グレン・グールドが日本を訪れることはなかった。31歳で演奏会活動をやめていたし、20代なかば以降は飛行機に乗ることも拒んでいたからだ。そもそも60年前の世界は今よりはるかに大きく感じられていた。しかし、グレンが名ピアニストであるばかりか、第一級の音楽思想家であることを早くから認め、あの見事な演奏に劣らず、その思想にも考察する価値を見出していた国は、日本だったのである。
『グレン・グールド著作集』(The Glenn Gould Reader)は、1982年10月4日にグレンが没してから数ヶ月のうちにまとめられた。私たち友人や関係者がひどい衝撃に見舞われていた時期だが、この私たちは、グレンの大胆さ、独創性、知性、そして喜びを捉えた本を出したいと考えた。彼の言葉が生き続け、その演奏同様に、未来の世代に語りかけてくれることが大切だと思えたからだ。
1982年8月、バッハの《ゴルトベルク変奏曲》の新しいスタジオ録音についてインタヴューするためにグレンのもとを訪れると、彼はコンパクト・ディスクの試作品を見せてくれた。そこに収録されていたのは彼の録音ではなかったが、日本で作られた新しいメディアであり、数ヶ月後に世界に向けて商品化されるという。新しい玩具を手にした子どものように嬉しそうだった。彼の新しい〝グールドベルク〞がCD時代に最初の成功を収めるクラシック音楽になることを知っていたら、いっそう喜んだと思う。
それから長い年月を経た今日、日本の読者の皆さんにご挨拶ができることを私は光栄に思う。私の友人である宮澤淳一氏の訳業によってみすず書房より出版される『著作集』の新しい日本語版は、今日の読者にグレンの言葉をいっそうわかりやすく伝えてくれるはずだ。
グールドが生きていれば、90歳を越えている。彼が没してから40年以上が過ぎたが、これまでに起こった大きな変化の数々を彼はどのように受けとめたであろうか――。いずれにせよ、彼の音楽と思想は今も生きている。そして私たちを魅了し続けるのだ。
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