私たちの日常生活にますます深く浸透しつつある数学。インターネットを使う際に気をつけたい「フィルターバブル」現象から、新型コロナウイルス感染拡大のメカニズムまで、身近な場面で役に立つ数学の考え方を、英ブリストル大学の数学者が懇切に解説する実践的入門書です。
本書のポイントを的確に伝える「訳者あとがき」から抜粋してご紹介します。
訳者あとがき
(抜粋)
水谷淳
現代の世界は数であふれかえっている。日々の気温や降水確率、買い物の会計や預金残高から、政府予算や種々の経済指標に至るまで、どんな事柄にも何かしらの数が付きまとっている。数にいっさい触れないまま一日を終えるなんて考えられない。
そんな趨勢にさらに輪をかけたのが、コロナ禍だったかもしれない。感染者数や入院患者数、死者数が毎日のように報じられ、大きく波打つグラフがテレビ画面や新聞紙面を占めていた。それまで疫学者のあいだでしか用いられていなかった、再生産数や集団免疫閾値といった指標が人口に膾炙し、誰もがそうした数値の動向に一喜一憂した。
何らかの数値が証拠として示されると、私たちはその報道をつい信じてしまう。ニュースで感染動向を伝える際には、その裏付けとして、必ず何かしらの数値やグラフが挙げられていた。「陽性者数が増加したから感染は拡大している」、「再生産数が1を下回ったから感染は収束していく」というように。数は客観的で科学的であり、事実を正確に伝えている、そう私たちは思い込んでいる。
だがはたして本当にそうだろうか。確かに、数がありのままの事実を伝えていることも少なくない。たとえば今日の東京での気温の実測値や、国勢調査に基づく日本の総人口といった数値は、ほぼ正確で客観的だと思ってかまわないだろう。しかし、報道機関が調査した政党支持率や、今後30年で東南海地震が起こる確率といった数値となると、はたしてどうだろうか。何か不確定な要素がからんでいそうだし、何らかの意図を持って数値が操作されている可能性だってある。コロナ禍について言えば、一見客観的に思える陽性者数や死者数も、偶然による変動、判断基準や集計方法などのせいで、完全に正確とは言えない。もっと言うと、感染死亡率やワクチンの効果の指標といった数値は、行政当局や報道機関、特定業界の利害に沿う形でねじ曲げられていることもありうる。
グラフはさらにたちが悪い。対象や数値の範囲をうまく選んだり、恣意的に基準線を引いたりして、誤解を煽ろうとするグラフを、テレビや新聞などでしょっちゅう目にする。何か特定の主張を押し通すために、誇張した、あるいは歪曲したグラフも少なくない。たとえばy軸をすさまじく拡大して、些細な変動をさも意味があるかのように思わせる。あるいは、特定期間のデータだけをプロットすることで、あたかも都合の良い傾向があるかのように見せかける。果ては、PowerPointの素材イラストか何かをそのまま貼り付け、それをグラフと称して堂々と載せたりする。客観的だなんてとうてい言えない。
では私たちは、巷にあふれるそんな数やグラフをどのように受け止めればいいのだろうか。発信者の思いどおりに操られることなく、事実をできるだけありのままにとらえるには、何を心がければいいのだろうか。思うに、学校で数学を学ぶことの主要な目的の一つは、まさにそこにあるだろう。相手の手の内が分からなければ攻撃をかわすことはできない。数を操ることで私たちを欺こうとする企みに対しては、数学の基本的な考え方を身につけることで対抗するほかない。逆に数学の基礎体力があれば、さまざまな数値の本当の意味を把握して、この世界をもっとクリアに見渡すことができるだろう。
本書は、そんな数学の考え方を磨いて、数を正しく理解するための心構えを身につけることを目指した本と言える。突きつけられる数やグラフをどのように受け止めればいいか、偶然に支配されるランダムな現象をどう理解すればいいか、そして押し寄せる情報をどのように読み解けばいいか、それを指南していく。具体的な計算テクニックを叩き込むというよりは、おおもととなる考え方、数に面と向かう上での姿勢を伝授している。むしろ複雑な数式はほとんど出てこない。英ブリストル大学で情報理論を研究する著者は、コロナ禍のさなかに執筆にいそしんだそうで、パンデミックを中心にさまざまな例を引きながら、具体的に何に注目すればいいか、データをどのように表現すれば理解しやすくなるか、誤解を防ぐにはどうすればいいかをひもといていく。本書をひととおり読むことで、世間にあふれる数を把握するための視界がより鮮明に、より高解像度になることと思う。
各章の概要については著者が「はじめに」で挙げているので、ここからはそれぞれ私見を添えて紹介していきたい。
第1章では、データ自体はもとより、グラフの描き方がいかに大事であるかを痛感させられる。ひるがえって、マスコミがどれだけ誤解を招きかねないグラフを垂れ流しているか、気づかされる人も多いと思う。グラフは説得力が高いだけに諸刃の剣になりうる。
第2章で示されているとおり、millionやbillion、日本語では億や兆といった、大きな数に対応する数詞は、うっかり取り違えてしまいがちだ。数千億円といった国家事業費の無駄をたいして重大に受け止めないのに、一個人が数百万円の損害を与えると目くじらを立てる、そんな場面をメディアやSNSでたびたび見かける気がする。
第3章で扱う対数の概念は、学校数学の中でも難所の一つだと思うし、頭の中からすっかり抜け落ちている人も少なくないだろう。しかし数に日々接する上で、これほど必要でこれほど役に立つものはなかなかない。自然界はどうやら指数的プロセスがお気に入りのようだが、私たちがそれを直観的に理解するのはなかなか難しい。そこで対数を使えば、そんな指数的プロセスをあっさりとシンプルな姿に変えることができる。
第4章では、例としてコロナ入院者数の推移が、単なる時系列でなく、総数と増加数に基づく位相図というもので表されている。この表現法によってここまですっきりとデータの特徴が浮かび上がってくることに感心した。コロナ以外のさまざまな現象にも同様の方法が使えると思う。
パート2の本題である確率・統計は、学校数学の中でもとりわけ大事なのに、一番ないがしろにされている分野だと思う。うまく活かせばデータからさまざまな結論を導き出せるし、逆に悪用すれば人をだますこともできる。この機会にぜひ頭に入れておきたいところだ。
中でもどうしても理解しておきたいのが、第5章~第8章でそれぞれ説明されている、大数の法則、中心極限定理、ベイズの定理だろう。仰々しい名前で取っつきにくいし、直観的に理解するのはなかなか難しい。しかしギャンブルで痛い目に遭わないためにも、疑似科学や陰謀論にだまされないためにも、強力な武器として身につけておくべきだろう。
第9章では、著者の専門でもあり、現代社会を支える、情報理論の基礎の基礎を身につけられる。情報理論というとコンピュータやインターネットを連想させるが、噂話やニュース、SNSの投稿などにも当てはまるらしいので、どんな人も一度は接しておくべきだと思う。
第10章に出てくる、ランダムウォークや待ち行列ネットワークといったモデルは、数学的に理想化されていて、日常の出来事にはうまく当てはまらないような印象を受ける。しかし専門家がさまざまな現象を説明するために頻繁に使っているので、そういうものがあるのだということくらいは押さえておきたいし、人の意見を鵜吞みにせずに自分の頭で物事を考えることにもつながるはずだ。
データのランダムさと報告のしかたに関する第11章は、一見したところ地味だが、本書の中でもかなり重要な箇所だと思う。データを100%正確なものとして信じてしまったら、間違った結論に陥りがちだし、悪意のある人や組織にまんまと操られかねない。肝心なのは、データをどんな解像度で見つめるか、どこまで信じるか、その程度を自分で調節する能力なのだと思う。
第12章のテーマであるゲーム理論が教えてくれるのは、世の中すべてが兼ね合いであって、さまざまな触れ合いの中でちょうど良いバランスを取ることが肝心であるということだ。奥の深い理論でなかなか難解だが、その一端だけでも頭に入れておいたら、少しは人生が豊かになるかもしれない。
(以降は本をご覧ください)
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