「FREE OUR GENES!(遺伝子を解放せよ!)」 2013年4月15日の明け方、まだ人けの少ないアメリカ合衆国最高裁判所前広場に、挑戦的なスローガンが響き始めた。どんよりとした曇り空が次第に白んでいく。デモ参加者――その大半はピンクリボンとパーカーを身に着けた女性たち――が、テレビカメラに向かってポーズをとり、メガホン越しに声を張り上げる。彼女たちが掲げる手作りのポスターやプラカードには、「OUTLAW HUMAN GENE PATENTS(ヒト遺伝子特許を禁止せよ)」、「HUMAN GENES BELONG TO HUMAN BEINGS(ヒト遺伝子は人間のもの)」というメッセージが躍っていた。
この朝、合衆国最高裁で議論された事件には、「アメリカ特許法第101条の適切な解釈」を問う技術的問題が関わっていた。裁判の準備書面には、19世紀の判例の引用や、分子生物学の詳細が詰め込まれていた。通常ならこのような訴訟に注目するのは、バイオ業界のロビイスト、科学ジャーナリスト、勉強熱心な法学生など、ごく一部の人々に限られる。ところがこの日、裁判所前で繰り広げられていたのは、大規模な公民権デモを彷彿させる光景だった。いったいどういうことなのか?
2013年、合衆国最高裁に提起されたのは、一見シンプルな問題だった――「ヒト遺伝子に特許は認められるのか?(Are human genes patentable?)」 その答えは、法律、科学、ビジネス、そして人類全般に重大な影響を及ぼすと考えられていた。しかしその正確な意味とは?
問題の大筋は、男女や年齢の別を問わず、地球上の全人類の体内に存在するDNAを複製する法的権利を、一個人、もっと言えば一企業が所有することは可能なのか、というところにあった。そもそも企業はなぜこの権利を所望し、権利を巡る訴訟に何百万ドルも費やすのだろう? それは、研究室でDNAを複製することが、致死性の遺伝性疾患を診断したり、疾患へのかかりやすさを評価したり、さらには新薬を開発する鍵となるからである。アメリカ国内だけでも、この分野は5000億ドル規模の市場を生み出している。
2009年5月、私はメリーランド州ベセスダに本部を置くアメリカ国立衛生研究所(NIH)で1日を過ごした。大きな会議室は人工的な照明に照らされていた。NIHは1887年に設立された国立の生物医学研究機関で、年間400億ドル近くの科学研究費助成を行っている。現代の化学療法の生みの親でもあるNIHの研究者たちは、黄熱ワクチンやチフスワクチンの開発に携わり、新型コロナウイルスワクチンの開発にも多大な貢献を果たしている。そして1990年代後半、NIHはヒトゲノム配列決定のための、国をまたいだ大規模な取り組みを先導した。
私がNIHを訪れたのは、ヒトゲノム研究諮問評議会の会議に出席するためだった。ヒトゲノム計画を監督する諮問機関であったこの評議会は、現在国立ヒトゲノム研究所の諮問委員会として機能している。ヒトゲノム計画は、2000年にヒトゲノム配列のドラフトを発表、その3年後にDNA全塩基配列を解読した。そして今、国立ヒトゲノム研究所は、さらに野心的なプロジェクトを率いていた。人体に常在する微生物叢「マイクロバイオーム」を解析すること、遺伝子変異と多様なヒト疾患の関連性を見出すこと、そして、がんに関する遺伝情報を読み解くことなどである。
18人の諮問委員のうち、私は唯一の開業弁護士であり、メンバーの多くは一流研究機関から招かれた遺伝学者やデータサイエンティスト、臨床医だった。私がそこに名を連ねることができたのは、特許に関する知識――具体的にはヒト遺伝子をカバーする特許についての知識を持ち合わせていたからだ。
1990年代後半、ボストンにある大手法律事務所のジュニア・パートナーだった私は、製薬会社の共同事業体のアドバイザーを務めていた。コンソーシアムは、ヒトゲノム計画と並行して行われたプロジェクトに資金を提供しており、誰もが自由に利用できるようその研究結果を公開していた。SNPコンソーシアムと呼ばれるこのプロジェクトは、私の手柄とは言えないが、驚異的な成功をおさめ、ゲノム研究コミュニティにその名を馳せた。結果として、国立ヒトゲノム研究所の指導者たちと顔なじみになった私は、当時の所長フランシス・コリンズの誘いを受け、諮問委員会の一員となったのだ。委員会では、アメリカ各地で行われていた最先端のゲノム研究に関する報告を聞き、微力ながらもそうした研究の将来像を描くための手助けをした。
2009年5月に行われた評議会のことは、鮮明に記憶している。所長代理のアラン・ガットマッハーが、進行中のさまざまなプロジェクトについての最新情報を報告し終えた直後だった。午前のコーヒーブレイクをとりながら、ブラックベリー端末でメールをチェックしていた私の目に、興味深いニュースが飛び込んできた。アメリカ自由人権協会(ACLU)が、ユタ州に本社を置くバイオ企業、ミリアド・ジェネティクス社を相手取り、訴訟を起こしたというのだ。協会初の特許訴訟を起こしたACLUは、二つのヒト遺伝子BRCA1とBRCA2に関して、ミリアド社が所有する複数の特許の無効を訴えていた。
これらの遺伝子と、ミリアド社が所有する特許については、当分野ではよく知られていた。ミリアド社はこの特許を利用して、乳がんと卵巣がんの発症リスクを飛躍的に高めることが指摘される遺伝子変異の有無を調べる検査を行い、収益性の高いビジネスを構築していた。この特許に関する話題はまさに、ヒトゲノム研究諮問評議会に参加する直前に、私とコリンズ博士が議論していたものだった。博士は、ヒトの全遺伝子を特許の対象とすることに、そこはかとない不安を感じていた。あえて言うなら、科学界に身を置く多くの人間は、ミリアド社の特許やそれを利用したビジネス戦略に違和感を抱いていた。この朝、評議会のメンバーが各自の端末でこの報道を読むにつれ、NIHの会議室にざわめきが広がった。ヒトゲノム研究所科学部長のエリック・グリーンが立ち上がり、誰にともなく「ACLUがミリアドを訴えたぞ」、とつぶやくと、共鳴するようなどよめきが部屋中に響き渡った。
その瞬間から、正式には「Association for Molecular Pathology (AMP) v. Myriad Genetics(分子病理学会対ミリアド・ジェネティクス社事件)」として知られる訴訟に、私は夢中になった。遺伝子特許には25年以上の歴史があり、賛否はあるにせよ、当時の法的状況では一般的に受け入れられていた。そうしたものに対する異例の攻撃が成功する見込みはあるのだろうか? 2009年の終わり頃、私は別の理由で法律事務所を退所し、学問の世界でのキャリアを開始した。その中で、先の事件について講義をしたり、法律ジャーナルに寄稿したりすることもあった。しかし、ACLUとミリアド社の法廷闘争が、ニューヨークの地方裁判所からワシントンDCの巡回区控訴裁判所へ、そして最終的にはアメリカ合衆国最高裁判所(差し戻しを含めて2回)へと裁判制度の段階を経ていくに従って、特許法の不明瞭な法理以上に多くのものが危機にさらされていると確信するようになった。この事件には科学者や医師をはじめ、弁護士、患者、権利擁護団体など広範囲にわたる人々が関与していた。オバマ政権の幹部らも注目し、前例のないやり方で事件への介入を行った。また最近の記憶では、他のどの特許訴訟よりも有力メディアによって報道されている。「60ミニッツ」〔アメリカでもっとも有名なニュース・ドキュメンタリー番組〕の1コマで特集されたほか、マイクル・クライトンやアンジェリーナ・ジョリーといった著名人による論説は誰もが知るところである。この事件にはどこか人々の想像力をかき立てるものがあった。そのような特許訴訟はこれまで存在しなかった。そしてこれからもないだろう。
2013年、私はAMP対ミリアド社事件について話すことを了承してくれたすべての人へのインタビューを開始した。また、そのさなか、ワシントンDCにあるアメリカン大学を退職し、ユタ大学での教職に就いた。ユタ州と言えば、まさにミリアド社誕生の地である。7年間にわたって弁護士、判事、患者、科学者、医師、遺伝カウンセラー、政策立案者、学者など、事件のあらゆる側面に関与した人々を取材し、その数は100人近くにのぼった。本書で私は、絡み合うストーリーの糸を紡ぎ合わせようとしている。この歴史上唯一無二の瞬間に、それぞれのストーリーがどのように交差していたのかを示すためである。特許法の狭い要件に判断を下すにとどまらず、AMP対ミリアド社事件は、この国では法律がどのように形成されていくのか、そして、政治と科学と訴訟がいかにして、図らずも混然一体となりうるのかを説明している。つまりこれは、ひとつの企業、2種類の遺伝子、7件の特許に限定された事件ではない。法律は科学の発展にどう対応していくのか、チャンスを摑んだ者が法律をどのような方向に展開していくことができるのかを体現した事件でもある。
同時に本書は、人間を描いた物語であり、2013年4月の霧雨が降る日に人々を最高裁判所へ向かわせた、現実とは思えない一連の出来事についての物語でもある。実際、非常に多くの人がAMP対ミリアド社事件に甚大な時間と労力を費やしたにもかかわらず、事件の展開や、一部の主張によればその判決にまで驚くほど重要な役割を果たしたのは、純然たる偶然の力であった。まさに事の発端から、どう考えてもありえそうにないこの特許訴訟を起こしたのは、生物学には縁のない人権専門の弁護士と、法律の学位を持たない若き科学政策アナリストだったのだ。2人の雇い主であるアメリカ自由人権協会(ACLU)は、有名な人権擁護団体ではあるが、1世紀あまりの歴史において特許訴訟を手掛けたことは一度もなかった。助言を求めた専門家たちは、勝算はないと声を揃えた。それでも、熱心なアドボケイトたちの一団は、30年以上にわたって施行されてきた伝統的な政策を覆すため、バイオ業界、商務省、そして厳格な特許弁護士や特許エージェントに挑みかかった。勝ち目がないように聞こえるなら、その通りだったのかもしれない。これは不可能に挑戦した人々の物語である。
(著作権者の許可を得て転載しています。
原注番号、傍注は省略しました)