本書が求めているものは
C・サラ・ソー『慰安婦問題論』山岡由美訳 和田春樹解説
2022年7月8日
「カーニバル」とは、ロシアの文学理論家ミハイル・バフチンが定義した概念だ。ある社会的・文化的状況で突如として沸き起こり、既存の秩序を転倒させるような社会的な力(a social force)のことで、「コミュニティの通常のルールが一時的に適用されなくなり、既存の階層構造が打ち壊されて平準化される」。それは安定を欠く瞬間だ。そして政府による統制が強化される「総力戦」は、「カーニバル戦争」がもっとも起きやすい機会だという。
具体的にはどういうことか。
最初の「カーニバル戦争」は、1937年後半の上海-南京攻略戦をめぐる、メディアの熱狂に始まった。日中戦争勃発から半年ほどは、軍の検閲体制はまだ十分に整っていなかったので、検閲強化の足並みはそろわなかった。陸軍部隊の従軍記者たちはそれをいいことに、前のめりの煽情的な戦争報道を展開し、大衆を熱狂的な全面戦争支持へと駆り立てた。その結果、上海市街戦のさなかや、とりわけ南京への進軍中には、軍の検閲官ではなく、従軍記者がニュース報道の論調を決めるほどだったという。総力戦は、従軍記者たちにとっては、まさに「スペクタクル」だった。
そんななか、二人の若い将校のあいだで行われた「百人斬り競争」というコンテストを、東京日日新聞が取り上げた。どちらが先に中国兵を100人斬り殺すかを競ったものだ。東日はこれを単発的な記事に終わらせず、11月下旬から12月中旬にかけての南京攻略戦のさなかには、4回にわたって取り上げた(二人の写真入りで報じた)。
エスカレートしたこの話が、銃後で生産・消費されたときには、これが事実かどうかはさておき、読者の興味をつなごうとした記者たちの努力の賜物とさえ見なされたらしい。兵隊は、本来なら検閲によって制限されるようなセンセーショナルな題材を記者に提供し、その見返りとして、記者は戦場での将兵のめざましい活躍ぶりが銃後で称賛されるように取り計らった。
考えてみると、この不謹慎で凄惨な暴力の物語は、日中戦争のあいだに大量にメディアに登場した伝統的な軍国美談とは、たじろぐほど対照的だ。そして戦略的に重要でもなく、戦争遂行の政策とも無関係だったこれらの記事は、たいていスポーツ欄の後ろの娯楽欄に掲載されたという。
しかし、カーニバル戦争を生み出したメディアの熱狂は、どんな場合にも、はかなく、短命だった。本書にはそんな「カーニバル王」たちの物語が、次々に登場する。