はじめに
現在ほど、生物多様性の重要性が注目されている時代はありません。本連載では「なぜ人は自然を守りたいのか?」という疑問に、生物多様性の恩恵(生態系サービス)と気持ちの両面から答えようと試みます。皆さんご存知のように、世の中には、生物多様性に関する書籍・文章はすでにたくさん発表されています。その中で、あえて私の文章を皆さんに読んでもらう価値があるものにするにはどんな内容にしたらいいだろうか、ということをまず考えました。大海に投じるべき一石はなんだろう、ということです。
いろいろ考えた結果、ちょっと変わった問題に挑戦することにしました。その問題とは、気持ちの面からも、生物多様性の価値を考えてみようというものです。なぜ、気持ちか。それは、生物多様性と人間社会の未来を考える時には、私たちの気持ちを抜きにしては語れないと私は思うからです。
ここ数年、世界が生物多様性の保全や再生に向けてどんどん進展しています。その理由は、人間活動が自然環境を毀損していること、そしてその結果、自然がもたらす膨大な恩恵が失われることに気づき始めたからです。生物多様性やそれを取り巻く物理環境は、綺麗な水や空気、安定した気候、美味しい魚介類など計り知れない経済的利益を人間に与えてくれます。しかし、私たちは、都市を拡大させたり食料や木材のために森林を破壊するなどして自然にさまざまな悪影響を与えることで、この経済的利益を失いつつあります。私たちがこの利益を受けながら持続的に発展するためには、生物多様性を守り再生する必要があるのです。
しかし生物多様性の価値やその保全は、経済的利益だけで語ることはできません。世の中には、自然を守るために自主的に活動している人が沢山います。自分の住む地域・大切に思う地域の里山・草原・湿地を守るため、貴重な余暇の時間を使って、時には私財をなげうって活動しています。そういった人たちに「なぜ自然を守るための活動をしているのですか?」と聞いてみるとします。色々な回答があると思いますが、根底にあるのは「自然が好き」という気持ちなはずです。経済的利益があるから、という答えはほとんどないでしょう。里山・草原・湿地の生物多様性は、さまざまな経済的・物質的な利益を生み出すことがわかっています。しかし、それはそこを管理して保全する人たちに直接還元されるわけではありません。生物多様性を守るために活動している人の多くは、自分に経済的・物質的な利益があるから活動しているわけではないのです。こういった自然が好きという気持ちは、実際の保全活動を支えるうえではきわめて重要ですが、企業・行政が主体となった最近の生物多様性保全の潮流にはうまく組み込まれていません。
生物多様性の保全を考えるうえで「自然が好き」という気持ちを考慮することが大事な理由。それは、生物多様性の保全に関わる専門家のモチベーションからも明らかです。大学や研究機関の研究者、保全に関わる実務家など、公私ともに生物多様性にドップリつかった多くの専門家がいます。こういった人たちに「なぜ生物多様性を守ることが大事なのですか?」と質問してみてください。こういった質問には慣れっこなので、生物多様性がなぜ社会に必要なのか、その理由を経済的利益も含めわかりやすく説明してくれることでしょう。次に「なぜ“あなた”は生物多様性に関わる仕事をしているのですか?」と聞いてみてください。生物多様性が人間社会に大きな経済的利益をもたらしてくれるからこの分野を仕事にしている、と答える人は少ないはずです。おそらく、少し気恥ずかしそうに「生き物や自然が好きだから」と答えるでしょう。つまり、生物多様性保全研究の専門家が最前線にいる理由の多くは、生物多様性が大きな利益を生むからではなく、自然が好きだという気持ちからなのです。
こんなふうに、生物多様性保全には経済的利益だけでなく、人の気持ちが大きく関わっているのです。気持ちが関わる生物多様性の恵みにも多様なものがあります。たとえば、人間は、自然によって強く気持ちが揺り動かされます。静かな湖畔に身を置くと、鏡のような水面と同じように心の平穏を感じます。夜明け時、海の水面が太陽の光に照らされて輝き始めるのをみると、なぜか強い希望を感じます。仕事で疲れ果てたとき、公園の新緑が目に入ると無性にホッとします。動植物をモチーフにした魅力的なデザインは、私たちの生活に溢れています。食文化も人間の気持ちの産物と言えるでしょう。人間が生物多様性に与える影響、人間が生物多様性から受ける経済的・心理的な恩恵、そして人間自身の気持ち。この3つを同じ枠組みで考えて、人間と生物多様性の関係を多くの人にわかりやすい形で示すのが本連載の目標です。
この目標のために、私の専門とする生態学と進化学のチカラを借ります。生態学と進化学は、(人間も含む)複雑な自然のありようと、複雑な自然が生まれたプロセスを解明しようとする学問です。生態と進化、この2つのレンズを使って、生物多様性をめぐる私たちと自然の関係を整理します。
本連載は、人間と自然との関係に興味がある人に向けて書かれています。生態学を学びたい人、仕事として自然に関わることになった人、それから自然が好きで自然を守りたい人。色々な方に読んでもらい、生物多様性の未来を一緒に考えてもらいたいのです。皆さんと一緒に、自然に対する人間活動の影響、自然からの経済的・心理的な恩恵、自然への気持ち、を生態学・進化学の観点から整理して、生物多様性保全を巡る全体像を展望したいと思っています。
連載第1回目は、生物多様性保全において、気持ち「も」考慮することの大事さを議論してみようと思います。
主流化する生物多様性
「生物多様性(Biodiversity)」という言葉は、私たちが関わっている自然の複雑さを端的にあらわす言葉です。生物多様性は、生物の種類が多様であることを意味するだけではありません。この概念は、さまざまな生物種の多様性だけでなく、それらが相互に関連し合って形成する生態系の複雑さをも示しています。さらに、ある1種の生物の中に多様な性質をもった個体がいる種内の遺伝的多様性も意味しています。自然には階層性があり、どの階層でも多様性がありうるということですね。
生物多様性という言葉の歴史は比較的新しく、1980年代に普及し始めました。世界的に広く知られるようになったきっかけは、1992年に開催された地球サミット(国連環境開発会議)において、生物多様性条約が採択されたことです。この条約は、生物多様性の保全、持続可能な利用、そして遺伝資源の利益共有を三つの主要な目標として設定しています。これ以降、生物多様性は国際的な環境政策の重要な議題となり、世界各国がその保全と持続可能な利用に取り組むようになりました。
日本で生物多様性という言葉が普及した1つのきっかけは、2010年10月に愛知県名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)だと思われます。たとえば、Google TrendsというGoogleで特定の単語がどれくらい検索されたかを調べることができるウェブツールで生物多様性を調べてみると、2010年10月に最大のピークがあるのがわかります(図1)。多くの日本人が愛知で開かれたCOP10をきっかけに生物多様性というワードを検索したようです。
図1 生物多様性の検索量の変化(Google Trendsによる)
国際機関や政府など「官」の動きに加え、最近では企業・経済界など「民」も生物多様性の保全や持続可能な利用に取り組み始めています。2023年に公開された経団連企業会員に行ったアンケートでは、回答のあった326社のうち7割近くの企業で、生物多様性を扱う部署を設置したと回答しています(1)。農林水産業や食品産業など自然資源と関連の深い企業だけでなく、IT、機械、エネルギー企業など一見すると生物多様性と関連のなさそうな企業もこぞって対策に乗り出しています。民間企業が、生物多様性に対して熱心に取り組むようになるなんて、10年前には全く予想もできませんでした。
民間企業の取り組みが加速度的に進んでいることを示すエピソードがあります。私は、千葉大学の2年生を対象とした講義で、企業が環境課題に取り組んでいることを実感してもらうために、簡単なオンライン調査を行っています。各学生に『興味のある企業名+生物多様性』で検索してもらい、興味のある企業が生物多様性に取り組んでいることを開示するウェブページがあったかどうかを調べてもらうのです。2022年の講義では、約80人の受講者のうち30人くらいしか生物多様性への取り組みページを見つけることができませんでした。しかし、たった2年後、2024年の講義では全員が何らかの生物多様性への取り組みページを見つけることができたのです。ここ数年で、生物多様性がビジネスにおいても重要な課題として認識されるようになったことを示しています。
行政と民間企業の双方の潮流によって、生物多様性という言葉や課題は一般の人々にも知れ渡るようになってきました。たとえば、2009年の内閣府による世論調査では生物多様性という言葉の意味を知っている人の割合は12.8%だったのに対して、2022年の調査では29.4%まで上昇しています(図2)。生物多様性は、多くの人が認識する環境課題として主流化していることがわかります。
図2 生物多様性の認知度の変化(横軸各年の内閣府「生物多様性に関する世論調査」「環境問題に対する世論調査」にもとづいてグラフを作成)
生物多様性からの恩恵
官と民の両方が生物多様性に大注目している理由は、私たちの生活・経済・社会が生物多様性から莫大な経済的利益を受けていることがわかってきたからです。この生物多様性由来の恩恵を、「生態系サービス」といいます。たとえば、私たちが快適な気候で過ごすことができるのは、森林が持つ気候を安定化させる働きによるものです。大雨が降っても洪水になりにくいのは、無数の植物が根を土中に張り巡らせ、土壌動物と植物の遺骸が織りなす土壌が水を保持しているからです。私たちが食べている果物や野菜の多くは、ハエ・カメムシ・ハチの仲間が花粉を運ぶことで生産を助けています。店先に並ぶ魚介類のほとんどは自然がはぐくんだ野生個体なので、生物多様性をそのまま食べていると言えます。また、世界中の綺麗な水は豊かな生態系がなければ利用することができません。そして綺麗な水は、私たちの飲料水から半導体の製造まで、世界中の人間にとって必要不可欠です。
図3 さまざまな生態系サービス(環境省によるTEEB報告書普及啓発用パンフレット『価値ある自然』 3ページより引用)
図3に生態系サービスの分類をまとめています(この分類は、TEEB=生態系と生物多様性の経済学のプロジェクトにもとづくものです(2))。これを見てもわかるように、生物多様性からの恩恵は非常に多岐にわたっていて、私たちのすべてを支えているといっても過言ではありません。生態系サービスの中には、食料や資源を供給する、水を浄化する、災害を抑制するなどお金に換算しやすい恩恵があります。お金に換算しやすい生態系サービスがどれくらいあるのか、金銭的価値を計算した研究はいくつかありますが、世界全体で少なくとも年間2300~8000兆円(16~54兆ドル)と推計されています(3)。昆虫が持つ送粉サービス(花粉を運ぶことで農産物の生産を助ける恩恵)だけに限ってみても、世界全体で23.7兆円(4)、日本だけでも4700億円/年です(5)。もっと限定して、夜の空を飛び回るコウモリだけの経済的利益を試算した研究もあります。コウモリは農作物の害虫を食べてくれる動物で、その経済的価値はアメリカの綿花畑だけで226億ドル/年と試算されています(6)。生物多様性はまさに、莫大な経済的利益をもたらしていると言えます。
この膨大な恩恵を生む生物多様性が、いま、失われつつあるのです。人間が社会や経済を発展させるために地球環境を改変することで、地球規模で生物多様性が失われています。たとえば、WWF(世界自然保護基金)とZSL(ロンドン動物学協会)が公表している自然と生物多様性の健全性を測る指標「生きている地球指数」が、1970年と比べて73%減少しています(この指数は、地球全体の脊椎動物の個体数データに基づくものです)(7)。他にもさまざまなデータと計算方法を使って生物多様性の変化が推定されていますが、どの研究でも一貫して生物多様性が激減していることを示しています。
当たり前ですが、生物多様性が失われれば生物多様性からの恩恵は減少し、私たちの生活が劣化します。これは身近な例で考えてもらうのがいいかもしれません。日本は四方を豊かで多様な海洋生態系に囲まれ、古くからいろいろな魚介類を利用した食文化が培われてきました。これは、海洋生態系の生態系サービスそのものです。しかし、沿岸や遠洋の海洋生態系が劣化し、生物多様性が失われることで魚介類が手に入りにくくなり、日本各地の食文化が危機に瀕しています。ニホンウナギは絶滅危惧種に指定され、長い歴史のあるウナギの蒲焼きを心の底から楽しみにくくなりました。アサリは日本の干潟から消えてしまいつつあるので、何度も産地偽装事件を引き起こしています。庶民の味方と言われたサンマの漁獲量は、もうずっと減少し続けて、もはや庶民の味ではなくなりつつあります。私たちが食べる魚介類のほとんどが野生個体、あるいは野生個体を食べて育った養殖個体です。漁業は生態系サービスへの依存度が非常に高いので、生物多様性劣化の「炭鉱のカナリア」的な産業と言えるかもしれません。生物多様性の劣化が止まらなければ、漁業と同じように私たちの社会や生活のさまざまな側面が、少しずつ、でも確実に劣化していくでしょう。
生態学が解明した複雑さ
人間が生物多様性から多くの恩恵を受けているならば、恩恵をもたらす生物だけを保全したり増やしたりすればいいのでしょうか。いいえ、それではダメなのです。生態学のこれまで数十年の研究の中で、生物多様性と生態系サービスの関係はかなり複雑であるということがわかってきました。
たとえば、生態系サービスは、数種の「役に立つ」生物がいれば生まれるというものではありません。さまざまな異なる生物がいて、それらが複雑に影響を与えあえる安定した「場」があって初めて生まれるのです。たとえば、農作物の送粉サービスを考えてみましょう。昔話にも登場する日本の重要な農産物であるカキとクリ。この2種は大体同じ時期に開花し、関東では5月末~6月です。しかし、この2種の受粉には異なる種類の虫が必要です。カキの花をよく訪れるのはマルハナバチやミツバチの仲間ですが、クリの花にはハナムグリやハエの仲間が訪れます。植物の花の性質(色・匂い・形)は訪問する虫に適合しているので、“仲のいい”虫たちがいないと効率よく受粉できないのです。これは、花と花を訪れる虫との相利共生の長い進化の歴史を反映しています。そして、これらカキやクリの生産にとって重要なハチやハナムグリ、ハエの仲間が生き延びるためには、カキやクリの花だけでは不十分です。カキやクリが開花していない1年の大部分の期間を通して虫の餌、住みか、避難所となるたくさんの草花が生えている必要があります。このように、人間の役に立つ生物が存在するためには、直接には人間の役に立たない膨大な生物が必須なのです。生物多様性が高ければ高いほど、生態系サービスが増加することもあります。たとえば、ある範囲に生えている植物の種類が増えれば増えるほど、その範囲全体の一次生産量(光合成によって二酸化炭素からできる有機物の量)が増加することが世界中の草原を模した実験で報告されています(8)。光合成によって生成された有機物は食物網を通じて他の生物に利用されるため、一次生産量は生態系全体の生物多様性に影響を与える重要な指標です。
異なる生態系は、行き来する生物を介して密接に結びついているため、ある特定の場所だけの保全では不十分であることもわかってきました。たとえば、秋になると海から河川を遡上する大量のサケは、森に生息するクマの冬眠前の重要な餌となります。さらに、クマは食べ残した死骸を河岸に残すことでサケの栄養分を河川から陸域に運ぶ媒介者となり、河岸の肉食動物に越冬前の貴重な餌をもたらすのです。トガリネズミ、ミンク、コヨーテからハクトウワシ、フクロウに至るまで、80種以上の陸上脊椎動物がおそらくクマの食べ残しのサケを食べていると推定されています(9)。この場合、豊かな森林の生態系は、サケが成熟できる豊かな生物多様性を持つ海の生態系と、サケが遡上できる健全な河川生態系と繫がっていて初めて成立します。森林生態系からの経済的利益を受けたいからと言って、森林だけを守っても上手くいかないというわけです。
しかし、生態学・進化学の最も大事な成果は、「実は人類は生物多様性やそれが生み出す生態系サービスをほとんど理解していない」ということを示したことかもしれません。日本のカキの花の受粉にマルハナバチの仲間が重要な役割を果たしていることをきちんと示した論文が出版されたのは、なんと2022年です(10)。カキの農産物としての重要性や歴史の長さを考えると、少しびっくりします。他にも、送粉者がきちんとわかっていない農産物は意外とたくさんあります。また、植物種の多様性が増えれば増えるほど一次生産量が高まる理由は実はまだよくわかっていません。持続的な農業のためには土壌微生物を含む豊かな土壌生態系が必要だとして世界中の企業が投資・研究開発を進めていますが、農地の土壌に生息する数千・数万種の微生物が何をしているのか、未だにほとんど謎です。世界中の研究者が、今まさにその理由を解き明かそうとしているところです。
このように、生物多様性や生態系サービスは、私たちが想像するよりもはるかに複雑で込み入っていて謎だらけです。ただし、謎だらけであったとしても、私たちの社会や経済が生態系サービスに大きく依存しているのは、確かなことです。そして、私たちは社会や経済を発展させるために、この謎だらけの生物多様性を破壊して、そこから生まれる経済的利益をどんどん減らしています。
この状況は、冷静に考えてみると恐ろしいかもしれません。こんなSF的な寓話を想像してみてください。ある生物が、宇宙船の中に住んでいます。この宇宙船は、その生物には理解できない未知の超技術の結晶です。食べ物は自動で供給され、空気も水も循環して再生し、温度や日照量を適度に保つ素晴らしい技術の恩恵を受けています。とても快適ですが、この生物はこの快適さがどこから来ているか知りませんでした。この生物は、快適さをより追求するうちに、あるいは競争心や見栄から、宇宙船を徐々に分解し始め、部品を集めるようになりました。それらの部品を使って新しい道具を作れば、より豊かな生活が手に入ると信じていたのです。宇宙船は余裕をもって設計されていたため、初めのうちは部品が失われても大きな問題は起きませんでした。しかも、一部の部品には再生能力もあります。しかし、彼らの欲望は尽きることがありませんでした。結果として宇宙船は徐々に、しかし確実に毀損されていったのです。そしてある時、食料の供給が減り始め、空気と水の質も低下しました。宇宙船の部品を集めすぎて船内環境が悪くなりすぎたのです。彼らは、本末転倒ですが、宇宙船の部品を使って効率の悪い環境浄化装置を作らざるを得なくなりました。さてこの知的生物の運命やいかに……。
と、質の悪いSF的寓話はこれくらいにします。この寓話は、生物多様性を保全することの重要性としてよく例えられてきた、飛行機とリベットの話を元にしています。飛行機は大小さまざまな部品から構成され、人間を乗せ空を飛ぶという働きをしています。飛行機の機体から小さな部品が抜け落ちても、抜け落ちる部品が少なかったり冗長性のある場所なら直ちに問題はありません。しかし、抜け落ちる数が増え続けるといずれ機体が壊れ、飛行機は墜落してしまいます。生物種を部品に、生物多様性を飛行機に例えて、1種が絶滅しても飛行機は墜落しないけれど、絶滅が続けばいつか必ず墜落するよ、という寓話です。
私は、生物多様性が失われることの例えは、飛行機より未知の超技術宇宙船の方がいいのではないかと思います。飛行機ならば各部品がどんな働きをしているかわかっています。どの部品を失うと特に危険性が高いかもわかっていますし、失われる部品の数と墜落確率の関係もだいたい推定できるはずです。そして、飛行機なら部品をなくしても修理が可能です。しかし、私たちが依存する生物多様性は飛行機よりもはるかに複雑で、私たちはその働きの全体像を全く把握できていません。なにより、絶滅させてしまった種は二度と復活できません。私たちは飛行機に乗っているのではなく、未知の超技術宇宙船に乗っている。そんなふうに思えてきませんか?
世界中で生物多様性に関わる研究が行われ、その成果が丁寧にまとめられ概要が広く周知されたおかげで、私たちの社会・経済的発展と生物多様性の関係性が広く認識されるようになりました。「私たちの発展は、とてつもなく複雑で謎に包まれた生物多様性の利益に支えられてきた。そして、発展によって生物多様性の利益を失いつつある。生物多様性の経済的利益を失うと、この先の持続的な発展は危うくなる」。この認識が世界各国の政府や経済界に広まったことが、現在の世界的な生物多様性の保全・再生の原動力になっているのです。
少し置き去りにされる「気持ち」
生物多様性からの膨大な利益をこれからも受け続けるために、生物多様性を保全・再生しよう。こういった物質的・経済的利益に基づく説明は、多くの人を説得する力があります。特に、経済的利益を上げることを目的とする民間企業が生物多様性の保全に参画するためには、必要なロジックです。
一方で、生物多様性からの恩恵には、経済的利益として評価しにくい、人間の気持ちに関わるものも多く含まれます。たとえば、自然の中にいることで得られる精神的な癒しや、自然を見て美しいと思う気持ちには、計り知れない価値があります。また、自然や生き物は創作活動のインスピレーションにもなります。地球環境や動植物をモチーフにしたアニメやマンガ、小説は、生物多様性がなければ存在することはなかったでしょう。自然の中でさまざまな体験をすることは、特に幼少期において重要な教育活動とみなされています。世界中の大木や大きな岩は霊的な感動を与え、宗教的・歴史的価値をもたらしています。私たちがフグやウニやウナギに高いお金を払うのは、それに高い価値を認める食文化の中で生きているからです。
これら、人間の気持ちが関わる生態系サービスは、「文化的サービス」と呼ばれています。文化的サービスの一部は、経済的利益として評価することができます。たとえば、自然を楽しみたいという気持ちの一部は、釣りやキャンプなどのアウトドア市場の規模で測ることができます。また、自然が持つ癒しの効果も、近年行政や経済界から大きな注目を浴びています。都会の自然が、住民や労働者のメンタルヘルスの改善、生活や仕事の満足感に大きく関わることがわかってきたからです。これらは経済的・医学的な利益に換算できる文化的サービスです。しかし、その他多くの文化的サービスは明確に計測することができません。そのため、最近の生物多様性保全の文脈からは少し置き去りにされています。
さらに、生物多様性が主流化していく中で、完全に忘れ去られているなと感じるものがあります。それは「自然が好き」というシンプルな気持ちです。自然が好きという気持ちこそが、生物多様性保全に関わる人たちの大きなモチベーションになっているのに、行政や経済界の取り組みの中に組み入れられていません。私は生態系サービスの中で経済的に定量化しやすい恩恵だけでなく、定量化できない・しにくい文化的サービス、さらには個々人の自然に対する気持ちも、生物多様性と人間社会の関係を構築するうえで重要だと思っています。
目指すところ――恩恵と気持ちをつなげる
生物多様性がもたらす膨大な恩恵を解明し経済的・非経済的価値を整理すること。自然や生物多様性に関わるいろいろな人の気持ちを理解すること。どちらも、人間と生物多様性の関係をより良くするために、必要だと思います。でも、現状、この2つはあまりつながっていません。私は、この連載を通して、この2つのトピックを少しでもつなげたいと思っています。
あまり関連していない2つのトピックをつなげるためには、共通言語が必要です。この連載では、私が専門とする生態学・進化学の知見と考え方を共通言語として使っていきます。もちろん、生物多様性がもつ人間社会への恩恵は大切です。しかし、人間社会から生物多様性に与えてきた負の影響もきちんと理解しなければなりません。そのために、歴史的に地球環境に非常に大きな影響を与えてきた都市と農地というふたつの場所に注目します。人間はその歴史を通して、地球規模で自然生態系を都市や農地に改変してきました。都市や農地は人類の社会・経済を支える大事な場所である一方で、その影響は甚大です。まずは都市、そして農地で、人間が受けている恩恵と人間が与えてきた影響を生態と進化の観点から整理します。都市や農地とその周辺には多様な生物が生息していて、多様な生態系サービスを生んでいます。このサービスには、自然からの癒しやレクリエーションという気持ちに関連したサービスが含まれます。都市や農地が頼ってきた生態系サービス・失いつつある生態系サービスを議論します。
最後は自然に対する気持ちです。人間は、自然や特定の生物に対してさまざまな気持ちを持っています。癒し・親しみ・幸福・恐怖・畏れ・嫌悪・悲しみ。このような気持ちは、社会や経済を通して、自然との触れ合いを通して、また保全活動を通して、生物多様性に影響するはずです。可愛い・怖い・気持ち悪い。そういった人間の気持ちが生物多様性の保全に与える影響を考えてみます。さらに、人間が持っている自然への気持ち自体も、進化の産物かもしれません。ここでは進化心理学で得られた知見やアプローチを援用します。つまり、自然に対して私たちが持っている気持ちの一部は、過去、人間が生き延びるうえで何らかの生態学的役割を果たしてきたという考え方です。たとえば、人間が特定の自然を好ましい・好ましくない、と思う気持ちには進化的な理由があるのでは?という発想です。なんとも挑戦的ですね。
このように本連載は生態学・進化学の視点から、「なぜ人は自然を守りたいのか?」という疑問に、生物多様性の恩恵と気持ちの両面から答えようと試みます。この試みは、上手くいく部分も、上手くいかない部分もあるでしょう。なぜなら、当たり前ですが、生態学・進化学だけが生物多様性の恩恵と気持ちをつなぐ唯一の方法ではないからです。学問の数だけ、考え方やアプローチがあります。この連載では、私が専門とする生態学・進化学という生物学の一分野をベースとして、生物多様性と人間の気持ちをつなぐ細い橋を架けてみます。他のさまざまな学問から架けられた橋と紡ぎ合わされることで、細い橋が強固になり、多角的・重層的に人間と自然との関係が理解されていくことを期待しています。
次回の記事では、生態学や進化学を解説します。そもそも生態学・進化学とはどんな学問でどんな考え方をするのか、生態学や進化学は生物多様性をどのように理解し、その保全や再生にどのように役に立ってきたのかということを解説します。楽しみにしてください。
注
- 「企業の生物多様性への取組に関するアンケート調査結果概要〈2022年度調査〉」https://www.keidanren.or.jp/policy/2023/087.html
- 環境省によるTEEB報告書普及啓発用パンフレット『価値ある自然』 https://www.biodic.go.jp/biodiversity/about/library/TEEB_pamphlet.html
- Costanza, R., d'Arge, R., de Groot, R. et al., “The value of the world's ecosystem services and natural capital,” Nature 387, 253–260 (1997).
- Gallai, N., Salles, J-M., Settele, J., Vaissière, B. E., “Economic valuation of the vulnerability of world agriculture confronted with pollinator decline,” Ecological Economics, 68(3), 810-821(2009).
- 小沼、大久保、「日本における送粉サービスの価値評価」、日本生態学会誌 65(3), 217-226(2015).
- Boyles, J. G. et al., “Economic Importance of Bats in Agriculture,” Science 332,41-42(2011).
- Living Planet Index, World, https://ourworldindata.org/grapher/global-living-planet-index
- Tilman, D., Isbell, F., Cowles, J. M., “Biodiversity and Ecosystem Functioning,” Annu. Rev. Ecol. Evol. Syst. 45, pp.471-493(2014).
- Levi et al., “Community Ecology and Conservation of Bear-Salmon Ecosystems,” Front. Ecol. Evol. 8(2020).
- Kamo, T., Nikkeshi, A., Inoue, H. et al., “Pollinators of Oriental persimmon in Japan,” Appl Entomol Zool , 57, 237–248 (2022).
過去の連載記事
(なぜ人は自然を守りたいのか?)生物多様性を腑分けする
2024年12月2日