みずからの声で物語ること、
命を寄せ合って物語る場を開くこと、
そして、みずからの命を、誰のものでもない自分の時間の流れの中で生きること。
それが抗い。
(前口上「名残の声に耳を引かれて」)
「わたしたちのめざすところ。声や語りがよみがえる世界とは、どんな世界なのか?」
少なくとも、放たれてもすぐ消える声によって共有される世界と、刻まれ記され消えることのない文字によって共有される世界は、根本的に異なるはずです。記憶のありようも違ってくるはずです。
標準語という近代語をベースに作られている文字表記ではボロボロと零れ落ちるほかない、風土と結びついた声の多様性を想い起こしてみるならば、ただ単にこの列島にはたくさんの方言があったし、今もある、ということではすまない、多様性をめぐるより根本的な思考が呼び出されてもくるでしょう。
そして、先回りして私なりの答えを言うならば、ともかくもそのめざすところは、たった一つの中心、たった一つの真実に力ずくで縛られる世界ではないということ。
無数の中心が遍在し、その場に根差した真実が中心の数だけ存在して、それが菌糸のように互いにつながり合い、生かし合うような世界であるということ。
そこでいう真実とは、人間のみならず、生きとし生けるすべての命に向き合う誠実さの別名であるということ。
いま、ここから、声のほうへ、語りのほうへと、出発です。
実に不穏な出発です。
この時代にあって、こんな時代だからこそ、声は不穏。
声を放って生きる「命」はますます不穏です。
もちろん、それは声を封じたい者たちにとっての不穏です。
(第9章「来たるべきアナキズム」)
近代日本において、「異人/まれびと」とは、いったい何者だったのか?
「おまえは異人か?/おまえは皇国臣民か?」と問われ、「私は異人ではない」と言わせられる者たちがいました、実にたくさんいました、
「おまえは異人か?」と問う者のほかは、すべてが異人である、と言ってもよいでしょう。
近代日本においては、想像以上に多くの者たちが「怯える異人」として生きてきたし、いまもなお生きているのでしょう。
「おまえは異人か?」と問われたなら、殺されたくない私は、「私は異人ではない」と弁明する私になることでしょう。
美しい「日の丸」を汚す「シミ」(谺雄二、ハンセン病を生き抜いた詩人)と呼ばれて、処分されることを恐れて、「シミ」ではないと命がけで訴える私になることでしょう。
私は朝鮮人ではない、
私は支那人ではない、
私は琉球人ではない、
私はアイヌではない、
私は癩者ではない、
私は部落民ではない、
私はアカではない、
私は水俣病ではない、
私は福島出身ではない、
私はLGBTではない、
私はわきまえのない女ではない
私は敵ではない、
ああ、きりがない、はてしない、
私はあなたと同じだ、あなたとなにもかも同じだ、同じだ、同じだ……、
殺されたくない私はどこまでもそう言いつのるほかはない者になることでしょう。
そう言いつのる私は、もし自分が異人でないとしたら、異人を殺す側にまわらねばならないかもしれないことに怯える私でもあることでしょう。
殺し、殺されるかもしれない「暴力の予感」(冨山一郎)を生きるしかない私であることでしょう。
(中略)
しかし、だからこそ、異人こそが新たな芸能・文学のはじまりをもたらす者になる。そう私は思っています。