去る8月17日、NHKラジオ第1「ヤマザキマリラジオ」のゲストに、最新刊『救い』の著者ベッピ・キュッパーニ(以下ベッピ)さんがイタリアから登場。さらに本書に推薦文をお寄せくださった歴史家の磯田道史(以下磯田)さんも交えて、日本の戦国時代についておおいに語り合いました。ヤマザキマリ(以下マリ)さんを交えたお三方のトークの抜粋をここにお届けします。
ベッピ この本『救い』は、自分のなかにこれまで蓄積してきた日本への思い、日本への探求心が結実した内容になっています。でもそれを論文やエッセイのかたちでは書きたくなかった。自分が見てきた日本ではなくて、架空の人物をつくることで客観的に見られる日本を描きたかったのです。それで小説になりました。フィクションではあるのですが、歴史的事実にはぜったいに忠実でなければいけないということを意識して書きました。
磯田 当時、イエズス会が日本をはじめ東洋で宣教した報告書というのは、インドのゴアなどで集められると、編纂されてプレスされ、ヨーロッパ各地の図書館に入っていた。ですからヨーロッパ人であれば、それを見たいと思えばだれもが見られたわけです。情報というものにたいする感覚が、西洋と日本ではまず違うということを知ってほしい。地球の裏側で起こっている出来事を、普通の庶民でも知ろうと思えば知ることのできた西洋にたいして、日本では、いわゆる時事的な情報は限られたコミュニティのなかに隠されていたのです。
あと、題名(救い)に感動しましたね。日本の戦国時代を書いた小説はたくさんありますが、みんな戦いを書こうとするんですよ。でもそうした小説はしばしば目的と手段を間違えている。ほんらい戦いとは救われたい、生き残りたいがための手段なんですね。目的は“救い”なんです。戦国時代の日本人が救われようとする手段はいくつかあって、神や仏にいく人、信長に象徴されるような暴力にいく人、そして茶の湯などのアートにいく人。この最後のところがとても重要です。
ベッピ 生き残っていくためにわたしたちが必要とするものは、現代にもまったくこれに置き換えられると思います。この本の登場人物たちも、みなそれぞれが自分を救うためにはどうしたらいいかを模索している。生き残っていくために必要なものは、物質的なものではなく精神的なもの、たとえばアートであるという人もいれば、あくまでお金であるという人もいる。
マリ 現代はどうだろうな。アートはいらなくなってきている気がする。だいたい本を読む人はあんまりいないし、インテリジェンスを使わなくてもすむものじゃないと、みんな満足しないという方向に向かっている気がする。たとえばアートのためにさまざまなものが犠牲になっているとすると、その犠牲のコンプライアンスのほうが重要視されるようになる。そうなってくると、生き残るためには国の権力に優先順位があって、アートは必要なくなっていく。
磯田 中世の終わり、日本だと戦国時代を見るのが、いちばん面白いんですよ。神か国か金かアートか、みんな迷っているんですね。この時代の人間を見つめると、ぼくらにいちばんヒントになる気がする。「新しい中世」ということを言う人もいるくらいです。現代は、いくら知的にしゃべっていても、そのリアクションとして暴力の怖さといったものがまず迫ってくる。言葉の暴力もあれば、実際にミサイルが飛んでくる暴力もある。
マリ その暴力も見える暴力ではなくて、ヴァーチャル暴力で、人をどんどん貶めていくでしょう。言っていいことと悪いことが狭窄的に腑分けされて、想像力の旺盛さなんてぜんぜん推奨されないじゃないですか。そこをどうやって突き抜けるか、ですね。
中世は中世なりに美徳があった時代ではあるけれど、現代はとにかく、あれ書いちゃいけない、これしゃべっちゃいけないということで、こうなってくると古代ローマ人が求めていたような寛容性が意味をなさない状況になっている。自分たちがたとえば3色の鉛筆しか持っていなかったら、26色の鉛筆を持っている人が描いても、3色で描いてくれないとわかんないんだけど、と言われちゃうんですね。自分たちが切り取れることじゃなければぜんぶ理解できない、自分たちの思いどおりの態度、仕草を取ってくれないと許せない。家族ってこういうもの、幸せってこういうものと決めつけたらそれじゃないと絶対にダメ、みたいな感じになってきている。そういうところから狭窄性が始まっている。経済的に弱ってくるとそれが強く出る傾向にあると思うんですよ。
ベッピ ほんとうに何が救いになるかと、理論的に考えるキャパシティを失うんですね、みんな。
磯田 永遠か、それとも一瞬に救いを求めるか。キリスト教の救いも最後の審判があるから永遠を見ている救いですね。日本の先祖への信仰やナショナリズムも、永遠に続く国家とか家族とかを想定していると思う。それにたいして茶道の救いはその瞬間を大事にすること。
ベッピ 戦国時代はたしかに、永遠に求める救いと、瞬間に求める救いが、共生していた時代ですね。だからある日突然、自分が求めている救いがまったく違う意味をもっているとわかったとき、その人たちはどうするんだろう、と。
磯田 茶道の救いを、4文字で言ったら「一座建立」でしょうか。いまここにいるメンバーの気持がぴったりと一致して、よい時間を過ごせたなと、心が解け合うような瞬間があった、ということなんですね。
ベッピ 1580年代から90年代は、茶の湯はかなりアヴァンギャルドというか、冒険的でした。ちょうどその頃に、イエズス会の宣教師たちが日本に来るわけです。堺がとにかく有名な土地だったわけですけれど、天正遣欧少年使節団が京都に戻ってきたとき同じ日に同じ場所で、千利休が豊臣秀吉から追放された。茶道とキリスト教の到着が、くしくも同じ日だったというのが、たいへん興味深い。茶の湯はすごく自由なもので、わたしたちに解放を与えてくれる。利休は、自由の解放を茶道のなかに追求していた。だから外国のものを使っていたわけです。江戸時代にはもっと形式的な、狭窄的なものになっていきましたが。
磯田 利休の時代は茶室という狭い空間にわざと閉じ籠もるわけです。だけど使っているものはヨーロッパのガラスだったり、1000年前のものだったり、それに新しいものを組み合わせますよね。
マリ それはある種のインナートリップね。
ベッピ 私は読者のみなさんにインナートリップのような触発があればいいなと思って、この本を書いていました。
磯田 もうひとつはメタフィジカ。日本の戦国時代の小説を読んでも、リアルをリアルなままに描こうとしているんだけど、いま言われたインナートリップとか想像的なものとか、メタフィジカ(形而上的なもの)が書かれていないんです。
ベッピ そこはとても意識しました。
磯田 美とは何か、とかね。日本では戦国時代を扱った文学でこれだけメタフィジカが書き込まれた小説は少ない。リアルはじつはメタフィジカがなければ理解できない。
ベッピ 現実はわたしたちの精神性のフィルターを通さないと、リアルにならない。想像力の力を借りないとリアルにはならない、ということでしょうか。