リベラルについては、批判する側に回っておくほうがウケが良いという空気を感じる。リベラリズムを擁護する側も、なにかと留保をつけがちで歯切れが悪い。しかしリベラリズムは、立憲主義をはじめとする近代社会の骨格でもある。リベラルを一掃したい人びとは、ではいったいどんな社会を作りたいのだろう。
本書は交通事故にゆるやかになぞらえて構成されている。快調に車を運転していたリベラルがピンチに陥る。向こうから逆走車がどんどんやってくるのだ。それとも、ここは一方通行路なのか? やがて衝突事故を起こしてむち打ち症になってしまう。これに懲りて「シュクラーの地図」を広げ、新しいルートを検索する。そしてひとまずどこかにたどりついたものの、そこはまだ目的地ではなかった――。
ここには著者ミュラーのユーモアのセンスが表れているが、本書の主張は真剣かつ辛辣で、いい加減なリベラル攻撃はもう終わりにするべきだと言っている。そこで指針となっているのが、ジュディス・シュクラーが1989年に公刊した論文 「恐怖のリベラリズム」である。これは、身体的・精神的な残虐さの恐怖に人びとをさらす権力を注視し、そうした恐怖の低減をリベラリズムの基礎に置く思想である。とても平凡に見える思想だが、独裁主義者でもなければ、ほとんどの人が同意しうる一点に依拠している。
本書は2019年にドイツで初版が刊行され、翌年、シュクラー論文を併録したフランス語版が刊行された。このフランス語版に倣って、日本語版にも同論文を収めた。シュクラーへの注目は折に触れて更新されてきた印象はあるが、本書のような形で光が当てられるのはとても新鮮な感じがする。先述した交通事故ストーリーは目的地にはたどり着かないまま終わっている。というのは、「恐怖のリベラリズム」が書かれた当時の状況と今の状況との違いを踏まえて、それを手直ししなければならないからである。回顧的な再評価などではなく、未来に向けてシュクラーを参照しようということだ。――さて、どうするか。自分なりの試行錯誤を始めてみたいと思う。