みすず書房

心理学は役に立つのか

心理学は役に立つのか

「大学で勉強しなかった」は自慢なのか

日本経済新聞の名物コーナーに「私の履歴書」というのがある。誰かが「あれは名物コーナーだよ」と言っているのを聞いたとか、日経の紙面に名物コーナーと明記されているのを目にしたわけでもないので、勝手に名物と呼んで良いのかいささか不安だが、随分前から続いているコーナーでもあるし、恐らく名物と呼んで差し支えないだろう。「履歴書」というのはもちろん比喩で、実際には著名人が1ヶ月かけて、日経の朝刊で自分の半生を振り返るのが、このコーナーである。役者、学者、スポーツ選手、芸術家、政治家、元官僚から起業家に企業人まで、執筆者の背景は多彩で、有名企業の創業の苦労を追体験できる月もあれば、高名な研究者や芸術家が、そもそも凡人がひっくり返っても望み得ない(家柄的にも才能的にも)恵まれた生まれであることを知ってため息をつくこともある。かと思えば二代目三代目の苦労をしみじみ嚙みしめる月もあって、それでも最終的な成功を知っているので安心して読めるあたりが、人気の秘訣なのだろうか。

このように書いていると、さては筆者は当該コーナーの熱心なファンなのだなと思われるかもしれないが、そうとも言えない事情がある。実は大学教員の中には当該コーナーを目の敵にしている人が一定数いるのではないかと疑っているくらいで、何を隠そう筆者自身も少し前まではそうであった。なぜか。しばしば「大学で勉強しなかった自慢」が鼻につくのである。確たるエビデンスもなしに偏見丸出しで書いてしまうのだが、どうも企業(「大学人」がよく言うところの「民間」)で立身出世を遂げた方々の連載で「大学ではスポーツ/趣味/遊びに打ち込んでいて授業にはまったく出なかった」「今の私があるのは真面目で優秀なA君のノートのお陰である」「こんな私だったが、なんとか教授の恩情で卒業させてもらえた」といった記述が散見されるように思われるのだ。それなりの時間と労力をかけて講義を運営している大学教員の端くれとして、面白くはない。「いい年した大人が『悪そうな奴は大体友達』みたいな子供じみた自慢を全国紙でやるのは如何なものか」くらいの苦言は呈したくもなる。

心理学の連載が始まるというので読み始めたのに、自分はいったい何を読まされているのかと読者の方々も戸惑っておられるだろう。少し冷静にならねばならない。そもそもあれは「自慢」なのだろうか。試験前に「ぜんぜん勉強してないよ〜」と宣う行動にはセルフ・ハンディキャッピングという心理学用語が付けられていて、「失敗は勉強不足のせい」「成功は自分の能力のおかげ」と予防線を張る行為と説明されている。さて「私の履歴書」執筆陣が成功者であることは本人たちも自覚しているはずなので、もしもあれが定期試験日の中学生並みの子供じみたセルフ・ハンディキャッピングに過ぎないなら、「大学の勉強などなくても成功できた私は凄い」と自慢していることになる。ところが多くの連載では「大学で勉強しなかった」の後には「入社してから我武者羅に学んだ」エピソードが続くことになっており、少し様子が異なる。どうもあれは単なる自慢だけでなく、そこそこ正直な告白も含まれているように思えるのである。

となると次の疑問が浮かび上がってくる。大学でろくに勉強しなかった彼ら(1)が、後に社会で大成功できたのは何故なのだろうか。言い方を変えよう。大学で真面目に勉強した人(ノートを貸してくれた優秀なA君)が、社会に出たときに圧倒的なアドバンテージを持てていなかったのだとすれば、それは何故なのだろうか。「簡単だ。大学で学ぶ学問は、実社会では役に立たないからだ」という声が聞こえてくる。そこが問題である。「大学で学ぶ学問」という乱暴な括りはともかくとして、心理学に限って言えば、それを学ぶことが実社会で役に立っているのだろうか。大学で心理学を専攻し真面目にノートを取ったA君は、“民間企業”に就職した後に、勉学をサボってきたBさんやC君よりも、明らかに優位に立っているのだろうか。

残念ながら、恐らく答えはNoである。根拠は心理学専攻の学生の就職実績が取り立てて良くないことにある。「悪い」とは言っていない。しかし間違っても「採用するなら心理の学生でしょう」という話にはなっていない。翻って、受験生の間で「就職を考えれば心理学だよね」という話にもなっていない。もし心理学をきちんと修めた卒業生ほど会社で抜きん出た成績を収めているのならば、企業の採用担当者がそこに目をつけないはずはない。つまり圧倒的なパフォーマンスを示している可能性は低い。

しかしこれはいささか妙ではないだろうか。心理学という語を開くと「心の理(ことわり)の学」となる。心理学の教科書を開いても「心理学は心の仕組みについての科学です」といった定義が書いてある。人の心の仕組みや働き、人々がどのように考え行動するのかを研究し、明らかにするのが心理学のようである。それを大学で4年もかけて専門的に学んだのならば、社会に出たときに無敵の存在になっていてもおかしくないはずである。しかし現実は、カウンセリングなど一部の分野をのぞいて、「相手の気持ちが分かる必要がある場面では心理卒を雇っておけ」みたいな話にはなっていない。それは何故なのか。

「心を読めない」は自慢になるのか

話を少し変えたい。皆さんは、日本に「心理学者」と呼ばれる人間が何人くらいいるかご存知だろうか。この手の質問は案外と手強いもので、ゆえに筆者もはっきりした数字は知らない。そもそもの「心理学者」の定義が不明なことが大きい。これが「弁護士」とか「医師」とかなら資格や免許の保持者の数で概算できるのだが、心理学者は免許制でないのでそうした統計がない。一つの目安として、日本を代表する心理学の学会の会員数が使えるかもしれないと思うのだが、これまた「代表的な学会」の定義が曖昧である。御託を並べていても話が進まないので、いろいろと批判の声が上がるのは承知で、「日本心理学会」というそれっぽい名前の学会を代表的な学会としよう。当該学会のウェブサイトを見ると、少々古い情報だが、2019年3月末時点での会員数は7882名とのことである。日本の人口を1億2000万人とすると、日本人10万人あたり心理学者は6~7人という計算だから、意外とレアな存在であることが分かる。

さて、このレアな人々が年に一度、大集合する機会がある。学会の年次大会である。日本心理学会の場合はだいたい3日間の大会を9月頃に開催している。さすがに全員ではないが、それでも数千人は会員が集まって、研究を発表したり、シンポジウムで議論したり、有名研究者の講演を聴いたり、著書にサインを貰ったり、共同研究の打ち合わせをしたり、人事のうわさ話をしたり、大学行政や研究行政への不満を語り合ったりする。そんな年次大会のメイン企画はポスター発表と呼ばれるものである。自分の研究をA1~A0サイズのポスター1枚にまとめてパネルに貼り出し、立ち止まってくれた他の参加者に内容を説明したり、質問を受けたり、研究の不備を激詰めされたりする。一度の大会で発表されるポスターは数百件に上る。そこで、大ホールを借り切ってポスターパネルをずらっと並べ、一度に100件くらいずつを同時に発表する。発表者とその数倍の聴衆、合わせて数百人の心理学者が大きい体育館みたいなホールにすし詰めになって、数人ずつ集まって議論を戦わせている様子を想像してもらえば、おおよそ「日心」の大会ポスターセッションとなるだろう。

9月のある一日、たまたまそうしたポスターセッションが開かれているホールのそばを通りかかったとしよう。中では心理学者が数百人も集まって議論をしているのだから、さぞかし高度な心理戦が繰り広げられているはずである。興味を持ったあなたは、ちょっとのぞいてみることにした。実は大会参加は有料で、日本心理学会ではだいたい1万円くらい取られる。そこで一計を案じよう。高校生くらいの自分を想像して、当時の姿でポスター会場に潜入することにするのだ。研究者というのはだいたい自分のやっていることに興味を示す若者が大好物なので、通りがかりの高校生がちょっと潜りこんだくらいで目くじらを立てることはない(本来は高校生の当日参加費は3000円らしいが)。その代わりと言ってはなんだが、心理学者たちにある質問をしてみて欲しいのである。聞いてほしい質問はこれである。「皆さん心理学者ということは、やっぱり心を読めるんですか?」

まずは感じよく聴衆と話をしているあの20代くらいの心理学者に尋ねることにしよう。いきなり自分の疑問を投げつけるのもなんなので、取っ掛かりにポスターのタイトルについて訊いてみようか。「このビッグ五というのは、どういったものですか?」理由の説明は省くが、いい年をした大人が日心のポスター会場でこんな質問をしたら蔑みの眼差しを向けられるのは確実である。しかし相手が高校生なら話は別で、年少者の素朴すぎる質問に、喜び勇んでパーソナリティの類型論と特性論の違いや、“ビッグファイブ”理論の背景にある因子分析の素晴らしさ、固有値分解の美しさについて語ってくれることだろう。場が温まってきたようなので、おもむろに件の質問を投げかけることにする。「心理学の先生って、やっぱり心を読めるんですか?」

相手が学部を卒業したてほやほやの大学院修士課程の学生であったなら、ここでちょっと恐縮の表情を浮かべるかも知れない。「いや、自分まだ大学院生なんで、先生って呼ばれるほどの者でもないのですけれど」。もう少しキャリアが進んで博士課程くらいになってくると大会会場での「先生呼び」にも慣れているので、いちいち恐縮したりはしない。そう、この手の学会では「参加者の中に学生に見えて実は偉い先生が紛れていることがあるから、取り敢えず初対面の人は“先生”って呼ぶのが安牌」という暗黙の規範があるのだ。

話が脇に逸れた。恐縮の表情を浮かべた彼女はその後、かなり高い確率でこう答えるだろう。「そんなことないですよ。心理学を勉強すれば心が読めるって思う人が多いんですけど、ちゃんとした心理学って、そういうものじゃないので」。賭けてもよいが、日心会場で質問したら、老若男女問わず、十中八、九の心理学者は同様の答えをするはずである。そう答えるときの心理学者たちの顔に、どこか誇らしげな表情が浮かんでいることも予想できる。つまり、心が読めないのは駆け出しの大学院生だからではない。話は逆で、そんなことを期待してしまうことこそ素人の証であり、「ちゃんとした心理学者」なら「会話中の右手の仕草から相手の心が分かる」などという“心理学”は噓であると知っているのだ。

ちょっと待って欲しい。はたして心理学者が「心を読めないこと」を自慢していて良いのだろうか。なるほど、それが本当なら心理学専攻の卒業生が就活市場で引く手あまたでなくとも驚くには値しない。しかしそんな自分たちの価値を下げるようなことを、当の心理学者が自信満々に宣言するとも思えない。ということは、これは単なる謙遜なのだろうか。もう少し心理学者の話を聞いてみよう。心を読めないことを誇った心理学者は、恐らくこう続ける。「科学的な心理学では全体的な傾向を研究するんですよ」。そのために条件を統制した実験や大規模なアンケート調査を行ってデータを集め、統計分析をかけてデータを解釈するのだという。なるほど、実験とかデータとか統計とか、いかにも科学っぽい。しかし科学だから心を読めないという理屈が分からないし、「全体的な傾向」がどういう意味なのかも良くわからない。「人間なら誰でも、このように考えてしまう」といった全体的傾向が分かるなら、十分に心が読めているのではないだろうか。となるとやはり単なる謙遜なのか。「科学的心理学で心が分かる!」というのが本心で、あの誇らしげな表情は、隠そうとしても隠しきれない自信が漏れ出たものなのか。

「全体的傾向」は全員のことなのか

再び話を少し変えたい。就活では特段に振るうわけではない心理学だが、他方でいくつかの心理学研究はとても有名で人気がある。「監獄実験」「ザイアンス効果」「マシュマロ実験」など、耳にしたことのある方も多いだろう。そのため講義で「ミルグラムの実験で普通の人が電撃ショックを!!」と(前のめりになって)紹介しても、「その話、テレビで/ネットで/YouTubeで見たことあります。初めて聞いたときに驚きました(棒)」と肩透かしを食らうことが度々あり、勝手な話だが、ちょっとばかり迷惑に思っていたりもする。ただ、それはそれ、有名な研究も人口に膾炙する過程で微妙なエラーが蓄積され、間違った解釈や呼び名が広まっていることが少なくない。大体の人は孫引きひ孫引きで済ませていて、原典までさかのぼって細部を確認している人はあまりいない。そこに専門家のニッチがある。

ということで吊り橋実験である。揺れる吊り橋を一緒に歩くと、吊り橋のドキドキを相手への好意と勘違いして、相手のことを好きになってしまうというアレである。この有名な実験が発表されたのは1974年、論文を書いたのはカナダの名門、ブリティッシュコロンビア大学の心理学者、ダットンとアーロンである(Dutton & Aron, 1974)。彼らが興味を持ったのは「強い感情」と「性的魅力」の関係で、論文タイトルにもまさにそのように書いてある。曰く“Some Evidence For Heightened Sexual Attraction Under Conditions Of High Anxiety”(「強い不安状況下における性的魅力の亢進にかんするエビデンス」)。「性的魅力」などという直接的な表現に驚くが、これはあくまで科学的な研究であって、そこに日常会話における価値観を安易に読み込むのは不適切である。

論文の主張を詳しく見てみよう。ポイントは2つある。強い感情(不安や恐怖)を感じると、たとえその不安や恐怖の原因が明白であったとしても、それを相手の性的魅力に読み替えてしまう、というのがポイントその1である。ポイントその2は、もともと性的魅力の高い対象が近くにいた場合に、そのような勘違いが生じる、というものである。これをまとめると、揺れる吊り橋を渡っているときの自分の恐怖や不安を、「眼の前のこの人、すごく魅力的だなぁ」と勘違いするという話で、いやいや人間の脳みそってそんなにポンコツなのだろうかとも思ってしまうが、それを支持するエビデンスがあるというのが、この論文の売りである。

ところで「性的に魅力的な対象」とはなんだろうか。論文を見るとattractive female(魅力的な女性)と書いてある。かなり直接的な表現で驚くし、さまざまに突っ込みたくなるが、これはあくまで科学的な研究であって、そこに日常における価値観を安易に読み込むのは不適切である、としておこう。その「魅力的な女性」であるところのインタビュアー(言うまでもなく実験者側のサクラである)が、吊り橋を渡っている途中の男性に近づき、心理学の授業の一環で調査をしているので協力してくれないかと依頼するところから実験がスタートする。男性からOKがもらえたら、その場で(揺れる吊り橋の上で!)アンケートに回答してもらう。年齢や学歴など当たり障りのない情報を尋ねてから、一枚の絵を見せて、それについてドラマティックなストーリーを書くように求める。女性が片手で顔を覆い、もう片方の手を何かに向けて伸ばしている絵である(2)。回答が終わったら「この調査について詳しく知りたかったら、後でこの番号に電話して下さいね」と言って電話番号を書いた紙片を渡す。以上で実験終了である。

こうした実験を、吊り橋を渡っている男性23人に行ったところ、18人が番号を受け取り、そのうち9人が後で電話を掛けてきた。ところが同じインタビューを、特に怖くない頑丈な木橋を渡っている最中の男性22人に対して行ったところ、電話番号を受け取ったのは16人で、そのうち2人しか電話してこなかった。9対2で、吊り橋男性陣のほうが7人も多かった(3)。電話をかけるという行為はインタビュアー女性への性的関心の表れと考えることができるから、つまり吊り橋の男性陣の方がインタビュアーに強い性的魅力を感じていたのだ。まさに「強い不安状況下における性的魅力の亢進にかんするエビデンス」だ!

これが「全体的傾向」ということである。実験で示されたのは、吊り橋でドキドキした全員がインタビュアーに性的魅力を感じた、というエビデンスではない。強い魅力を感じた人が、吊り橋で相対的に多かったということに過ぎない。「かくかくの場面では、しかじかに考える人が相対的に多いですよ」ということであって「誰だって、しかじかに考えてしまいますよ」ということではない。科学的心理学の多くの研究は、こうした全体的傾向を明らかにすることを目指しているのだ。

「なるほど、全体的傾向というのは、意外と控えめな主張なのですね」と思われたかもしれない。「それで『心理学で心が読めるわけではない』と控えめな表現をしていたのですね」と。日心会場の心理学者たちにそう伝えたら、「そう、そうなんですよ!」と破顔一笑することだろう。「ちゃんとした心理学というのは、全体的傾向を調べるものなのです!」

なるほど、日心会場で行われている心理学が「全体的傾向」を調べる「ちゃんとした心理学」であることは分かった。しかし、なぜ「ちゃんとした心理学」は「(相対的な)全体的傾向」しか調べないのだろうか。「皆がこうする/こうしてしまう」という意味での全体的傾向を調べた方が便利そうな気がするが、そうしない理由が何かあるのだろうか。それに相対的傾向と言っても、それがちゃんと分かれば現実社会で大いに役に立ちそうである。マスをターゲットにしたマーケティングなど、十分に役立つ場面がありそうなのに、心理学が特に就職で有利でないのはなぜなのだろうか。

その数字は「エビデンス」なのか

話を少し戻したい。そう言えば吊り橋実験では、絵を見てストーリーを書いてもらっていたが、あれは何だったのだろうか。

実はあのストーリーも、男性がインタビュアー女性に対して感じた性的魅力の大きさを測るために書いてもらっていたのである。ストーリーに性交渉への言及があったら5点追加、キスが含まれていたら3点追加といった塩梅で、どれくらい性的な要素が含まれていたのか採点したのである。そうして吊り橋と頑丈橋の男性陣のストーリーを比べたら、吊り橋男性陣の方が平均点が高かった。つまりインタビュアー女性により強い性的魅力を感じていたことが、自作ストーリーからも示されていたのである。

果たしてそうだろうか。落ち着いて考えてみよう。ある男性が性的なストーリーを書いていたことは、彼がインタビュアー女性に性的魅力を感じていたことを意味するだろうか。そのストーリーは当該女性からの依頼で書いたものであり、ということは、その女性本人がストーリーを目にする可能性は高い。そのような場面で、心惹かれた相手に、敢えて性的なストーリーを書いて渡すものだろうか。何か変ではないだろうか。

心理学者に尋ねてみたら恐らく「それは2020年代の日本の常識で考えるからですよ」と答えることだろう。「論文が書かれたのは1970年代ですから、当時の常識では、それが普通だったんですよ、たぶん」。インタビュアー女性が魅力的なので、つい性的な妄想をしてしまい、それがストーリーに現れてしまった。当の女性がそのストーリーを読んで何を思うかなど、特に気にしなかった。それが当時の(男の)常識だった、といった辺りだろうか。

なるほどそうかもしれない。しかしそれでは、科学的なはずの研究に、研究者の常識や価値観といった主観が紛れ込んでいることにはならないだろうか。それに違う解釈も可能かもしれない。例えばこんなものはどうだろう。吊り橋を渡っている最中に「魅力的な女性」から声をかけられた男性たちは、ただただ性的興奮が高まっただけだった、という可能性である。興奮そのままに性的なストーリーを書き、興奮の収まらぬままデートのチャンスを求めて電話を掛けてきた。つまりその女性個人に魅力を感じていたわけではない。そう考えてもそれなりに筋が通った説明になっていそうである。

せっかくなのでこの解釈についても心理学者に尋ねてみよう。「自分みたいな素人がこんなこと言って失礼だとは思うんですが……」。頭ごなしに否定されるかとビクビクしていたあなたは、心理学者の目が輝き始めたことに気がつく。「その可能性もありますね」「ふむふむ」「あの実験、他に何かジュウゾクヘンスウきいてなかったっけ」。いつのまにかワラワラと他の心理学者たちが集まってきて、あなたそっちのけで議論を始める。「いやいや、その件はFoster et al. (1998)のメタ分析で決着ついてるんじゃないの」「いや、あれはあれでそうだけど、今の問題は1974年の論文の手続きなわけで」「なるほど?」「ところで実験3は何やってたっけ?」「待って、今ちょっとPDF探してる」

心理学者たちの楽しそうな様子を見つつ、あなたはひとつの気づきを得るだろう。なるほど心理学の世界では、有名な論文に書かれていることであっても、未だに議論の対象になりうるのか。それだけ難しい、とても深い学問分野なのだな。それだからこそ心理学者は「心理学を学んでも心は読めない」と謙遜するのかもしれないな、と。

その「定義」で大丈夫なのか

結局のところ、どういうことなのだろう。現在の心理学は、社会に出てから役に立つ、大学で真剣に学ぶに値する学問となっているのだろうか。さらに話を広げて、現在の心理学は社会の役に立っているのだろうか。難しい問いであり、安易な回答を示すべきでない問いでもある。告白すると、連載の最後までいっても、はっきりした回答を提示できるか、自信はない。それでも、この難問を扱っていく鍵が一つあると思うので、それを共有することで今回のまとめとしたい。それが「定義」の問題である。

冒頭で「私の履歴書」が名物コーナーに値するかどうかを判断するにあたって「長期にわたって続いていること」によって「名物コーナー」という概念を定義した。続く節では「日本国内の心理学者の人数」を「代表的な学会の会員数」で定義し、その「代表的な学会」を「それっぽい名前であること」で定義することで、約8000人という数字を得た。現代の主流の心理学(4)もまた、定義によってさまざまな概念を定めることでデータ(数字)を得て、それらの数字を分析した結果をもって学問的主張の根拠(エビデンス)としている。吊り橋実験における「電話を掛けてきた人数」や「自作ストーリーの採点結果」がそれである。専門用語ではこれらを心理的構成概念の操作的定義などと呼ぶ。

およそ学問と呼ばれる営みにおいて、語や概念の定義は極めて重要である。共通の定義なしには議論が成立しないからである。数量的なエビデンスを用いる学問において、定義の問題はそれに留まらない。定義が異なれば、得られる数字も変わってくるからである。例えば「それっぽい名前」という定義ゆえに代表的な学会とされた日本心理学会であるが、いわゆる心理カウンセリングの仕事をしている人の多くは、この学会には所属していない。心理カウンセラーの多くが所属するのは「日本心理臨床学会」であり、こちらの会員数は約3万人である。定義一つで数字が3倍以上変わってしまった。数字が大きく異なるだけでなく、その内実も大きく異なる。職業として心理学を実践している人々の多くが含まれない「日本心理学会の会員数」という定義が「日本にいる心理学者の人数」として妥当でないことは、もはや明らかである。ところが逆に、日本心理学会の会員の多くは日本心理臨床学会には所属しておらず、3万人という数字を採用することにも問題がある。

同じことが心理学研究における概念の定義にも言える。例えば吊り橋実験では、「電話を掛けてきた人数」をインタビュアー女性に感じた魅力度(心理的構成概念)の値として操作的に定義した。しかし似たような理屈で「電話番号を受け取った人数」を魅力度の数値として用いることも出来たかもしれない。相手に魅力を感じたからこそ、電話を掛けるチャンスを逃すまいと番号を受け取った、という理屈である。その場合、吊り橋で受け取ったのは18/23(78.2%)で、頑丈な橋では16/22(72.7%)だった。僅かに吊り橋のほうが多いが、それほど説得力のあるエビデンスではない。異なる定義を用いることで、同じ実験から得られる結論が変わりかねないことが分かる。

勘の良い読者はここで、「社会」で「役に立つ」といった概念もまた、定義を必要とすることに気づかれただろう。言うまでもなく「(心理学専攻の卒業生が)会社で良い成績を収める」と言うときの「良い成績」も、定義を待つ概念である。ここを丁寧に定めないと大変なことになるのは、安易な業績主義に苦しめられた経験を持つ人であれば納得していただけるだろう。他方で、それが言うほど容易な作業でないこともまた、周知のとおりである。「心理学は社会の役に立つのか」という問いが困難なものとなっている一因もここにある。

ところで、実は「成績」を定義して測ることは心理学における長年のテーマでもあり、その代表的な産物の一つが知能検査の開発である。それはつまり「ある個人の知的能力の程度」もまた、定義によって変化しうることを意味する。それほど大事な「定義」であるが、それがしばしば、定義を定める者にとっての「価値観」や「常識」を含んでしまう危うさを持つことは、「自作ストーリーに含まれる性的要素」という定義を通して、先にも見たところである。心理学で使うさまざまな「定義」が抱えるそうした諸々の難しさが、心理学者が「心理学は心を読むものではない」と奇妙にねじれた誇りを抱く理由の一端でもあり、心理学を修めることが会社での「圧倒的な成績」に繫がっていないことの背景にもあるのではないかと、筆者は睨んでいる。その理屈を説明するために、次回は、心理学で用いる概念がどれだけの危うさを抱えているか、より詳細に検討してみたい。

  1. 不思議とこの手の「勉強しなかった自慢」をするのは男性に偏っているように思われる。
  2. いわゆるTAT(Thematic Appreciation Test : 主題統覚検査)です。
  3. もちろん帰無仮説検定の結果も有意であった。
  4. これもまた定義の問題であることは言うまでもない。

文献

  • Dutton, D. G., & Aron, A. P. (1974). Some evidence for heightened sexual attraction under conditions of high anxiety. Journal of Personality and Social Psychology, 30(4), 510–517. https://doi.org/10.1037/h0037031
  • Foster, C. A., Witcher, B. S., Campbell, W. K., & Green, J. D. (1998). Arousal and attraction: Evidence for automatic and controlled processes. Journal of Personality and Social Psychology, 74(1), 86–101. https://doi.org/10.1037/0022-3514.74.1.86