル走とか」「そうだね。でも短距離走が速い人もいれば、長距離が得意な人もいるよね。障害物を避ける技術が高い人もいれば、山道を走るのが上手な人もいる。いろんな足の速さがあるよね。メジャーがいくつもあるって、そんな感じと考えてもらうと良いんじゃないかな」

つまりはこういうことのようだ。「足が速い人は持久力がある」という仮説を考えたとする。この仮説をきちんと検証しようと思うのならば、短距離走ではなくて、長距離走のタイムを使ったほうが適切だろう。同じように「嫌悪感受性が高い人は、感染症への警戒心が強い」という仮説を確かめようと思うのならば、適切なメジャーで嫌悪感受性を測定しなければならない。しかし心理学では何が適切なメジャーなのかはっきりしない、教科書にも載ってないことが多々ある。そういう時は関係しそうなメジャーを複数そろえて測っておく。実際、PVD(Perceived Vulnerability to Disease)とTDDS(Three Domains Disgust Scale)は似ているけれど、微妙に違うらしい。PVDでは「最後に着た人がわからないので、古着は着たくない」といった意見にどれくらい同意するかを尋ねる。TDDSでは「他人の出血している傷口に偶然触れてしまう」といった場面を挙げて、どれくらい嫌な気持ちになるかを回答してもらう。いささか強引に「足の速さと持久力」に喩えてみれば、陸上競技のトラック長距離とクロスカントリーのような違いかもしれない。どちらも長距離走なので持久力との関連は深そうだが、それなりに違いもある。両方のタイムを聞いておいて、結果を見てからどちらが適切だったか判断すれば良い。そんな塩梅のようだ。

「うーん、それだとちょっとだけ違うかな。違うってのは“結果を見てから考えれば良い”ってところで、それやっちゃうとだいぶ問題があるんだよね。もっとも昔はみんなやってたらしいんだけど」「はあ」「でも、複数の尺度があるってのはその通りで、むしろ似たような尺度が多すぎるんじゃないかって話もあるくらい。尺度をひたすら集めた5巻本とかもあって、目次を見るだけでも面白いよ(8)

定義は後から決まっていく

「ちょっと次のシンポジウムを聴きたいから」といって大学院生は去っていった。どうやら指導教員がせっかく質問してくれた若者をほっぽって尺度談義に興じているのを見て「これはいかん」と追いかけてきてくれたようだ。ずいぶん親切な方だ。そういえば「親切さ尺度」なんかもあるのかな。後で教えてもらったリンクを見てみようなどとつらつら考えていて、ふと気になった。一つの概念に複数の尺度もしくは複数の定義があることで、問題になる場合もあるのではなかろうか。

「親切さ」でも「足の速さ」でも、物事にはいろいろな側面があって、異なった側面を捉えるメジャーが用意されていた方が良さそうというのは、なんとなく納得できる。だけれども。もし皆が好き勝手にメジャーを使い始めたら困るのではないだろうか。短距離走のチャンピオンと長距離走のチャンピオンが、それぞれ「われこそは世界最速の人類」と主張し始めるようなことになってしまわないか。例えば「嫌悪感受性と感染症への警戒心に関係がある」と主張したい人がいたとしよう。TDDSとPVDの両方を測ってみたら、片方だけが警戒心と関係があった。そのとき関係のあった方だけを報告してしまったら問題があるのではないか。あ、それが先ほどの大学院生さんが言っていた「結果を見てから考えるのはまずい」ということか。

後付けで概念の定義を決めてはならない理由はわかった。しかし他方で、事前にはどの概念が適切なのかわからないこともあるという話ではなかったか。だとすれば「嫌悪感受性の適切な定義」は、いつ、どこで、誰が、どのように決めるのか。それに「定義」と「尺度/メジャー」の関係もこんがらがってきたな。困ったぞ。という読者の方も少なくないと思われるので、ここで少し助け舟を出しておこう。

競技スポーツのルールを決める際には、ルールがその競技の“精神”に則っているのかどうか、つまりルールの適切性が問題となることを先に述べた。心理学の研究で概念の定義を決める時にも、その定義の適切性が問題となる。専門用語ではこれを妥当性(validity)と呼ぶのだが、この「妥当性」という概念の定義そのものが大論争を呼ぶ取り扱い注意なテーマなので、ここではフンワリと「適切さ」という言葉を使っておきたい(9)。考えたいのは「嫌悪感受性の高い人は、感染症への警戒心が強い」といった仮説を調べる時に、「嫌悪感受性」をどのように定義するのが適切か、という問題である。実はこうした定義はいくつものステップを経て決まっていく。

まず日心会場のベテラン心理学者である。彼の人は嫌悪感受性について、TDDSとPVDという二つの既存の定義を採用していた。「あれ? その二つってメジャー/尺度でしたよね。定義ではなく」と思われた方がいらしたら、その通り。正確な表現をすると、件のベテラン心理学者は「各回答者の嫌悪感受性の程度は、TDDSまたはPVDというメジャーを使って得られた数字であることに決める」と定義していたことになる。学問っぽく言うと「嫌悪感受性を操作的に定義した」といったところだろう。

面白いことに、この定義が適切かどうかは、この段階では未だ定まっていない。単にベテラン心理学者(と、共著の院生)が「我々はこの定義が適切と考える」と宣言しているだけなのである。それが適切かどうかの判断は、同様のテーマを研究している専門家たちの社会——コミュニティ——によって決められる。事実、ベテラン心理学者は学会のポスター会場で、自らが採用した操作的定義の適切さを厳しく問い詰められていた。ハイトの尺度やPOPAなど、他の尺度(操作的定義)の方が適切だったのではないか、という批判がそれである。

ここにスポーツにおけるルールの定義と心理学研究における概念の定義の違いがある。スポーツではルールは競技の前に決まっている。競技終了後に「あのオフサイド判定はサッカーの精神に反するものだったかも」といった疑問が呈されることはあったとしても、それで勝敗がひっくり返ることは、まずない。ところが心理学における概念の定義については、研究の結果が後に批判にさらされ、悪くすれば結果そのものが否定されてしまう。用意されているルールブックに曖昧なところが多々あり、自分たちなりに熟考してルールを決め、いざ試合で勝敗を決した後になってから、「君たちの試合はそもそもサッカーの精神に則ったルールではなかったので無効」と言われてしまうようなものである。

そんなことになったら大惨事である。ゆえに研究者はコミュニティからのダメ出しを喰らわないよう血眼になる。過去にコミュニティで認められてきた定義(例えば尺度)を採用するのは最も手堅い常套手段である。しかし手堅いから正しいとは限らない。時には己の信じる「より適切な定義」を押し通すために、異論反論を徹底的に考え抜いて、ガチガチに理論武装して審判の場に臨むこともある。こうして定義を定めることは、研究者を縛ることにもなる。それはスポーツにおける定義(ルール)が選手のプレイを縛るのとほとんど同じである。コミュニティに受け入れられる(であろう)ルールを、自ら(仮に)定め、心理学研究というゲームをプレイするのである。

どこまで定まるものなのか

なんだか心理学研究というのは最後の審判に備えて自らを律するような、えらく厳しい世界なんだな、とあなたがボンヤリ考えていたところ、先ほどのベテラン心理学者が休憩スペースにやってきた。嫌悪感受性の定義に疑問をぶつけていた心理学者たちも一緒だ。先ほどまでの喧々囂々ぶりとは打って変わって和やかに談笑している。

「おや、あなたは先ほど質問して下さった方ですね。途中からマニアックな話に夢中になってしまい失礼しました。学生に叱られてしまいました」「いえ、院生さんがわざわざ来て下さって、色々と教えていただきました。こちらこそ有難うございました」 それを聞いて、途中から質問を挟んで来た心理学者たちも口々に謝罪の言葉を述べた。

「ところであの研究って、まだ論文になってないんですか?」「実はつい先日アクセプトされまして」「おお、それはおめでとうございます!」「ああ、またマニアックな話で申し訳ない。アクセプトというのは、論文が雑誌に掲載されることが決まった、ということです。私たち研究者にとっては、とても嬉しい、目出度いことなのです」「そうそう、目出度いことなんですよ! どこですか?」「Journal of 〜(聞き取れず)です。白状すると最初は日本の雑誌に投稿したのですが、まさにご指摘いただいたように、なぜPOPAではないのだ、というサドクが返ってきまして。TDDSとPVDを選んだ理由も説明したのですが受け入れていただけず、これは英語で書いたほうが良いのかなと考えて投稿し直したところ、上手くいきました」「なるほど。誰が査読したんでしょうねぇ。POPAつくった先生だったりして」「いえ、あの方はそういう狭量な方ではないでしょう」「それはそうですね」

「ああ、またもマニアックな話に夢中になってしまいすみません。査読というのは、論文が掲載に値するか判断したり、どこを直せば良いかコメントしたりすることです」「つまり、漫画雑誌の編集者が、新人の持ち込みにコメントするようなイメージでしょうか?」「面白い喩えですね。研究論文の場合には、他の漫画家さんの意見も聞いてみる形になりますね」「投稿し直した、というのは、どういうことでしょう?」「それはですね……」

再び高濃度の解説が続いたのだが、つまりは次のような事情だったようだ。ベテラン教授と院生は研究結果を日本国内の心理学の専門誌に投稿した。どうも論文というものは書いたら載せてもらえるというものではなくて「こういうものを書いたので、貴誌に掲載していただけないものでしょうか」とお伺いを立てるものらしい。それで掲載してもらえる場合をアクセプト、掲載してもらえない場合をリジェクトと言う。リジェクトという単語が出た時の心理学者たちの異様な雰囲気を見るに、この言葉には相当な重みがあるようだ。アクセプトやリジェクトの判断には他の専門家の意見を聞くのが基本となっていて、これが査読。先ほど、他の漫画家の意見を聞くと喩えた箇所だ。

ベテラン心理学者たちの論文には「POPAではなくTDDSとPVDを使った理由の説明が不足している」という査読コメントが返ってきた。編集者からは、その説明を十分にすれば掲載しないでもない、という微妙な判断が伝えられたらしい。完全に納得したわけではなかったものの「査読者の声は神の声」と修正を加えて再投稿した。しかしまたも「POPAを使わなかった理由の説明が不足している」という査読コメントが返ってきた。編集者の態度も同じく「そこを修正したら載せてやらんでもない」というものであった。この間、半年。この先いくら修正を加えてもこの査読者が納得してくれる可能性は低いのではないかと不安に駆られた二人は論文を取り下げ、英語で書き直して海外の心理学専門誌に投稿した。実はPOPAは日本の研究者が比較的最近に作った尺度で、昔からあるTDDSやPVDの方が国際的には知名度が高い。海外の専門誌なら「POPAを使うべきだったのでは?」といった“難癖”を付けられる可能性は低く、「Ah、いつものTDDSとPVDね、OK、OK」と受け入れてもらいやすいのではないか、と考えたのだ。目論見はあたり、小さな修正要求コメントはあったものの無事にアクセプトされた、ということらしい。

「ということは、先生たちの嫌悪感受性の操作的定義が、専門家コミュニティに認められた、ということになるのでしょうか」 覚えたての言葉を使って質問してみた。「そのように言いたいところですが、そう言い切るのは傲慢でしょうね。国内誌で私たちの論文をリジェクトした方は、今でも私たちの立場に賛成はしていないでしょうから」「そうすると、どうなったらコミュニティに受け入れられたことになるのでしょう」「難しい、良い質問ですね。実は私たちもよくわかっていないのだと思います。少なくとも、私は自分がわかっているとは言えません。しかし大事なことがあります。それは、この一つの研究で全てが決まるものではない、ということです」「それは……」と言いかけた所で、同席の心理学者が割り込んできた。「まーまー、今日のところはアクセプトされたってことで、目出度くて良いじゃないですか。乾杯しましょうよ乾杯」「まだセッション中だよ」「もちろん水で、ですよ」

先ほど、自らの決めた定義がコミュニティによって否定される恐れがあるので、心理学者は必死になって定義を考え理論武装するという話をした。またそのことが、適切な概念によって研究を行うよう研究者を縛る枷になっているとも書いた。しかしベテラン心理学者の逸話を聞いていると、概念の適切さはコミュニティの総意で判断されるのではなく、ごく数人の査読によって判断されるようだ。しかもその判断は人によって違うことがあるらしく、それは投稿する側も折り込みずみのようだ。それは査読に主観が交じることがコミュニティの常識であることを示唆している。だとすれば、査読者に拠る主観的判断の適切性は、誰が、どのように判断するのだろう。

統一見解は存在しない?

ここにもまた競技スポーツと心理学研究の違いが見られる。競技スポーツのルールは競技団体によって統一的に決められている。その団体が運営する試合に参加する限り、その団体が定義したルールに従わねばならない。しかし心理学の場合、学会が何らかの概念の定義を統一的に定めることは、まずない。メディアで語られる「心理学の知識」が心理学者の常識と反していたとしても、少なくとも国内では、学会が公的に懸念を表することはまずない(10)。それは「適切さ」を判断する絶対的な基準が確立し難いことを反映している。

定義を定めなければ研究は進められず、しかし何が適切な定義か決定的な判断を下すことは難しい。仕方がないので査読者が納得したものについては、取り敢えず第三者の立場からも一定の支持が得られたものとして、新たな知見として公刊することを許す。ところが「取り敢えず」という言葉はしばしば隠されてしまう。下手をすると書いた本人も、載せた本人さえも、隠された「取り敢えず」という言葉を忘れてしまい、雑誌に載った論文の主張は、固いエビデンスにもとづいた客観的に否定しがたい主張のように受け取られてしまう。そのような危うさが心理学研究にはある。

その決まり方で問題はないのか

このように書くと、心理学の実験や調査から得られた数字も結局は主観的なもので、全く信用できないとの印象を持つかもしれない。しかしそれもまた極端だろう。数字を得るための手続き、すなわち概念の操作的定義は公開されるし、なるべく客観的な数字を得るように操作的定義を磨くことが目指されてもいる(11)。サッカーでオフサイドのルールが公開されていて、客観的かつ正確な審判をめざしてVARの導入など不断の努力が払われていることと同じである。しかしそのことと、そもそもオフサイドを設けるのが適切なのか、身体のどの部位が何センチ出たらオフサイドにするのが適切なのかといった問題は、コミュニティに委ねられている。それは物理定数——万有引力定数やボルツマン定数など——の決まり方とは、かなり違う。

そこに問題はないのか。それが次の問いになる。特に問題はないかもしれない。陸上競技のコミュニティは短距離走の距離を100メートルに定義している。なぜ99メートルでも101メートルでもなく100メートルなのだろうか。人間の短距離走の能力を測定するのに100メートルが最適だという根拠は恐らく存在しない。しかし他方で陸上競技コミュニティは、100メートルと200メートルでは異なる能力や技術が求められることを適切に判断できている。言い方を変えれば、99メートル走だろうと101メートル走だろうと結果に大きな違いはなさそうで、コミュニティはそのことを適切に判断できている。同様に、概念の定義について心理学者の間で意見が異なっても、結果に大きな影響はないのかも知れない。

しかしである。オフサイドの定義が身体が少しでも前に出ることを禁じる厳密なものであったことは、パリオリンピックでの「細谷の踵」事件をもたらし、ゲームの結果に大きな影響を与えた。「三笘の1ミリ」にしても、基準が少しでも違ったら、日本代表の金星はなかったかもしれない。同様に、心理学的概念の定義にかんする研究者間で異なる見解が、仮説にかんする全く異なる結論を導くかもしれない。これはやってみないとわからない問題、いわゆる経験的な問いである。そして経験的な回答を得る試みが実際に行われている。次からはそれらの意味するところを考えていきたい。

  1.  カルガリー五輪(1988年)の伊藤みどり選手と思われる。金メダルのカタリナ・ビット選手の名前にも見覚えがあるので、ほぼ間違いないだろう。
  2.  Number Webより。https://number.bunshun.jp/articles/-/855640
  3.  Number Webより。https://number.bunshun.jp/articles/-/862516
  4.  国家や企業、教育機関などがこれらの定義を決める場合がある。例えば「高校卒業程度認定」(国家)、「英語検定1級」(企業)、「入学試験」(教育機関)など。これらの場合の概念やその定義のあり方は、スポーツにおけるルールとかなり似通ったものになる。
  5.  学術的な意見が異端的だからという理由で学会から除名処分を受けることは、恐らくほとんどの学問領域で行われない。念の為。
  6.  言うまでもないが、すべて全く根拠のない「仮説」である。
  7.  高校生の姿で日本心理学会の年次大会に潜り込んでいるという設定です。第1回をご参照ください。
  8.  『心理測定尺度集Ⅰ〜Ⅵ』所収尺度まとめ【ほぼ完全版:https://www.finnegans-tavern.com/hce/2012/01/30/14/591/】
  9.  「妥当性概念」だけを巡って分厚い本や長々しい論文がいくつも著されているような状況にある。
  10.  数少ない例外の一つが日本行動分析学会による体罰への反対声明だろう。 https://doi.org/10.24456/jjba.29.2_96
  11.  心理測定法(psychometrics)という“正しい”数値を得る手法を専門的に考える学問分野まで存在する。