みすず書房

新刊紹介

真摯な総括と告発の書 「日本語版に寄せて」ウェブ公開

2023年8月22日

私たちはアミロイドのみのルートを通ってアルツハイマー病の治療薬を追い求めてきたために、多くの時間を失った。たぶん10~15年は無駄にしてきただろう。(本書より)

袋小路に陥ったアルツハイマー病研究分野の現状を、この分野で高い実績のある研究者が詳らかにし、過去数十年の認識を問い直す。真摯な総括と告発の書。

(巻頭の「日本語版に寄せて」を以下に全文公開いたします)


日本語版に寄せて

日本語を母語とする読者にも自分の書いたものを届けられるのは非常に大きな喜びである。私はつねに国際的な視点から科学をとらえてきたので、日本語版の刊行をことのほか嬉しく思っている。アルツハイマー病研究者としての30年間はおもに母国アメリカで活動してきたが、これまでほかにふたつの国を生活と研究の拠点にしたことがある。まだ駆け出しの研究者だった頃にはヨーロッパで1年間を過ごし、もっと最近にはアジアで素晴らしい7年間を送った。こうした実体験は私の視野を広げてくれたと同時に、アルツハイマー病が国境などお構いなしであることを痛感させてもくれた。事実、この病気はアメリカと同じように日本でも蔓延している。本書で主張の根拠としたデータはほとんどがアメリカでまとめられたものである。一番間近で観察できる生態系が私にとってはそこであるために、本書を執筆するうえではそうせざるを得なかった。しかし、自分自身の海外での経験から確実にいえるのは、アメリカのデータから引き出した結論であっても、そのほぼすべては多少の差異はあれあらゆる国に当てはまるということである。

私は光栄にも長年にわたり、さまざまな国からの同僚たちに恵まれて一緒に仕事をしてきた。私たちの研究室やクリニックからは新しい方向性が生まれつつあり、そのいくつかが治療法や療法に重要な進展をもたらしていくことを私はまったく疑っていない。そう思えるのは、同僚たちがいかに優秀で才能豊かかを知っているからでもある。しかしながら、この本が最初に刊行されて以来〔編集部注:英語版の刊行は2021年〕、その明るい希望が少しずつしぼんでいくのを感じている。アルツハイマー病の概念モデルはいまもほとんど変化しておらず、従来と異なる斬新なアプローチを試みようとする研究者の意欲を削いでいる。私が本書で何度も何度も指摘している過ちが、相も変わらず繰り返されている。悲しいかな、大言壮語や巧妙なマーケティングで覆い隠されていても、これが世界的な失敗であることは透けて見えている。

私の落胆に追い討ちをかけるように、最近になって2種類の「画期的な新薬」が発表された。抗アミロイドβ抗体であるアデュカヌマブとレカネマブである。アメリカ食品医薬品局(FDA)は、アルツハイマー病の初期段階に投与する薬としてこの両方を迅速承認した。おもな根拠としたのは、たったひとつのバイオマーカー、つまりアミロイドβのプラーク(いわゆる老人斑)を変化させる能力をもつという点である。FDAはこのような裁定に踏み切ったものの、じつはそのバイオマーカーの妥当性には重大な疑義が突きつけられており、世界中の研究者から激しい批判の声が上がっていた。アデュカヌマブの場合はほかならぬFDAの諮問委員会が、承認申請を却下すべしとほぼ満場一致で勧告したほどだ。

どちらの薬についても、批判の焦点になったのは次の3つの懸念である。ひとつ目は、いずれを用いた場合にも治療効果はごくわずかで、日常生活では患者本人にも家族にも実感されない可能性が高いことである。レカネマブについては、この薬を服用したグループのほうがプラセボグループより症状の進行が27パーセント抑制されたと、大げさな宣伝が大々的になされてきた。計算そのものは間違っていないものの、これはデータを示す方法としては著しく誤解を招くやり方であり、科学よりマーケティングの色合いが濃い。治験ではレカネマブのグループもプラセボのグループも、認知症の重症度尺度(0~18点で表す)で評価したときに悪化していた。具体的には、前者は1.21点分、後者は1.66点分の悪化であり、つまりどちらも症状が悪くなったことに変わりはない。ただ、レカネマブグループの悪化の度合いが0.45点分小さかったために、それが「改善」とされた〔訳注:前出の「27パーセント」は、1.66に対して0.45がどれだけの比率かを示したもの〕。私の考え方でいけばこれは、統計的には有意な進行抑制であっても(プラセボの1.66点分に比して1.21点分の進行)、生物学的にはほとんど実質のない差であることを示すデータといえる(0~18点の尺度で見てわずか0.45点分)。ふたつ目の懸念は、治療のリスクが適切に対処されていないこと。とりわけ問題なのが、治療を受けている人の3分の1近くに画像検査で脳の腫れや出血が見つかることである。3つ目は、治療のコストが高いために、医療制度に巨額の負担となってのしかかるおそれがあるのに加え、市民のあいだの医療格差がますます広がることである。

この本の著者はアルツハイマー病研究の現状にずいぶん批判的なんだなと、読者の心にそんな印象が芽生えてきたとしたら、それは正しい。どうしてここまで厳しい見解をもつに至ったのかを理解するために、ぜひ本書を読み、そして楽しんでほしい。私は文章にユーモアをちりばめたし、いろいろありながらもおおむね前向きな姿勢を崩さずに本書を綴った。このふたつの特徴は日本語版でも伝わることと思う。ここまでの数段落からも察せられるように、批判が必要な箇所では私は批判の手をいっさいゆるめていない。その一方で、称讃が当然と思われる場面では同僚への拍手をいささかも躊躇していない。

アルツハイマー病への取り組み方を一度リセットして仕切り直すべきだと、私はこれまで訴えてきた。その声が北米の研究者仲間を越えたところにまで届くことをずっと願ってきた。日本語版の刊行によって、この願いが叶おうとしている。

2023年7月 ペンシルヴェニア州ピッツバーグにて
カール・ヘラップ