アリス・ドレガー
このたび、鈴木光太郎氏の翻訳によって、日本のみなさんに本書をお読みいただけることを大変嬉しく、光栄に思います。
『ガリレオの中指』のハードカバー版は、2015年に刊行されました。それから7年、私のもとには多くの読者から、出版時より現在のほうが「時宜を得ている」という感想が届きます。残念ながら、私もそれに同意せざるをえません。
「残念ながら」と書いたのは、執筆時には、本書がいくつかの重要な問題――アイデンティティ・ポリティクスの活動家による研究者への不当で悪意に満ちた攻撃、こうした攻撃について実体のない記事でクリック稼ぎに終始するジャーナリズム、学問や言論の自由と多様な考え方を守ろうとせず、ブランドと寄付がなによりも重要と考える大学の経営陣、そして一般市民ではなく、特権をもつ人たちを守って、正義の活動家を憤らせている政府機関――を解決するための端緒となることを期待していたからです。しかしいま、本書は、生命を脅かす病というものがどのように進行するかを予測しているように読めます。ここで脅かされているのは、個人の生命ではなく、確かな情報にもとづいた活気ある民主主義です。
本書の出版以降、私は、「不適切な」発言をしたために窮地に陥っている人びと(とりわけ研究者)から話を聞く機会が何度もありました。現在、アメリカでは、これを言うのに「キャンセル・カルチャー」という呼び名が用いられます。この呼び名は、本書の執筆時には存在しませんでした。「キャンセル・カルチャー」の「キャンセル」は、フライトやコンサートのチケットのキャンセルとは違い、はるかに恐ろしいものを指しています。とりわけその人が(有名人でなく)一般人なら、それは、その人の評判の失墜と、時には自尊心の喪失を、そして魔女狩りのように悪の烙印が押されることを意味します。こうした窮地に立たされた人は、みな途方に暮れ、多くは自殺も考えています。そのような状況に陥ってコンタクトしてくる人に対して私ができることは、すぐに話を聞いて危険から遠ざけ、どのようにして生きて、まえに進んだらよいかを考える――場合によっては「レピュテーション・リペア(評判の回復)」という新たなサービスも利用して――手助けをすることです。
本書の出版以降、この「キャンセル・カルチャー」以外にも、大きく変化したことがあります。7年前の刊行時点では、トランスジェンダーの問題が、その自認の点でも、トランスジェンダーという概念に対する政治的反発の点でも、これほどの展開を見せるとは思っていませんでした。アメリカでは、トランスジェンダーを自認する人の数は急増しつつあり、とりわけ若者で顕著です。一方で、「ジェンダー・クリティカル・フェミニズム」の運動は、アメリカやイギリスの大学や政治に入り込み、ジェンダーと生物学的な性は根本的に別個のものと考えることができる(あるいは考えるべきだ)という主張に異議を唱えています。いまの時点で私が本書を書くとしたら、この両者間の戦いによる土地の分断のさま――私の居場所はどちらにもないように感じています――を含めることになるでしょう。
本書は、こうした現状を考えるための重要な歴史的文脈を提示していますが、さらにアップデートするとしたら、大学のキャンパスで言論の自由に対する脅威が増しつつあることも書き加えなければならないでしょう。本書の執筆時には、私は、ものごとがよい方向に向かっている――多くの大学が教育や対話や討論について(大学にとっては面倒な)自由の原則を採用する――と思っていました。確かに表向きはこの原則を採用する大学が増えました。しかし、多くの大学の経営陣は依然として、「お客」である学生が「快適な」キャンパスライフを送れなくなることを心配しているように見えます。
現在の状況は、私にはかなり気が滅入るものです。怒りを伴なった小さな戦いがたえまなく続いており、それによって、教育者、研究者や医療従事者は取り組むべき問題にほとんど集中できなくなっているように感じられます。本書にも書いたように、15年ほどまえには、活気にあふれた調査報道機関がまだ存在し、すぐれたジャーナリストたちが非難や糾弾の背後にある現実を明らかにしてくれるという期待がありました。しかしいまはもう、こうした仕事をする気骨あるジャーナリストは、ほとんどいなくなってしまいました。そして公共の利益のために問題を整理するジャーナリズムに代わって現われたのは、論争を利用して自らの利益をあげるシステムでした。SNS(なかでもフェイスブック)は、個々のユーザーを手なずけた家畜とみなし、SNSにとって収益が最大になるアルゴリズムを用います。論争は煽り立てられ、手なずけられたユーザーがより売れるデータを提供し、それらのデータは、だれがなにに釣られるかをAIに学習させるのに役立てられます。敵意を鎮めることは、SNSの利益にはならないのです。
SNSでは、短くて単純なストーリーが好まれます。そのストーリーでは、明らかに「よい人間」と「悪い人間」がいて、私が本書のなかに書いたような複雑な人間は登場しません。しかし現実には、患者のためによかれと思って、非倫理的なことをしている医学研究者がいますし、事実(ファクト)に関しては正しいのに、不注意な表現のせいで予期せざる結果を招いてしまう社会科学者がいます。あるいは私のように、多くの行為では自分が勇敢で無私だと思いながら、時に自分を臆病で独善的だと感じる歴史研究者がいます。
一冊の分量の本を書くことも、そしてそれを読むことも、いまや稀少な機会になりつつあります。一冊の本は、互いの差異を通して協働する場と時間を与え、その共同作業から多くの意味を引き出してくれます。本書を手にとってくださった方がたと、そしてこの機会を与えてくださったみすず書房に感謝いたします。本書をお読みいただいたあと、私にコンタクトしていただけるなら、これほど喜ばしいことはありません。
2022年5月末
(原著作権者および翻訳著作権者の許可を得て転載しています)