みすず書房

新刊紹介

「彼らは私たちである」――新自由主義下の困難を乗り越える視点

2024年11月18日

黒羽夏彦

本書の著者・魏明毅の本職は心理カウンセラーである。精力的にカウンセリングに臨む日々のなかで、どれほど面談を重ねてもクライアントが増えつづける状況に、著者は限界を感じるようになる。一人ひとりのクライアントに向き合うだけでなく、そもそも彼/彼女に心理的な葛藤を引き起こす社会の構造的問題のほうに目を向ける必要があるのではないか。そう考えた著者は、仕事を辞めて大学院に入り直し、新たに人類学を学びはじめる。

台湾北部の港湾都市・(キー)(ルン)をフィールドとして、現地の埠頭労働者を対象に2009年から2010年にかけてフィールドワークをおこない、民族誌的な手法で書き上げたのが本書『静かな基隆港』(原書『静寂工人:碼頭的日與夜』台北:游撃文化)である(1)。2016年に上梓されると、丹念な聞き取りによって港湾労働者たちの経験を再構成し、社会の主流から置き去りにされた人々の生を語り出した書として評価され、翌年には台湾で最も栄誉ある文学賞とされる金鼎獎(第41回)および台北国際ブックフェア大獎(非小説部門)を受賞した。また昨年には、本書を書き終えて再びカウンセラーの仕事に戻ってからの経験や思索を綴ったエッセイ『受苦的倒影:一個苦難工作者的田野備忘錄』(台北:春山出版、2003年)を出版し、Openbook好書獎「年度生活書」を受賞している。

1 基隆港湾労働現場の文化的特殊性――「ガウ」と「仲間文化」

もともと台湾中部の山間部に位置する南投県で働いていた著者にとって、基隆はまったく馴染みのない街であった。それにもかかわらず、なぜ基隆をフィールドに選んだのか? その理由の一つは、この港街における男性自殺率の高さであった。台湾全土で見ても突出しているその数字の背景にはどういった事情があるのか? そうした問題意識を抱えてフィールドに足を踏み入れた著者は、調査を進めるうちに、基隆の港湾労働者に特有の感情的ネットワークと、土地の文化に内在する強力な性規範の存在を徐々に察知していく。

本書の民族誌としての特色は、港湾労働者たちの行動を動機づける文化的要因として、現地社会に特有の「ガウ」(gâu)という価値観を析出した点にある。ここでいう「文化」とは人類学的な概念で、ある集団において後天的に構築された価値観の体系として解される。「ガウ」は台湾語で「能力がある」という意味で、そうした能力を持ち合わせた者を「ガウ・ラン」(gâu lâng)という(本訳書では「できるやつ」と訳した)。つまり、男としての頼もしさに自己肯定感を求める、一種の男性優位主義的な価値観である。港湾という男社会で生きる労働者たちのあいだでは、この「ガウ」をいかに誇示するかが競われていた。

こうした労働者の大半は故郷を離れて基隆へ流れ込んできた「よそ者」であり、必ずしも地元社会に根差した人間関係を持っているわけではなかった。現地の一般的な市民生活とは隔絶した港湾という場所に留まり、昼夜を問わず働く彼らにとって、社交の場となったのが「茶屋」であった(2)。「茶屋」(原語:茶館)とは、台湾社会においては一般的には字義通り「お茶を飲む場所」をいうが、さまざまなタイプがあり、本書においては基本的に女性従業員がサービスをおこなう業態の店を指している(日本におけるスナックやキャバクラに近い)。

労働者たちは、二十四時間体制で船の入港に備える待ち時間や終業後に連れ立って茶屋に通い、人間関係を広げていった。茶屋で男たちを迎えるホステス((アー)(イー))と労働者たちとの関係性は、当初は金銭を介した店と顧客の関係にすぎなかったが、付き合いを積み重ねていくうちに独特の仲間意識が芽生えていった。港湾労働者とその同僚、(アー)(イーの三者のあいだに築かれたこうした感情的な結びつきを、著者は「仲間文化」(原語:伴文化)と呼ぶ。こうした人間関係が彼らの社会生活にとってかけがえのない基盤となっていたさまが、一書をとおして描かれている。

「ガウ」であること、つまり「男らしさ」を求める現地社会の文化と、港湾労働者の特殊な労働形態やバックグラウンドによって生み出された「仲間文化」。著者はこの二つを分析軸として、国際観光都市へと変貌を遂げつつあるこの街のはでやかな現状とは裏腹に、自殺を選び取る男性たちの心理について、理解を試みていく。

2 基隆港湾の歴史

本書の舞台となる基隆という街について、その名を耳にしたことのある読者は少なくないかもしれないが、やはり説明しておく必要があるだろう。以下では、歴史的背景に目配りをしつつ、港湾労働にかかわる部分に重点を置いてその変遷を概観していこう。

「基隆」と聞けば、台湾の人々はみな雨を連想するという。台湾北東部の海岸線沿い、海が陸地に深く入り込んだ部分に、基隆は位置している。三方を山に囲まれ、居住に適した平地は少ない。10月から4月にかけて北東から吹き込む季節風が、南から北へと流れる黒潮とぶつかり合って雨雲を発生させ、これが基隆を囲む山々に遮られて、この街に雨を降らせる。年間200日以上は雨天であるといわれ、それゆえ基隆は「雨都」「雨港」の別称をもつ。降雨により屋外での活動が制限されるうえ、屋内の空間にも限りがあるため、人々は密集して生活している。こうした生活環境は、この土地で暮らす人々にも当然影響を及ぼす。こうした基隆の気候的特性を念頭に置くことが、まずは本書を読むにあたっての前提となるだろう。

基隆は旧称を「(ジー)(ロン)」といい、天然の良港として古くから重視されてきた。港の開発に牽引される形で、この街は発展してきたのである。17世紀以降、スペイン人やオランダ人が拠点を築いたこともあったが、清朝統治下の1863年に開港地となった。台湾巡撫として赴任した劉銘傳は近代化政策を試みるなか、この港の重要性に着目して築港工事を開始した。

港湾建設が本格化したのは、その後の日本の植民地統治下においてであった。日清戦争を経て、1895年に台湾が清から日本へ割譲されると、同年5月末には台湾接収のために派遣された日本軍が台湾北東部から上陸、まず基隆を占領した。6月5日には初代台湾総督・樺山資紀が基隆に上陸し、基隆税関の建物に臨時の台湾総督府を置いた(同月14日の台北入城まで)。その後、基隆は門司や神戸などとのあいだを定期航路で結ばれ、日本側に向けた玄関口としての顔をもつようになる。現在の基隆港の基本的な景観は、この頃に形成されたものである(3)

日本の台湾接収に伴い、多数の軍夫(軍隊に属して雑役をする者)が軍隊とともに来台した。つまり、当時の基隆港では、日本人労働者と現地人労働者とが入り混じって荷役に従事していたのである。台湾総督府はこれらの労働者の一元管理を考えていたが、実際には現地人労働者の監督に困難を来したため、「本島人苦力頭及苦力業者取締規則」(台北県令第27号、明治33年10月)等を制定し、現地人を日本人とは区別して管理することとした。こうした規則には主に二つの目的があった。第一に、現地人労働者の管理監督を現地人の親方(苦力頭)に任せること。第二に、公共事業を円滑に進めるため、ストライキを防止し、賃金を抑制することである(4)

この時点で、日本の統治者がすでに台湾の現地人労働者を「(クー)(リー)」と表現していたことに注意されたい。「苦力」とは低賃金の未熟練労働者のことだが、海外へ渡った移民労働者を指す場合もあり、とりわけアヘン戦争(1840-42年)後の苦力貿易が世界史的に注目される(5)。クーリー(coolie)の語源には諸説あるが、一説ではヒンディー語やタミル語に語源が求められ、イギリス人がインド人未熟練労働者をクーリーと呼んでいたところ、それに漢字で「苦力」とあてられたとも言われている(6)。台湾社会ではもともと「苦力」という語は使われておらず、かつてこうした肉体労働者は台湾語で「(コオ)(ロッ)」(khoo-lóh)と呼ばれていた。箍絡とは竹の天秤棒のことで、転じて荷物を担ぐ労働者を指すようになった。日本が台湾を領有した当初、通訳がこれを「苦力」と訳して、そのまま定着したと言われている。当時、日本人の港湾労働者は慣行的に「仲仕」と呼ばれたが、台湾現地労働者に対してはこれと区別する形で「(クー)(リー」という呼称が用いられた(7)。つまり、これらの呼称は、エスニシティーの差異を示す標識としても機能し、日本の統治者による管理に役立てられていたと考えられる。この呼称は、戦後も基隆埠頭の労働者のあいだに残りつづけ、本書に登場する港湾労働者もまた「苦力」と呼ばれている。

1945年、日本の敗戦によって植民地統治が終わると、台湾は今度は中華民国に接収されることとなった。日本統治時代における基隆の港湾労働では、上述のとおり、主に「苦力頭」の請負で人集めがおこなわれていた。戦後、新来の統治者には現場の慣行を把握できなかったため、港湾労働者の管理はこうした現場の有力者たちに丸投げされた。これに加え、当時の基隆港務局は財務問題を抱えており、労働者への賃金の支払いについても現場有力者に協力(つまりは立替払い)を要請せざるをえなかった。基隆港の50人の有力者(おそらくその大半は日本時代の「苦力頭」であったと考えられる)がこれに応じて結集し、協力したことから、彼らは「五十公司」と通称され、これを元にしてのちの労働組合が組織されていくのである(8)。本書で描かれるのは、これ以後の時代の基隆港である。

3 国際海運業の変化と基隆港/港湾労働者の盛衰

本書では、戦後における基隆の港湾労働者の境遇について、次の三つの段階に分けて叙述している。第一に1960年代までの「(クー)(リー)の時代」、第二に1970年代から90年代にかけての「(カン)(ラン)(タウ)(ケー)」の時代、第三に90年代末以降の「底辺の時代」である。

第一段階の「苦力の時代」は、読んで字のごとく、労働者が「つらい肉体労働」を担った時代である。ところが、台湾が国際海運業の変化に巻き込まれたことで、港湾労働そのものが大きく変化していくこととなる。

従来、貨物の海上輸送では、トラックや列車で運んだ荷物を港に集め、それらを一つひとつ船に積み替える必要があった。これを劇的に変化させたのが、コンテナ輸送の導入である。アメリカでトラック事業を営んでいたマルコム・マクリーンが、トラックのシャーシと荷台部分とを分離し、荷台部分を大きな箱(コンテナ)にして、箱ごと船に積み込む方法を考案した。それによって陸運と海運を結びつけるシステムを構築し、事業化したところにマクリーンの独創があった(9)

貨物の積み替えにはクレーンが用いられるようになった。こうした荷役作業の機械化によって、手作業で荷物を積み卸しするコストは大幅に省かれていった。コンテナの利用は、運送時間を短縮できることに加えて、貨物の損傷事故や抜き荷の防止にも役立ち、損害保険料も節減できる。こうした一連の荷役の合理化は、裏を返せば、埠頭で重い荷物を担ぐ男たちの多くがいずれ必要でなくなることを意味していた(実際、コンテナ化がいち早く進んだアメリカでは、労働争議の末に、輸送会社による一定の生活保障と引き換えに、仲仕たちは港湾から徐々に姿を消していった)。

マクリーンは1956年4月、世界最初のコンテナ船「Ideal-X号」をニュージャージー州のニューアーク港からヒューストンまで運行させた。その後も紆余曲折を経ながら事業を拡大させ、1960年にはみずからの会社をシーランド社と改称する。1966年には、USライン社、シーランド社などが相次いで大西洋においてコンテナ船の定期航路を開始した。

輸送のコンテナ化の特徴は規格化・標準化にある。巨額の初期投資さえクリアできれば新規参入は可能であるため、1970年代にかけてコンテナ船は急速に全世界へ普及した。当初はコンテナとほかの貨物を一緒に搭載する混載船が中心であったが、そのメリットを最大化するため、やがてコンテナ輸送に特化したフルコンテナ船が主流となっていく。さらに、一度の航海でより多くの貨物を運送できればコスト減につながるため、コンテナ船は大型化していった。

台湾にコンテナ船が現れたのは1967年5月のことで、最初は高雄港へ来航した(10)。世界的なコンテナ化の趨勢を嗅ぎ取った台湾政府は、政策的措置を講じ、基隆港でいち早くコンテナ埠頭の建設に着手した(1972年運用開始)。前述のとおり、コンテナ化のポイントは海運と陸運の連結にあったが、台湾でも1971年から中山高速公路の建設が始まり、基隆から高雄までを繫いで国土を縦断する陸運網の整備が進められた(1978年に全通)。こうしたなか、台湾の海運会社も次々とコンテナ化を進め、1984年には基隆港のコンテナ取扱量は世界第7位となった。

台湾海運業の発展は基隆の街に大きな繁栄をもたらし、1960年代末以降、港湾労働者の境遇も徐々に変化していった。こうしてもたらされたのが、第二段階の「(カン)(ラン)(タウ)(ケー)」の時代(1970-90年代)である。「工人頭家」とは、肉体労働者(「工人」)でありつつ、自身も人を雇って親方(「頭家」)のような立場になるという、二重の属性をもつ者を指す語である。1970年代に荷役作業の機械化が一般化すると、港湾労働者たちの仕事は目に見えて減り、暇をもてあますようになった。しかし、労働組合が機能していたために、彼らの収入が減ることはなかった。こうした状況のなかで、労働者の一部が副業に流れ、同僚に代理で仕事を頼む者が出はじめる。そのような者たちを「工人頭家」と呼んだのである。

基隆の港湾労働者の「仲間文化」は、この金余りの時代に築かれた。労働者たちは茶屋や飲食店に入り浸り、おのれの男としての甲斐性(「ガウ」であること)を誇示しつつ、人間関係のネットワークを形成していった。また、この時代には、荷役に従事する肉体労働者とは別のタイプの労働者も基隆の港に引き寄せられてきた。陸上でコンテナを輸送するトレーラーの運転手である。業務のうえでは彼らのあいだにはほとんど交流がなかったものの、埠頭の外では運転手たちもまた「仲間文化」のネットワークに加わり、その一翼を担うようになっていく。こうして基隆は、「夜空までもが煌々とするほどにぎわっていた」(本書127頁)と表現される、極盛の時代を迎えるのである。

しかし、そのような繁栄を見せた港湾産業も、1990年代に入ると陰りが見られるようになる。台湾内部の産業構造の変化によって貨物の引受量が減少したことに加え、経済規模を拡大させた中国をはじめとする東アジア各地の港に、ハブ港としての地位を奪われてしまったためである(11)。1996年時点で64.54%だった基隆港の港湾使用率は、2012年になると37.32%にまで落ち込んだ。こうした低迷に伴い、港湾関連産業に依存していた基隆全体の経済が必然的に衰退へ向かうこととなり、失業率が上昇して、台北市や新北市など近隣の大都市へ仕事を求めて流出する人が増えていった。こうした基隆の苦境について、都市計画研究者の張容瑛は、「基隆は1980年代までは港湾経済に、1990年代には台北都市圏に、2000年代からは国家財政による補助金に依存してきた」と整理している(12)

衰退のしわ寄せを直接的に被ったのは、本書に登場する埠頭労働者たちであった。第三段階「底辺の時代」の到来である。1999年に荷役作業が民営化されると、労働組合によって保護されていた労働者たちは、たちまち「コスト削減」の対象となった。同時に、コンテナ海運業界自体が熾烈な国際競争にさらされていたために、失業を免れたコンテナ業務の作業員やトレーラー運転手たちの人件費も切り下げられていった。港湾労働者の失業や減収は、おのずと埠頭周辺の商業の繁栄をも掘り崩し、「仲間文化」はその足場を失って、やがて消失していった。職や居場所を失った男たちは、やむを得ず、長らく留守にしていた家庭に戻ることとなる。しかし、彼らの家族との信頼関係はとっくの昔に崩壊しており、男たちはもはやそこに夫/父親としての居場所はないという現実に気付かされるのである。

4 「彼らは私たちである」――新自由主義を乗り越える視点

こうした港湾労働者たちの来歴を知った読者のなかには、「自業自得だ」と感じる人もいるかもしれない。実際、本書に登場する港湾労働者たちも、みずからの身に起こった事態をうまく理解できないまま、凋落の原因を自身の能力(「ガウ」)の欠如に求めている。しかし著者は決してそのような見方を採らない。

港湾労働者の身に起こった人間関係の段階的な喪失や、それぞれの場における声の喪失は、この地において誰の目にも明白でありながら顧みられることのない社会的事実となった。こうした事実が黙殺されたのは、一つには、これらの労働者たちがもはや政治経済的パワーの関心の対象でなくなったためであるが、より重要なのは、新自由主義が文化的価値観と連動する形でこの地域に支配的な語り(ナラティブ)を生み出し、それによって一般社会の港湾労働者の現状に対する理解が単純化され歪曲されてしまったという点である。「彼らは自分自身の努力不足のせいで“現代”から見放されたのだ」「彼らは経済的弱者だったから“底辺”になったのだ」――社会はそう理解した。(169頁)

このように、著者は港湾労働者が完全に社会の底層に落ち込んでしまった原因を、社会的な理解や救済の欠如の問題として捉えている。そして、本書の結論にあたる第5章をとおして、「新自由主義」という観点から、港湾労働者の一連の時代経験への説明を試みる。新自由主義とは、デヴィッド・ハーヴェイによれば、企業活動の自由を確保するため制度的な再編成を進めるグローバルな政治経済的実践を指し、1970年代以降に顕著となったとされる(13)。基隆港/港湾労働者をめぐる三つの時代の変遷は、新自由主義にもとづいて駆動するグローバルな経済活動の結果もたらされた、いわば必然的帰結であった。利潤の最大化を追求する資本主義の経済理性が、人間を疎外し、その人生を無責任に変容させていく。基隆の港湾労働者に起こった事態を、世界を覆う全体的な問題構造において説明することが、この章の主題となっている。

その際に著者が用いるのが、「接続」(connect)/「切断」(disconnect)の概念である。著者は本書の元となった修士論文で、ザンビアの銅鉱山を事例とした人類学者ジェームズ・ファーガソンの論文「グローバルな切断」(Global Disconnect)を参照している(14)。ファーガソンによれば、銅の採掘に利潤を見出したグローバル企業がザンビアの銅鉱山へ入り込み(「接続」)、それに伴って鉱山労働者が暮らす現地社会において産業化が進行した。だが、市場のニーズが後退すると、企業は突如として鉱山を退出する(「切断」)。こうした過程によって鉱山労働者の人生が振り回された問題を、ファーガソンは指摘したのであった。

著者もまた、グローバリゼーションが引き起こした摩擦の一環として、基隆港の半世紀を説明づける。「新自由主義」や「グローバリゼーション」といった概念も、こうした文脈において用いられ、批判的検討が加えられている。こうした視点が妥当であるか否かは、読者によって評価が分かれる部分だろう。こうしたタームの使い方そのものが、複雑な社会事象を単純化しすぎているという批判もあると考えられるからだ。しかし、そうした流儀の違いを超えて本書が台湾で評価されたのは、基隆の港湾労働者の境遇を、新自由主義のもとで世界のすべての地域/人間に起こりうる問題として説明し、これを新自由主義それ自体の克服ではなく、社会のあり方によって乗り越えるという能動的な解決の方向性を示したからであろう。

グローバリゼーションは、いままさに世界中を席巻している。そのなかで、地域社会は常に世界との遭遇の可能性にさらされている。しかし、地域社会に内在する文化は、まさに一本の水路のように、グローバリゼーションがどのようにしてその社会に流れ込んでくるのかを決めることができる。国家や、そのなかに身を置くアクターは、こうした宿命を引き受ける側であると同時に、みずからの考えをもってアクションを起こす行動主体ともなりうるのである。そのような能動的主体であれば、資本主義によって定められた「現代」や「発展」の行進にただただ追従し、グローバル経済市場のロジックに宿命的に服従するようなことにはならないだろう。むしろ逆に、そうした主体には、新自由主義下の政治経済的な価値観や文化からいかにして独立し、グローバルサプライチェーンが引き揚げていったあとをどのように引き継ぎ、「接続」と「切断」の必然的帰結をどう書き換えるのかを決めることができるのである。(175頁)

著者は、新自由主義のロジックにひたすら追従しつづけた台湾の為政者を批判しながらも、しかし社会のレベルではそのロジックから距離を置き、その帰結に適切に対処することができれば、基隆の港湾労働者たちが選び取った自殺という選択肢を遠ざけることができるのではないかと主張する。そのような社会となるために人々に要請されるのは、港湾労働者が直面した困難がいつ自分の身に降りかかってもおかしくない、構造的な問題であるという理解であり、「彼らは私たちである」(第5章章題)というエンパシーである。

日本の読者にとって、本書に描かれる出来事は、きっと既視感のあるものだろう。日本においても新自由主義によって労働の形態や意味に変質が来されて久しく、そのもとで生じた格差や貧困は、解決を見るどころか、むしろ膠着化しつつあるからだ。打開の糸口はどこにあるのか? 迂回的に聞こえるかもしれないが、著者がいうように、私たちが社会的共同体としてどれだけ人間の尊厳を尊重することができるか、そういった根本的な価値観についてのコンセンサスを築くことにこそ、その端緒が求められるのかもしれない。日本の読者において、本書が海の向こうの「彼ら」物語としてでなく、ほかならぬ「私たち」の問題として読まれることを、訳者として願っている。

copyright © KUROHA Natsuhiko
(著作権者のご同意を得て転載しています。なお
読みやすいよう行のあきなどを加えています)

(1) 本書は、著者の魏明毅が2012年に国立清華大学人類学研究所に提出した修士論文「基隆碼頭工人:貨船、情感及其社會生活」に基づき、一般読者を対象として大幅に改稿したうえで出版されたものである。
(2) 台湾の「茶屋」については、柯得隆「萬華的茶桌仔與茶店仔」(李玟萱『茶室女人心:萬華紅燈區的故事』台北:游擊文化、2023年、所収)を参照した。
(3) たとえば、現在の基隆港エリアを象徴する代表的な歴史建築のうち、陽明海洋文化芸術館は1915年竣工の旧日本郵船株式会社基隆支店を、海港大楼は1934年竣工の旧基隆港合同庁舎を利用したものである。
(4) 「本島人苦力頭及苦力業者取締規則」の公布意図を説明した「理由書」が台湾総督府文書にあるので、これを参照した(「縣令告示告諭訓令内訓原議綴(元臺北縣)」(1900-01-01)「明治三十三年臺灣總督府公文類纂元臺北縣永久保存第八十二巻警察」『臺灣總督府檔案・舊縣公文類纂』、國史館臺灣文獻館、典藏號:00009175001)。
(5) 可児弘明『近代中国の苦力と「豬花」』(岩波書店、1979年)、6-7頁。
(6) 可児弘明・斯波義信・游仲勲編『華僑・華人事典』(弘文堂、2002年)、221頁。
(7) 福田要『台湾の資源と其経済的価値』(新高堂書店、1921年)、90頁。なお、「箍絡」という言い方は現在では使われない。かつては、「自分が仕事をしている」という意味で「箍絡」という場合には、へりくだる表現として用いられていたが、これを他者について使えば相手を侮蔑するような語感があったという(成功大学の陳梅卿教授よりご教示いただいた)。
(8) 陳政一『基隆港、市與相關行業:百年發展的歴程』(基隆:基隆市臺灣頭文化協会、2011年)、261-263頁。
(9) コンテナ海運の発展については、次の書籍を参考にした。高橋宏道『コンテナ輸送とコンテナ港湾』(技報堂出版、2004年)、マルク・レビンソン『コンテナ物語――世界を変えたのは「箱」の発明だった』(村井章子訳、日経BP社、2007年)。
(10) 台湾におけるコンテナ海運業については次の書籍を参照した。張榮發『張榮發自伝』(中央公論社、1999年)、戴寶村『近代台灣海運發展:戎客船到長榮巨舶』(台北:玉山社、2000年)、王御風『波瀾壯闊:台灣貨櫃運輸史』(台北:遠見天下文化出版、2016年)。
(11) 王克尹『基隆港貨櫃營運之創新管理研究』(台北:交通部運輸研究所、2010年)、第4章、10-11頁。
(12) 張容瑛「臺北都會區港口城市的困局――再生中的基隆?」(『地理學報』第72期、2014年3月)、13-22頁。
(13) デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義――その歴史的展開と現在』渡辺治監訳、森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝訳、作品社、2007年。
(14) 魏明毅、前掲論文、7頁。James G. Ferguson, Global Disconnect : Abjection and the Aftermath Modernism, in The Anthropology of Globalization, Blackwell Publishing Ltd., 2002, pp. 136-156.