みすず書房

新刊紹介

認知機能には限界がないから、認知空間を舞台にしたアディクション的行動が資本主義の最後の楽園になるだろう

2023年3月24日

アディクションが生じやすい社会は、イノベーションが生じやすい社会でもあり、イノベーションが生じやすい社会は、アディクションが生じやすい社会でもある。アディクションの原因として取り上げてきたスマホも、現代におけるイノベーションの象徴的アイテムの一つだ。[…]アディクションを減らすために、社会進化の可能性まで根こそぎ摘み取ってしまっては「角を矯めて牛を殺す」ことになりかねない。[…]そもそも人類の社会進化には、全体としてどのような進化圧がかかってきたのか、視野を思い切ってズームアウトして、この観点から人類史全体の歩みを俯瞰する。
(第三章一-3「ルールによるアディクションの抑制」)

認知機能には限界がない──アディクションの解放区

資本主義のあり方を分析してきた人々、例えば、スミス、リカード、マルクス、シュンペーター、ローザ・ルクセンブルク等々は、それぞれの視点から、資本主義の多様な側面を、あるいは肯定的に、あるいは否定的に論じてきた。しかし、少なくとも一つ、彼らに共通していた認識がある。それは、資本主義は、いずれ成長の限界に到達せざるをえないだろうという認識だった。

欲望には限りがあり、資源には限りがあり、征服できる土地には限りがある。資本主義化されていない国もやがては資本主義に組み込まれる。豊かさへの欲求も、食欲と同様に、食べれば食べるほど、次第に減退していくだろう。生命や環境には、全体としてネガティブ・フィードバックがかかっており、やがて資本にも、これ以上の拡大が望めなくなる均衡状態が訪れるに違いない。

これは資本主義にとっての死を意味するだろう。資本主義のこの究極の悩みを解決する秘策は、ただ一つ。人類を、ポジティブ・フィードバックがかかっているアディクション状態に置いておくことだ。なぜなら、アディクションが生じる空間は、満足感が永遠に与えられないがゆえに、資本もまた成長の限界に達することのない唯一の領域だからだ。欲望を満たす行為が欲望を減らすように作用する分野では、資本はやがて収益の限界に達する。それゆえ、欲望を満たす行為が、欲望をさらに肥大化させる分野こそが、資本にとっての千年王国となる。いったんアディクションに陥れば、人々は自発的にその行為を開始し、自分からは、決してやめることはない。

今後のアディクションは、人間の認知機能を主な舞台として展開していくだろう。アディクションといえば物質依存と思われていた時代はすでに過ぎ去った。[…]性や食などの基本欲求とは異なり、認知機能には、あらかじめ定められた限界がない。食欲には自然な限度があっても、知識欲には自然な限度はない。農地や資源は有限であっても、認知機能には容量制限がほとんどない。現実の土地や不動産の広さには限界がある。しかし、メタバース(仮想空間)に広がる土地は無限だ。そこには、自分が組み込まない限り、競争相手となる植民者も、抵抗する先住民もいない。この認知空間を利用したアディクション行動は、資本の成長のための最後の楽園となるだろう。
(第七章四-4「認知機能には限界がない」)

上からの階級闘争

〔戦後〕30年に及ぶ資本主義の制御同盟は、1970年代に徐々に揺らいでいく。ただし、それは学生反乱の功績ではなかった。制御同盟を切り崩したのは、ブレトン・ウッズ体制の解体と、それによって可能になった1980年以降の資本移動の自由化だった。強制的和解を解消した民主主義と資本主義は、そこから再び敵対的になっていく。近代化の二つの顔が齟齬をきたし、戦後民主主義体制によって作られた福祉国家の基本構造が脆弱化していく。そのプロセスは、資本による「上からの階級闘争」の形をとって、静かに、しかし着実に、現在も進行中だ。

資本によるこの階級闘争を、強力に支えたのは、資本移動と金利の自由化による貨幣の商品化だった。多様な商品の間に、デリバティブという金融派生商品が紛れ込んでいるという状態は、ウマ、ライオン、キリンなどの生き物の間に「動物」という名の生き物が徘徊しているようなものだ。[…]本来は、媒介機能にすぎない貨幣がフェティシズムとアディクションの対象と化していく。そして同時に貨幣システムの不安定性と脆弱性を生み出す。

その後、資本の中枢部分を占める世界のエリート大学出身者たちは、巧妙に考えられた政策パッケージを各国で次々に実現していった。新古典派経済学もまた、その中で不相応に重要な役割を演じた。その最も見事な成功例が、金融資産への課税を低率に抑え、恒常的な財政赤字を国債発行によって補うという債務国家体制の定着だった。これによって国家は、賃金依存者から税金を徴収し、その税金から利潤依存者への安定的な利払いを長期保証するための機能へと格下げされた。国債を購入し続ける金融セクターは、租税国家を維持するための不可欠な構成員となり、国家主権を賃金依存者と分割保有するに至った。ここに、「近代の国家権力は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会にすぎない」(『コミュニスト宣言』)というマルクスの理論予測が見事に現実化した。これは資本主義の民主主義に対する勝利宣言でもあった。
(結語 1「人類史に何が起こったのか」)

民主主義が資本主義をコントロールする社会を

このまま、無人の野を行く金融資本主義の勝利行進を放置して、経済社会全体がアディクション的な行動障害へと陥っていけば、額に汗して働き、不安定な気候に左右されながら畑を耕し、長い時間をかけて自らの技術を磨いてきた人々が馬鹿に見えてくるような不健全な社会が出来上がるだろう。今でも、そうした人々は、マネーゲームに狂奔する人々に比べると、不条理なほどに低賃金、低収入に甘んじている。報酬の体系、課税の体系に根本的な変革が必要だ。さもなければ、やがては安心感を与える共同社会が解体し、不安に駆られた孤独者の群れが、ますますアディクション的行動に走り、やがては独裁者やカルト集団に隷属するようになっていくだろう。目をしっかりと見開こう。その兆候はすでに見紛うことなく現実となっているではないか。

今、現代社会がなすべきことは、1848年に欧州で潰えた未完のプロジェクトを、もう一度、再開することだろう。[…]主権者と普遍的規範を、全員が参加できるフォーラムを通じて下から正当化すること、そして我々自身が同意していない法や規則に従属する必要のない自発的立法による法の支配を実現すること、それによって資本主義が民主主義をコントロールする社会ではなく、民主主義が資本主義をコントロールする社会を再構築すること。それがアディクションを抑制し、不条理な隷属から人々を解放するための唯一の対案であるように筆者には思える。
(結語 1「人類史に何が起こったのか」)