みすず書房

新刊紹介

山形浩生「訳者あとがき」(抄)

2024年10月11日

未公開資料と膨大なインタビューを駆使した決定版の伝記を、ついに邦訳。10月16日の刊行に先駆けて、「訳者あとがき」の一部を本書より特別公開いたします。

本書について

さてチェ・ゲバラと言えば知らぬ者のないキューバ革命の立役者であり、世界のアイドル革命家とすら言える存在だ。20代の若さでカストロ兄弟らわずか十数人ほどとともに、ボロ船での決死のキューバ上陸を経て、わずか2年で泡沫勢力から全土制圧を成し遂げて革命を成功させた実績は文句のつけようもない。だがなぜそんなことができたのか? 彼ら単独で実現したはずもないし、理想だけで動くほど世界は甘くない。そこに至るプロセスは? そこに働いた力学は? そして彼のその後の実績をどう見るべきか?

特にチェ・ゲバラは、きわめてフォトジェニックな人物でもあるため、あまりにイメージだけが先行してしまっている。さらに彼はキューバにとって非常に重要な政治的存在でもあり、対外プロパガンダのツールとして、徹底的に英雄視され、聖人めいた脚色を加えられてきた。だがそうした脚色なしのチェ・ゲバラとはどのような人物だったのだろうか?

本書はおそらく、そのような中立に近い公平な伝記に最も近いものであり、量的にもその内容の掘り下げの深さの面でも、決定版のチェ・ゲバラ伝と言えるだろう。その誕生、喘息で虚弱ながらも(いやそれ故に)無謀だった若き日々、二度の南米旅行を経ての反米共産主義者としての先鋭化、カストロとの出会いと世界を驚愕させたキューバ革命の成功、その後の行政や国際的な不手際、および晩年のアフリカや南米におけるゲリラ活動の失敗が、手に入るほぼあらゆる資料と、存命中のほぼあらゆる関係者インタビューを元に詳細に描かれ、行方不明だったゲバラの死体発見の手がかりすらもたらした。その後も、これ以上のゲバラ伝は出ていない。

著者について

著者アンダーソンは、現在『ニューヨーカー』誌のスタッフライターであり、アフガニスタンやイラクを始め世界の紛争やテロの現場、およびそれを実践するテロ組織について、活発な取材を展開してきた。そしてそのなかで、各地のテロ組織でチェ・ゲバラが英雄視されている状況を見て、1990年頃に本書の執筆を思い立ったという。本書以外の著書に、世界の反政府ゲリラ組織を取材したGuerrillas: The Inside Stories of the World’s Revolutionaries(Times Books, 1992)、アメリカのアフガニスタン侵略を現在進行形で描いたThe Lion’s Grave: Dispatches from Afghanistan(Grove Press, 2002)、サダム・フセイン政権の最後を描いたThe Fall of Baghdad(Penguin, 2005)があり、その他紛争関連の無数の記事がある。現在、カストロおよびキューバについての本を執筆中と紹介されていたが、2024年時点では未刊である。

本書の見所

本書の大きな価値は、初版の出版当時(1997年)には誰も見たことがなかったゲバラの第2回目のバイク旅行記や、謎に包まれていたコンゴでの悲惨なゲリラ戦指導の状況を描いた日記の原本などを、チェの未亡人アレイダ・マルチの信頼を得て閲覧し、チェ・ゲバラの生涯について初の包括的な記述を行ったことである。その後、こうした文献の多くは正式に出版されたものの、公式出版の過程で政治的、プライバシー的に問題のある部分(往々にしてきわめて重要な部分)が削除されており、いまだにその価値は衰えていない。

さらに本書のすごさは、キューバのみならず、アルゼンチンやメキシコはもとより、ボリビア、パラグアイ、果てはモスクワやスウェーデンにまで出かけて、ありとあらゆる関係者に直接話を聞いていることだ。本書の執筆のためにキューバ(それもソ連崩壊により最悪の時代だったキューバ)に3年も滞在し、さらにアルゼンチンでも数カ月暮らしてジャングル奥地のゲバラ一家のプランテーションとその周辺の住民にまでヒアリングをかけている。この徹底ぶりは、他の伝記の追随を許さないものとなっている。アルゼンチンとボリビアの反政府活動で重要な役割を果たしたシロ・ブストスは、同時期に出た他の何冊かのゲバラ伝作者たちが、黙殺か電話ですませようとしたなかで、アンダーソンだけが直接会いにくる熱意を示したと述べる。

そしてそのインタビューも実に深い。それがはっきり出ているのはチェ・ゲバラを丸め込む役割を負ったソ連の老獪な外交官に、自分はゲバラに恋してしまったとうっかり告白させている部分だろう(767-768ページ)。さらに何よりも、本書の初版とそれに伴うインタビューにより、当時は不明だったチェ・ゲバラの死体のありかについて当事者の証言が得られ、それをきっかけに彼の遺体が半世紀を経て発見されるという衝撃的な展開まで生じている(改訂版への前書き、および999-1002ページ)。これは著者のインタビューの掘り下げの深さと精度を如実に物語るものでもある。本書はその意味で、チェ・ゲバラ自身の数奇な運命をめぐる謎の一部に終止符を打った重要な伝記であり、単に彼の人生を俯瞰するにとどまらず、その生涯の一部になったとすら言える。

その他落ち穂拾いなど

世間的なゲバラ像は、しばしば一部世代の革命ロマン主義のおもちゃになっている部分も多い。さらに本書にもあるように、その評価やイメージは、これまでもキューバ政府の思惑や世界情勢に応じて大きく変わってきた。政治的にも経済的にも多くの課題を抱えるキューバは、近いうちに大きな変化を余儀なくされる可能性もあるし、それに伴いゲバラ像も変わるかもしれない。だがそうした外部の思惑にまどわされない、彼の実像を理解しておくのも重要なのだ。

そしてゲバラのなかに革命のロマンを見るにしても、その失敗については(ゲバラ自身が己を戒めたように)十分に学んだほうがいいはずだ。彼はその革命理念に対する一途な純粋さを称賛されることが多い。だがそれが同時に彼の欠点でもあり、弱点でもあり、その惨めな末路を招いたものではあった。本書を通じて、チェ・ゲバラの夢と挫折、およびその背景を理解することで、彼をファッションとして消費するだけでなく、本当の意味での世界の改善に思いを馳せ、行動する人々が増えてくれることを祈りたい。

2024年7月 デン・ハーグ/ダカールにて
山形浩生

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